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 呆れたような視線を周囲から浴びつつも、言葉どおり遠慮なく食べはじめたヴィートは、山で生まれ育ったとは思えぬほど器用に食器を扱った。


 目の前の皿に盛りつけられた、山鶉やまうずらのあぶり焼きとポワローのキッシュ、クルジェットとブロッコリーのスープ、それらを食べる様は、粗野であるといえば粗野だが、男らしいといってしまえばそれまでで、容姿と同様、貴族といってもうなずける。

 その姿を意外そうに皆が見つめる。


 ぼんやりしていたアベルに、ヴィートは顔を上げて問いかけた。


「食べないのか?」

「え……」


 しかし相手の返事を待たずに、彼はぽんと手をたたく。


「そうか、きみは手を怪我しているのか。気づかなくて悪かった。このまえみたいに、おれが食べさせてやろうか?」


 その言葉に再び葡萄酒を吹いたのはレオンだ。

 ディルクはレオンの行動に顔をしかめたが、今度はなにも言わない。幼馴染みの青年を取り巻く空気が、一瞬にして凍ったことがこわかったからである。下手に口を開かぬほうがよい、そう判断した。


 ヴィートから真剣に問われて、アベルはたちまち顔を赤くする。

 このような大勢のまえで、そのようなことを暴露されたうえに、再びそれを披露するというのだから。


「だ! 大丈夫です! 手は使えます、ご心配なく!」


 慌ててスプーンを握ったアベルは、手が使えることを証明するようにスープを口に運ぶ。


「このまえみたいにということは、そのようなことがあったのか?」


 手についた葡萄酒を、女中から手渡された布巾で拭きつつ、レオンが胡散臭そうにヴィートとアベルを見た。

 アベルはあたふたしていたが、ヴィートはいたって落ちついている。


「まあね」


 一国の王子にヴィートは軽くそれだけ答えると、ちらりとリオネルを一瞥した。

 彼の挑戦的な瞳と、リオネルの完全に据わった瞳が、冷たい火花を散らす。


 それを断ち切ったのは、恋愛沙汰となると微塵も空気が読めぬアベルだ。


「王子殿下に、なんという答え方をするのですか。『さようでございます』とか、『おっしゃるとおりです』とか、丁寧に答えてください」


 その言いぶりは、まるで弟か子供のしつけをしているようである。

 これは本筋とずれたところでの発言だったが、ヴィートの言葉を否定していないことから、彼から手ずから食べさせてもらった事実を暗に肯定していた。


「ああ、悪い。そうだったな」


 あっさりとヴィートは己の非を認めたが、レオンに対して訂正することはなかった。


 アベルは溜息をつき、食事を再開する。彼女にしてみれば、リオネルが自分に好意を抱いていることなど知らないうえに、ましてや恋人同士でもないのだから、それ以上ヴィートが手ずから食べさせてくれたことに関して言い訳をする必要はないのだ。


 リオネルの想いを知るラロシュ侯爵は、気遣わしげな視線を彼に向けたが、リオネルとて、この場でヴィートに不快感をぶつけるような人間ではない。


 女中が注いだ葡萄酒を受けとり、リオネルはアベルの隣の椅子に腰かけた。


「おいしい?」


 次々と食事を口に運ぶアベルに、いつもの調子で問いかける。


 彼がとても優しい眼差しで見つめてくるので、アベルは食べ物を口に入れたまま頬を染める。急いで食べているように見えただろうかと、突如として恥ずかしさを覚えた。

 口が開けられないので、瞳をまたたかせつつ、アベルは大きく首肯する。


「よかった」


 うなずくアベルを前にしてほほえむリオネルの顔は、とても穏やかだった。そこには、ヴィートへの敵対心や打算などは一切なく、ひたすら愛しい娘を想う気持ちだけがある。

 だからこそ、それを漠然と感じ取るアベルのほうも、自然と笑顔になるのだ。


 そんな二人の様子を、ヴィートは不満げに見ていた。


 ベルトランとラロシュ侯爵は、この状況が完全に、ひとりの娘をめぐる若者二人の争いであることに気がついている。

 ふとアベルは顔を上げて何者かの姿を探し、そして、相手を探しあてると、ためらいつつ口を開いた。


「ラロシュ侯爵様、ひとつお尋ねしたことがあるのですが」

「なんだろう」


 自らの子供たちの憧れの的でもある少女に話しかけられて、ラロシュ侯爵は葡萄酒の杯を食卓に置く。


「……ブリアン子爵様のご容体はいかがですか」


 それは、アベルにとってずっと気になっていたことである。

 子爵の意識が戻ったことは聞いていたが、詳しいことは知らなかった。自分を守るために怪我をさせてしまったこと、そして、彼を負傷させた張本人であるヴィートをこの館に連れてきたこと、その両者について本人に謝罪したかった。


「とても良好なようだ。おかげさまで、傷は浅かったみたいだからね」


 そう答えつつ、ラロシュ侯爵はヴィートを見やる。これは、感謝しているのではなく、嫌みである。

 だが、ヴィートはその視線に気づいてはいたが、そしらぬふりで食事を続けた。


 アベルはひとまずラロシュ侯爵に謝罪の気持ちを述べてから、ほうれん草のキッシュを口に運ぼうとするヴィートの手を止めた。幅の広い、大きな食卓だったので、彼の手に触れるためには、アベルは立ちあがって身を乗り出さねばならない。


「ヴィート、あなたが傷つけた子爵様は、こちらにいらっしゃるラロシュ侯爵様のご友人です。あなたからも謝ってください」


 立ち上がったままのアベルに諭された若者は、フォークを皿に置き、ラロシュ侯爵に頭を下げる。


「悪かったな」


 心から謝っているのかどうか疑わしいところであったが、アベルの追求はそこではなかった。


「『悪かったな』ではなくて、『申しわけございませんでした』です」


 言葉のなかにひそむ真偽は問い正せないが、少なくとも言葉づかいは正せる、というところだろうか。


「そうだな。申しわけなかった」


 この少女が言うことにはとりあえず素直に従うヴィートだが、アベル以外の者に心を開く様子はない。

 彼が、諸侯らと距離を置くのにはわけがあった。


 単にシャルムの貴族が嫌いだからというわけではない。

 アベルを囮にしておいて、だれも助けにこなかったことが、この若者に不信感を抱かせていた。このように身の回りを整え、食事を用意し、親切そうにしてはいるが、結局はアベルを見捨てた輩ではないか。


 ヴィートには、そんなふうに思えてしかたなかった。


 だからこそ、いくら問われても、彼らにスーラ山にいる仲間の居場所を白状する気になれない。つまりそれは、仲間をかばう気持ちからではなかった。


 スーラ山の仲間に対し、ヴィートはひどく複雑な思いを抱いている。進んで彼らを売る気持ちはないが、かといって守るほどの存在でもなかった。

 スーラ山だけではない。カザドシュ山においても、ブラーガとエラルド以外の仲間とは折り合いが悪いのだ。


 山賊をやめることに未練はない。

 これからは、アベルのそばで、自分の望む生き方をしたい。

 ――叶うことなら、彼女を愛し、彼女から愛されて。


 そんなことを思ってヴィートが顔を上げると、アベルの隣には、どこぞの貴族の青年がいる。

 アベルが仕える主人であるこの青年が、臣下であるはずの彼女に惚れているということに、ヴィートは出会ってすぐ気がついた。

 そして、それは予想もしていなかったことだった。


 どう見ても、ベルリオーズ家嫡男の気持ちはアベルに通じているようには見えないが、それでも手強い恋敵である。


 己の恋路が思ったより厳しいことに、ヴィートが小さく嘆息したとき、食堂の扉が開く。


 ここは個人の部屋ではないので、特別な理由がないかぎり、諸侯らが出入りするのはまったくの自由である。

 入室したのは、ウスターシュとその配下の騎士たちだった。







「ベルリオーズ家の従騎士は、山賊となごやかに食事ですか」


 まずはレオンに対して深々と一礼し、それから侮蔑するような眼差しを、アベルとヴィートのみならず食卓を囲む王弟派諸侯らに向け、ウスターシュは食卓のまえに立った。


「なにかご用ですか」


 冷淡に尋ねたのはディルクである。


「ええ、そこの山賊に少し」


 ウスターシュはそう言いながらリオネルへ視線を向けた。


「のこのこと山賊のほうから現れたというのに、捕らえもせずに、身なりを整えさせたうえに食事を振る舞うとは、とても才識のある領主の行いとは思えませんね」

「そうせざるをえなくなったのは、彼がアベルを助け、ここまで送り届けたから――そもそも、アベルを囮にしたのは貴方でしょう。戻ってきたアベルにかける言葉はないのですか」


 感情を表に出さずにリオネルは淡々と答える。


 しかし、ここ数日間大人しかったはずのウスターシュは、再び尊大な態度を取り始めていた。アベルが戻ってきたことで、リオネルが常の穏やかさを取り戻したことを、よく承知していたからである。


「そういえば、そうでしたね。この従騎士には感謝せねばなりません。さきほど戻った兵士の証言から、ついに山賊の居場所がわかりました。それも、この者がうまいこと女に扮して、囮になったため」


 仲間の居場所がつきとめられたと知ったヴィートは、わずかに表情を変えてウスターシュを見上げた。


 ウスターシュは、そのヴィートとアベルに軽蔑するような眼差しを向けて話し続ける。


「しかし、この従騎士は山賊の居場所をつきとめられなかったうえに、なにも語らぬ、役立たずで卑しい山賊をひとり連れて帰ってきただけのようで。そのことを差し引けば、礼をせねばならぬこともございませんな」


 そこまでは、リオネルも黙って聞いていた。

 だがそれも、次の言葉までだった。


「この従騎士は、男の身でありながら、己が助かるためにいったいどのような媚態を晒して、この山賊を骨抜きにしたものやら。女のように振る舞ってみせたのかもしれませんな」


 立ちあがったリネルが、低い声音で告げた。


「――その卑俗な口を閉じろ」


 その凄みに気圧されたウスターシュが、殴られた過去の経験から反射的に剣の柄を握ると、ベルトランもまた己の長剣に手を添える。

 ほぼ同時に、ディルクとベロム家の兵士が身構えた。


 にわかに室内の空気が張り詰める。

 だれもが声を発せないでいたそのとき、席を立って口を開いたのはアベルだった。


「ウスターシュ様」


 怒りの色で顔を染めたアベルへ、一同は視線を向ける。


 リオネルは内心で焦った。自分が剣を向けられるのはかまわないが、精神的にも肉体的にも、アベルがウスターシュから傷つけられないか心配だったからだ。


 だが、アベルは臆することなく、淡い水色の瞳でベロム家の跡取りを睨み据えた。


「わたしはたしかに、山賊の拠点をつきとめることはできませんでした。ブリアン子爵様にも、リオネル様にも大変なご迷惑をおかけしました」


 剣の柄に手を添えた体勢で固まったまま、ウスターシュは顔を歪めてアベルを見返す。


「ですが、自分が助かるために、貴方がおっしゃるようなことはしていません。そんなふうにして助かるくらいなら、舌を噛み切って自ら死んだほうがましです。根拠もないことを、勝手な想像でおっしゃらないでください」

「子犬のようによく吠え――」

「それと」


 鼻で笑いながらウスターシュが嘲ろうとすると、アベルの鋭い声がそれを遮った。


「その手を、剣の柄から放してください。リオネル様に剣を向けることは許しません」


 言葉を遮られたウスターシュは、嘲笑を引っ込めて、不愉快そうに片眉を上げる。


「つくづく生意気なやつだな」


 話し終えたアベルを守るように、リオネルがその肩を軽く引き寄せた。


 本当ならばウスターシュとしては、このようなこざかしい子供など襟首をつかみあげ、殴りつけて思い知らせてやりたかったが、リオネルや高位の貴族らがアベルを守っているので、それは叶わない。


 悔しいことではあったが、ウスターシュは柄から手を放した。

 そもそも相当に腕の立ちそうな赤毛の用心棒や、身をもって実力を知るリオネルと事を構えるのは無謀なことだと知っていたので、いずれかの時点で矛をおさめねばならなかったのだ。


 ウスターシュとベルトランが平時の体勢に戻ったので、その場の空気がわずかに和らぐ。


「それで、ウスターシュ殿。山賊の居場所がわかっというのは、まことのことですか」


 冷静な声音で尋ねたのはラロシュ侯爵である。


「本当です」


 その返答は、皆にそれぞれの思いを生じさせる。諸侯らにとっては、近々そこへ赴くことになるだろうし、ヴィートにとっては自分が暮らしていた場所を、貴族らに荒らされることになる。


「ですが、念のために申しあげておきますが、今回、囮の案を考えたのも私、山賊の居場所をつきとめたのも我が兵士。――つまり、リオネル殿。今後、貴方の指図は一切受けませぬ」


 リオネルは無言でウスターシュを冷ややかに見やっただけだったが、ディルクは不満の声をあげる。


「なんですか、その理屈は。囮になったのはベルリオーズ家の従騎士ですよ。それで、胸張って貴方だけの成果だなどと言えるのですか」

「先程も申しあげましたが、この従騎士ひとりが帰ってきたところで、なんの役にも立ちませんでした。居場所をつきとめたのが、我が兵士であるからには、好きなようにやらせてもらいます」


 舌打ちしたディルクの横で、ラロシュ侯爵が問う。


「それで、貴方の好きなようにというのは、具体的にはどういうことですか」

「むろん」


 ウスターシュは、挑戦的な瞳をリオネルに向けた。


「話し合いだなどという生ぬるいことはせずに、明日にでも、拠点を攻撃します」

「……それは、いささか性急すぎるのでは」


 ラロシュ侯爵が眉をひそめると、ウスターシュは苛立った様子で片頬を吊り上げる。


「性急? 我々の所領が山賊の被害に遭い始めてから、どれほど時間が経っているとお思いですか! それに私はすでに一週間以上もこの地に滞在しています。拠点がわかった今、攻撃を開始することのどこが性急だとおっしゃいますか」


 するとディルクは苺を片手に持ったまま、すかさず横やりを入れる。


「リオネルの考えを無視して攻撃するからには、ベルリオーズ家とアベラール家の兵力は見込めないと考えていただくことになりますが」


 一瞬、鼻白んだようだったが、ウスターシュはすぐにふてくされたように言い捨てた。


「結構。そんなものは、はじめから期待しておりません。今後は私が中心となって討伐を進めます。その代わり、一切手出しはしないでいただきたい。討伐が完了した暁には、貴方がたがいかに無能で腰抜けであったかを、陛下に具申いたしましょう」


 その台詞に、ディルクが苺を口にほうり入れながら、あざけるように笑った。


「なにがおかしい!」


 ディルクの不敵な態度は、ウスターシュの自尊心を傷つけ、神経を逆撫でする。


「べつに?」


 彼が笑ったのは、ウスターシュの言うことがあまりにくだらなかったからだ。

 今更、リオネルやディルクが無能で腰抜けだなどと、「くそ髭じじい」である国王に伝えたところで、彼はなんの心証も抱かないだろう。むしろ、宿敵が無能であることを喜ぶかもしれない。


「――おれを馬鹿にしているのか」


 ウスターシュがディルクの目前で食卓を叩きつけると、その勢いで、卓上の皿がわずかに飛び跳ねて音をたてた。

 冷めた瞳で見返してくるディルクを目前にして、ウスターシュの顔がみるみるうちに怒りの色を濃くしていく。


 だが、そこに穏やかな声音が響いて、束の間ウスターシュは気を削がれた。


「わかりました、ウスターシュ殿」


 声の主はリオネルである。


「勝手に討伐を進めたければ、そうなさってください。ですがディルクも申したとおり、我々は兵力を出しません。また、これ以上、私の臣下を無断で動かすようなことがあれば、私は必ず本気で貴方に剣を向けます。それだけ、ご承知おきください」


 討伐を容認することは、いたしかたのないことだった。

 山賊の首長と話し合いをすべきだと主張したところで、彼らの居場所を知っているのがウスターシュだけとなれば、それは叶わない。問いつめたところで教えてはくれないだろう。

 彼が討伐を進めると言い張るのであれば、止める方法はない。


 リオネルの落ちついた態度とは反対に、ウスターシュはむしゃくしゃした様子で再び机を拳で打った。


「実に結構。貴殿らのような青二才が参加しないとなると、こちらも清々します。ただ、その山賊は一時こちらで預からせてもらいます」


 ヴィートの身柄をベロム家がいったん引きとるというのである。

 訝るような視線をディルクはウスターシュへ向ける。


「なんのために」

「むろん、攻撃するにあたって、山賊についての詳細を聞き出すためです」

「それができるのであれば、とっくにこちらでやっていますよ。この男は、なにも話しません」

「あなたがたに話さなくても、我々には話します。必ず話させますから」


 言うが早いか、ウスターシュの合図でベロム家の兵士がヴィートを取り囲む。

 食卓についたままのヴィートは、彼らを仏頂面で見上げた。


「やめてください」


 顔色を変えたアベルが、負傷した足を一歩前に踏み出す。それをリオネルが、そっと背後から制止した。

 アベルがリオネルを不安げに振り返ると、彼の瞳はまっすぐにウスターシュに向けられていた。


「その者は、ベルリオーズ家で身柄を保護したのです。貴方が力ずくで彼に手を出そうとするなら、こちらも武力をもってそれを阻止します」


 鼻で笑ったウスターシュが再び手で合図すると、ヴィートを取り囲む兵士らが長剣を抜き放った。


「一時のあいだ、お借りするだけです。なにも命までは奪いませぬ。この者が役にたてば、その従騎士が捕らわれたかいもあったという――」

「あーあ」


 突如、緊張感のないあくびをしたのは、ヴィートだった。


「腹も膨れたし、なんだか眠くなってきたな」


 再び言葉を遮られて、ウスターシュは苦虫を噛み潰したような顔になった。


「捕らえろ」


 主人から命令されて、ベロム家の兵士たちがためらうことなくヴィートに剣を向けたまま近づくと、ディルクとマチアス、そしてリオネルの傍らにいたベルトランが剣を鞘走らせてベロム家の兵士の後方へまわった。


 同じく剣を抜こうとするアベルの背後では、リオネルが彼女を守るように己の長剣の柄に手を添えている。


 張りつめた空気のなかで、ヴィートはひとり悠々と椅子に腰かけ、ナイフで林檎を切りながら、


「ずいぶん、おれひとりを捕らえるのにたいそうなことだな」


 と、つぶやいた。


 剣を構えている者のうち、だれかひとりが少しでも動けば、撃ち合いが始まるだろう。

 そのような状況なのに、ヴィートはなにも起こってないかのごとく、普通に席を立った。

 そして、なんと、食べやすい大きさに切った林檎を兵士のひとりに向けて、


「食べるか」


 と尋ねたのである。


 あまりの緊張感のなさに、兵士たちもアベルも唖然として言葉も出なかった。

 その次の瞬間だった。


 ヴィートが右手でナイフを掴みなおすと、自分に向けられている剣先を跳ねのけ、兵士を蹴り倒す。それに驚いた他のベロム家の兵士らがヴィートに向けて長剣を振り下ろすが、ヴィートは身を逸らせて器用に避け、彼らの腹や背に強烈な蹴りをくらわせていく。


 それは、リオネルのような流麗な動きではなく荒っぽい武技ではあったが、とんでもなく強いことはたしかだった。

 

 即座に出る幕がないと判断したディルクが、剣を鞘におさめて再び着席し、林檎をほおばりだす。


「ディルク様」


 そんな彼の行動に、マチアスがわずかに眉をひそめると、


「いいじゃないか、彼は充分にひとりで自分の身を守れるみたいだから」

「そういう問題ではなく――」

「この林檎はたしかにおいしいぞ、マチアスもどうだ?」

「結構です」

「あ、そう」


 ディルクはもうひとくち林檎をかじった。








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