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 しなやかで、それでいて男性的なリオネルの指から、鮮やかな赤色があふれ出た。


「やめて……!」


 驚きと嘆きが混ざりあった悲鳴のごときアベルの声が上がったのと、剣を引くリオネルの手首を、赤毛の若者が強引に掴み上げたのがほぼ同時だった。


 リオネルの右手から短剣が滑り落ちて、地面に転がる。もう片方の手の指からは血が滴り落ちた――が、傷は浅いようだ。


「リオネル、なんてことを」


 激しく渋面を作ったベルトランだが、今は小言を言っている場合ではない。


「ついてくるなと言ったはずだが」


 逆にリオネルから不機嫌な声を向けられ、赤毛の若者は返答せずに長剣を山賊に向けて構えた。


 一方、剣を向けられたヴィートはわずかな動揺を滲ませていた。

 赤毛の騎士の殺気と剣先に怯えていたわけではない。

 おそらく幼いころから周囲にもてはやされ、大切に育てられたきたであろう大貴族の御曹司が、たかが家臣の少女ひとりを守るために、己の指を絶ち切ろうとするとは思っていなかったからだ。

 それは予想外の展開だった。リオネルが指を切ることをためらえば、すんなりアベルを連れ帰ることができたのに。


 ヴィートが動揺したそのときに生じた隙を逃さなかったのは、長剣を握るベルトランでも、リオネルでもなく、それまで大人しく腕のなかにいたはずのアベルだった。

 アベルはヴィートの手に噛みついた。


「い……っ」


 突然の痛みにヴィートは呻き、アベルを押さえつけていた腕から力が抜ける。


「リオネル様にひどいことをしたら、わたしが赦しません!」


 アベルはそう叫びながら、力の入らぬヴィートの腕から、もがき逃れた。

 彼女の身体は、ついに地面に落ちていく。


 しかし、ヴィートは再び少女を抱き上げようとはしなかった。アベルの主である青年がすかさず駆け寄ってきたことに気がついていたからだ。

 この少女を主人に返さねばならぬ頃合いであることを、若者は理解していた。

 もはや自分には、恋しい相手を繋ぎとめる術はない。



「アベル!」


 リオネルは走り寄ってしゃがむと、冷たい地面に伏しているアベルを強く抱きしめた。


「アベル……アベル、アベル――――」


 離れ離れになっていた我が子に再会した親のように、リオネルは強く、だがけっして傷つけぬように優しくアベルを抱きしめ、その名を呼ぶ。

 耳のすぐ横から聞こえる彼の声は、アベルが今まで聞いたこともないほど頼りなく揺れていた。


 抱かれた瞬間に大きく見開いたアベルの瞳が、少しずつ細められていく。

 この胸に込み上げてくる気持ちの意味がわからない。ただ、それはとても熱いものだった。

 囮になり山で過ごした期間はほんの数日だったはずなのに、数年ぶりに彼と再会するような気がする。


 透明感のある香りが鼻腔をくすぐる。

 久しぶりに感じるリオネルの香り。

 それはひどく懐かしく、また、胸のどこか深い場所を揺さぶる。


 なにを言っていいかわからずに、アベルはただ力強い腕に包まれていた。その安堵は、なににも例えようもないものだ。

 アベルは深く吐息を吐きだした。


 リオネルは顔を上げて、アベルの瞳を見つめる。


「アベル、無事か。怪我は?」


 間近にある深い紫色の瞳は、不安と心配に揺らぎ、声は真剣そのものだった。どれほどアベルのことを案じていたのか、痛いほどに伝わってくる。


 アベルの瞳に涙がたまっていく。

 リオネルは、こんなにアベルのことを考えていてくれた。

 ――自分はリオネルの命に背き、無断で勝手な行動をしたというのに。

 そこに至るまでにも、二人のあいだには溝が生じていたというのに。それなのに、このようにリオネルは家臣であるアベルのことを気にかけてくれていたのだ。


 うるんだ水色の瞳をまっすぐに向けて、アベルは答える。


「私は無事です。勝手なことをして申しわけございませんでした。そのせいで、リオネル様は指にお怪我を――」

「指なんてかまわない。アベルが無事でよかった」


 泣くまい。

 そう思って瞳を大きく開ける。だが……。


「アベル――よかった」


 リオネルがアベルを抱きしめる腕に再び力をこめる。

 その心地よさにゆっくりと目を閉じると、堪えきれなくなった涙が一粒、瞳からこぼれた。


 自分を抱く青年の背中に、アベルはためらいつつそっと手を添える。

 リオネルの背中と、その服の感触。

 不思議な気持ちだった。

 乾ききった大地に、清らかな水が流れこむように、心が満たされていく。



 一方、己の背中に感じる少女の小さな手の感覚に、リオネルはかたく瞳をつむる。


 この腕のなかにアベルがいる。

 ここに、彼女がいる。

 今この瞬間、アベルが生きていて、自分の触れられる場所にいる。

 そのことが、どれほど自分にとって大切なことか――そして幸福なことなのかを、青年は痛切に感じた。


 恋人でなくてもいい、たとえ自分の想いが通じなくてもいい。

 ただ、彼女が生きているだけで充分だった。


 小さな身体。

 鼓動を打つ心臓。

 唇からもれる呼吸。

 それはとても単純なことなのに、なによりもかけがえのないものだった。


「館に入ろう」


 リオネルは名残惜しそうにアベルの身体を放した。

 どこかためらうようにも見えるアベルを、支え起こして立たせようとする。

 あらためて見る愛しい相手のドレス姿に見惚れたが、リオネルはすぐにはっとした。うまく立ちあがれなかったアベルが、地面に手をついたからだ。


「アベル、足が……?」


 そのときになってリオネルは、アベルが左足を使えない状態であることに気がつく。同時に、山賊の男が彼女を抱きかかえて現れた理由にも合点が入った。

 再びしゃがんでアベルの身体を支えながら、リオネルは問う。


「怪我をしているのか」

「軽くひねっただけです」


 すかさずリオネルはアベルの手を取り、そしててのひらへ視線を落とした。


「手も、傷ついている」

「……転んだだけです」


 リオネルは顔を上げて、山賊の若者を見上げる。

 山賊はベルトランに長剣を向けられたまま、じっと二人を見下ろしていた。


「歩けないアベルを、ここまで送り届けてくれたのか」


 リオネルは警戒心はそのままに、けれど語調をわずかに和らげて山賊の若者に問いかける。


「そんな足で、そんな手になっても、主人のもとに戻ると言い続けていたからな」


 不本意そうにヴィートは答えた。


「本当は、あんたのところになんて返したくなかったが」


 言い終わるや否や、ヴィートは咄嗟に視線を霧のなかへ向ける。リオネルとベルトランもほぼ同時に、それと同じ方向を見据えていた。

 霧の向こう側に、鈍い光の筋を見たのは一瞬のことだった。


 前庭にいる四人の耳を、鋭い羽音が打つ。

 咄嗟に動いたのは赤毛の騎士で、一歩足を踏み出すと、今しがたまでヴィートに向けていた長剣を、リオネルの頭上にひらめかせた。


 木材が弾けるような高い音が鳴ると、砂っぽい地面になにかが乾いた音をたてて落ちる。

 ベルトランの剣によって見事に半分に斬り割られていたのは、一本の矢であった。


 アベルは息を呑んだ。あと一瞬でもベルトランが動くのが遅ければ、それはリオネルの命を奪っていた。そんな想像に、すっと背筋を冷たいものが流れる。


「ふうん……」


 静まりかえった中庭に、ヴィートの声が響く。


「霧で標的を見間違えたのでなければ、弓が向かっていた先はおれではなくて、坊ちゃん、あんただな」


 矢は、館の窓から中庭に向けて放たれたものだ。

 だがそれは、まっすぐにリオネルの頭頂部へ向かっていた。


 長剣を握ったままのベルトランは、あたりを警戒しつつ、リオネルに注意をうながす。


「早く館に入ったほうがいい。おまえが狙われているかもしれない」


 敵はこの館のなか――味方のなかにいる。だが、ここに留まっていては、いつ次の攻撃が仕掛けられるかわからない。

 うなずいたリオネルは、アベルを抱きあげようとする。


「リオネル様、平気です、自分で歩けます。それより早く館のなかへ」


 伸ばされた手から逃れるように身を引いたアベルをまえに、リオネルは寂しそうな顔をした。しかし、青年の心情などあずかり知らぬ少女は、そのまま背後を振り返った。

 振り向いた先には、ベルトラン、そしてヴィートがいる。

 自分が館に入るまえに、ヴィートの安全を確保しなければならない。


 アベルがヴィートになにか言いかけたとき、突如、館の周り、そして玄関からまたたくまに兵士が現れ、彼らを取り囲んだ。

 正確に言えば、ヴィートを取り囲んだのである。


 この状況によって、リオネルが再び命を狙われる可能性は低くなったが、今度こそ危ういのはヴィートである。

 アベルの投げかけた言葉は、ときすでに遅かった。


「ヴィート、逃げてください!」

「逃げろって言われてもなあ……これだけ囲まれたら、どうにもならないぞ」


 兵士らは鞘から剣を抜き放ち、剣先をヴィートへ向ける。

 彼らを指揮しているのは、ラロシュ侯爵とシャレット男爵だった。


「アベルは無事か!」


 緊迫した空気のなかで、アベルの安否を確認する声が上がった。よく知る者の声である。

 しかしその直後、その声音は緊張感のないものに変わる。


「……ってあれ? 本当にアベルなのか?」


 気がつけばリオネルの背後からディルクが現れ、淡い茶色の瞳を大きくしてアベルの姿に見入っていた。


「――とんでもなく、綺麗に変装したなあ」


 ディルクは、アベルが無事であったことを喜ぶと同時に、その想像を超える姿に驚嘆を隠せないでいる。


「ディ、ディルク様」


 憧れつづけた婚約者にそう言われれば、嬉しいような気恥かしいような思いがするのは当然のことだったが、アベルはすぐに我に返って、兵士らに囲まれるヴィートを心配そうに振り返った。

 そんな彼女の傍らで、ディルクはリオネルに言う。


「リオネル、さっき矢を射たやつがだれか、今マチアスに探させているところだ。うちの兵士が手元を狂わせたのかと思ったが――これは、アベラール家の矢ではない」


 切断された矢を拾いあげ、アベルを褒めたときの視線とはかけ離れた、冷たい瞳でディルクは矢尻を眺める。なんの特徴もないことが、かえって不気味な矢であった。


「おまえを狙ったのなら、国王派の兵士か、王都から派遣された刺客のどちらかだな。矢には大抵それぞれ使用する家の特徴がある。わざわざこんな代物を使うとは、ずいぶん周到なものを用意していたもんだ」

「今回、味方のなかに敵がいることは覚悟していた。こんなときに手を出してくるとは思わなかったけど……だれを狙ったにせよ被害がなくてよかった。戻ってきたアベルに、これ以上余計な気苦労をさせたくはない」


 なによりも従騎士の少年を案じる様子のリオネルに、ディルクは矢尻から視線を離して顔を上げる。

 すぐ脇では、兵士らが山賊の若者に襲いかかる寸前の、一瞬即発の状態である。


「それで、そのアベルを連れてきてくれた山賊殿を、どうするつもりだい?」


 リオネルが黙っていると、アベルは淡い水色の瞳を懇願するように彼に向けた。


「リオネル様、お願いします。あの人を――ヴィートを見逃してください。このようなことを頼める立場ではないことは承知しています。ですが、彼をひどい目に遭わせたくないのです。ヴィートは何度もわたしを助けてくれました。彼になにかあれば、わたしは――」


 ――自分は、どうするのか。

 答えが見つからず言葉につまったアベルは、ただ必死にリオネルを見つめた。彼女の瞳を見つめ返すリオネルの表情から、彼のなかに生じている激しい逡巡と葛藤が見てとれる。


 このようなことを、主人に頼んではならないとアベルは知っていた。

 けれど、どうしてもヴィートを助けたい。

 幾度も……、幾度も、助けてくれた人だから。

 自分のために、おいしいご飯をつくってくれた人だから。

 あたたかい火を熾し、一晩中、温めていてくれた人だから。


「わかった」


 リオネルは短く答えて、支えていたアベルをいったんディルクの手に預けた。

 そして、ゆっくりラロシュ侯爵らのもとへ歩む。

 彼らと一言二言会話を交わすと、ラロシュ侯爵がわずかに眉をひそめつつも、うなずく。そして侯爵は大きな声で兵士らに命じた。


「彼を、捕らえるな」


 兵士のあいだに動揺の空気が流れたが、黙って主君の指示に従う仕種を見せた。

 それから、リオネルは兵士らに向けて言い放つ。彼らを納得させるためである。


「この者は我々のために囮になったアベルを救い、そして、ここまで連れてきてくれた。捕らえてはならない」


 さらに、視線をヴィートへ向けて告げる。


「アベルをさらったことは赦せないが、送り届けてくれたことについては感謝する。この場でおまえを害することはない。即刻、山に戻れ」


 すると、ヴィートはリオネルをまっすぐに見返し、不敵に笑った。


「いやだな」

「ヴィート!」


 声を荒げたのはアベルである。

 これほどリオネルに妥協してもらったというのに、まだ逃げないと言い張るのか。


「おれは山賊をやめ、アベルのそばにいることに決めたんだ。山には戻らない」

「山賊をやめて、アベルのそばにいる?」


 リオネルの表情がまたたくまに曇る。


「どういう意味だ」


 ヴィートが答えるまえに、アベルが口を開いた。


「とにかくあなたは逃げてください。わたしのそばにいたら捕まるだけです。それでもいいのですか」


 少女はヴィートを助けるために必死だった。

 だが。


「それでもいい。こいつらがおれを捕らえるなら――」


 周囲を見渡しながら、ヴィートは低い声音で脅すように言う。


「おれが、またきみをさらって、今度はどこか遠くへ逃げるだけだ」

「馬鹿なこと――」


 言いかけたアベルの台詞を遮ったのは、低いリオネルの声だった。


「そのようなことは、私が赦さない」

「おれだって正直そんな強引なことはしたくない。おれにそんな行動をとらせないでくれよ、貴族の坊ちゃん」

「…………」


 閉口したリオネルと、もはや説得する言葉を見つけられぬアベル。

 ベルトランやディルク、ラロシュ諸侯らを含む周囲の者は、三人がどうするのか固唾をのんで見守っている。


 そのような状況のなか、アベルは最後の説得を試みようとした。これが最後の機会だろう。


「ヴィート、何度も助けてくれたこと、本当に感謝しています。だからこそ、あなたが傷つくところを見たくないのです。お願いですから――」

「わかった」


 このとき再度、彼女の言葉を遮ったのは、なにかを決断したようなリオネルの声だった。

 なにが「わかった」のかがわからず、アベルはリオネルの後ろ姿を見つめる。


「わかってくれたのかい?」


 ヴィートは茶化すように言った。

 だから、なにが「わかった」のか……。


「わかった。ここにいてもいい」

「リオネル様?」


 驚きの声をあげたアベルをよそに、ヴィートは嬉しそうである。


「理解があるご主人様でよかった」

「理解とか、そういうことではなく……! リオネル様、そのようなこと――」

「取り違えないでほしい」


 刃のような声は、リオネルからヴィートへ向けられたものである。

 リオネルはヴィートを冷ややかに見据える。


「おまえのためではない。アベルのためだ」

「ああ、そんなことはわかっているよ」


 二人の会話の意味が、アベルには理解しきれない。どうしてヴィートが貴族側と行動を共にするなどということになったのか。それはなんのためなのか。

 わけがわからず、アベルは二人を交互に見やる。


 すると、リオネルはヴィートから視線を外して、愛しい少女へ顔を向けた。そして彼女に近寄ると、そっと相手の肩に顔を預けるようにアベルの耳元に己の頬を寄せた。

 その行動にアベルは目をみはる。


「リオネル様……?」

「大丈夫だ、心配しなくていい――彼を捕らえたりはしない」


 その声は、どこまでも優しい。

 淡い水色の瞳が揺れる。

 なにかが見えそうで、けれど、どうしても鮮明に見えてこない。

 視界を遮るこの厚い霧が晴れれば、なにかが、わかるのだろうか。


「本当によろしいのですか」


 近くに来ていたラロシュ侯爵が、リオネルに確認する。


「すみません、侯爵」


 双眸を閉じて、リオネルは低い声で詫びる。ラロシュ侯爵は仕方なさそうにわずかにほほえみ、うなずいた。

 踵を返した侯爵は声を張り上げ、騎士らに伝えた。


「この男は山賊だったが、山賊をやめ、囮になったリオネル殿の従騎士殿を助けた。この者は当面ここに滞在することになるだろう。この者を捕らえること、ないし害することは許さぬ。そう心得えよ」


 低いざわめきが兵士のあいだに起こったが、シャレット老男爵が二度手を叩くと、あたりは静まり返った。


「このことは、他の諸侯の方々にも伝えしましょう。一部の者が何を申すかわかりませんが……」


 シャレット男爵は、ベロム家の血の気の多い若者を思い浮かべて、小さく嘆息する。

 アベルは間近で顔を見られぬように、外套のフードを目深にかぶりなおしながら、シャレット男爵に頭を下げた。


「……わたしなどのせいで、誠に申しわけございません」

「いや、貴方が戻ってきてくれて本当によかった。リオネル殿の活き活きとされた顔を見たのは久しぶりだ」


 白髭に包まれた口を、男爵はほころばせる。

 アベルが返答に迷っていると、


「貴女には本当に申しわけないことをしたと思っている。赦してほしい」


 そう言って逆にアベルに対して頭を下げたのは、ラロシュ侯爵だった。

 二人の態度にアベルは恐縮したが、リオネルはそれ以上彼女と諸侯らを話させず、彼らに断りを入れ、アベルにそっと手を差し出し館内に戻るよううながす。

 それは、アベルの疲労を心配すると同時に、これ以上ドレス姿を人の目にさらせば、彼女自身が隠しておくことを望んでいる秘密を、守れなくなるのではないかと懸念したからである。


 アベルもまた今度は身を引くことなく、リオネルの手を素直に握り返した。ヴィートが捕らわれる心配がなくなったからだ。

 ふわりと抱きかかえられて、アベルの心臓が跳ねる。リオネルの逞しい腕の感触に、その透明な香りに、鼓動が早鐘を打ち、止めることができない。


 ベルトランとディルクにうながされ、ヴィートも二人に続いて館の玄関へ向かう。



 最後にゆるやかな三日月のような眉を下げて、アベルはリオネルを見上げた。


「本当に、いろいろと申しわけございませんでした」


 すると、リオネルはゆっくりと腕のなかの少女を見下ろす。

 深い紫色の瞳がアベルをとらえ、


「無事でよかった」


 とだけつぶやくと、それ以上なにも語らなかった。

 言えなかったのだ。


 けれど彼女を傷つけまいとして、多くを語れなかったときとは違う。アベルが無事に自分のもとへ戻り、今、この腕のなかにいることが嬉しい。そんな熱くあふれそうな想いを、うまく言葉で現すことができなかったのだ。


 代わりに、リオネルはアベルを見つめた。


 アベルはその瞳から目を逸らすことができない。

 ――それは、深い想いを秘めた、美しい紫色だった。







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