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一方、当の少女は、リオネルが祈る必要もないほど、平和に過ごしていた。
アベルの座っているところには、二枚の毛皮が敷かれている。囲炉裏には火がくべてあり、外套も羽織っているので寒くない。
お腹も満たされているし、喉も乾いていない。
手足を拘束されていることと、やることがなくて退屈なこと以外は、何不自由ない環境である。
目の前の囲炉裏でヴィートが作ってくれた食事は、思いのほかおいしかった。
串刺しにした鹿肉、猪肉と野草のスープ、兎の丸焼き……と、肉ばかりである。山賊はパンなど焼かないのだろう。野菜も育てているとは思えない。
かろうじて食事に入っていた野菜類は得体の知れない野草のみ。
それでもおいしかったので、文句は言うまい。
ヴィートはおそらく馳走をふるまってくれたのだ。その点については感謝しなければと思う。
ただ、ひとつだけ気になったことがあった。
拘束されているアベルは手が使えなかったので、食事のすべてをヴィートが食べさせてくれたのだ。
体調を崩したときに、エマや女中からそんなふうにされたことはあるが、大人の男性に手ずから食べさせてもらうことには抵抗があった。
けれど、拘束を解いてくれるはずがないので、そのようにして食べる以外に方法はない。
どこから持ってきたものなのか、古そうな匙を使ってアベルの口に少しずつ食事を運び、ヴィートは「おいしいか」と聞いてくる。アベルがうなずくと、彼はとても満足そうな顔をした。
不思議なことに、アベルはここに来てヴィート以外の山賊をひとりも見ていない。
時折、小屋の外でだれかが話す声が聞こえてきたりもするので、いるにはいるようであるが。
なぜこの小屋にはヴィートしか来ないのか。
また、なぜヴィートが片時も離れずにそばにいたのか。
その理由は、その後すぐにわかることとなった。
小さな窓からのぞく空が青みを増し、ついにはほとんど色を失ったとき、ヴィートは服についた埃を意味もなく払いながら言った。
「よし、そろそろ夕食の時間だな。なにが食べたい? なんでも用意してやる」
彼の衣服には、そこかしこに泥や埃がついていて、一箇所だけ払ってもしかたがない。
実はその行動は、彼の照れ隠しのようなものだったのだが、アベルの目には不可解な行動にしか映らなかった。
「パンと野菜が……」
少し意地悪をして、アベルはそう答えてみる。
するとヴィートは、
「パンと野菜か。そうか、わかった。ちょっと待っていてくれ――いや、ちょっとじゃすまないな。時間がかかるけどかまわないか?」
と、真顔で答えた。困るどころか、むしろすぐに要望が出てきて喜々としている。
「え、あの――」
本当に作ってくれるとは思っていなかったので、アベルはやや慌てた。
今からパンを作ったらどれほど時間がかかるのだろうか。そもそもパンなど、こんな場所でどうやって作るのだろう。
「た、大変ならいいです」
「そんなことない。まかせとけ」
晴れやかな笑顔をアベルに向けると、ヴィートは張りきって小屋から出ていった。
彼はいったい、いくつなのだろうと、アベルは思った。
髭を生やしているのでよくわからないが、彼が笑うと、とても幼く見える。
隣室の扉が開いたせいで、窓からの冷気が流れて寒さを感じる。窓には小さな木の扉がついているが、ヴィートはそれを閉め忘れたようだ。
ひとりになってしまったせいか、うすら寒さと、心細さを感じてアベルは小さく縮こまった。
室内はうす暗い。
小さな窓枠に縁取られた外の景色が、暗いからかもしれない。
囲炉裏はまだ燃えはじめたばかりである。
部屋の隅にたったひとつの手燭が置かれており、その光が少女の白い肌を浮かびあがらせている。
囲炉裏の薪がぱちんと音を立て、火の粉が飛ぶ。その音に内心で驚き、そしてそんな自分にアベルは恥じ入った。
なにを自分は怖がっているのだろう。
物音などに驚いている暇があるのなら、早くここから抜け出すことを考えるべきだ。親切な山賊に世話をしてもらっている場合ではない。
アベルは手を動かし、腕を拘束する紐をゆるめようとする。手が自由になれば、足の紐はほどくことができる。
けれど、しばらく努力を続けてみたが、紐はほどけそうでほどけない。
少し疲れて、手と気持ちを休めるために一呼吸したときだった。
開け放たれた窓から、冷気が入りこんだ。隣室の扉が空いたのだ。
ヴィートが戻ってきたのだろうか。パンを作るにしては早すぎるので、なにかを取りに戻ったのか。こちらの部屋へ近づく気配がある。
けれどそれはひとりの足音ではなかった。
重く堅い足音は、四人……いや、五人分はあるだろうか。
それ以上のことを考えるまもなく、扉口から幾人もの男が現れる。アベルは全身に緊張を走らせた。
ヴィートではない。
けれど見たことのある顔だった。
昨夜、ヴィートが現れるまえに、ブリアン子爵と自分を取り囲んだ賊のひとりである。たしか仲間からバルトロと呼ばれていた。
手足は拘束されていて、アベルは逃げられない。
山賊らは、床に座るアベルに近づく。
「ヴィートのやつ、こんな上玉を独り占めしやがって」
バルトロはしゃがみこみ、アベルの顎を掴み上げた。
「あの妄想野郎にたっぷりかわいがられたか?」
下品な物言いの男をアベルは睨み上げる。けれど今はそんなことをしても、少しの役にも立たなかった。
「怖い目だな、お嬢ちゃん。だが、すぐにその目から大粒の後悔の涙を流させてやるよ」
バルトロの手がアベルへと伸びる。アベルが声を上げようとすると、彼は左手でその口をふさぐ。
「叫ぶな、ヴィートに気づかれる」
あともう少しで縄が解けそうだというのに。
混乱した頭のなかで、アベルが咄嗟に思い描いたのは、優しい笑顔。紫水晶のような瞳――。
――どうすれば……。
そのとき、部屋の空気が動いた。
外気がそっと吹きぬけて、アベルの肌をなぶる。
隣の部屋の扉が開いた……?
「バルトロ!」
知っている声が聞こえたと同時に、急に視界が明るくなった。
目のまえにあった巨体が一瞬にして消え、気が付けば床に倒れ転がっている。
「ヴィート……!」
男たちは、若い山賊の姿を見て、いっせいに顔色を変えた。
一方、ヴィートは怒気をみなぎらせて叫ぶ。
「おれのいないあいだに勝手なことしやがって!」
「いいじゃねえか おまえは充分楽しんだんだろう? 次はおれたちの番だ」
「くだらないことをほざくな!」
目の前で山賊たちの殴り合いがはじまった。だが、それは長くは続かない。バルトロが卑怯な手を使ったのである。
バルトロは囲炉裏の灰をつかむと、ヴィートの顔に向かって投げつける。
「まともに戦っておまえに勝てるとは思ってねえよ、馬鹿が」
目に異物が入った痛みでヴィートが動きを止めた隙に、バルトロは彼の腹に蹴りを見舞った。
それから侵入者たちによるヴィートへの一方的な暴力が繰り広げられた。
「アベル、逃げろ!」
羽交い絞めにされ、全身を殴られ蹴られ激しい暴行を受けながら、ヴィートは叫ぶ。
「そうはいかねえよ」
立ち上がろうとしたアベルへ男がひとり近づき、腕を掴んだ。
そのとき――そこにいた皆は、幻影を見た。
否、それは幻影のように見えたが、そうではなかった。
橙色の光が、まるで流星のようにひらめいたのだ。
アベルを掴もうとしていた男が、驚愕したように瞠目し、そして床に崩れ落ちる。
ドレスをまとった少女の手には、短剣が握られている。なんの紋章もないが美しいそれは、血を滴らせていた。
彼女は手首の紐をほどくことはできなかったが、細い手を縮めてそのまま紐から引き抜くことに成功したのだ。短剣は、脱出するときのために、ドレスの裾に隠し持っていたものである。
驚いたのは、侵入者だけではない。
ヴィートも唖然としていた。
虫も殺さぬような可憐な少女が、それは鮮やかに、短剣で大の男をひと突きで倒したのだから。
彼らの動揺をよそに、アベルは命を奪った男から直剣をも奪い、ヴィートを囲んでいる山賊たちに向けて構える。
「に、逃げろ、アベル!」
幾人もの山賊をまえに、年端のいかぬ少女が剣を構えているのである。あまりに無謀な構図に、ヴィートの全身から冷汗が吹き出る。
だが、それは杞憂だった。
少女に襲いかかった山賊らは、またたくまに彼女の剣のまえに倒れていく。素晴らしい手際で、急所への一突きで皆、即死している。
神技のように鮮やかな剣使いだった。
ようやくその剣から逃れたバルトロが一目散に扉へ向かい、小屋の外へ逃げていった。そして、彼は叫んだ。
「仲間が襲われた! 皆、出てこい!」
小屋に残された二人は、顔を見合わせる。
アベルはほころびはじめた蕾のような笑みをヴィートに向けると、彼が声をかけるまもなく、小屋を飛び出していった。
アベルの笑みには、ヴィートに向けての感謝の気持ち、そして別れの挨拶がこめられていた。
ヴィートはそれらの意味をたしかに感じとると同時に、彼にとってそれは、惚れた女がはじめて見せた笑顔でもあった。
熱い思いが若者の胸にあふれる。
けれど、呆然と幸福感にひたっていたのもつかの間のことだった。
「……アベル!」
我に返ったヴィートが小屋を出ると、そこにはすでに大勢の仲間たちが、アベルを捕らえるべく殺到していた。
「恐ろしいほどの剣の使い手だ、気をつけろ!」
「矢だ、矢を用意しろ!」
「相手は女だ、死んだら売りものにならないぞ」
「かまわん、殺してしまえ!」
混乱に近い騒ぎのなかで、ヴィートもアベルのあとを追いはじめる。
――殺させてなるものか。
剣を握り、返り血を浴びたアベルの姿は、ヴィートが思い描いていた貴婦人像からはかけ離れていた。
だが、それがなんだというのだ。
女神アドリアナのように勇ましくて、粋な娘ではないか。
恋に落ちた男には、相手のどのような姿も魅力的に見えるようだった。
かたや、かような恋愛感情とは縁遠いアベルは、持てる力のすべてをかけて山道を走っていく。
小屋を出てすぐに、いくらか離れたところにある集落のような場所から、山賊たちがこちらに向かって押しよせてくる光景を見た。
ヴィートの小屋は少し外れたところにあったのだと、アベルはそのとき初めて知る。
どこへ行けばいいのかわからないが、まずは山賊から逃げねばらない。
いくら腕に覚えがあっても、たったのひとりで、あれほどの数の屈強な山賊たちを相手にする自信はない。
逃げるしかない。
しかし、着慣れないドレスがもたついて、思いどおりに進めなかった。
なんとかして走っていると、木々の合間から突如として柵が現れる。山賊の拠点を、ぐるりと柵が囲っているのだ。
しかも、アベルはその先に見た――柵の向こうに、堀がめぐらされているのを。
それは外部からの侵入を防ぐものか、それとも捕らえた獲物を逃さないようにするためのものか。
柵の出入口と、堀を渡るための橋を探さなければならない。
アベルは方向を変えて、柵に沿って走りだす。その間にも、山賊らは距離を縮めてきていた。
しばらく走ったが、そのうちにアベルの足は止まってしまう。
――ない。
柵の出入口がない。
もしかすると……。
アベルは、柵を見上げる。
ベルトランの身長より高いくらいだろうか。だが、乗り越えられないほどではない。
――この柵には出入口などないのではないだろうか。
迷っている余裕はない。
アベルはドレスの裾をまくしあげ、柵を登りはじめた。そして、天辺まで登ったアベルは愕然とした。
柵の向こうにあったのは、堀ではなく――深い崖だった。
先程、柵の合間から見たときは、たしかに堀の底が見えていたのに、この場所は、底の知れない断崖になっているのだ。
いまさら堀のあるところまで柵上を奇術師のように歩く術など、アベルは持ち合わせていなかった。
柵の頂上で動きを止めたアベルに、山賊らが追いつく。
そして、バルトロが笑った。
「どのみち、その向こうに落ちたら助からねえよ。大人しく降りてこっちへ来たら、命だけは助けてやる」
唇を強く噛んで、アベルは山賊らを見渡す。
いったいここには幾人の山賊が生活しているのか。
見渡すかぎり、数十人……いや、百人はいる。それも、これがこの集落にいる全員ではないだろう。
目の前の男たちは、得物を追い詰めた獣のごとき視線をアベルに向けていた。
アベルはふと笑った。
自嘲するような笑みにも見えたし、不敵な笑みにも受けとれただろう。
そして、アベルは柵を掴んでいた手を離した。
これは、賭けだった。
もしも、もしも神の慈悲があれば……。
――生きて、再びあの人に会うことができるだろう。
少女の身体が、崖のほうへ大きく傾く。
「アベル――ッ!」
どこからか、声がする。
ヴィート……?
すべては、目にも止まらぬ速さで起こった。
跳ねるように柵を飛び越えたヴィートが、崖下へ落ちていくアベルの身体を抱きかかえる。
一瞬のうちに、アベルとヴィートの視線が間近でからみあった。
「……なぜ――」
彼女が口にしようとした疑問は、最後まで言葉にならなかった。すさまじいほどの速さで降下していく感覚が、アベルの気を失わせたのだ。
二人の身体が闇の奥へ消えていくと、バルトロはせせら笑う。
「これで、ヴィートともお別れだな。女を手放したのは残念だが、ヴィートがいなくなればせいせいする。今回のことを、だれかカザドシュ山の首長に伝えにいけ。『ヴィートが裏切った』とつけくわえてな」
山賊らのあいだには、仲間を失った哀しみや同情の声はなく、むしろ彼らの顔には酷薄な笑みが浮かんでいた。
口うるさい、変わり者がいなくなった――ただそれだけのことだった。