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「エマ、これはなに?」


 乳母のエマが、幼い日のアベル――シャンティの首に首飾りをかけてくれたのは、六歳になる誕生日だったか、それとも、その年の五月祭のあたりのことだったか。


 鏡に映る自分の首元には、濃い群青色の石。

 その石はよく見ると、赤みがかっていた。白いシャンティの肌に、その不思議な色合いがよく映える。


「これは、大奥様――つまり、あなたのお祖母様の形見ですよ。伯爵様から、あなたにお渡しするようにおおせつかったのです。大切になさってくださいませ」


 エマの説明に、シャンティは首をかしげる。


「お父様はなぜ、わたしに直接くださらないのかしら?」

「それは、奥様にご遠慮なさってのことでしょう」


 淡々とした口調でエマは答えた。


「血のつながっていらっしゃらないベアトリス様より、孫娘であるシャンティ様にこれを譲りたいというのが、大奥様のご意志だったのではないでしょうか。ですから、ベアトリス様のお気持ちに配慮なさって、伯爵様は、わたくしの手からそれとなく渡してほしかったのだと思いますよ」

「ふうん」


 シャンティはあらためて首飾りを見つめる。


 祖母は、シャンティが二歳のころに亡くなったと聞いている。彼女の顔はシャンティの記憶にない。

 肖像画でしか見たことのない祖母の顔を想い浮かべて、これまで遠い存在に感じていた彼女のことを、今はなんとなく身近に感じた。


 覚えてはいないが、きっと祖母は自分のことをかわいがっていてくれたに違いない。

 シャンティはなんとなく嬉しくなって、首飾りのうえにそっと手を置いた。


「これは、なんて言う石なの?」

「瑠璃ですよ、シャンティ様。とても高価な宝石です」

「ふうん」


 瑠璃、瑠璃……忘れないように、シャンティはその名を心のなかで復唱する。


「姉ちゃん、それなあに?」


 そばで遊んでいた二つ年下のカミーユが、首飾りを指差す。


「瑠璃よ、瑠璃っていうの。とても高価な宝石なのよ」

「ぼくもほしい」

「だめ、これはひとつしかないのだから」

「ほしい、ほしい!」

「だめ!」


 一瞬動きを止めたカミーユは、寸秒後に盛大に泣きはじめた。

 しかたがないので、シャンティは首飾りを外してもらい、カミーユの首にかけてやる。


「ちょっとだけよ」


 すぐさま泣きやみ、嬉しそうな顔になったカミーユは、


「トゥーサンに見せてくる!」


 と、部屋を出て行ってしまった。

 そして、しばらくして戻ってきたカミーユの首に、瑠璃の首飾りはなかった。


「カミーユ! わたしの首飾りは?」


 四歳の少年は、不思議そうな顔でシャンティを見上げる。首飾りをかけてもらったことなど、すっかり忘れていたのだ。

 カミーユから瑠璃の首飾りなど見せてもらっていないというトゥーサンと、エマ、シャンティの三人で、館中を探しまわった。


「カミーユ、思い出して。どこに置いてきたの?」


 しかしカミーユは、自分がなにか悪いことをしたということを理解しつつも、姉や乳母が知りたいことを答えられるほど大きくはなかった。


 首飾り……わたしがもらった、首飾り……。

 シャンティは泣きそうになって、探しまわった。

 いつしか、探しているその首飾りの残像は、群青色だったはずなのに、気がつけばシャンティのなかで淡い水色の宝石にとってかわっている。


 そして、生垣の葉に絡まっていた首飾りを見つけたのはトゥーサンだった。


「シャンティ様、よかったですね」


 トゥーサンが差し出した首飾りを、シャンティはしげしげと見つめる。


 わたしがもらったのは、本当にこれだったかしら?

 わたしの首飾りは、淡い水色の――。


「本当に綺麗な瑠璃ですね」


 エマが言っていたのは、瑠璃という石の名前だったかしら?


「アクア、マリ、ン……」


 ――アクアマリン。

 そうだ、水宝玉アクアマリンだ。


「水宝玉の、首飾りは?」

「え?」


 トゥーサンとエマが同時に目を丸くして、シャンティを見る。


「わたしの水宝玉の首飾り……」


 二人とも、なにを言っているのかわからぬという顔だった。自分は、なにか変なことを言っているのだろうか。


 シャンティは己の記憶を辿る。

 あれは、だれにもらったのだろうか。思い出せそうで、思い出せない。

 これは、夢? ――どこまでが記憶で、どこまでが夢なのか。


 浮かんでくるのは、深い紫色。

 優しい声。

 あたたかい腕。

 思い出そうとすると、なぜだか胸を冷たい空風が吹き抜けるような、寂しさにとらわれる。

 ああ、あの人は――。




「……ネ……ルさ……ま」


 その名を呼んだ自分の声で、アベルは目を覚ました。


 まず意識に飛び込んできたのは、狭い部屋の風景だった。

 館や民家の部屋というよりは、小屋のなかといった趣きである。板張りの床には椅子や卓などの家具は置かれておらず、暖炉ではなく囲炉裏があるだけだ。


 小さな窓が三方の壁にひとつずつあり、そこから室内にまっすぐ差しこむ光の筋は、埃っぽい空気を白く輝かせている。

 この位置から太陽は見えないが、光の具合からすると時刻は昼近くだろう。

 残りの壁には、扉が備わっていない出入り口があり、その向こうは別の部屋につながっているようだった。


 昨夜の記憶は鮮明に残っているが、先程まで見ていた夢は、もう覚えていない。

 ただ、首元に違和感がある。

 ずっとかけていた水宝玉の首飾りがないせいだろう。

 ラロシュ侯爵から預かり身についていた紫水晶の首飾りも、アベルの首元から取りさらわれていた。おそらく山賊が奪ったのだ。


 己の格好を見てみれば、ドレス姿のままである。昨夜はじっくり観察する余裕がなかったがアベルが着ているのは、リボンなどの装飾はなく地味目ではあるが白い草花の文様が各所に刺繍された、薄紫色の仕立ての良いドレスだった。


 アベルは手足の不自由さに、不快感を覚えて身じろぎする。

 手足は縛られている。だが、けっしてきつくはない。縄ではなく、ねじった薄手の布のようなもので軽く束ねられているだけだった。

 これなら、どうにかすればほどけるかもしれない。


 ふと床を見てみると、なにかの動物の毛皮が敷かれていた。熊だろうか、狼だろうか。どうりで長いこと床の上で気を失っていたわりには、身体に痛みがない。

 それに、アベルの身体のうえには厚手の毛布さえかけてあった。最後にいつ洗濯したのかもわからぬ、毛羽立ち、うす汚れた毛布だったが。


 山賊に囚われたわりには、厚遇ともいえる扱いに、拍子抜けする。

 聞いていた話と違う。ラ・セルネ山脈の賊は、凶暴で残忍――皆がそう言っていた。


 そのとき、アベルが目覚めたことに気づいたのか、隣の部屋から人が近づいてくる気配がした。

 鼓動が速まる。

 どれほど凶悪な賊が出てくるのだろう。

 アベルは戸口を見つめた。

 床板がきしむ。

 ごくりとアベルは唾を飲んだ。


 すると、そこからまるでためらうようにそっと顔を出したのは、無造作に口髭を生やした男だった。それは、アベルが気を失う寸前に見た男である。

 アベルと目が合うと、若い山賊は軽く咳払いをして、部屋に入ってきた。


「目が覚めたか?」


 リオネルよりも長身である。

 身長も、年齢も、ベルトランと同じくらいだろうか。

 彼は、アベルがはじめて見るような動物の革で作られた服を着ており、筋肉質な感じはするが、全体的に細身でひょろりとしている。

 男の瞳と髪の色は、黒に近い褐色だった。


「よく寝ていたな。もう昼だぞ」


 山賊はアベルのあいだに一人分の間隔を開けて、床に座りこむ。真正面に座っているのに、ちらとアベルを見ただけで、あとは顔を背けていた。

 二人のあいだには時が止まったような沈黙が降り落ちる。


 アベルがずっと黙っているので、しびれをきらしたのか、彼はようやく視線を上げて捕らえた少女を直視した。

 けれど目が合うと山賊は再び顔を背け、そして思いもよらぬ台詞を口にした。


「どこか痛むところはないか?」


 山賊が、さらってきた相手の体調を気遣うとはいったいどういうことか。


「その……昨夜は、手荒なことをしてすまなかった」


 アベルは面食らうあまりに、返す言葉を見つけられなかった。

 黙ったままでいると、今度は質問が投げかけられる。


「おれは、ヴィート。きみの名は?」


 答えるべきか逡巡してから、アベルはけっきょくなにも言わないことにした。

 するとヴィートという名の山賊は、座りこんだ体勢から、手を床についてゆっくりと近づき距離を縮めてくる。

 二人の間に空いていた空間がなくなっていく。

 アベルは反射的に身じろぎして、後方に下がろうとした。

 それに気づいたのか、ヴィートはわずかのあいだうつむいたが、それでも、そっと手を伸ばしてくる。


 ヴィートの手が、アベルの頬に触れる。

 その手はわずかだが、震えていた。

 彼の手が震えているという事実が、アベルを驚かせる。


 ヴィートの指先はゆっくりとアベルの頬を滑り、顎へ下がっていく。やがて彼の唇がアベルの唇に触れそうになったそのとき、


「やめてください」


 アベルはようやく声を発した。

 山賊に対して、やめろと言ったところで、やめてくれるわけがないことは知っている。それでも、この山賊なら聞き入れてくれるのではないかと、わずかな願いを込める。

 アベルの宝石のような瞳が、ヴィートを見据える。

 一方、ヴィートの褐色の瞳は、躊躇と葛藤を混ぜ合わせた色を称えていた。


「きみに触れたい――――だめか?」


 アベルは絶句する。山賊が囚人に対して、触れてよいかどうか尋ねているのである。

 スーラ山の山賊は礼儀正しいのだろうか。間近で見るヴィートの褐色の瞳は、優しげで……どこか不安そうにもみえる面持ちでアベルを見つめている。


 二人は無言で視線をからませる。


 ヴィートは、他の仲間が、さらってきた女を好きにしていることを知っていた。

 けれど彼は、目のまえの女性に対して、そのようなことをしたくなかった。いや、そのようなことは、けっしてできない。

 彼のなかの正義感からだけではない。


 特定の女性を心から欲する気持ちを抱いたのは、生まれてはじめてのことだった。そしてその気持ちは、けっしてこの女性を傷つけたり、泣かせたりしたくないという思いを伴っていた。


 いつか幼いころに抱いた夢。

 ――愛する貴婦人に出会い、その人に惜しみない愛をささげ、命をかけて戦う。

 目のまえの少女は、ヴィートが探し求めていた人かもしれなかった。相手をいくら欲しようとも、力ずくで意のままにしたいとは思わない。

 ……だが。


 そのとき、彼女の唇が動き、質問に対する回答をつむいだ。


「だめです」


 あまりにあっさりと断られたので、ヴィートは情けない顔になる。

 彼にすれば、切なる願いだったのだ。山のなかで、粗野な男たちに囲まれて育ったヴィートが、女性の扱い方など知ろうはずがない。生まれてはじめて惚れた相手に拒絶されてしまったので、これ以上どうしていいかわからなくなる。


 しかしそんなことを知る由もないアベルは、警戒心を顔中にたたえて、ヴィートが次になにを言いだすのかじっと待っている。


「……口づけだけでもだめか」

「だめです」


 少女の即答に、ヴィートはがっくりと頭を垂れた。


 つくづく不思議な山賊だった。

 触れることを拒絶されて、落ちこんでいるのである。これのどこが凶暴で残忍なのか。

 やや気の毒にさえ思えてきたが、だからといって、アベルとしては口づけを交わしてやる気になどなるはずもない。


 若い山賊は、力が抜けきったように、緩慢な動きで顔を上げた。


「きみは、アベルというんだろう?」


 名を知っていたことに驚き、アベルはわずかに瞳を見開いた。


「きみの恋人が――いや、恋人役というべきか、その人が、名を叫んでいた」

「恋人……役?」


 なぜヴィートは、二人が恋人ではないことを見破ったのか。

 あくまでとぼけてみせたが、動揺は隠し切れなかった。


「それとも、本当に恋人だったのか?」


 アベルは水色の瞳を大きく見開いたまま、ヴィートを見つめる。疑問符が浮かぶ表情に答えるように、ヴィートは説明した。


「きみを連れ去ってすぐに、背後から複数の兵士がおれたちをつけてきた。もし、彼らが最初から待機していたとすれば、きみたち二人は囮だ。だとすれば、きみたちが本当の恋人同士である可能性は低い」


 つまり、山賊たちには、兵士の存在を気づかれていたということだった。

 すると、彼らは――。


「兵士たちを殺したのですか?」


 アベルは形の良い眉をひそめる。


「いや……やつらはいた。だが、恋人役の男は、剣を向けてきたから斬った」

「――子爵様を……!」


 ヴィートの言葉に、アベルは震撼する。


「子爵様を殺したのですか!」


 瞬時に、瞳の奥に怒りと憎しみをみなぎらせた少女に、ヴィートはたじろいだ。


「いや、殺してはいない。手加減した。傷は浅いはずだ。絶対に死んではいない。誓って大丈夫だ」


 ヴィートは早口で弁明する。

 どう考えても年長であり、しかも山賊の男が、さらってきた少女に対して必死に弁明する姿は、奇妙である。

 だが、格好悪くても、変り者と思われても、それでもヴィートは、アベルからこのような目を向けられることだけはいやだった。


 絶対に死んでいないと聞いたアベルは、ほっとしたものの、しかし、その双眸は変わらずヴィートを睨んでいる。


「そんな顔をしないでくれ。しかたなかったんだ。斬らなければ、こちらが斬られていた。……そんなに怒るのは、あの男が、本当にきみの恋人だったからか? それとも、きみは彼に好意を抱いているのか?」


 男を斬ったと言った瞬間に激昂したアベルに対し、ヴィートは浮かぬ声音で聞いてくる。

 幾度もブリアン子爵が恋人なのかどうか聞いてくる山賊の若者に、


「……恋人なんていません」


 と、少し怒ったような口調でアベルは答えた。

 その返答に、ヴィートの表情がぱっと明るくなる。


「いないのか!」


 声も、どこか嬉しそうだ。


「いません」

「そうか、よかった」


 なにが「よかった」なのか、アベルにはよくわからない。


「恋人は作りません」

「え?」


 思いもよらぬ言葉を耳にしたかのように、ヴィートが固まった。


 自分に恋人がいるかどうかなどということを、なぜこの男は気にしているのだろう。恋愛に関してはとかく鈍いアベルには理解できなかった。

 固まったままのヴィートにかまわずアベルは問う。


「なぜ、わたしの名前を知っていたのに、あえて尋ねたのですか?」

「……それは、きみの口から聞きたかったんだ。初対面では、互いに名乗るのが礼儀だろう?」


 初対面。

 礼儀。

 山賊には似合わぬ言葉である。


 無理矢理さらってきて、なにが初対面だ。なにが礼儀だ。

 そう思わないでもないが――いや、激しくそう思ったが、目のまえの男は真剣に言っているようだったので、アベルはそのことについてはなにも言及しなかった。


「恋人がいないなら、おれにも希望があるってことだな」

「なんの希望ですか?」


 アベルは不審げに眉をひそめる。しかし、


「希望といえば……」


 彼女の質問を無視して、ヴィートは機嫌よさそうに尋ねてくる。


「なにかほしいものや、不自由なことはないか? 床が堅ければ、もう一枚毛皮を敷こう。お腹は空いてないか? 喉が渇いているだろう。きみは、どんな食べ物が好きなんだ? 遠慮なく言ってくれ」


 とことん不思議な山賊である。手足を縛っている相手に、不自由なことはないかと聞いてくるとは。

 今のこの状況で望むことは、これからアベルが口にしようとしていること以外になにがあるというのだろう。


「では、遠慮なく言わせていただきます。この手足の紐をほどき、わたしを開放して、下山させてください」


 少女の要望に、ヴィートは困ったように視線を逸らして頭をかいた。そして、押し黙ってしまう。

 先程までの機嫌のよさはどこへいってしまったのか。


 しょげてしまった若者の様子に、アベルは小さく嘆息し、そして消え入るような声で言った。


「……お腹が空きました。なんでもいいので、ひと口食べさせてください」


 すると、とたんにヴィートが顔を輝かせる。


「おう、待ってな。ひと口なんていわず、腹いっぱい食べろ。すぐに作ってやる」


 アベルより十歳近くは歳が離れているだろうヴィートは、まるで少年のようだった。

 背の高い彼が立ちあがると、室内の空気が大きく動く。戸口に向かいかけて、そしてヴィートは振り返った。


「おれがいないあいだ、扉は閉めておくが、もしなにかあれば大声を上げてくれ。すぐに助けに戻るから」


 そう言い置いて、長身の男は視界から消えた。


 助ける……?

 アベルは違和感を覚えて首をひねる。

 自分は、ヴィートを含む山賊の手から逃れるべきであって、ヴィートに助けてもらうというのはおかしな話である。


 まあ、いいか。

 理屈はどうであれ、あの若い山賊は、凶暴でも残忍でもなさそうだ。ひとまず暴力も振るわれず、食べ物も用意してくれるというのだから、それに甘んじない手はない。


 ひとりになると、アベルはぼんやりと、山の麓のことを思った。

 ブリアン子爵は無事だろうか。

 撒かれた兵士らは、この場所をつきとめることができただろうか。


 そして、リオネルは――。


 優しい面影を思い浮かべると、首元を冷ややかな風が通ったように、寒く感じられた。

 ……あの人からもらった首飾りは、ない。







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