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 日が長くなってきたとはいえ、この時間帯の山深くは薄暗かった。


 早朝。

 深い霧が出ている。


 霧は、ラ・セルネ山脈と、その麓の一帯を白い海のなかに包みこんでしまったようだった。

 鳥のさえずりが、波うつ霧のなかを漂い、そして鬱蒼とした森の彼方へと流されていく。

 積雪した日の朝のごとく、すべてが浄化されたようでもあり、だが、濃い霧には雪景色にはない、なにか謎めいたおそろしさのようなものも感じられた。


 寄せては返す波のような霧の景色のなかに、時折、黒い影が浮かんでは消える。

 それは、小さな壊れかけの小屋の、壁の色だった。


 何十年ものあいだ、忘れ去られていたその小屋には、奇妙な組み合わせの男女がひっそりと身を寄せていた。

 ひとりは、アンセルミ公国の貴族の末裔で、山賊を生業とする若者。

 いまひとりは、シャルム王国の貴族だったが、今はすべてを捨てて男として生きる少女。


 広くはない小屋のなかでは、寝るときには赤々と燃えていた囲炉裏の火が、夜中のうちに燃えつき、湿気を含んだ灰と化している。


 堅い床板から半身を起したアベルは、わずかに身震いして、外套を羽織りなおした。

 その日、アベルが早朝に目を覚ましたのは、寒さと、足の痛み、そして早く山を降りて主人に無事を知らせねばならないという強い思いがあったためだったことは事実だが、なにより、ヴィートが物音を立てたてたので、予定通り目覚めることができたというべきだろう。


 彼が物音をたてたのは、偶然ではない。

 今朝、アベルが山を降りようとしていることを知っていたからだ。けれど、わざわざ起こしてやるほどヴィートは彼女が山を降りることを歓迎していなかったので、このような遠回しな方法をとった。これはヴィートの深い親切心と、小さな抵抗だった。


 彼は、昨日のうちに拾ってきた枝で火を熾しはじめる。

 膝で枝を半分に折る音が、アベルの意識をはっきりとさせた。


「ヴィート、わたしはすぐに山を降りますので、火を熾す必要はありません」


 アベルはそう言ったが、ヴィートは手を止めない。


「夜中、冷えたろう。一度、ちゃんとあたたまったほうがいいぞ」


 たしかに身体は冷え切っていた。外套を羽織って寝たが、寒さで熟睡できたとは言い難い。

 やや青白い顔のアベルを一瞥して、ヴィートは冗談とは思えぬ口調で言った。


「だから、おれの腕のなかで寝ればよかったのに……」


 彼は、やましい思いからそう言っているのではなく、惚れた少女を温め、ぐっすり眠らせてあげたいという純粋な気持ちからそう言っていた。

 けれどアベルはそれを受け入れられるほど呑気ではない。


「……いえ、充分にあたたかかったです」


 少女が小声で言うと、ヴィートはなにも答えずに火を熾すことに専念した。


 朝食は、わずかな山菜と冷たい雪解け水だけである。それでも、昨日ヴィートが長い時間をかけて探してきた、見たこともない野菜は、どこか春の香りが感じられておいしかった。


 簡単な食事を終えると、二人はしばらく沈黙したまま、勢いよく燃える炎を眺めていた。


 隣の少女がなにを考えているのか、ヴィートにはわかっている。

 枝を炎に投じながら、ヴィートはぽつりと問いかけた。


「この霧のなか、そんな足で、山を降りるのか?」


 アベルはうなずく。


 炎をとじこめた少女の瞳は、どこか遠くを映しているようだった。その淡い水色の瞳が見つめる炎の向こう側には、なにがあるのだろうか。


「ここに残らないか?」


 ヴィートはアベルを見ずに言った。


 驚いたアベルが、視線を山賊の若者へ向ける。

 ――ここに残るとは、一体どういう意味なのか。


 けれどアベルの視線を感じつつも、ヴィートはアベルを見ることができなかった。それは現実から逃げようとするかのようだった。


 断られることはわかっている。

 それでも、彼は言葉を続ける。言わねばならない。


「きみが望むなら、おれは山賊をやめる。それでもきみひとりくらい、一生苦労させずに養っていく自信はある。おれが狩りもするし、木の実や山菜も採ってくる。畑を耕してもいい。きみはなにもしなくていい。きみのために、大きな小屋も建てられるし――」


 そこでヴィートが口をつぐんだのは、そっと顔を上げてみると、アベルが著しく困惑した顔をしていたからだった。

 その表情は、まったくヴィートの言葉の真意を理解しているようには見えない。つまり、なぜこの若者がそんなことを自分に言ってくるのか、彼女はまったくわかっていないようなのだ。


 けれど自分に対して、親切に言ってくれていることについてはよく理解しているらしく、アベルはヴィートに微妙な笑顔を向けた。


「わたしは、今それほど生活に苦労しているわけではありません。主人のもとへ行けば、衣食住は充分以上に足ります。お気遣いいただきありがとうございます」

「…………」


 十三歳で過酷な運命を負わされた少女は、婚約者であったディルクへの想いを断ち切ったそのときから、恋愛に関する気持ちはどこかへ置き去りにしてきてしまったようだった。


 自分には恋愛など関係ない。

 一生、恋などしない。

 彼女の心のなかには、そういった不動の思いがあった。


 髪をかきむしってから、ヴィートはそのまま頭を抱える。ここまではっきり言っても、己の気持ちをわかってもらえないとは――。

 それに、アベルは主人のもとへ戻れば、すべてが足りると言った。

 それはおそらく、衣食住など物理的な面だけではないのだろう。


 彼女にとって自分が必要のない存在であるという現実が、この若者にとってはなによりも辛いものだった。

 気持ちをアベルから拒絶されることへの恐怖とともに、彼女の主に対する嫉妬心が湧きあがる。アベルが望むものを与えることができるのは、リオネルという名のわずか十八歳の青年ただひとりなのだ。


「……わたしは、そろそろ行きます」


 不意にアベルはそう言って、ゆっくりと体勢を変えた。


 立ちあがろうとしているのだ。動かない足で。

 ろくに歩けないのに、この山を降りようとする。この霧のなかを――。

 それもすべて、リオネルという青年のためなのか。


 ヴィートはなにも答えなかった。顔さえ上げなかった。

 彼が見ていないことを知っていながら、それでもアベルはほほえんだ。


「あなたが熾してくださった火で、身体はとても温まりました。あなたが作ってくださった食事はとてもおいしかったです。何度も助けていただいたのに、なんのお礼もできなかったことを、どうか赦してください」


 相手が自分を山奥へ連れ去ったことについては一切咎めず、アベルは感謝の言葉だけを口にする。


「ありがとうございました」


 そして壁をつたい、足を引きずりながら扉口へと向かった。

 若い山賊は、まったく動けないでいた。


 アベルが扉を開けると、冷たく湿った霧が小屋のなかに流れこむ。一瞬、肺が締まるような息苦しさを覚える。

 木戸で身体を支えながら、アベルは床板から地面に降り立った。


 倒れて横たわった太い木の幹、複雑にからまった蔦や雑草、それらに足をとられながら、歩きはじめる。けれど、それはかぎりなく困難な状況だった。

 小屋を出てからしばらく経ったが、彼女が進んだのは、ヴィートが歩けば片手の指を数えるうちに進めるほどの距離だった。


 アベルが先へ進もうと草をかき分け、枝を踏みしだく音がいつまでも聞こえている。

 それを聞いていることにヴィートは耐えきれなくなり、気がつけば立ちあがり、アベルのもとへ向かっていた。


 手と足を傷だらけにしながら山を下ろうとしている少女の身体を、ヴィートはたやすく抱えあげる。


「ヴィート?」


 突然の彼の行動に驚いたアベルが、ヴィートの腕のなかで目を丸くしている。

 枝や石で傷ついたのだろう、彼女の手は擦り傷や切り傷で赤くにじんでいた。


「こんな手になって――」

「大丈夫ですから、降ろしてください」

「大丈夫なものか。血の匂いを獣が嗅ぎつけて、きみなんてひとたまりもなくやつらの餌食になるぞ。地形も道もわからないのに霧のなかを行けば、また崖から落ちて今度こそ死ぬかもしれない。こんな絶望的な状況でも、きみは山を降りるのか」


 ヴィートの勢いにやや呑まれながら、しかし、アベルはしっかりとうなずいた。


「わかった。じゃあ、おれが連れていってやる」

「え――?」


 アベルは虚を突かれた。

 言うが早いか、ヴィートはアベルを抱えたまま、すでに山道を下りはじめている。


「つ、連れていくって……わたしが向かうのは、諸侯が集まるラロシュ邸ですよ」

「知っている」

「あなたが現れれば、必ず捕らえられます。わたしはひとりで降ります。放してください」


 地面に降りようともがきはじめた少女の動きを、ヴィートは腕に力をこめて易々と封じる。


「ヴィート!」


 怒ったようにアベルは己を抱きかかえる相手の名を呼ぶが、彼は前を向いて黙々と山道を下る。

 深い霧のなかでも、ヴィートの足はまったく危なげない。この山を知り尽くしているのだろう。


 再びアベルは名を叫んだ。


「ヴィート! 今度は、あなたが危険にさらされます。お願いです、ひとりで行かせてください」


 するとヴィートは、歩む速度は緩めなかったが、ようやく視線をアベルへ向ける。

 それは、彼が今まで見せた表情のなかで、最も哀しげなものだった。


「……頼むから、もうちょっとそばにいさせてくれよ」


 アベルは反射的に口をつぐむ。抵抗も諦めざるをえなかった。

 それは、ヴィートが口にした台詞のせいではない。

 ……彼の顔が、泣きそうに見えたからだ。


 それは、辛いことがあったときに、自分の寝台にもぐりこみにきたカミーユの表情とかぶって見えた。

 ――哀しくてしかたがないんだ。

 ――姉さんのそばにいていい?

 そう言っているときの、カミーユの顔によく似通っていた。

 拒否することができない。


「……麓に着いたら、あなたは山に戻ってください――必ず」


 アベルはそう言ってヴィートを見上げたが、ヴィートは髭に覆われた口元をわずかに笑ませただけだった。

 その意味は曖昧だったが、アベルはそれを肯定と受けとり、若者の腕のなかで力を抜く。すると、途端に傷ついた手と、無理をした左足が痛みはじめた。


 本当はこんなに痛かったのだ。

 痛みに気がつくのは、いつだってしばらく時間が経ってからだ。身体も、……心も。


 ヴィートがなぜ、これほど自分に親切にしてくれるのかわからない。

 彼に対して、どのようにして恩を返せるのか。

 とにかく、彼が諸侯らに捕らえられることがないようにしなければならない、そう考えながら、アベルは浮かない気持ちでヴィートの腕に身をゆだねた。





+++





 リオネルがベルトランと共にラロシュ侯爵の書斎を訪れたとき、室内には、部屋の主であるラロシュ侯爵以外に、シャレット男爵、フォール家嫡男セドリック、そしてディルクがいた。むろん、ディルクのそばにはマチアスもいる。


 使用人が二人を通したとき、皆、うしろめたいことはしていないはずなのに、やや気まずそうな面持ちになった。


 たしかにうしろめたいことはしていないが、隠し事はしている。

 リオネルには内密で、スーラ山の様子を探っているのだ。朝食が済んでしばらくのちに皆がここで集まっていたのは、まさにそのことについて話し合いをしていたからだった。


 入室したリオネルは皆に軽く挨拶すると、まずはディルクへ視線を向けた。

 まっすぐな深い紫色の瞳に、ディルクは内心でぎくりとする。

 ――この目は、すべて知っている。

 そんなふうに思えたのは、ディルクの考えすぎだろうか。


「やあ、リオネル。今朝も食堂には現れなかったけど、気分はどうだい」


 あえて明るく言ったディルクに、リオネルは意味ありげにほほえんだ。


「山の様子を探りはじめたと聞いて正直驚いたけど、気分はそれほど悪くない」


 その言葉に、ディルク以外の諸侯らは顔を見合わせる。


「あ、ああ、知っていたのか。ずいぶん伝わるのが早いね」


 再びリオネルはふっと笑んだ。


「レオンに聞いたら、すぐに教えてくれたよ」

「レオン!」


 驚きの声をディルクがあげると、長身のベルトランの後ろから、シャルム王国の第二王子がひょいと顔を出した。


「すまない、ディルク。リオネルには、ごまかしが効かないのだ」

「全部話したのか?」


 だめ押しで問うと、レオンはごく普通にうなずく。申しわけないといった雰囲気は感じられない。


「べつに、きみたちは悪いことをしているわけではないから、いいではないか。そもそも、おれが白状しなくてもこいつはほとんどわかっていたぞ。おかげで、おれも王宮への手紙を出さずにすんだ」


 ディルクは苦い表情で笑った。

 たしかに、リオネルに隠し続けなければならない必要はないし、隠し通せると思っていたわけではないが、もう少し結果が出てからリオネルには報告したかった。

 彼を山に行かぬよう説得した以上、自分の手でなにか結果を導きたかったのだ。

 それは、アベルを囮にしてしまった多くの諸侯らも同じだっただろう。


「いや、リオネル、おまえに隠すつもりはなかったんだ。ただ、これ以上おまえの気持ちをわずらわせたくなかったというか、なんというか――」


 感情の読めぬ親友に対して、ディルクは必死に言い訳する。すると、リオネルは穏やかな語調でディルクの言葉を遮った。


「怒っているわけじゃない。実は、ベルリオーズ家の兵士たちにはすでに調査をさせていたんだ。共同でできるようになって、むしろ都合がよくなった」

「へ?」


 拍子抜けしたディルクは、リオネルとベルトランを交互に見る。

 すると、主人の代わりにベルトランが口を開いた。


「いてもたってもいられないのは、おれたちだけじゃない。ラザールをはじめとする騎士らが、アベルを助けに行くと騒いで、クロードを困らせていてな。今の時点でできることを、彼らにやらせていたわけだ」

「そ、そうか」


 たしかにあのリオネルが、アベルが自らの力で戻ってくるまで、なにもせずに手をこまねいているはずがない。自分が思いつくようなことは、早々に手を打っていたのだ。

 ほっとしたような表情をしたのは、ディルクだけではなかった。


「ベルリオーズ家の騎士と共同で行えば、力強いことこのうえありません」


 と顔をほころばせたのは、ラロシュ侯爵。


「貴方様に申しあげずにいたのは、心配をかけぬためでした。すでに始められていたとは知らず、かえって隠し事をすることになり、申しわけございませぬ」


 深く頭を下げたのは、シャレット男爵で、


「私自身、あの若い従騎士殿が戻ってこないことが心配でして」


 とセドリックは唇を引き結ぶ。

 リオネルが、彼らの言葉に微笑を返したときだった。


 慌ただしく廊下を走ってくる足音が聞える。どうやらそれはひとりのようだったが、皆は長剣の柄に手をかけた。


「侯爵様! リオネル様!」


 扉も叩かずに部屋に飛びこんできたのは、門番をしていた兵士のひとりである。

 見知った顔をまえにして、皆がいったん己の剣から手を放した。


「なんだ」


 ラロシュ侯爵は、ひどく慌てた様子の兵士に眉をひそめる。

 高貴な客人らのまえでみっともないということもあったが、それ以上に、門番が慌てて駆けこんできたこと自体が気持ちを荒立てる。

 ――なにか起きたのか。


「現れたのです!」

「落ちつけ。なにが現れたんだ」


 傍らにあった葡萄酒の杯を兵士に渡しながら、ラロシュ侯爵は尋ねる。

 それを受けとり、ひとくちだけ口に含んだ兵士は、ようやくひと呼吸置いた。


「申しわけございません。深い霧のなかから突然現れたものですから、気が動転してしまい……」


 内心で、この兵士は鍛えなおさねばならぬと思いながら、ラロシュ侯爵は続きをうながす。


「それで、なにが現れたというんだ」

「山賊……をやめた男です」


 その言葉に、皆が表情を硬くする。


「山賊なのか、山賊じゃないのか、はっきりしろ」


 厳しい口調で確認したのはディルクである。


「いえ、それはその――おそらく山賊です」

「何人いるんだ?」

「ひとりです」

「ひとり? 山賊が単身で現れたのか」

「ですが、貴婦人を連れています。その男は、リオネル様に伝言するようにと」


 女性を連れていると聞いて表情を変えたリオネルが、つかつかと兵士に歩み寄って問い正す。


「婦人とは、アベルのことか」

「おそらく……山賊はそう呼んでいましたから」


 あまり自信がないのか、兵士は首をかしげつつうなずく。

 頼りない返答にもかまわず、リオネルは質問を重ねた。


「アベルは無事なのか」

「そこまでは、ちょっと……」

「伝言とは」

「はい、それが……」


 ――アベルを連れてきた。リオネルっていうやつがいるなら、ひとりで出てこい。この子はあんたを守るために命をかけたんだ。おまえに命懸けで守る気がないなら、即刻おれが連れて帰るぞ。


「……と、このように言っておりました。今は前庭で待っています」


 紫水晶のようなリオネルの瞳が、大きく見開かれた。








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