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 涼やかな水が流れの音がする。


 木漏れ日がつくりだす光と影が、若者の瞼のうえで揺れていた。

 うっすらと瞳を開けた男は、ぼんやりと思った。


 ――綺麗だ。


 木々には、新緑が芽吹きはじめている。

 その合間からのぞく空が青い。

 透きとおるような、水色だ。

 まるで、アベルの瞳のよう……。


 ……アベル……?


 若者は、両目を大きく開けた。

 瞬時に昨夜起こったことのすべてを思い出したヴィートは、跳ね起きる。


「ここは……?」


 見渡せば、自分たちの集落はなかった。

 森を流れる川の岸辺にヴィートは座っている。水に浸かっていたのは、幸運にも足先のみだった。


 崖下の谷川に落ちたのだろう。

 やや下流に流されたようだ。そこは、二年間この山に暮らすヴィートの知る場所だった。

 しかし、腕に抱いていたはずのアベルの姿はない。


「アベル……!」


 ヴィートは立ち上がり、周囲を見渡した。

 先に目覚めて、すでに山を降りたのか、もしくは――。


 焦慮にかられて大声で名を呼ぶが、返事はない。

 もし下山してしまったのなら探しても無駄だが、そうではない可能性のほうが高い。ドレスを着たまま崖から落ちて、まったく無傷でいられるとは思えない。


 ヴィートは川を下流に向かって歩きだす。

 もしかしたら自分より遠くまで流されたかもしれない。そう思ったからだ。


 もともと大きな川ではないが、雪解けの水で激しい流れができている。

 あちこちの岩や石にぶつかって跳ねあがる水しぶきが、朝の光を受けて、束の間の幻のように煌めく。鳥がさえずり、かすかに甘い香りの風が吹きぬけ、淡い新緑は陽光に透けている。

 ようやく山に訪れた早春の美しさを、しかし、このときのヴィートに愛でている余裕はなかった。


 突然、彼の歩みが止まる。

 岸辺の岩にひっかかっている、濃い紫色の布地を見つけたのだ。

 拾いあげた手が震える。これは、アベルが羽織っていたはずの外套だ。


 ――近くにいるかもしれない。


 薄紫色のドレスの裾が、水の流れのなかに見えたのはその直後のことだった。

 アベルを見つけたかもしれないという期待と同時に、それが川の中ほどにあるという事実が若者を不安に駆りたてた。


 ヴィートは膝まで水に浸かって、流れに身体をとらわれそうになりながら、ドレスの見えた場所まで近寄る。


「アベル!」


 そこには、たしかに探し求めていた相手がいた。


 浅瀬になっている川中の岩角に、ドレスの一部がからまっていて、ようやく彼女が流されるのを食い止めている。

 見たところ目立った怪我はない――ヴィートは神に感謝した。


 けれどアベルの身体は、頭から足先まで水に浸かっている。ようやく顔の表面が水上に出ているだけだ。

 彼女の頬は青白く、唇は雪割草のような紫色をしていた。


 ヴィートはアベルの身体を水中から抱え起こす。その身体は、川の水と同じ温度だった。


「これは……まずい」


 今はまだ息をしているが、すぐにでも少女の身体を温めなければ、死の可能性もあるだろう。


 両手でアベルを抱き上げ、岸に上がったヴィートの後ろ姿は、森の奥へと消えていく。彼は、近くに、いつの時代の者が造ったのかわからぬ山小屋があるのを知っていたのだ。


 器用に乾いた枝を拾いながら、記憶をたどってその場所へ向かう。しばらく木々の間を歩きつづけると、いまにも崩れそうな山小屋が現れた。

 記憶は間違っていなかった。ヴィートはわずかにほっとしたような顔になったが、すぐに表情を引き締めた。




 小屋のなかは外観から想像するほどひどい状態ではなかった。


 手で砂と埃が積もった床を軽く掃除し、中央にある囲炉裏の跡に枝を置き、火を熾す。枝から無事に朱色の炎が生まれるのを確認すると、ぐったりと横たわる少女のもとへ近づいた。

 そして、ためらうように両手を握りしめて、やがて意を決したように彼女のドレスに手を伸ばす。


 慣れない手つきで、腰や胸元のリボンや止め具を外し、少女の服を脱がせていく。

 純白の薄い肌着一枚だけの姿にすると、己の服も脱いで横たわり、アベルの身体を抱きしめた。それは人間の体温とは思えぬほど冷たい。

 彼女の身体を早急に温めるためには、これ以上に良い方法はないのだ。


 華奢なのに、女性らしく柔らかい肌が、薄絹の肌着をとおしてヴィートの肌に触れると、ヴィートはその感触に顔を赤くした。

 腕のなかに惚れた女がいるのに、これ以上なにもできないとは。アベルの身体が少しずつ温もりを取り戻していくことに安堵しつつも、己の身体が必要以上に熱くなっていくことが、ヴィートには辛かった。

 ――ここは我慢して、我慢して、耐えるしかない。

 二十三歳の若者にとっては、幸せでありながら、なにかの試練のような時間でもあった。




 アベルが目覚めたのは、やはり昼近くになってからだった。

 この少女は、どのような状況でも、早朝に目覚めることはないらしいと、ヴィートは悟った。そして結局、彼女が目覚めるまでヴィートは一睡もできなかった。


 わずかに瞼を上げた少女は、二度ほどまばたきして、そして最後に目を大きく開けたまま凍りついた。


 目の前に、男の胸板があるのだ。

 それも、カミーユのような少年のものではない。大人の男の肌である。

 悲鳴を上げそうになったが、その寸前に、相手の顔が視界に入ってきて唖然とした。


 ――ヴィートである。

 なぜ、ヴィートが上体に衣類をまとわぬ姿で、自分を抱きしめて寝ているのか。


 一方ヴィートはというと、アベルが目覚めたことに気がつき、突然、動揺しはじめた。アベルの表情には、明らかに驚愕と不審の色が宿っていたからである。


「ち……違う! 違うんだ。おれは、なにもしていない。たしかにきみの服は脱がせたが、きみの身体には触れていない――いや、触れたか……?」


 ヴィートの独演に、アベルが眉をひそめる。


「いやいや、違うんだ。きみの身体が氷のようだったから、温めるにはこうするしかなかったんだ。人間を短時間で効率的に温めるためには、直接肌を触れ合わせるのが一番なんだ。こうしなければきみは死んでいたかもしれない。信じてくれ、やましいことはなにもない」


 聞かれてもいないことに、過剰に弁明するのは余計にあやしかったが、アベル自身が最低限肌着を身にまとっていたということと、彼女のなかで昨夜の記憶がよみがえってきたことが、この若者の名誉を救った。


「助けてくださったのですか?」


 間近から淡い水色の瞳をひたと向けられて、ヴィートはしばし戸惑う。


「あ、ああ、まあ……」


 若い山賊がどうにか肯定すると、アベルは戸惑いつつも目の前の男を信じることにしたようだった。


「ありがとうございます」


 腕のなかで、少女が少し照れたようにうつむいたのだから、ヴィートはアベルの身体を離して、慌ただしく起きあがった。


「その……気分はどうだ? きみはさっきまで雪解け水にさらされて、冷え切っていた。もう寒くないか?」


 ゆっくり片腕をつっぱって起きあがったアベルは、質問に答えるまえに、不思議そうにまわりを見渡す。

 上体を上げた際に、わずかに左足首に違和感を覚えたが、現在の状況を把握するほうが先決だった。


「ここは――?」

「山の中腹にある小屋だ。おれたちは崖から川に落ちて、このあたりまで流れ着いたみたいだ。怪我がなかったのは奇跡というべきだろうな」

「わたしは、早く山を降りて主人の元へ戻らなければなりません」

「主人?」


 その言葉にヴィートは不思議そうな顔をする。

 貴族の令嬢が、どこかの領主に仕えているとでもいうのだろうか。下級貴族の娘ならありうるかもしれないが。


 アベルは質問には答えずに、立ち上がろうとした。だが、すぐに倒れこみ、床に手をつく。

 左足に痛みが走ったのだ。


 驚いたヴィートが、アベルの身体を支える。


「大丈夫か?」


 なにが起こったのかわからぬアベルは、下着の裾から見え隠れする自らの左足を見下ろす。

 足首は赤く腫れあがっていた。


「これは――」


 アベルの足元にしゃがみこんだヴィートは、相手の了承を得てから左足首に触れ、それからわずかにまわしてみると、アベルが呻いた。


「わ、悪い。すまない。痛かったか」

「大丈夫です」


 痛みに顔をしかめながらアベルは答える。


「骨は折れていないけど、これは捻挫しているかもしれない。少なくとも今日一日は、動かさないほうがいい」


 捻挫したときは安静にしていることが最も大切だと説明された少女は、しばし考えこんでから、それでも自分の意思は変わらないことを告げる。


「いいえ、わたしは、山を降りてラロシュ邸へ行きます」

「その足で、どうやって山を降りるんだ?」

「それは……」


 そのとき言い淀んだアベルの身体を、ヴィートは軽々と持ち上げ、再び床に座らせた。


「ドレスも外套もまだ乾いてない。どのみち、そんな格好では、ご主人様とやらに会えないだろう?」

「…………」


 諭されたアベルは、小さく溜息をついて身体から力を抜いた。

 悔しいが、今の足の状態では、この険しい山を降りられそうにないし、たしかに肌着姿でラロシュ邸に戻るわけにもいかない。


 下山を諦めた様子の少女に、ヴィートはほっとしたような笑顔を向けてから、


「手当てしてやる。ちょっと待ってな」


 そう言って、小屋のそとへ飛び出していった。

 すぐに戻ってきたヴィートは、雪の塊を手にしている。雪合戦でもするのだろうか……。


 ふとアベルは、新年にリオネルやディルクらと雪を投げ合ったことを思い出した。それほど前の出来事ではないのに、やけに懐かしく感じる。


 リオネル、ベルトラン、ディルク、マチアス、レオン、ベルリオーズ家の人々……それに、エレンとイシャス。こうやって離れてみれば、どれだけ彼らが自分にとって大切な存在であったかが、よくわかる。

 山賊に捕らわれたときも、柵から手を離したときも、もう二度と会えないことを覚悟したが、今は、彼らに再び会えるかもしれぬという期待がアベルの胸を高揚させる。


 かたや、ヴィートは雪合戦をはじめるつもりはなさそうだった。


「これで冷やすといい」


 身体が冷えないようにと、アベルを囲炉裏のすぐ前に座りなおさせて、ヴィートは腫れた足首に雪を押し当てた。

 とても気持ちよい。

 先程の激痛が、和らいでいく。


 アベルが小声でと礼を言うと、


「おう」


 と、山賊の若者は笑った。

 こうして、この山小屋にとどまらざるをえなくなったアベルは、このときようやく先程のヴィートの問いに、ゆっくりと答えはじめた。


「わたしはベルリオーズのご領主様に仕える騎士です……といっても、まだ従騎士ですが」


 言っている意味がわからぬという顔で、ヴィートはアベルを見つめた。目の前の人物は、どこからどう見ても、若い貴婦人である。

 長い金糸の髪、華奢な四肢、そして……。


 ヴィートの視線を感じたアベルは、薄絹の肌着をまとっただけの己の身体を隠すように縮こまった。

 慌ててヴィートは視線を逸らす。


「い、いや、その……騎士だというわりには、きみはどう見ても、女性のようだったから――」


 ややうつむいて、アベルは心なしか寂しそうに答えた。


「わたしは女ですが……男として生きています」


 これほど美しい容姿なのに、男として生きているという少女を、ヴィートは驚きと共に見やる。


「なぜそんなことをする必要があるんだ? きみは貴族だろう?」


 すぐに若者の問いには答えず、アベルは黙って膝を抱えたまま、囲炉裏で燃える炎を見ていた。

 三年前の出来事が頭に思い浮かんだが、今はそのことを思い出したくなかった。


「今のわたしは貴族でもなんでもありませんし……ただ主人のそばで、主人を守るためだけに生きています。そのためには、女であることなど必要ありませんから」


 しばらくして口を開いたアベルは、このように説明した。


 瞳のなかに囲炉裏の火だけを映した少女の横顔を、ヴィートはまだ納得できないというように見つめる。

 どこからか隙間風が入り込み、火の粉が宙に舞い、木が燃える香ばしい匂いが強まった。


「きみのような女性が男装してまで騎士にならなければならないほど、ベルリオーズでは家臣が不足しているのか?」


 若者の素朴な質問に、アベルはかすかに笑った。


「いいえ、ベルリオーズ家には多くの騎士がいます。女であることを捨てたのも、騎士になってリオネル様をお守りしたいと思うのも、すべてわたしの意思です。いえ、むしろ、わたしのほうからお願いしてお仕えすることを許していただいているのです」

「ふうん」


 納得いくようないかぬような様子で、ヴィートは頬杖をつく。


 ベルリオーズ家といえば、もともとシャルム王国屈指の名門貴族であるが、正統な王家の血筋が流れている公爵家としても有名である。山の上で生活していても、ヴィートはそれくらいのことは知っていた。


「きみは熱心な王弟派というやつなのか?」

「――いえ、そういうわけでは」

「ではなぜ、きみのほうから願い出てまで、そのご主人様を守りたいと思うんだ?」


 山賊の若者が自分の身の上を気にする理由がわからず、アベルは困惑したような視線をヴィートへ向けた。

 それに気づいたヴィートは、しばらく考えた末に質問を変える。


「そのご主人様のために、女の格好をして、こんな危険なことをしたのか?」


 アベルは、一拍おいてからうなずいた。


「きみの主人は、きみが女であることを知っているのかい?」


 再びアベルがうなずくのを見て、ヴィートは顔をしかめる。


「だとしたら、きみの主人はひどいやつじゃないか。年端もいかない女の子を囮にするなんて、ひどく冷酷だ」

「いいえ、違うんです」


 咄嗟に顔を上げてアベルは反論した。その勢いに、ヴィートはやや面食らったような表情になる。


「リオネル様は、とても優しい方です。だからこそ、あの方には告げずに囮の役目を引き受けました。リオネル様は今回のことを、なにもご存じありません」

「ずいぶんリオネルってやつの肩を持つんだな」


 不満げな声でヴィートは言ったが、アベルはその真意を追求することなく、彼の言葉を訂正した。


「『リオネルってやつ』ではなく、リオネル様です」

「リオネル様ね……そのリオネル様は、中年のおっさんかい?」


 ベルリオーズの領主といったら現国王の弟なので、もう五十前後であろう。


「リオネル様は、現公爵様のご子息にあたる方で、ご年齢は十八歳でいらっしゃいます」


 アベルはヴィートの失礼なもの言いに、怒るでも笑うでもなく、生真面目に答えた。


「十八……若いな。きみはいくつなんだ?」

「わたしは十五です」

「おれとは八歳違いか。うん、適年齢だな」

「なんのお話でしょう?」


 未だにヴィートの気持ちを理解できないらしく、率直に聞いてくるアベルに、彼は笑った。

 そして、ふと真剣な顔つきになってアベルに向きあう。


「きみが、男の格好をしてようと、貴族だろうと平民だろうと、だれに仕えていようと、そんなことはどうでもいい。おれは、きみのことが好きだ」

「そう言ってもらえると嬉しいです」


 急に顔を見合わせてきたことに対しては戸惑っているようだったが、告白に対するアベルの返答は淡白だった。

 せっかく熱い想いを打ち明けたのに、反応があまりに薄いので、ヴィートは拍子抜けした。


 情けない表情になったヴィートへ、アベルは軽くほほえむ。


「わたしもあなたのことが好きです。あなたは山賊だというのに、良い友達にさえなれる気がします」


 肩を落として項垂れたヴィートは、少女の鈍感さに打ちのめされていた。






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