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シュザンは腑に落ちない面持ちで、大回廊の巨大な窓と窓のあいだの大理石の壁にもたれかかった。シュザンの立つ脇には、大理石の石像が悠然と立っている。
宮殿に赴く際には、数人の騎士を連れて行動することも多かったが、その日シュザンは彼らを従えていない。
ここ数日、気になっていることがあり、ひとりで王宮へ出向いたのだ。
二日前、シャルムの第二王子であるレオンの身辺を守る近衛兵のシモンが、一人でいるのを騎士館の近くで見かけて、シュザンは声をかけた。レオンが自分になにか用事があって訪れたのかと思ったからだ。
しかし、シモンは意外なことを言った。
「殿下は、ディルク様と共に、アベラール領方面へ向かわれております」
シュザンは首を傾げた。
「なんのために?」
「ローブルグ王国との国境地帯の偵察という名目で、ご友人ともう少し過ごされるためと聞いております」
「…………」
シモンの様子は落ち着いており、嘘をついているようには見えなかった。
「おまえは行かないのか?」
「はい、馬車の都合で、近衛兵のクリストフだけがレオン殿下についています。その間、私は騎士館のほうで過ごすように申しつかっております」
「それは、レオン殿下ご本人からか?」
「いえ。ジェルヴェーズ殿下から承りました」
シュザンは顎に手をやって思案した。
若い従騎士の三人を、自らの手で叙勲したのは、つい先日のことだ。
その後、リオネルとディルクが各々の所領へ戻る際、途中まではいっしょに旅をするということは聞いていた。けれどそこにレオンが加わっているという話は初耳だ。
シモンは優秀な近衛兵であるが、レオンが従騎士の生活をしていた数年間、ほとんどそばにおらず、レオンの周囲のことを充分に理解しているわけではなかった。同じく近衛兵のクリストフにも、シモンと同様のことが言える。
今回のことは、どこか奇妙だった。
突然レオンは、リオネルやディルクと共にベルリオーズ領方面へ向かうことにしたのだろうか。それもシモンと直接話さず、ジェルヴェーズにだけ報告するというのは、さらに納得がいかない。
かくしてシモンと話した翌日、シュザンは王宮に足を運んだのだが――。
そこで、シュザンはある人物の姿をみとめて唖然とした。
玄関広間の大階段を降りてきたのは、レオンに同行しているはずのクリストフではないか。
「クリストフ」
シュザンが声をかけると、正騎士隊隊長を前にクリストフは丁寧に一礼した。
「トゥールヴィル隊長」
「レオン殿下はいかがした」
シュザンの厳しい口調に、クリストフはやや戸惑った面持ちになる。
そして彼は、シモンが述べた内容とまったく同様のことを語った。だが、ただ一つ違っていたのは、レオンに同行したのはシモンであり、自分は王の居住棟に残って警備にあたるように仰せつかっているという点である。
シュザンは眉を寄せた。
――ジェルヴェーズ殿下、か。
シモンとクリストフ、二人の近衛兵にレオンの虚偽の動向を説明し、今後の指示を与えたのは、彼の兄のジェルヴェーズだ。
「しかし、なぜ」
クリストフと別れてから、シュザンは一人呟いた。
「……殿下はどこにおられるのだ」
リオネルらと共に西へ向かったとは思えない。
シュザンは王宮の天井を見上げた。
レオンの身に、なにか起きているのかもしれない。
ジェルヴェーズによって殺されたという悪い予感が一瞬、頭をよぎったが、すぐにその考えを打ち消した。いかに冷酷な彼であっても、実の弟の命を奪いはしないだろう。そもそも、それをする動機がない。 リオネルならまだしも、兄弟のあいだでは、王位継承権は明白に兄のジェルヴェーズにある。
殺されていないと仮定すれば、レオンはどこかへ連れ攫われたか、あるいは軟禁されている可能性がある。それについても理由は思い浮かばない。けれどレオンの無事を確認しなければ、シュザンは落ち着いていられそうになかった。
かわいい生徒である――探すしかない。
シュザンは考えをめぐらせた。
仮にも一国の王子である。ジェルヴェーズがレオンを、遠く危険な場所へ追いやるという可能性は後回しにしてもいいだろう。ならば、この王宮内を手始めに探すべきだ。
そのうえで、もしレオンが王族の部屋の一室に閉じこめられているとすれば、シュザンに成す術はない。正騎士隊の隊長といえども、王族の部屋に自由に立ち入ることはできないからだ。
シュザンが探せるのは、それ以外の場所だった。
やれることをやるしかなかった。
シュザンがまず訪れたのは、騎士館からさほど離れていない場所にある、監獄塔だった。広い芝生に突如現れるそれは、王宮の華やかな雰囲気とは対照的に、陰鬱な空気をまとっている。
シュザンがたった一人で姿を現すと、看守たちは恐縮し、訪問の目的も聞かずに中へ通した。シュザンほどの立場の者が、自ら監獄を訪れることなど滅多にないことだったからだ。
けれど首尾はなかった。もともと期待はしていなかったが、使われていないはずの独房から、地下の拷問室まで確認したが、レオンの姿はなかった。
その後、シュザンは口実をつけて半日を費やし、地下水路、庭園の東屋、大厩舎、王の居住棟内の立ち入れる限りの場所、隠し部屋、念のため騎士館をも捜索したが、なんの手がかりも掴めなかった。
それが昨日のことである。
時間が経つにつれて憂鬱になっていく気持ちを抑え込みながら、シュザンは今日も王の居住棟に姿を現した。
もはや自分の立場で立ち入れるところは探しつくした。
残るは、離宮、そして王族の部屋――これらに、いかにして近づくかが問題となる。
しかし近づいたところで、レオンが見つかるかどうかはわからない。
もしかしたら、王宮の敷地の外にいるのかもしれないし、こうなってくると、本当に無事でいるのかどうかすら定かではしない。
嫌な予感がした。
シモンとクリストフの語った内容それ自体ではない。彼らに今回の話をしたのが、ジェルヴェーズだったということが、一番気にかかるのだ。
いっそのこと、ジェルヴェーズ本人に探りを入れるという方法もあった。
けれどそれは相当の覚悟を要する。一歩間違えば、シュザンは正騎士隊隊長の職を解かれるだけではすまないだろう。ジェルヴェーズの不興をこうむれば、命はない。
シュザンは大理石の硬く冷たい感触を背に、奥歯を噛みしめた。
「トゥールヴィル隊長殿」
考えに耽っていたところへ声をかけられて、シュザンは顔を上げる。
慈愛に満ちたというよりは、人の心を見透かすような笑みをたたえてこちらを見ていたのは、純白の祭服をまとった、糸杉のように細く背の高い男だった。
「大神官殿」
シャルム王国の神殿の最高責任者、大神官のガイヤールである。
シュザンは、対手に対する負の感情が声に滲み出てしまいそうになるのを、どうにか抑えた。
「珍しいこともあるものですね、こんなところで正騎士隊長ともあろう貴方が、手持無沙汰に立っていらっしゃるとは」
「……考えごとをしていまして」
「考えごと。そうですか。それ以外にやることがないのでしたら、神殿へ祈りを捧げにいらしてはいかがでしょう。神が、貴方の考えごとに、答えを与えてくださるはずですよ」
シュザンは、苛立つ気持ちを鋭い視線に変えて、ガイヤールを見やった。
この男は、もともとたいした身分出身の聖職者ではなかったが、国王やジェルヴェーズ、さらにその周辺の国王派の貴族たちにうまく取り入り、引き立てられ、ちょうどシュザンが騎士隊長になったころ、彼もまた大神官の座に就いた。歳は三十を過ぎたあたりといったところだろう。
一見穏やかな微笑の裏で、なにを企んでいるかわからない男だった。その雰囲気は、どこか不気味な印象を与えるブレーズ公爵とも似通っている。
「ご助言いただき、ありがとうございます」
シュザンは心のこもらない声で返答した。シュザンは不信心ではなかったが、ガイヤールが言うことについては信じる気になれない。
けれどシュザンは次のように続けた。
「それではおっしゃるとおり、神殿に赴き、祈りを捧げて参りましょう」
シュザンの反応に、ガイヤールは笑みを消し去った。嫌味のつもりで言ったことを、若い正騎士隊隊長が素直に受け入れたからである。
今度はシュザンが不敵な笑みをこぼす。
「今から私は神殿へ向かいます。共に行かれますか?」
ガイヤールの仕事場は、もはや神の住まう神聖な場所ではなく、野心や欲望がうずまく世俗にある。ガイヤールが神殿ではなく、いつものように国王派の者たちと話をしにいくことに気づいていて、シュザンはあえてそう尋ねたのだ。
「私は別のところへ行く用事がありまして」
案の定ガイヤールは、シュザンの誘いに乗ってはこなかった。
「大神官殿はお忙しいようで」
「残念ながら私には、貴方のように暇を持て余して、このようなところで佇んでいる時間はありません」
「この国の平和と民の幸せを祈るのが、大神官殿のお役目では? 貴方にとっては、神殿以外の場のほうが、お役目に集中できるということですか」
ガイヤールは剣呑な光を宿した瞳でシュザンを睨みつけた。シュザンのほうもまた、侮蔑を含んだ冷たい視線を返す。二人はしばらく睨みあっていたが、ガイヤールが先に目を逸らした。
「神聖なる祈りは人の心にあるものです。どこにいようとも、関係ありません。といっても……剣を握り、争い、人の命を奪う、世俗の穢れにまみれた貴方にはおわかりにならないかもしれませんが」
ガイヤールは言い終わるや否や踵を返し、立ち去った。言いたいことだけ言い捨てて逃げられた感はあったが、反論するのも今は面倒だったので、シュザンはガイヤールの後ろ姿を黙って見送る。
神殿――――。
その荘厳な内部の景色が、ふと、シュザンの脳裏に浮かんだ。
瞬時、足を神殿に向ける。
祈るためではない。
神殿は、昨日見にいったが、なにもなかった。けれど。
――見ていないところがある。
どうして気づかなかったのだろう。
神殿の地下には、普段は足を踏み入れることが禁じられている、シャルム王家の墓がある。
ある種の畏怖と正義感からか、そこに立ち入ることを端から思いつかなかった。まるで当然のごとく、地下墓地を素通りしていたのである。
むろんそこに侵入したことが知れれば、シュザンだって無事ではすまされない。
しかし今ならガイヤールが神殿にいないことはわかっている。
調べるには絶好の機会だった。
シュザンは不思議と〝そこ〟であるような気がした。
そして、彼の勘は正しかった。