81
山の麓、ラロシュ邸にて熱に浮かされていたブリアン子爵の容体が安定し、話ができるようになったのは、その日の昼過ぎのことだった。
ラロシュ侯爵に案内され、ベルトランと共に寝室に入ったリオネルに対し、彼は開口一番、謝罪した。
身体を起こして頭を下げようとするブリアン子爵に対して、リオネルは寝台のそばに寄り、そのままでいてほしいと告げる。けれど子爵はなおも起き上がろうとした。
「私はとんでもないことをしてしまいました」
彼の言葉に眉をわずかにひそめたが、リオネルは説得を続ける。
「とにかく横になってください。でなければ、私はこの部屋からすぐに立ち去らねばなりません」
「貴方のまえで横になることなどできません。私は、貴方の大切な方を危険な目に遭わせてしまったのですから」
「では、こうしましょう。私はここに肘掛椅子を持ってきて、そこに座ります。そうすれば貴方は横になっていてくださいますか」
不本意そうではあったが、諦めたようにブリアン子爵は力を抜いて、寝台に身体を預けた。これ以上抵抗を続ければ、逆にリオネルを困らせるだけだということを知っていたからである。
卓の脇にあった椅子を、ベルトランが寝台の横まで運んでくる。
リオネルはそこに腰をかけてから、
「体調はいかがですか」
と、あらためて尋ねた。ようやく落ち着いて話ができそうである。
「傷はさほど痛みませんし、気分もいいです」
答える子爵の顔色は実際に悪くない。
そこへ、ラロシュ公爵が補足する。
「不思議なことに、見た目よりも傷はとても浅かったのです。まるで手加減したかのように」
「手加減……」
「エドワールを上回るほどの腕を持つ相手なら、殺そうと思えば彼を確実に殺せたはずです。ですが、賊はそうしませんでした」
やや思案するような顔をしてから、リオネルはぽつりと言う。
「殺す気はなかったということか――」
「私は、殺されてもしかたのないことをしたと思っています」
寝台に横たわり、昼下がりの陽光を見つめるブリアン子爵には、自らの幸運を喜ぶ様子は感じられない。
リオネルは目を細めた。
「なぜ、そのようなことを」
「私はアベルを――囮にしました」
「それは、貴方ご自身が同意されたうえで、なさったことではありませんか」
リオネルの語調は淡々としており、怒りをはらんでいるようでも、また、批難しているようでもなかった。
それを感じとってもなおブリアン子爵は自責の念に苛まれているようである。
「申しわけございません。あの夜、計画に賛同したことを心から後悔しています」
「…………」
今更聞いてもしかたのない謝罪に、リオネルの心は荒立つどころか寒々と冷えこんでいく。それから、気持ちを切り替えようとするように質問した。
「なぜあのとき、貴方は途中まで計画どおりに行動していたのに、山賊が現れてから逃げようとしなかったのですか」
「私が賊と戦ったのは、アベルを彼らの手に渡してはならないと思ったからです」
――当たり前だ。
湧きあがる感情を、リオネルは、鉄のように堅く冷たい無心の檻に閉じこめる。
「……なぜです」
途中までは計画に賛同していたのに、なぜ突然そんなふうに思ったのか。
リオネルから短く問われると、ブリアン子爵は苦しげに顔を歪めた。
「女性を囮にしてはならぬことに、気がついたからです」
子爵の言葉に、リオネルは柳眉をひそめる。ベルトランでさえ、表情をわずかに動かした。
「それは――どういう意味でしょう」
「私の勘違いではなければ、アベルは女性です。違いますか?」
リオネルは沈黙してブリアン子爵を見つめた。わずかな内心の動揺を見せぬようにしながら、再び尋ねる。
「なにが、貴方にそのように思わせたのでしょう」
「……難しい質問ですね」
子爵はやや考えこむように瞼を閉ざし、そして、質問を返した。
「失礼ですが、リオネル殿は貴婦人と触れあう機会は多くていらっしゃいますか」
「いいえ」
「そうですか」
彼のいう「貴婦人」とは、貴族の女性のことである。この十八歳の青年は、王宮では多くの貴婦人を見てきたし、フェリシエとしばらく時間を共に過ごしたこともあったが、それほど長い期間ではない。幼いころは友達のなかに女の子もいたが、貴族だけではなかった。
「私はお恥ずかしながら、若いころ多くの女性を伴う機会がございました」
まわりくどい口ぶりだった。
「そのこととアベルと、なにか関わりが?」
「はっきり申しあげられないのです――なぜ、アベルが女性であると感じたのか。……ですが、それは私が多くの女性を知っているからこそだったのではないかと思うのです」
ドレスをまとったアベルの気品は、子爵の知るどの貴婦人にも負けぬものだった。
「立ち居振る舞いは、女性として――いえ、貴族の令嬢としての教育を、幼いころから受けてきた者でしか身につかぬものに見受けられました」
再び押し黙ったリオネルを、やや心配そうにベルトランが見やる。この青年がどう答えるのか、ベルトランにもわからなかった。
ようやく口を開いたリオネルは、
「では貴方は、アベルが女性であると思い、山賊から守ろうとしたのですね」
念を押すようにこう述べただけで、アベルが女性であるかどうかについては、肯定も否定もしない。
だが、リオネルの質問にうなずくものと思われたブリアン子爵は、「いいえ」と首を横に振った。
リオネルが怪訝な顔をすると、子爵は視線を上げる。
「それは理由のひとつですが、私が命をかけても守ろうとしたのには、もうひとつ理由があります」
「それは?」
「貴方が、彼女を愛しているのではないかと、思ったからです」
「――――」
今度こそリオネルの顔に動揺の色がひらめいた。
それはほんの一瞬のことだったが、子爵がその意味を理解するのに充分なものだった。
「そうなんですね」
ブリアン子爵は沈痛な面持ちで双眸を閉ざし、深く眉を寄せた。
「本当に、私たちはとんでもないことをいたしました」
二日経ち、アベルが戻っていないことを子爵は知っている。それがどういうことなのか、わからぬ彼ではない。
まるで力が抜けていくように、リオネルは肘をついた両手に顔をうずめた。
「リオネル様、私も同様です。どのように貴方に謝罪すればいいのかわかりません。言葉もございません……」
相手が見ていないことを承知のうえで、ラロシュ侯爵は青年に向かって深々と頭を下げた。
ベルトランは沈鬱な表情でうつむく。
昼下がりの柔らかい日差しが、まぶしいほど室内に満ちていた。
そのとき、顔をうずめた両手の隙間から、リオネルのかすれた声がもれる。
「私は、信じています」
大きな声ではなかったが、その語調ははっきりとしていた。
「彼女は、私のそばからいなくならぬと約束してくれました。ですから、彼女は必ず私のもとへ戻ると信じています。そして――」
「彼女」という言葉を使った青年の台詞は、アベルが女性であることを、はじめて彼自身の言葉で肯定していた。
苦渋に満ちた青年の様子に、二人の領主は心を苛まれる。
リオネルは言葉を続けた。
「そして、信じて待つことしかできない自分自身を、なによりも憎悪しています」
彼の言葉は、彼自身を鋭利な刃で切り裂くようだった。
「リオネル様、そのような――」
「私は、愛する者を守ることより、ベルリオーズ家の跡取りであることを優先させたのです」
「アベルはそんなふうには思わないでしょう」
ラロシュ侯爵は本心からそう口にしたが、それは慰めにはならなかった。
そもそも、リオネルが助けに来なかったことを、アベルが責めるわけがないのだ。むしろ、危ないことをしなくてよかったと、胸を撫で下ろすことだろう。
ただひたすらにリオネルを責めているのはリオネル自身だった。
リオネルは顔を上げて、二人を見やる。
「このことは、だれにも言わないでいていただけませんか」
「むろんです」
ラロシュ侯爵がそう答えると、ブリアン子爵はうなずきつつ尋ねる。
「アベルが女性であるということを、他にご存じなのは?」
「おりません。知っているのは、貴方がたを含めて我々四人と、我が家の者二人だけです」
少し驚いたようにラロシュう侯爵は目を大きくした。
「ディルク殿もご存じないとは」
幼馴染みであり、親しい友人である彼が、これほど重大な事実を知らないということが信じられなかったのだ。
リオネルは静かにうなずいた。
「それと――私が彼女に想いを寄せているということは、けっして本人に伝えないでください」
それには、二人ともが愕然とした。
「彼女は、貴方の想いに気づいていないのですか」
二人の様子に微笑して、リオネルは首を横に振ってみせた。
侯爵と子爵は唖然とする。あれほどわかりやすい態度をとっているにも関わらず、アベルはリオネルの気持ちに気がついていないとは。
アベルが女性であるとわかった時点で、二人はリオネルのアベルに対する気持ちに、即座に気がついたというのに。
あの少女は……よほど鈍感なのか。
「アベルは、私の気持ちに気づいたら、おそらく私のもとから去ります」
男として扱ってくれなければ、館にとどまることはできないと言った出会ったばかりのころのアベル。その気持ちは今も変わらないだろう。
アベルを異性として愛することは、彼女を女性として見ることそのものである。
「私は彼女を愛しています。想いを告げられなくても、そばにいたいのです。アベルが戻ってきたら、どうか一切知らぬふりをしていただけますか」
お願いします、と最後にリオネルは頭を下げた。
ラロシュ侯爵とブリアン子爵はひどく恐縮する。
「むろんお約束いたします。ですからリオネル様、どうか頭をお上げください」
リオネルが姿勢を正したので、二人はほっと胸をなでおろした。
「最後にお聞きしてもよろしいでしょうか」
そう切り出したのは、ブリアン子爵である。
「なんでしょう」
「アベルはなぜ男の姿に? 彼女は貴族の出身なのでしょう?」
それは、リオネルでさえ答えられぬ質問である。視線を下げて、リオネルは小さく首を横に振った。
教えられないのか、それとも彼自身も知らないのか、二人は判じかねる。
その答えはベルトランの口から発せられた。
「我々は、あの少女の出自や過去を知りません。子爵殿がおっしゃったとおりどこかの貴族の娘かもしれませんし、そうではないかもしれません。なぜ男として生きようと決意したのかもわかりません。ですが、それを詮索しないことが、我々が交わした約束なのです」
「……そうですか」
ぽつりとつぶやいたのは、ラロシュ侯爵だった。
男装した十五歳の少女と、彼女を愛する目の前の青年は、なにかと複雑な関係のようだった。そして、そこに自分の子供たちが入りこむ隙はまったくなさそうだった。
「私にできることは、貴方の恋路を邪魔せぬよう、子供たちにアベルを諦めるよう諭すことくらいですね」
冗談めかしてラロシュ侯爵が言うと、リオネルはわずかに笑った。
「戦いは受けて立ちますよ」
その言葉にラロシュ侯爵は困ったように眉尻を下げる。年の差だけではなく、あらゆる意味で自分の子らに勝ち目はないだろう。
けれどそんなことより、リオネルが冗談を口にして、わずかにでも笑ったことが、今の彼にとっては嬉しかった。
アベルがそばにいれば、この青年の顔には活き活きとした表情がよみがえるに違いない。
この青年のために、子供たちのために、そして、彼女自身のために、アベルが無事に戻ってくることを、ラロシュ侯爵は心から願った。それは、ブリアン子爵も同じ思いだった。
同じころ、この館のなかで最も豪華な客室では、ひとりの青年が机に向かって筆を走らせていた。
この王国内で最高水準の教育を受けてきた彼の字は、見事だ。
その宛先は父であるシャルム国王だった。
「あいかわらず綺麗な字だなあ」
感心したような声は、まったく悪意がなかったにもかかわらず、その青年を少なからず驚かせた。
「わっ、ディルク!」
取り落とした羽根ペンが、高級な紙に黒い染みを作っていく。
「あ、せっかくの手紙が台無しだ」
残念そうに言う友に、手紙をしたためていたレオンは激しく苛立った。
「おまえが台無しにしたのだろう!」
「字を褒めただけで、そんなに驚くと思わないじゃないか」
「そ、それは……」
それは、たしかにそうである。
だがレオンは、なんとか己の正統性を主張しようとする。
「扉を叩かずに部屋に入ってきて、いきなり話しかけられたら、だれだって驚くだろう」
「扉なら叩いたぞ」
「嘘をつけ」
「返事がなかったから、入らせてもらったんだ」
疑わしげな視線を投げかけていたが、相手の言葉の真偽にかかわらず、今更汚れてしまったものはしかたがない。
「ああ、書きなおしだ」
レオンは忌々しげに、紙をくしゃくしゃと丸めた。
「いいじゃないか、おまえの字は綺麗だから、何度でも書けば」
「その論理の意味がわからない」
「それに、字の美しさは唯一おまえがリオネルと張りあえる長所じゃないか?」
「うるさい、黙れ」
こんなに褒められても、リオネルに「勝てる」のではなく、ようやく「張りあえる」のだ。同い年の従兄弟に、己があらゆる面で及ばぬことを承知してはいたが、そのことをこの軽薄そうな男に指摘されることには腹が立った。
「おまえも似たようなものではないか」
不機嫌に言い返すと、ディルクは明るく笑う。
「そんなに苛々するなよ。能力、人柄……容姿もか。どれをとっても、あいつに張りあえる奴なんて見たことない。小さいころからおれはあいつに勝てると思ったことはないから、今更そんなことは気にならないんだよ。安心しろ、おまえも今にそうなる」
「…………」
なんの慰めにもなっていないが、レオンはひとまず口をつぐんだ。
そういうディルク自身が文武に秀で、身分、容姿、どれをとっても申し分ない。それは、レオンもまったく同様である。――ただリオネルが、すべての面で突出しているだけなのだ。
「それで、おまえは、〝くそ髭じじぃ〟になにを書いていたんだ?」
すぐに丸めて捨てたはずの手紙を、ディルクは最初の一瞬で盗み見ていたようだ。
「おまえが地獄耳なのは知っていたが、目のほうもずいぶんと鋭敏そうだな」
「それは、宛先がこの国の王だったら、嫌でも目に飛び込んでくるだろう」
「その論理の意味もわからない」
レオンは顔を引きつらせた。
「久しぶりに、父上に、おれの無事を知らせる便りでも書こうと思っただけだ」
「へえ……おまえが無事なのと、正騎士隊を動かすことと、なにか関係があるのかい?」
「そこまで読んでいたのか、おまえは」
うんざりとレオンはディルクを見上げる。
手紙には、山賊討伐が膠着状態にあり、正騎士隊の派遣を至急要請するという内容を綴っているところだった。
「内容を知っているのに、わざわざ聞いてくるところが、おまえの人が悪いところだ」
「いや、あえて聞いたのは、おまえの口から聞きたかったからだよ。大好きなリオネルをどうにかして助けたいってね」
ディルクは、愉しくてしかたがないという顔で笑っている。
見事なほど図星だった。レオンが、ややふてくされたような顔をしているのは、彼の照れ隠しだろう。
「そういうおまえはどうなのだ」
「おれ?」
今度は、ディルクが問われる番だった。
「村々に配備した騎士たちの一部をわざわざ引き上げさせて、どこぞの諸侯と兵力を結集させているのは、なんのためだ」
ばれていたのかというふうに、ディルクは表情をあらため、目を細めた。
アベラール家に加え、フォール家、ラロシュ家、ブリアン家、そしてシャレット家の騎士らを集め、慎重のうえに慎重を重ね、麓のほうから少しずつでも山の様子を探りはじめているのだ。マチアスや、バルナベをはじめとする騎士らと話しあった末に、そうすることに決めたのである。
それが、どれだけ危険なことかはわかっている。
けっして表立ってやれることではない。山に入るなと言った手前、リオネルにも言えずにいる。
だが――。
「こんなに時間が経っても戻らないアベルのことが心配で、落ちついていられない」
難しい表情でディルクはレオンを見やる。
「それに……あんなに辛そうなリオネルを、これ以上ただそばで見ているわけにはいかないだろう?」
そんなディルクに、レオンもうなずいた。
「同じだ」
「だろうな」
「アベルを救いたい。そのうえ、あれほど落ち込んでいるリオネルを見ていると、こちらのほうが苦しくなってくる」
まじめな顔つきでうつむいたレオンの肩に、ディルクは手をまわした。
「おまえは、本当に友達思いのうえに、リオネルに惚れこんでいるんだな」
「惚れこんでなどいない! 従兄弟として気遣っているだけだ」
「そうかそうか。それなのに、暗殺命令がくだされているとは、本当に気の毒だ」
「だっ……! そんなことを大声で言うな! ベルトランが聞いていたら、おれは殺される! ……ではなくて、そんな命令などそもそもない!」
慌てるレオンの鳶色の髪を、ディルクはくしゃくしゃと撫でる。
そして、瞬時に真顔になってつぶやいた。
「おれたちにできることをやろうぜ」
突然、態度を変えた友に、レオンは肩にまわされた手をふり払いつつうなずいた。
「そのつもりだ」
「かっこいいなあ、王子様は」
「そのうち、その忌まわしい口を縫いつけてやるぞ、ディルク」
「こわい、こわい」
そう言いながら、ディルクは再びレオンの寝室を出ていった。
「なにしにきたんだ、まったく」
レオンのつぶやきが、ディルクの地獄耳に届いたかどうかは定かではない。
二人がやろうとしていることが、リオネルに知れるのは時間の問題である。そのときには、彼の心を軽くするような報告ができたならよいのだが――。
二人の青年は、そうであることを願った。