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気がつけば、ヴィートの周りには打ちのめされた兵士らの身体が転がっているだけで、彼に剣を向けている者はひとりも残っていなかった。
ベルトランとマチアスは、最後のひとりが床に倒れるのを見届けると、警戒を解いて剣をおさめる。
「それで、おれに聞きたいことっていうのは、なんだ」
兵士らをあっけなく伸されたウスターシュに対して、ヴィートは尋ねた。
ウスターシュは怒りにまかせて己の剣を引き抜こうとしたが、それはリオネルの手によって阻止される。柄を握るウスターシュの手首を、彼がしっかり掴んでいたのだ。
リオネルは涼しい顔をしているのに、どれほど力を入れても彼の手を振りほどくことができない。
「くそっ」
激しい怒りの形相で、ウスターシュはそこにいる皆を睨みまわした。
「聞きたいことがないなら、おれは部屋に戻るぜ」
二人の傍らをヴィートが通りすぎようとしたとき、反意を唱えたのは、ウスターシュではなくアベルだった。
「リオネル様に助けていただいて、勝手にひとりで退室するなんて失礼です」
「ひとりじゃだめなら、いっしょに出よう、アベル。部屋で林檎をむいてやる」
アベルは口を引き結び、あどけない顔に怒気をみなぎらせる。
「そういう問題ではありません! 林檎など食べている場合ではないでしょう!」
「そもそも、食堂を出てどこへ行くのだ?」
と聞いたのは、これまで成り行きをただ傍観していただけのレオンである。
「もちろん、アベルの部屋に決まっているだろう」
それ以外におれの部屋などない、と当然のようにヴィートが言うと、それにはリオネルが即座に反応した。
「なんだと」
もはやウスターシュへ向けていた注意は完全に削がれ、リオネルは掴んでいた彼の手首を放す。
そのリオネルに、ヴィートは歩み寄った。
「おれがアベルの部屋を使うのが、そんなに気に入らないか」
濃い紫色と、褐色の視線が間近で激突する。
「決定事項のように言っているが、そのようなことをだれが許可した」
二人のあいだには激しい感情がぶつかりあっていたが、周囲に聞こえぬよう二人は声を抑えている。
「おれとアベルがいっしょにいることに、いちいちだれかの許可が必要なのか」
「同室など、おれは聞いていない」
「坊ちゃんが聞いていようが、どう思おうが、そんなことはかまわない。おれたちは三日間ずっと共に生活していたんだ。これからもそうさせてもらう」
まったく筋の通っていない理屈である。
リオネルは冷静に反論した。
「三日間いっしょにいたからといって、これからもそうする必要はない。きみがそれを強行するなら、アベルは今夜からおれの部屋で寝かせる」
「へえ、坊ちゃんはなにを心配しているんだ? おれがアベルを襲うとでも? 一晩中あの子を腕に抱いていたのに、おれはなにもしなかったんだ。逆にあんたが、アベルに手を出さないという確証がどこにある」
「おれはアベルを傷つけるようなことはしない」
「傷つけない? おれがアベルをさらったとき、気を失ったあの子の目から涙がこぼれた。あれは、だれかがあの子を傷つけていたからじゃないのか」
「…………」
「アベルを真に傷つけることができるのは、あんたしかいないだろう」
この指摘に、表には出さずとも、十八歳の青年のうちにわずかな動揺が生じたことはたしかだった。
さらわれたあの夜、意識のないはずのアベルが涙を流したという。
――あれは、だれかがあの子を傷つけていたからじゃないのか。
彼女が、囮になることをひとりで決断したのは、自分が突き放したからである。
――アベルを真に傷つけることができるのは、あんたしかいないだろう
知らず知らずのうちに、アベルを傷つけ、追いこんでいたのは自分だ。
無言になったリオネルに、
「わかったなら、おれは行くぞ」
と言い捨て、ヴィートはアベルの手をとった。
「え、ヴィート……っ」
二人の会話が聞こえず、心配そうに見守っていたアベルは、突然のヴィートの行動に身をかたくする。満足に歩けないアベルをヴィートは抱きかかえようとしたのだ。
そのときリオネルが、ヴィートの手から少女の身体を丁寧に、だが有無を言わさず、かすめとる。それは鮮やかとさえいえるほど素早かったため、ヴィートでさえ阻止する手立てがなかった。
「リ、リオネル様?」
いったいなにが起こっているのかアベルは理解できずに戸惑う。
「今日から、ヴィートがアベルの部屋で寝泊まりすると言っている。きみはそのことを了承しているのか」
「なっ、なんのことですか。そのようなこと、あるはずありません」
動揺から、アベルは声を高める。
いかにヴィートを信用しているといえども、自分を女だと知る男と二人きりで、あのような狭い部屋を使用するなどというのはさすがに避けたい。
本人からの回答を得たリオネルは、ヴィートへ視線を向け、
「……だそうだ。どこか部屋を移りたいなら、アベルの部屋以外の好きなところへ行けばいい。ウスターシュ殿になにか答えてさしあげる気があるなら、ここに残って話でもしていてくれ」
穏やかな物言いだがつまり、「好き勝手に過ごせばいいが、アベルに不用意に近づくな」という牽制である。
渋面のヴィートにかまわず、リオネルはアベルを地面に立たせた。
「自分で歩けるのだったね」
「は、はい」
優しく確認してくるリオネルに、アベルは驚いて顔を上げた。
「きみが助けを必要とするときには、必ず手を貸すから」
「……ありがとうございます」
深い紫色の瞳が、わずかなあいだアベルを見つめ、それから、ベルトランに睨まれて無言でたたずんでいるウスターシュを一瞥した。
「ではウスターシュ殿。山賊の件、よろしくお願いします」
短く言い置き、リオネルは食堂の出口に足を向けた。
その歩調は、とてもゆっくりである。足を怪我したアベルが無理なくついてこられるようにという、彼の気遣いが垣間見える。
それは、リオネルなりの折衷案であった。
自分がアベルを守りたいという気持ちと、彼女自身が望むものとのあいだには、けっして小さくない隔たりがある。だから、両者のあいだに可能なかぎり、折り合いをつけてみることにしたのだ。
この先、どれくらい彼女の望む生き方を許せるかわらかない。
臣下として、すべてを犠牲にしてもリオネルを守る――そんなアベルの生き方を、彼女を愛する者としてどれだけ受け入れられるか。
だが、自分が抱いている気持ちを伝えられない以上、その生き方を拒否することは、アベル自身を拒否することと同じである。
それがどれほど彼女を傷つけるのか、今回の件で思い知った。
可能なかぎり、彼女の生き方を許容すること。
それが今のリオネルにできる、精一杯の彼女への愛し方だった。
「では、せいぜいリオネル殿は、この山賊が先回りして仲間に伝えぬように監視でもしていてください。わざわざこのような地まで遠征して、やったことがたったひとりの山賊の見張りでは、格好の笑いものですな」
赤毛の男の鋭い牽制からようやく逃れたウスターシュは、捨て台詞を吐きながらリオネルを追い抜き食堂を出ていく。だが、だれもそれを気にとめてはいない。
好きにすればよい、言わせておけばよい。そのような雰囲気が漂っていた。
「周りに兵士がこんなに転がっていたら、酒も果物もまずくなる」
そうつぶやいて、ディルクは酒と果物の器を両手に持ちながら立ち上がった。背後にいた女中が、すかさずそれらを受けとろうとするのを、「いいよ、自分で持っていくから」と断る。
「そうか、討伐に参加しないなら、おれはベネデットの書でも読んでいることにしよう」
うれしそうにレオンは言った。
ベネデットとは、二百年以上前にこの世を去った、アンセルミ公国の著名な哲学者である。
このラロシュ邸の書庫には彼の文献が多く所管されている。ベネデットの哲学は難解であることが知られているが、レオンはその手の本には強いようだった。
時間の潰し方に事欠かない様子のレオンとは異なり、特にやることも、行くあてもないヴィートは、アベルのあとについていく。
こうして、リオネルに続くようにして、皆が扉口へと向かった。
一方、ラロシュ侯爵は腕を組んでたたずんだまま、様々なことを思案していた。
その内容は、まず些細な事柄から述べるとすれば、この伸された兵士たちを、部屋の隅か、別室に移動させねばならぬこと。重要な事案としては、明日にでも山賊の拠点を攻撃するというウスターシュの一隊に、ラロシュ家の兵士を加えるかどうかということである。
友人であるエドワールことブリアン子爵とも相談するつもりだが、やはり加わらぬわけにはいかないだろう。
ラロシュ領は、ラ・セルネ山脈沿いの所領のなかでも、最も山賊被害の多い地域である。討伐の成功如何は、今後の領内の平和に関わってくることだ。
――しかし、ベルリオーズ家とアベラール家の戦力を見込めないとは。
思いも寄らぬ事態である。
一抹の不安と心労を覚えながら、侯爵もいったん食堂を退室した。
+++
「アベル! よく無事に戻ってきた!」
夕食時に再び食堂に足を運んだアベルを、ベルリオーズ家やアベラール家の一部の騎士たちが、熱烈に歓迎した。
「心配していたんだ。大きな怪我もなく、本当によかった」
「山賊を連れて帰ってきたんだってな、すごいじゃないか」
「さぞや、大変な目にあってきたんだろう」
その中には、アベルを救う糸口を探すために山の麓の様子を探っていたラザールやナタル、ダミアン、そして、村々の警護の巡回から戻ってきたクロードもいる。
「アベル、すまなかったな」
いつもは快活でおしゃべりなクロードが、それ以上はなにも言わずにアベルの肩を叩く。
戻ってきたアベルを温かく迎えてくれた彼らの態度と言葉は、アベルの心に深く染みた。
むろん、そういった態度を示したのは、ベルリオーズ家の騎士全員ではない。ジュストや他の幾人かの騎士らは、アベルが戻ってきたことをおもしろくなく思っていた。
けれど、そうではない者が少なからずいたことが、アベルの気持ちを救った。
「挫いた足の調子はどうだ?」
アベラール家の騎士バルナベに問われ、「ゆっくりならひとりで歩けます」と答える。
「それで、おまえをここまで運んできたという山賊は、どこにいるんだ?」
怪我したアベルを、山賊のひとりがラロシュ邸に届けたこと、そして、その者をリオネルが受け入れたことは、兵士のあいだにすでに広く知れ渡っていたようである。
だが、アベルのそばに立っている若者がその山賊だということに、だれも気づいていない。
彼らは他家の兵士の顔をすべて見知っているわけではなかったので、見慣れぬ貴公子然とした若者を、どこかの領主家に仕える騎士だと思っているようだった。
「彼はもう山賊をやめたので、『山賊』ではなく『ヴィート』と呼んであげてください」
「ほう、それで、ヴィートはどこに?」
老騎士ナタルに問われ、ためらうような笑顔を浮かべたアベルは、背後に立つ若者を指差した。
「彼が、ヴィートです」
皆はヴィートに視線を向けると、わずかのあいだ動きを止める。
仕立ての良い衣服をまとった長身の男は、端正な顔立ちと気品のある佇まいで、洗練された雰囲気さえ感じられた。
それに、褐色の瞳は彼の内面を現すように、知的で優しげである。
とても昨日まで山賊だったようには見えない。
「ほら、ヴィート。自己紹介してください」
アベルにうながされて、ヴィートは頭も下げずに名乗った。
「ヴィートだ。よろしく」
言葉も態度もいっこうに丁寧にならぬ――否、丁寧にしようという努力も見られぬヴィートに、アベルは次第に注意する気も失せつつあった。
「こんなに近くにいたとはなあ、まったく気がつかなかった。山賊っていうからどんなにむさくるしい山男かと思えば、ずいぶんいい男じゃないか。貴族と言われても疑わなかったぞ」
屈託なくラザールが話しかけると、ヴィートは当前のように答えた。
「おれの先祖はアンセルミ公国の貴族だった。おまえらの国に亡ぼされるまではな」
「そうか、すごいな、アンセルミ公国の貴族だったのか。なんにせよ、アベルを助けてくれて感謝するよ」
向けられた嫌味をさらりと受け流して――もしくは嫌みとは受けとっていなかったのかもしれないが――ラザールはヴィートの肩をバンバンと叩く。
しかし、そんなラザールの態度に、ヴィートも嫌な気はしないようで、軽く笑ってラザールの洗礼を受けている。
騎士たちに囲まれるヴィートを眺めながら、クロードは生真面目な調子で問いかけた。
「村々を警護しているときに、何人かの農民から、背の高い山賊の若者に助けられたという話を聞いた。ある老人は、連れて行かれそうになった病気の孫娘を、彼に奪い返してもらったと語っていた。その男は仲間から『ヴィート』と呼ばれていたらしい。きみだったのか」
皆が、興味深そうにヴィートの返答を待っていると、
「いちいち覚えてないな」
とひと言。
「だが、きみはヴィートという名なのだろう?」
「ヴィートなんてアンセルミにはよくある名前だ」
と、ヴィートは声の抑揚なく返答する。
「なんだ、本当にいいやつじゃないか」
満面の笑みのラザールがヴィートの肩に腕をかけると、彼は迷惑そうに顔をしかめた。
「だから、覚えてないと言っただろう。おれじゃないかもしれないぞ」
「いいや、もしおまえが狡すからい山賊だったら、ここにうまく居座るために、そいつは自分だと言い張るだろうよ。そう答えなかっただけで、充分いいやつじゃないか」
「…………」
片目を眇めて無言になったヴィートを見て、アベルはくすくすと笑う。
「なにかおもしろかったか?」
不思議そうにヴィートから問われ、アベルは首を横に振った。
「すみません」
ヴィートに対しては答えなかったが、アベルが笑ったのは、ラザールの調子にやりこめられている彼の様子がおかしかったからである。
「賑やかだな」
不意に、そこにいる騎士たちの者とは違う声がする。食堂の隅で話す彼らのまえに現れたのは、鳶色の髪と、緑灰色の瞳の、清々しい若者だった。
「セドリック様」
騎士たちがいっせいにフォール公爵家の跡取りに対し一礼する。
ひとり頭を下げなかったヴィートと、セドリックの視線が絡みあった。
「ヴィートといったな」
威圧的でも、へりくだるふうでもない口調で、セドリックはヴィートに話しかける。
「ああ、それが親がつけた名だ。いちおう山賊なんて生き物にも親がいてね」
どこか茶化すような返答だが、ヴィートの口調はいたって真面目だった。
「もしきみが協力してくれるなら、山賊の拠点について我々に教えてくれないか」
またそれかというように、ヴィートは苦い表情になった。
最初は、ディルクやラロシュ侯爵らに問われ、そのあとはウスターシュ、そして今度はこの若者から話を聞かせてほしいと言われている。
「ベロム家の兵士らの情報では、拠点の構造も、彼らが何人いるのかも、本当にそこだけなのかもわからない。仲間だった者を裏切るようで、きみも辛いだろうが、我々と行動を共にするつもりがあるなら、ぜひ教えてほしい」
「おれは、おまえたちの邪魔もしない代わりに、手助けもしない。悪いが、おれからの情報は期待しないでくれ」
視線を逸らしてヴィートが答えると、セドリックは残念そうにうなずいた。
「……そうか」
彼は、山賊だった若者がベルリオーズ家の保護下にあることは知っている。話さないと言うのであれば、無理に聞き出すことはできない。
二人のやりとりを、アベルは複雑な思いで聞いていた。
ヴィートに協力してもらいたい気持ちと、ヴィートをそっとしておいてあげてほしい気持ち。それらが混ざりあっていた。
「だけど、どうしておまえは山賊をやめて、アベルといっしょにここへ来たんだ? 我々に協力するつもりはないのだろう? 山にも戻らず、我々の仲間になるわけでもなく、おまえはどうするつもりなんだ」
尋ねたのはベルリオーズ家の若い騎士、ダミアンだ。
「もともと山賊をやめたいとは思っていた。アベルと出会ったのは、いいきっかけだったんだ」
その答えに偽りはなかったが、ヴィートは真の理由を口にはしなかった。
つまり、アベルに恋をして、山賊をやめる決心をしたこと。貴族らに協力する気などないが、アベルのためには協力を惜しまないこと。
もしこれらのことを明かせば、情報を聞き出すために、アベルが彼らに利用されるかもしれない。それを恐れたということもあるし、そもそもアベルが女性であることを言わぬよう、本人から固く口止めされている。
「まあ、いいじゃないか。こんな好青年が、これからまっとうに生きようっていうんだ。皆で協力しようじゃないか。そのうち、ついでに山賊のこともぽろりとしゃべってくれるかもしれないし。なっ、ヴィート」
豪快に笑うラザールに、ヴィートは言葉ではなく、苦笑いを返す。
「きみはブリアン子爵様には、もう直接謝罪したのか?」
やや厳しい声音を老騎士ナタルはヴィートへ向けた。
「このあと参ります」
恐縮した様子で答えたのは、アベルだった。
食後に、アベルはヴィートと共にブリアン子爵の寝室を訪れることになっている。
二人が彼と会うのは、むろん囮になった晩以来のことである。ヴィートはブリアン子爵を負傷させた。ヴィートがここに滞在するためには、子爵に謝罪し赦しを請わねばならない。そうでなければ、ブリアン家に仕える家臣らも納得しないだろう。
「しっかり謝ってくるんだぞ。聞けば、傷は浅かったそうじゃないか。ちゃんと誠意ある態度を示せば、子爵様も赦してくれるだろう。そうですよね、ナタル殿」
「ふむ」
ラザールに曖昧な返答をして、ナタルは山賊だった若者を眺めやる。その目には、完全に払拭できぬ不信感が明らかに見てとれる。
それも当然のことである。
むしろ、ラザールのように屈託なく受け入れる者のほうが少ないだろう。
なにせ、貴族社会は、貴族の血を引かぬ者や騎士ではない者は、同等に扱われぬ世界である。それが、商人でも農民でもなく、山賊となればなおさらだ。すぐには、隔たりを取り除けないのも無理からぬことだった。
現に、彼らと打ち解けるまでに、アベル自身とても苦労した。多くの者に受け入れられるようになったのは、ディルクとの試合で実力を認められてからである。
それでも、未だに全員と心を通わせているわけではない。
なるべくならヴィートには、自分のような思いをさせたくないとアベルは感じていた。
「なんだか、ベルリオーズ家に仕える騎士たちの雰囲気が、明るくなったな」
少し離れたところから、食堂の様子を眺めていたディルクが、だれにともなくつぶやいた。
「そうだな」
うなずいたのはレオンで、
「アベルが戻ってきたことが嬉しいのだろう」
と、アベルを囲んで談笑する騎士らを見やる。
「それもそうだろうが、一番の理由はリオネルじゃないか」
「というと?」
「アベルが戻ってきたことで、リオネルをとりまく雰囲気が和らいだから、騎士たちは、ほっとしたんだと思うよ」
ラロシュ侯爵やシャルルと話している親友の姿に、二人は視線を移した。
「たしかに、アベルがいなくなってからのリオネルは、こちらが見ていられないほどのふさぎこみようだったからな」
「そう……まるで、厚い殻にひとり閉じこもってしまったみたいだった」
苦しみの殻に閉じこもって、だれも中に入れようとしない。
それは、ディルクが久しぶりに感じるものだった。
幼いころ、彼の母親が亡くなってしばらく経ったくらいから、彼は時折そんなふうに見えることがあった。
表面上は柔らかく笑っていても、だれの手も届かないところで、たったひとり膝を抱え、なにかに耐えているような――そんなふうに、ディルクの目には映った。
それが、母親を失った哀しみなのか、幼少時から命を狙われ続ける自らの境遇に対する悲観なのか、それとも他のなにかだったのか、今でもわからない。
その様子が次第に変わってきたのはいつのころからだっただろう。従騎士時代にも、そんなふうに思えたことが幾度かあったかもしれないが、定かではない。
とりあえず今回は、アベルが戻ってきたことで、リオネルが光のようなものを取り戻したことはたしかだ。
「本当に、アベルが戻ってきてよかったよ」
いつのまにか、あの従騎士の少年は、リオネルにとってなくてはならない存在になっていたのだと、ディルクはしみじみと感じた。
「いいなあ、リオネルにはあんなに素直で、忠実な、かわいい家臣がいて。手放せなくなるのもわかる気がするよ」
ちらりと背後を振り返りながらディルクがこぼすと、そこにいた彼の従者が生真面目に答える。
「いつでも手放してくださって結構ですよ」
片頬を吊り上げて一笑したディルクは、無言でまえへ向きなおった。
――困るのは貴方ですよ。
従者の青年の顔には、そう書いてあったような気がしたからだ。
「マチアス、頼むからいなくならないでくれ。おまえ以外に、こいつの暴走を止められるやつはいない。唯一、抑止力のあるリオネルは、こいつの悪行に対しては無頓着だ。おまえがいなかったら、この世は乱れる」
大げさにディルクの従者に頼みこんだのは、レオンである。
「ご心配なさらずとも、今の言葉は冗談です、レオン殿下」
「冗談?」
目を丸くするレオンに、マチアスは周りに聞えぬよう声を小さくして説明した。
「アベル殿が、リオネル様のおそば以外に帰る場所がないのと同じように、ディルク様のおそば以外に、私の戻るところもないのですよ」
わずかにほほえんだマチアスをまえに、レオンは思った。
この破天荒で型破りな主人以外には仕えられぬと言い切ったこの男は、超人だと。
「なにを、ひそひそ話しているんだ?」
地獄耳のディルクが訝しげに二人を見る。
ディルクの耳をもってしても、マチアスの小声は聞こえなかったらしい。
――やはり、マチアスはすごい。
レオンはあらためて痛感した。