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浴室から水音が聞こえてくる。
最上階にあるリオネルの寝室で、その音が終わるのを静かに待っていたのは、部屋の主であるリオネルと、その用心棒ベルトランである。
浴室で湯浴みをしているのはアベルだ。
ヴィートはディルクにつきそわれて騎士たちの浴場を使用し、身なりを整えているが、そこへアベルが入るわけにはいかない。リオネルは自らの部屋に備わっている、天蓋つきの浴槽でアベルをゆっくり入浴させてやりたかったというのと、足を怪我している彼女の面倒をみたかったということもあって、密かにここを使わせることにした。
彼女の足を診た医者は、
「挫いておりますが、骨には問題ございません。怪我の直後に冷却したようで、腫れもほとんどなく、完治には三週間ほどかかりますが、歩くだけならそれ以前に可能になるでしょう」
と説明した。
怪我直後の冷却というのはおそらく、雪解け水に身体が漬かっていたことと、ヴィートが雪でアベルの足を冷やしたことだろう。アベルの命を危険にさらした冷たい水は、皮肉なことに、足の怪我には効果的だったのである。
連れ去られてから戻るまでの大まかな経緯を、入浴する直前のアベルから聞いたリオネルは、冷えたアベルの身体を温めるためにヴィートが一晩中彼女を腕のなかに抱いていたことも知っている。
その話は、リオネルの心に少なからず小波を立てた。
むろん、彼女を救ってくれたことへの感謝の気持ちは大きい。
だが、そもそもアベルをさらったのはヴィートだ。
他の山賊から守るために常にアベルのそばにいたこと、崖から落ちた彼女を救ったこと、怪我をした彼女を自分のもとまで連れてきてくれたこと、それらは感謝すべきことではあったが、アベルをさらったことについては憎しみさえ覚える。
その一方で、このような状況になるまえに、アベルを助けることができなかった己自身に対する自己嫌悪も小さくなかった。
リオネルの胸中には、様々な思いが入り混じっている。
彼の表情には、そのような思いは微塵も現れていなかったが、向かいに腰かけるベルトランはそれを察することができた。
けれど今、二人はこれまでのことだけにこだわってはいられなかった。アベルが入浴しているあいだに、ラロシュ家の兵士がある報告を持ってきたのだ。
――アベルをさらった山賊らを追跡していた兵士が、アベルに続いて三日ぶりに帰還したという。
戻ってきたのは二人。彼らはベロム家の兵士で、ウスターシュ騎下の者である。
今、ウスターシュが二人の兵士からどのような話を聞いているかは、わからない。
だが、結局アベルは崖から落ちてしまったため山賊の居場所をつきとめられず、ヴィートは今のところ自分のことについてはなにも話そうとしないので、二人の兵士がなにを知っているかによって、今後の討伐の行方は左右されることになりそうだ。
リオネルを矢で狙った者は未だに見つかっていない。
すぐにマチアスが矢の飛び立った場所にかけつけたが、そこは館の二階部分にある回廊で、だれでも利用できる場所だった。マチアスが行ったときには、不審な者の姿はなかったという。
命を狙われることは想定の範囲内であったが、今や相手が行動に出たうえに犯人が捕まらぬとなると、こちらもこれまで以上に警戒せねばならない。
……そんなことを考えていたところ、浴室の水音が止み、少し経ってから遠慮がちなアベルの声が響いた。
片足が使えないとなると浴槽の出入りだけは、どうしてもだれかの手を借りなければならないのだ。
「ベルトラン、すまないが行ってきてくれないか」
赤毛の若者は無言でリオネルを見返した。
するとリオネルは、自嘲するような笑みを秀麗な顔に浮かべる。その表情で、ベルトランはなんとなく彼の事情を読みとった。
離れ離れになっていたあいだ、リオネルがどれほどアベルに想いを馳せていたか、想像するに余りある。己のうちにある不安や葛藤と戦いつづけ、ようやく再会できたのだ。その直後に、湯上りのアベルを抱きかかえることは、恋する青年をどのような心情にさせるか。
「いいのか」
念を押すようにベルトランが問うと、リオネルはゆっくりうなずいた。
ベルトランは一拍の間をおいて立ちあがると、浴室に向かい、扉を叩いてなかへ入る。すると、浴槽の天蓋を透かして、薄い布一枚で身体をくるんだアベルが立っているのがわかる。
そっと天蓋を避けると、彼女は顔を耳まで赤く染めてうつむいていた。むろん、湯にあてられたのではなく、このような姿を晒さねばならない恥ずかしさからである。
ひざから下はまだ湯につかったままで、濡れ髪が張りつく細くしなやかな背を半分ほどこちらに向けている。
これでは、だれが入ってきたのかわからないだろうと、少女の無防備さにベルトランは内心で溜息をついた。
「上げるぞ、いいか」
確認の声に、アベルは顔をうつむけたまま了承する。
その声を聞いてようやく部屋に入ってきたのがベルトランだと知ったアベルは、なんとなく、ほっとしていた。
けっしてリオネルを避けているわけではない。
なぜ、ほっとしたのか、アベルには自分でもよくわからなかった。
ベルトランの逞しい腕が、アベルの小さな身体を抱き上げる。
華奢な身体はベルトランが想像したよりもはるかに軽く、湿った布越しに感じる彼女の湯上りの肌は、熱くてやわらかい。その女性らしさに、ふとベルトランはこれほど頼りない身体にあれほど厳しい稽古をつけていたのかと、束の間、自責の念が生まれたほどである。
さわやかな石鹸の匂いが、湯気とともに少女の身体からたちのぼる。
それと同時に、ディルクとの対戦でつけられた肩の傷跡と、腫れた左足首が目に入った。
様々な意味で、たしかにこの役目はリオネルではなくてよかったかもしれないと、ベルトランは密かに思った。
小さな丸椅子にアベルを座らせ、着替えの衣類を手渡す。
「なにかあればまた呼んでくれ」
そう短く言い置いて、ベルトランは浴室から出る。
しばらくしてアベルが二人の前に現れたとき、彼女はいつもの従騎士の姿だった。
さきほどまでの女性らしい姿が幻だったかのように、まことの少年に見えるから不思議である。
「浴室を使わせていただき、ありがとうございました」
礼を言いつつ、足を引きずり歩いてくるアベルに、リオネルが駆け寄る。
無理をして歩こうとしていることに対して小言を言うかと思いきや、彼の口から出たのは意外な言葉だった。
「さっぱりしたか」
なんとなくアベルは嬉しくなり、ほのかに上気した顔で、はにかんだ笑みを浮かべる。
「はい、とても」
はじめは主人の部屋の風呂を使うなどとんでもないことだと思ったが、リオネルにやや強引に勧められて入ってみれば、ベルリオーズ邸を発ってからの疲れが癒えるように身体が休まった。
そんなアベルの笑顔に、リオネルは心の底から安堵する。
こうしていつもの騎士姿のアベルが笑っていると、ようやく彼女が自分のもとに無事戻ってきのだという実感が沸く。
――アベルがそばにいて、笑っている。
そのことがいかに幸福なことであるのかを、リオネルはこのときあらためて痛感した。
当たり前のことが、なによりも大切なことなのだ。
「リオネル様、大丈夫です。ゆっくりなら歩けますので」
「わかっている」
そう言いながら、リオネルはアベルを支えて椅子のところまで連れていく。
遠慮のなかにわずかに抗議の色を添えた目でアベルは主人を見上げたが、彼がそれを気にとめた様子はまったくなかった。
アベルが抗議したのは、「わかっている」と言っているのに彼がまったくわかっていないことだ。それは、ベルリオーズ邸に到着したときと同様だった。
あのとき、高熱のアベルを抱きかかえて、リオネルは言った。
『きみが言う「大丈夫」という言葉は、「大丈夫じゃない」という意味だということが、よくわかった』
と。
おそらく、口に出して抗議しても、リオネルは再びそう答えるだろう。
だからアベルは諦めの境地で、リオネルの親切に甘んじることにした。
湯上りのアベルの肌は、柔らかい桃色に染まっている。
その肌に落ちかかる濡れた金糸の髪は、夜の湖面に映った月光のように輝き、えもいわれぬ色香を漂わせていた。
自らも肘掛椅子に腰かけたリオネルは、足を組みながら、アベルの姿から視線を逸らす。だが、それはすぐにアベルの声で引き戻された。
「リオネル様、その――」
再び視線をアベルに戻したリオネルだが、彼女は両手を軽く握って膝のうえに置き、うつむいていた。
「どうかした?」
優しく問いかけかれ、意を決したようにアベルは顔を上げる。
「――リオネル様のご意志に背き、勝手に計画に加わり、申しわけございませんでした」
眉尻を下げて言うアベルは、心から謝罪しているようである。
そんな彼女に、リオネルは怒るでも責めるでもなく、彼もまた申しわけなさそうな顔をした。
「いや。きみは、おれを……ベルリオーズ家のことを思ってそうしたのだろう? ひとりで囮になる決断をするのは苦しいことだったと思う。おれが至らないばかりに、すまないことをした」
「…………」
「山では辛い思いをさせてしまった。赦してほしい」
リオネルの言葉に、アベルの目の奥が熱くなって言葉が出ない。
ひと言でも発すれば、泣いてしまいそうだった。
苦しいなんて思わなかった。
山にいたときは、それほど寂しいとか怖いという思いは湧いてこなかった。けれど、こうして他人から言われて気がつく。
苦しかったのだ。寂しかったのだ。……怖かったのだ。
ずっと、ひとりで耐えていた。
そしてそのことを、いつだってリオネルだけはわかってくれている。
この世の中に人間という生き物は幾千も、幾万もいるのに、心を通じ合わせることができる者など片手の指で数えるほどもいない。
それなのに、アベルよりよほど身分の高いこの青年は、少なくともアベルのことを「心の目」で見てくれている。
二人はまったく別の場所で生まれ育ち、今もそれぞれの立場はこんなに離れたところにあるというのに。
「辛い思いをしていただろうきみを、おれは助けにいかなかった。こちらこそ、謝らなければならない」
「そんなことはありません」
己の涙を封じるように、アベルは強い語調で反論する。
「リオネル様がいらっしゃらなかったのは、当然のことです。わたしなどを助けにきてはなりません」
「……だれも、おれがきみを助けにいくことを、許してはくれないのだな」
哀しそうにリオネルは微笑した。その表情と言葉に、アベルはしばしなんと言って返せばいいのかわからなくなる。
彼の瞳から視線を外してようやく、次の言葉を探すことができた。
「そ……それに、結局わたしは山賊の拠点をつきとめることができませんでした。リオネル様やベルリオーズ家のためを思ってしたことだなどと、胸を張っては言うことはできません。なんのお役にも立てなかったのですから」
あまつさえ、山賊の若者を連れてきて、リオネルの手を怪我させてしまった。
リオネルの左手の人差し指は、幸いにもベルトランが制止するのが早かったため、ひどい怪我にはならなかった。剣を握るのも、食事をするのも基本的には右手なので、彼が普段の生活をするのに支障はきたさない。
それでも、自分のせいで主人を怪我させてしまったことは、アベルにとってはなによりもやりきれないことだった。
しょんぼりとうなだれたアベルに対しリオネルがなにか言おうとしたとき、扉が鳴る。ベルトランが開けにいくと、そこにいたのはマチアスだった。
マチアスは廊下に立ったまま一礼し、
「アベル殿のお食事の準備が整ったようです。ヴィートも湯浴みを終え、食堂に向かいました」
と告げる。崖から落ちてから、まともに食べ物を口にしていない二人のために、リオネルが食事を用意させていたのである。
「わかった」
返事をしてから、リオネルはアベルへ視線を移して、残念そうにほほえんだ。
「またあとで話そう。早く行かないと、料理が冷めてしまうからね」
四人は食堂へ向かう。
まだ食事の時間ではないのにリオネルとベルトランが同行したのは、食堂にはディルクやラロシュ侯爵もいるからだ。ヴィートの様子、そして、戻ってきたベロム家の兵士のことも知りたかった。
大階段を降りる途中、マチアスはアベルに頭を下げた。無事に戻ってきたことに安堵していること、そして、助けることができなかったことへの謝罪を彼は口にした。
多くの者から同様のことを言われるアベルは、逆にひどく恐縮する。これほど迷惑をかけておいて、なんの成果も残せなかった自分へ、皆は謝罪の言葉を向けてくるのだ。
アベルは己の不甲斐なさを感じていた。
かといって、ヴィートに無理をさせたくはなかった。
彼なら、山賊の拠点も、規模も、なにもかもを知っているだろう。けれど山賊をやめたといはいえ、本人の意思に反して仲間を裏切らせるようなことをさせたくなかった。
それは、アベルの甘さであり、我儘でもあり、だが、優しさでもあった。
己が犠牲になることは厭わないが、他人の心は踏みにじりたくない。
辛い経験、そして哀しい思いをしてきた彼女だからこそ、人の痛みがわかる。人の痛みがわかるからこそ、だれかが苦しむ姿を見たくなかった。
広い食堂に到着すると、ディルクやレオン、ラロシュ侯爵らに囲まれて、若い男がひとり食卓についていた。長身で、優しげな表情に濃い色の髪と瞳が鋭さを与える、彫りの深い伊達男である。
霧で窓からの光が弱く、薄暗かったせいもあったかもしれない。アベルは、彼が一瞬だれだかわからなかった。
けれど、褐色の瞳がアベルをとらえたとき、はっとした。
「ヴィート?」
ベルトランの服を借りて着ている騎士姿のヴィートは、生まれながらの貴族のような風情だった。
呆気にとられているアベルに、ヴィートからひとりぶん離れた席に座っていたディルクが笑う。
「どう? 見違えただろう。髭を剃って、服装を変えたら、これほどいい男になるとはね」
「化けたもんだな」
ぼそりとつぶやいたのはベルトランだった。己の服を他人が着ているのは、不思議なものである。寸法もぴったりなうえ、それがこれほど似合うとは。
「おう」
惚れた娘に見つめられて、照れたようにヴィートは片手を上げた。
だが、驚いていたのはヴィートも同様である。彼は、はじめてアベルの騎士姿を目にしたのだから。
「とっても似合っていますね、ヴィート」
マチアスに促されて、ヴィートの向かいの席に腰かけながら、アベルは彼を素直に褒める。
リオネルの指を怪我させたことについては、入浴前に厳しく苦言を呈したので、もう口にはしない。そのときだいぶ強く言ったので少しは気落ちしているかと思ったが、目のまえのヴィートに、気にしている様子は見受けられなかった。
「きみもずいぶん雰囲気は違うが」
そう言ってからヴィートは、アベルの細い手をとって、握りしめた。
「そんな姿も、とても綺麗だ」
アベルは困惑したような表情を浮かべていたが、ヴィートは言葉を続ける。
「惚れなおした」
そのひと言に、同じ食卓について銀杯を口に運んでいたレオンが葡萄酒を吹く。
「レオン、汚いなあ」
顔をしかめたディルクに、レオンは不機嫌な顔をした。
「だって、おかしいじゃないか。女を口説く台詞のようだぞ」
「まあ、アベルは美人だからね」
「…………」
レオンは無言でアベルへ視線を向ける。
はじめて会ったときはその端麗な容姿に驚いたが、それ以降は、さほど気にとめていなかった。
あらためて見ると、たしかにアベルは美しい。
さきほどのドレス姿は、また並はずれて優美であった。あれを目にしたあとだと、従騎士姿のアベルも輝いて見える。
ヴィートに握られた手をやんわりとほどきながら、アベルは「おかしな冗談はやめてください」と冷ややかに言った。
「ところで、リオネル。なんで剣に手をかけているんだい?」
親友が剣を抜いたときの強さを知るディルクは、顔を引きつらせながら問いかける。
長剣の柄に手をかけていたリオネルは、あと一秒でも長くヴィートがアベルの手を握っていたら、それを引き抜くところだった。
「いや、なんとなく」
答えるリオネルが、元山賊の若者を見る目は冷たい。
「なんとなく……ね」
彼の視線を追ってそれとなくディルクがヴィートを見ると、彼もまた、リオネルを睨むように見返していた。とても友好的とはいえぬ視線が、静かにぶつかりあっている。
どうなっているのだと内心で思いつつ、ディルクは果物の皿から苺をつまんで口のなかへ放り込む。
軽く咳払いをしたのはラロシュ侯爵で、
「二人とも、料理が温かいうちに食べなさい」
と食事を始めるよう、うながす。
けれどもアベルにしてみれば、主人らがなにも口にしないのに、そのなかで食事をすることには抵抗がある。なかなか料理に手をつけない様子から、アベルの心情を察したリオネルは、表情をやわらげて彼女にほほえみかけた。
「おれたちは葡萄酒を飲んでいるから、気にせず食べていい」
アベルが視線をリオネルやベルトランへ向けたとき、
「じゃあ、遠慮なく」
と、さらりと答えたのはヴィートだった。