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 ――彼女もまた、優しく美しい紫色の瞳をしていた。


 十三歳も年が離れた姉は、幼いシュザンの目にさえ、崇高な一輪の花のように映った。

 艶やかな濃い茶色の髪は彼女の白い肌を一層際立たせ、深い紫色の瞳は、なめらかな象牙を飾る紫水晶のようだった。


「シャルム随一の美女」と称され、幾多の高貴な男性の心を虜にしていたが、そのようなことをてんで知らぬシュザンは、よく「姉上、姉上」と言って彼女に甘えた。

 そして彼女も、年の離れた弟をいつもそばにおいて可愛がっていた。


 彼女の名はアンリエット。

 トゥールヴィル公爵家の長女であった。



 クロッカスやオーブリエチアなど紫色の花が多く混ざっている、絢爛たる花束を見たのは、シュザンが六歳のころだった。


「わあ――姉上、綺麗な花束ですね」


 その花束は、はたして「花束」と言えただろうか。なぜならそれは、アンリエットの部屋が埋めつくされるほどの量であったからである。

 続々と運び入れられる花々に、シュザンは目を丸くしていた。


「こんなにたくさんあれば、花のお城を建てられるかもしれません」


 美しい姉の顔に、わずかに暗い影がさしていることなど気づくはずもなく、シュザンは興奮してはしゃいだ。

 運びこまれたのは、花だけではない。

 宝石のちりばめられた大小の木箱――それらを開けると、鮮やかなドレスや、煌びやかな宝飾品があふれだした。


「今までのなかでも、今日が一番すごいですね!」


 目を輝かせて見上げてくるシュザンに、アンリエットは穏やかに告げた。


「ほしければ、今回もすべてあなたにあげますよ、シュザン」

「本当ですか?」


 シュザンが喜ぶと、間髪をいれず扉口のほうから声がする。


「姉上、シュザンが花や宝石、ましてやドレスなどをもらっても、なんの役にも立ちませぬ」


 慌ただしく荷物の搬入をしていた使用人らが、手と足を止め、深く一礼した。

 扉口にいたのは、アンリエットの弟で、シュザンの兄でもある十五歳のフェルナンだった。

 トゥールヴィル公爵家の爵位を継ぐのは、アンリエットでもシュザンでもなく、長男たるこの少年である。


「あら、フェルナン。ですが、このあいだシュザンにあげた宝石はちゃんと玩具にして遊んでいましたし、花はお友達にあげていたようですよ」

「ドレスはどうしたのですか?」

「ドレス……前回はドレスなんてあったかしら?」


 ほがらかに笑う姉に、フェルナンは苛立ったような表情になった。


「笑っている場合ではございません。このことを、ベルリオーズ家のクレティアン様にきちんとお話しておくべきです。このまま姉上があの男に連れ去らわれでもしたら一大事です」


 これらの高価な品々の贈り主がだれであるのか、また、その目的がなんなのか、フェルナンはよくわかっていた。そして姉が幾度となくやんわりと断っているにもかかわらず、相手に諦める気配がないことに危機感を募らせていた。


「あの男などと言ってはなりません、フェルナン。あの方はこの国の王であり、クレティアン様のご尊兄にあたるのですから」

「姉上は、本気でそのように思っていらっしゃるのですか? あいつは、クレティアン様から王位を強奪した卑怯者です。貴族も民も、まともな考えの持ち主の者は、だれひとりとしてあの簒奪者を王として認めておりません。そのうえ今度は、クレティアン様から婚約者である姉上まで奪おうとしているのです。根性がねじ曲がっているとしか思えません」

「フェルナン、口が過ぎますよ」


 表情を隠すように視線を逸らしたアンリエットの声は、やはり穏やかそのものである。

 そんな彼女のドレスの裾を引っぱったのはシュザンだった。


「姉上、姉上。これはぼくがもらっていいのですか?」

「ええ、もちろんですよ」


 ぱっと表情を明るくしたシュザンに、アンリエットはつけくわえた。


「ですが、まえにも言いましたが、このことはクレティアン様には秘密ですよ。絶対に伝えてはなりません」

「なぜですか?」


 このトゥールヴィル邸をしばしば訪れる若者を思いだし、シュザンは不満げな面持ちになる。

 この六歳の少年は、姉の婚約者であるクレティアンを慕っており、驚いたこと、楽しかったこと……様々な出来事を彼に話したくてしかたないのだ。その人に隠し事をしなければならないとなれば、少年の心が曇るのも無理からぬことである。


 弟に問われたアンリエットは、形のよい眉をわずかに下げて、困ったような面持ちになる。

 それでも真剣に彼女を見上げて返事を待ち続けるシュザンに、フェルナンは不機嫌な声を放った。


「シュザン、いいから言うことを聞くんだ。子供は知らなくていいこともある。姉上を困らせるんじゃない」


 求めている説明を得られず、頭ごなしに叱られたシュザンは、頬を膨らませる。


「ぼくは兄上に聞いているのではありません。姉上に聞いているのです」

「ずいぶん生意気な口をきくようになったじゃないか。だが、口ばかり達者になると、そのうち姉上に嫌われるぞ」

「姉上は、ぼくのことを嫌ったりはしません!」


 半ば泣きそうになってシュザンは叫ぶ。


「フェルナン」


 まだ六歳の弟に対して意地悪なことを言う上の弟を、アンリエットはやや呆れたような口調で諌める。彼女とフェルナンの年の差は四歳なので、二人のあいだでは、他の者より互いに己の意見を言いやすいのだ。


「申しわけございません、姉上。ですが、あまりシュザンを甘やかすのもどうかと思います。シュザンはこのところ我儘が目立ちます」

「まあ」


 兄を睨む小さなシュザンを、アンリエットはかがんで背後から抱く。


「この子のどこが我儘なのですか? とてもいい子よ」


 シュザンとアンリエット、この二人は父方の血を濃く受け継ぎ容貌がよく似ているので、こうして並ぶとまるで大小の対になった人形のようである。一方、フェルナンは母親に似ているので、二人とはやや面立ちが違った。


「さきほどから姉上を困らせているではありませんか。そもそも、陛下からしつこく求愛されていることを、クレティアン様に知られたくないのは姉上ではありませんか。貴女が望まないことをシュザンがしてしまわないかと、私はそれを案じているのです」


 すべての台詞を言い終わったフェルナンは、内心で密かに後悔した。かくもはっきりと現在の状況を口にしてしまったのである。

 アンリエットは表情を変えなかったが、心のなかではどれほど複雑な思いであろうか。


「キュウアイってなんですか、姉上」


 兄の言葉を聞きかじったシュザンが、アンリエットを振り向く。


「…………」


 返答に窮していると、フェルナンがしたり顔で言った。


「子供は知らなくていいと言ったばかりだろう? おまえは、いちいち姉上のことに首をつっこんでいないで、空気を読むことを学べ」

「空気って、どうやって読むのですか、姉上」


 再び答えられずにいるアンリエットの代わりに、フェルナンは窓の外を指差した。


「ほら、宙を見てみろ。そのうち読めるようになる」


 からかってみたのだが、真剣に宙を見据えるシュザンの行動がおかしくて、フェルナンは笑い出す。


「フェルナン」


 宝石のような瞳を細めて、アンリエットがフェルナンを睨む。

 半ば本気で怒っているようだったので、フェルナンは瞬時に笑いをおさめた。


 彼女の機嫌を損ねるほど怖ろしいことはない。あの瞳に睨まれると、背筋が凍るのだ。

 普段は穏やかな者が、たまに怒ると怖いというのもあるが、それとは別に、この瞳にはなにか強い力があるように思える。それを直接向けられることには、耐えがたいものがあった。


「シュザン、空気なんて読まなくていいのよ」

「がんばりましたが、ぼくには読めません……」


 落ちこむ弟に、アンリエットは優しく笑った。


「フェルナンがあなたを甘やかしすぎていると言うので、この贈り物のなかで、これをあなたにあげましょう」


 白い手が差し出したのは、青紫色の花だった。


「ありがとうございます」


 溢れんばかりの贈りもののうち、それはたったの一輪だけだったが、シュザンはそれを素直に受けとる。


勿忘草ワスレナグサというのよ。だれか、あなたの好きな子にあげてきなさい」

「はい!」


 元気よく返事をすると、シュザンはアンリエットの寝室から飛び出していった。

 その後ろ姿を、優しいほほえみをたたえてアンリエットは見送る。


「ごらんなさい。シュザンは、たった一本の花でも満足するのです。我儘などではなく、本当に素直な子ですよ」

「それは、シュザンにとって姉上からもらうものならなんでも嬉しいからでしょう。こんなに多くの花や宝飾品がほしいわけではないのですから、与えなくてもよいのです」


 あらためて二人は室内にあふれる高価な品々を見渡す。

 フェルナンが口にしたことは、ある種の皮肉であった。


 ……なにをもらうかではない、だれからもらうかが重要なのだ。


 ベルリオーズ家の跡取りで、王弟でもあるクレティアンのことを、心から慕うアンリエット。

 クレティアンから心をこめて贈られたものなら、どのようなものでも嬉しいだろうし、逆に、それ以外の者からなにをもらっても心は微塵も動かされないのだ――それがシャルム国内で最も上等な品々であっても、だ。


 ただ、贈り物の数や質が、贈り主の心情を現すものであることは、たしかなようだった。

 これほどのものを贈る国王が、アンリエットに対して抱く思慕はよほど強いものだろう。


 溜息をつきかけたとき、扉口に再びシュザンが現れた。


「姉上!」

「シュザン?」


 驚いていると、シュザンはアンリエットに歩みより、ひざまずいて勿忘草を差しだす。


「ぼくが好きなのは姉上でした」


 うっかり部屋を飛びだしてしまったが、花を贈りたい相手はアンリエットだったのだ。

 美しい姉は、ふふと笑って花を受けとる。


「嬉しいわ。ありがとう。でも、あなたから花を受けとったことは、クレティアン様には内緒ですよ」

「なぜですか? 姉上」

「なんででもだ!」


 無邪気に聞いてくるシュザンに対して苛立って答えたのは、むろんフェルナンであった。


「兄上のいじわる!」


 ふんと鼻を鳴らす兄にむくれていると、シュザンの身体がとても柔らかいものに包まれる――それは、アンリエットの腕だった。


「大好きよ、シュザン」


 彼女は、小さなシュザンをそうやってしばらく抱きしめていた。


 そのときの温もりが忘れられない。

 大好きな、大切な姉だった。








 ……騎士館の脇にある花壇を、シュザンは眺めていた。


 勿忘草ワスレナグサが、やや冷たい風に吹かれて揺れている。

 普段、花など愛でることなどないが、この花だけは綻ぶと必ず見入ってしまう。


 時間を忘れ――時間を超えて――姉の優しく美しい姿を思い出すのだった。


 いつも気丈で、ほほえみを絶やすことのなかった姉。だが、彼女が一度だけ、不安と焦燥にかられた瞳をシュザンに向けてきたことがあった。

 あのとき、おそらくアンリエットは想像を絶する痛みに襲われていたのだ。

 しかしその苦しみを口にはせず、闇のなかからわずかな光の糸を手繰り寄せようとするように、彼女は懇願した。


 ――シュザン、お願いです。


 アンリエットは言った。

 幾日か前から感じている身体の痛みが尋常ではないことを、彼女は薄々感じていた。

 紫色の瞳からは、朝露の一滴のような涙がこぼれ落ちる。


 ――あの子を……リオネルを、守ってあげてください。正しい血筋を絶やそうとする者が大勢いるのです。


 リオネルはまだ六歳。幾度となく狙われた幼い命。


 ――わたしとクレティアン様が愛するあの子を、どうか守って――。


 シュザンはそのとき、十四歳であった。

 敬愛する姉が初めて自分に見せた、涙と、弱さだった。

 激しく動揺したのは、姉の死期が近づいていることを感じざるをえなかったからである。


 ――必ず、必ず、リオネルを守ります。

 ――ですから姉上、死なないでください。いっしょにリオネルの成長を見守っていくのです。


 その言葉を聞き、アンリエットは安心したように目をつむってうなずいた。

 そっと閉ざした長い睫毛が、白い頬に濃い影をつくる。

 アンリエットは、その二日後、息を引き取った。



 物思いに耽っていたシュザンの思考を断ち切ったのは、駆け足でこちらに近づいてくる何者かの足音だった。

 振り返ると、それは宮殿内に常駐する衛兵のひとりである。


「トゥールヴィル隊長!」


 血相を変えて走ってくる彼は、まだ肌寒い季節だというのに、汗を流している。この広大な庭園を、馬を使わずに全速力で走り抜けてきたのであろう。

 騎士館の周囲にいた騎士らも、彼のただならぬ様子に注意を向けている。その脇では、数頭の馬がのんびりと草を食んでいた。


 衛兵はシュザンの目前で一礼する。


「なにかあったのか」


 慌てた様子で話しだした彼の顔は青ざめている。


「西花壇でジェルヴェーズ殿下が、カルノー伯爵に剣を向けております。今にも斬りかからんとする勢いです。一刻も早くお止めせねば――」


 言葉が最後まで終わらぬうちに、シュザンは放してあった馬の一頭に飛び乗った。


 カルノー伯爵は、熱心な王弟派である。彼が近頃、ラ・セルネ山脈に巣食う賊の討伐とリオネルの出兵に関して、王に進言していたことは知っている。

 その行動が、ジェルヴェーズの逆鱗に触れたのであろう。そして、なんらかの偶然で二人は西花壇で顔を合わせてしまったのだ。


 騎乗したシュザンは庭園を駆け抜ける。

 一瞬の強風のような速さで走りすぎるその姿を、庭園を歩く騎士や貴族らは呆気にとられて見送った。


「なんと早い……。あれは、トゥールヴィル隊長殿か」

「さすがは我が国の正規軍の隊長。すさまじいまでの馬術ですね」


 感服した様子の彼らは、このとき庭園の西花壇で起こっている惨劇を知らなかった。







 シュザンが目的地に到着したとき、すべてはすでに取り返しのつかぬ事態に陥っていた。


 早春の香りのなかに、血の匂いが混じっている。

 白い砂利と、花壇の生垣、花の一部、そしてひとりの若者が、返り血で赤く血ぬられていた。壮麗な宮殿を背景に、倒れ伏した中年の男の血がそれらを濡らしつづけている。


「殿下……!」


 思わずシュザンは呻いた。

 伏した伯爵の手には剣が握られていない。丸腰の、無抵抗な相手を、ジェルヴェーズは斬ったのである。

 騎士の称号を得た者にあるまじき行為だが、問題はそれだけではなかった。


 ジェルヴェーズ付きの近衛兵らは、わずかに戸惑いと動揺をにじませながら、彼の背後に立ちすくんでいた。


「シュザン、なにをしに来た」


 温かみのない声音が、若者の喉からつむぎだされる。


「早く手当てを。助かるかもしれません」


 伯爵を助け起こすシュザンに、ジェルヴェーズは嘲弄ちょうろうにも似た笑い声を浴びせた。


「これほどの出血で助かるわけがない」


 シュザンはそれでも伯爵の身体を抱えあげ、再び馬にまたがる。

 彼の濃い青紫色の服を、カルノー伯爵の血がさらに濃い色に染めあげていった。

 伯爵の喉から、空気のもれる音がする。まだ呼吸があるのだ。


「シュザン、その者が父上や私に盾突いた逆賊であると知ったうえで、命を救おうとしているのか。ならば、そなたも同罪であるぞ」


 酷薄さをおびた視線がシュザンを射る。だが、シュザンがひるむことはなかった。


「もしこの者が真に逆賊であるなら、なおさら死なれては困ります。彼から直接話を聞かぬことには、正しく裁くことができませぬゆえ」

「こざかしいことを」


 血を滴らせた長剣を、ジェルヴェーズはシュザンに向けて振りかざす。

 いつのまにか周囲にできていた人だかりのなかから、小さな悲鳴が上がった。王位継承者であるはずの第一王子が、国家の正騎士隊を率いる男に斬りかかったのだから。


 しかしシュザンは、それを迎え撃つことなく、手綱を引いて馬ごとするりと避けると、馬の腹を強く蹴った。


「お話はまた後ほどいたしましょう、殿下」


 そう言って、シュザンはまたたく間に騎士館のほうへ消えていく。

 騎士館には常駐の軍医がいる。一刻も早く、カルノー伯爵の手当てをせねばならない。

 ……もう間に合わぬかもしれないが。




 走り去っていく姿を見送るしかなかったジェルヴェーズは、激しく舌打ちしつつ、長剣を血の海となった砂利道に投げつけた。


「一度ならず邪魔をするとは、シュザンめ……!」


 彼の激しい怒りに恐れをなして、周囲は水を打ったように静まり返っていた。

 今この若者の不興を買えば、己が第二のカルノー伯爵になる。特に王弟派の者たちは、呼吸する音さえ押し殺して、気配を消していた。










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