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 賊は十人以上いるだろう。多勢に無勢の戦いである。


「子爵様、お逃げください!」


 必死に声を上げるアベルの頬を、男が手を上げて叩こうとした。


「おい、バルトロ、女の顔を傷つけるな。値が下がる……」


 言葉の途中で、捕らえた女の顔をはっきりと目にした賊は、アベルの顎をつかみあげてまじまじと見つめた。

 間近から遠慮のなさすぎる視線を受けて、アベルは視線を背ける。


「これは――ものすごい代物だぞ」


 バルトロと呼ばれた男も、のぞきこむ。

 そして喉の奥を、ひゅっと鳴らせた。


「おれが最初に見つけたんだ。わかっているんだろうな」


 そのバルトロの背後に、長剣が光った。咄嗟に避けたバルトロの肩を、剣先が切り裂く。

 むろん、攻撃をしかけたのはブリアン子爵である。


「アベル、逃げろ! きみは、逃げるんだ!」


 アベルは困惑した。なぜ子爵は計画通りに振る舞わないのか。囮になるはずのアベルに、なぜ逃げろと言うのか。

 屈強な山賊に拘束されて、今更その手からは逃れられそうにない。


 左肩を斬られたバルトロが、子爵が持つ長剣の倍はある巨大な剣を振りあげる。

 声を上げて斬りかかってくるバルトロの攻撃を受け止めながら、子爵はなおも叫んだ。


「きみは、リオネル殿のそばを離れてはいけない!」

「…………!」


 彼の言葉は、アベルの心に少なからず衝撃を与えた。

 ――リオネルのそばから離れてはいけない。

 なぜ子爵は、今更そんなことを言うのか。


 深い紫色の瞳が、瞼に浮かんだ。

 ずっとまともに話してさえいない。

 アベルの心の奥底に沈んでいた気持ちが揺さぶられる。

 会いたい。

 話したい。

 ……そして、恐怖する。

 もう二度と会えないかもしれない。


 そのときはじめて気がつく。自分はこんなにも、不安で、心細かったのだと。

 諸侯らに囲まれ説得されたときも、囮になることも、もう二度とリオネルに会えないかもしれないことも、怖くて、不安でしかたなかったのだと。

 だれかが助けてくれるのを、心のどこかで待っていたのかもしれない。


 子爵の周囲には、次々と賊の死屍が積み重なっていく。彼は、リオネルやディルクほどではなくとも、優れた腕の持ち主だった。

 賊は、あと数えるほどである。


 アベルは、行動に出た。

 自分を拘束する男のつま先を、渾身の力をこめて踏みつける。悲鳴を上げた男の手から武器を奪い、参戦しようとしたそのとき――。


 目前に、ひとりの男が立ちはだかった。


 長身で細身の、口髭を生やしている若い男である。

 アベルと若い山賊の視線がからみあった、その次の瞬間、抵抗する隙も与えない速さで彼はアベルのみぞおちを突いた。

 けれどそれは乱暴というよりは、ただ気を失わせるため、というほどの力の加減だった。


 ゆっくり失われていく意識のあいまに、アベルは男の褐色の瞳を見る。

 その瞳は優しげで、心配そうに、全身から力がぬけていくアベルを見つめていた。


 アベルの白い手から武器が離れ、そして彼女自身も崩れ落ちた。


「アベル!」


 子爵の叫び声は、もはやアベルの耳には届いていなかった。

 賊の手のなかで意識を失った少年――否、少女を取り戻そうと、ブリアン子爵は、駆け寄って長剣をひらめかせる。


 月明りを反射して、二つの刃が交わり煌めいた。

 そして、十合ほど撃ちあった末に倒れたのは、賊ではなく、貴族のほうだった。褐色の瞳の若者が振り下ろした剣が、ブリアン子爵の身体を、肩から腰にかけて切り裂いたのだ。

 声もなく、子爵の身体は地面に倒れ伏した。


「ああ、ヴィート。助かったぜ」


 身体のあちこちに傷を作りながら、バルトロがよたよたと歩んでくる。


「おまえが来なかったら、おれたちは全滅だった。はじめて、おまえが近くにいてよかったと思ったぞ」


 怒っているのか、なにを思っているのか、ヴィートはなにも答えない。

 十五人ほどいた仲間のうち、生き残っているのは四人だけだった。

 あとは皆、このたったひとりの貴族の剣に倒れたのだ。ヴィートが現れなければ、残りの四人も死んでいただろう。


 気を失っている少女を、ヴィートは無言で抱えあげる。


「おい、助けてくれたことは感謝しているが、その女はおれのものだぞ。しょせんおまえは女に興味ないんだろう、返せよ」


 バルトロが少女の腰に手をまわして奪い返そうとするのを、ヴィートは手荒に跳ねのけた。

 その行動に驚いたのはバルトロだけではない。生き残った四人全員である。


「この娘は、おれが連れていく」


 普段ぼんやりして、女を抱くことになどまったく興味を示さないあのヴィートが、この貴族の娘には執着を示したのである。


「ヴィート、そりゃないぜ。これだけ犠牲を払って手に入れたっていうのに」


 バルトロは食い下がった。だが、ヴィートにも引きさがる気配はない。


「おれが助けなかったら、おまえら全員死んでいたんだろう?」


 もしそうなっていれば、山に戻ることもできなかったはず。だから、この娘は自分が連れて帰る。そう主張するヴィートに、これ以上だれも反論できなかった。

 彼の言い分は正しかったし、この男が一度言いはじめたら、ひどく頑固であることを、皆が知っていた。


 大事そうに娘の身体を横抱きに抱えたヴィートは、そっとその顔を見つめる。

 彫刻のように美しい少女の閉ざされた瞳の端から、一筋の涙が伝って流れるのを、若者はたしかに目にした。





+++





「エドワール!」


 庭園に悲痛な叫び声が上がったのは、山賊らが少女を抱えて完全に森の奥に消えてまもなくのことだった。


「エドワール! エドワール!」


 山賊の剣に倒れたブリアン子爵に駆け寄ったのは、ラロシュ侯爵である。

 彼は、一部始終を別荘の窓から見ていた。

 ブリアン子爵が、計画どおりに行動せず、剣を抜き放ち賊らと戦い始めたとき、ラロシュ侯爵は咄嗟に二人を助けるために庭園へ出ようとした。しかし、彼を押しとどめたのは、ウスターシュだった。


「ここで我々が出ていけば、すべては水の泡です。子爵殿の剣名は私も聞き及んでいます。ここは、事の成り行きを見守りましょう」


 それでもなお長剣を握りしめて庭園に向かおうとするラロシュ侯爵の腕を、ウスターシュは掴んで離さない。


「アベルは賊に捕まっています。我々が出ていって彼らを取り囲めば、抵抗できないアベルがまっさきに殺されるかもしれません」

「…………」


 アベルの命を引き合いに出されたので、ラロシュ侯爵はその場に踏みとどまるしかなかった。

 そして、現れたひとりの若い山賊。

 激しい撃ち合いの末に斬られたブリアン子爵。

 連れ去られたアベル。

 庭園の白い砂利と解け残った雪を、死んだ山賊の血が赤黒く染めていた。


「エドワール!」


 名を呼びながら、ラロシュ侯爵はブリアン子爵を支え起こす。裂かれた個所から血があふれて、二人の服を濡らしていく。

 もう一度名を呼ぶと、ブリアン子爵の瞳がうっすらと開いた。

 ――生きている。

 そのことに、ラロシュ侯爵は心から安堵し、深い吐息を吐く。


「エドワール、大丈夫だ。医者を呼んである。すぐに館に戻ろう」

「ファ……ビアン……」


 ブリアン子爵は、絞り出すように声を発した。

 なにかを言おうとしている友に、ラロシュ侯爵は顔を近づける。


「どうした?」

「アベルは……」

「計画通りだ。彼は、山賊に連れて行かれたよ」

「……だめだ……」


 喘ぎながら、子爵は必死で言葉をつむいだ。


「アベルを、助けなければ……」


 ラロシュ侯爵は、苦しげに顔を歪める。

 今更そんなことを言っても、すべては取り返しのつかぬ状況にある。自分たちはこの計画に賛同し、その結果、アベルは山賊の手におちたのだ。


「リオネル殿……リオネル殿に、お話を……」

「エドワール、もういい。話すな」


 もはやどうにもならないことに心を砕く親友を、早く苦しみから解放し、らくにしてやりたかった。


 ブリアン子爵がリオネルの名を口にしてまもなくのことだった。遠くから馬が駆けてくる音が響く。

 それは、闇の向こうからすさまじい速さで近づいてくるようだった。

 緊張した面持ちで顔を上げた諸侯らは、馬にまたがる人物をみとめて愕然とした。馬上にいたのが、ベルリオーズ家のリオネルと、ベルトランだったからである。

 なぜこの二人がここに来たのか、なぜこの場所がわかったのか。


 二人は馬から身軽な動作で飛び降り、諸侯らに囲まれた血まみれの人物のそばに駆け寄った。


「リオネル様……」


 シャルルがおそるおそる名を呼ぶが、リオネルの表情は硬い。

 あらゆる感情を、その表情の裏に押しこんでいるようだった。


 祈るような気持ちで横たわる人物の傍らに膝をついた青年の目に飛び込んできたのは、愛する娘の姿ではなかった。

 しかし、それはよく見知った人物。


「子爵殿……!」


 リオネルの険しい声音を耳にして、ブリアン子爵は再び瞳を開く。


「リオネル殿……申しわけございません……」

「アベルはどこに」


 痛々しいものをみるような目で、ブリアン子爵の瞳が歪められ、そして徐々に意識が薄れ焦点が合わなくなっていく。

 話せない彼の代わりに答えたのは、ウスターシュだった。


「あの生意気な従騎士は囮として、山賊に連れていかせました。我が兵士が彼らを追跡しているので、あの者がどうなろうと山賊の居場所はつきとめられましょう。卑俗な者でも、ときには貴族の役にたつということですな」


 かくも残酷なことを、彼はすらすらと文書を読み上げるように平然と口にする。その言葉を聞いたリオネルが、激昂するまでにたったの一秒もかからなかった。


 リオネルは拳を握って立ちあがり、ウスターシュの襟首をつかみあげると、周囲が止めるまもなく、すさまじい勢いで殴り飛ばした。

 ウスターシュの身体が激しく地面に叩きつけられる。

 これでもリオネルとしては感情を必死に抑え、可能な限り手加減したのだ。


 ベルトランは、主人を止めようとはしない。彼自身の怒りも、リオネルに負けぬほどのものだったからだ。アベルは自分のかわいい従騎士であり、主人の大切な想い人である。自分が殴れない代わりに、リオネルに殴ってもらったようなものだった。


「おまえは、アベルになんてことを……!」


 リオネルの押し殺したような声は、怒りに震えている。


 諸侯らは呆気にとられていた。普段穏やかな青年からは、とうてい想像もできぬ剣幕である。

 リオネルは、倒れたウスターシュをつかみ起こして問いただす。


「アベルを連れていった賊は山のどの方角へ消えた!」


 殴られた痛みと、相手の勢いに圧倒されて抵抗できぬウスターシュは、笑おうとしたがうまく笑えず、頬が引きつっただけになった。それでも虚勢を張る。


「リオネル殿ともあろう方が、このように取り乱されるとは、なんとも見苦しい」

「見苦しくて結構だ。もしアベルの身になにかあれば、必ずおまえを殺す、必ずだ。早く質問に答えなければ、今度は頬骨を砕くぞ」


 リオネルが再び拳を振り上げたとき、ウスターシュが長剣の柄に手をかけた。

 それをみとめたベルトランが、瞬時に己の長剣を半分まで引き抜く。


 一瞬即発の緊迫した空気のなかで、シャルルが焦りをにじませた声を上げた。

 彼の目的はアベルを排除することであって、リオネルを負傷させることではない。それでは、本末転倒になってしまう。


「リオネル様、賊が去ったのはしばらくまえのことです。この闇のなか、消えていった方角も定かではありません。助けに行くことは不可能です。どうか、アベルが自力で戻るのをお待ちください」


 掴んでいたウスターシュを乱暴に突き放し、リオネルはシャルルを振り向く。


「見失うまでの方角でいい、教えてください、シャルル殿」

「あとを追うおつもりなら、私は命をかけてお止めいたします。追えば、リオネル様の御身が危険です」


 強いリオネルの視線を、シャルルはかろうじて見返した。

 助けに行かせるわけにはいかない。リオネルの身になにかあったら、取り返しがつかないことになる。


 一方、リオネルは焦っていた。こうやって話している間にも、アベルはどんどん山の奥へ連れていかれているだろう。

 リオネルは、シャルルの脇をすり抜け、馬に飛び乗ろうとした。

 しかし、彼の腕をつかんで馬に乗るのを制止した者がいた。それはシャルルではなく――ベルトランだった。


 ベルトランとて、アベルを助けに行きたい気持ちで頭のなかは埋め尽されていたが、しかしどうしても、リオネルの命を危険にさらすことだけはできない。それが彼に課せられた唯一無二の使命であるからだ。


 リオネルがベルトランを睨んだそのとき、ラロシュ邸の方角から数騎の馬が駆けてくる。

 またたくまに顔が見える位置まで来たのは、ディルクとマチアス、そしてクロードだった。


「リオネル様、ご無事ですか」


 下馬したクロードが、リオネルの無事を確認してから一礼する。

 リオネルは表情を曇らせ、


「おれは大丈夫だが――」


 と、つぶやきつつ、ちらとディルクへ視線を向ける。

 ディルクは馬上から、負傷したブリアン子爵の姿を確認し、同時に、その場にアベルがいないことに気がつき、はっとする。


「アベルは……」


 まさかという響きが彼の口からこぼれた。


「連れ去られた」


 短く答えたのはリオネルである。


 馬にまたがろうとしているリオネルと、それを止めようとしているベルトラン。……ディルクは、親友がこれからなにをしようとしているのか、寸時に悟った。

 淡い茶色の瞳に、迷いの色が浮かぶ。

 アベルを助けたい気持ちはよくわかる。

 しかし、相手は山のことを知りつくしている者たちだ。山の地形も、敵の居場所も、なにもわからぬリオネルが、単身で助けに行くなど無謀としかいいようがない。まさに、自殺行為である。


 たったひとりの家臣を助けに行こうとする高貴な青年を、シャルルが必死で説得する。


「リオネル様、むやみに山に入ることが無意味であるとおっしゃったのは、貴方ではありませんでしたか。ラロシュ家、ベロム家、そして我が館の兵士が彼らのあとを追っており、アベルが無事に逃げられるように警護しています。どうか、ここにお留まりになり、アベルが戻るのをお待ちください」


 こう口にしつつも、シャルルの胸のなかには激しい罪悪感があった。

 実際のところ、兵士らには、山賊の居場所をつきとめたらアベルのことは見捨てて戻るようにと命じていたのだ。そのことは、ウスターシュでさえ知らない。


 シャルルの説得を受けてもなお納得しないリオネルをまえに、ディルクはやりきれない思いで顔を歪めた。


「リオネル、おまえが言ったとおり、今から森に入っても、アベルを探し出せるとは思えない。それに、危険を冒してもしおまえの身になにかあったら、アベルはどこに戻ればいいんだ? そのとき、おれはどんな顔で、あの子に会えばいい?」


 愛しい娘をさらわれた青年は、しかし、だれの制止も聞かず、ついには、主人を騎乗させぬよう腕を掴んでいたベルトランの手を振りほどく。


「リオネル!」


 リオネルの手が、馬に伸びた――だれの言葉も彼を止めることはできない。

 もはや、彼を制止するためにできることはたったひとつだけだった。


 それは、一瞬の出来事だった。


 リオネルの動きが止まり、ベルトランに向けようとした眼差しは虚空を見つめる。

 ぎりぎりまで意識を保とうとする力が働いているのか、リオネルはしばらくそこに踏みとどまっていた。だがついに、紫色の瞳に重い瞼が降りおちる。


 それは、そのはずである。

 燃えるような赤毛の若者が、リオネルの鳩尾を突いたのだ。この男の拳をまともに腹に受けて、意識を保ち続けることができる者などおそらくいないだろう。


「すまない、リオネル」


 力が抜けていくリオネルの身体を、ベルトランは片手で受け止める。主人を守るためにはこうするしかなかった。


 山中における敵は、賊だけではない。獰猛な野獣や毒蛇、そして寒さのなかで道を失うことなど、あらゆる危険がひそんでいる。アベルを助けることができる可能性の低さに比して、リオネルの命が危険にさらされる可能性のほうがはるかに高かった。


 ベルトランの役目は、どのような方法を用いても、なにを犠牲にしても、リオネルを守ることだ。そのために、彼はあらゆる感情を捨て、冷酷にさえならなければならなかった、

 それが今のベルトランの、哀しくも揺るぎない役割なのだ。


「ベルトラン、すごいな。いろんな意味できみにかできないよ、これは」


 ディルクは、気を失ったリオネルを見ながら、顔を引きつらせた。

 まずベルリオーズ家の跡取りであり、王家の血を引くリオネルの鳩尾を突くなど、到底考えられぬことである。そのうえ、リオネルは剣技だけではなく、武術においても傑出している。

 彼からの反撃を一切許さずに、一撃で気を失わせることができるのは、ベルトラン以外にいないだろう。


「だけど……本当にアベルのことが心配だ」


 月明りが青白く照らしだす山を見上げながら、ディルクは独り言のようにつぶやいた。

 先程はリオネルを説得する立場だったが、今は、かの少年を己自身で助けに行きたいとディルクは心から思う。


「ディルク様、今から森に入っても探しだせるとは思えないと、あなたは今おっしゃったばかりですよね」


 つぶやきを拾ったマチアスが、諌めるように言った。


「……わかってるよ、うるさいな」


 ひどく不機嫌そうにディルクは答えた。

 山へアベルを助けに行こうとすれば、今度は自分がマチアスに鳩尾を突かれるだろう。

 皆が同じ気持だった。あの少年を助けに行きたい。だが、魑魅魍魎が跋扈するスーラ山の深い森が、それを妨げる。


 ディルクは、ベルトランに抱えられている親友の蒼白な顔を見やった。

 彼が目覚めたとき、すべては完全に取り返しのつかぬ状況になっているだろう。そのとき、彼がどれほど心を痛めることか。


 いつもは朗らかなディルクの顔には、このとき、沈鬱な表情が浮かんでいた。そして、この青年のそばにひかえているマチアスも、主人と同様の面持ちだった。

 己がかつて抱いたことのある疑惑がもし本当なら、連れ去られたのは――。

 マチアスは小さくかぶりを振って、目を閉じた。


 ラロシュ侯爵がブリアン子爵を、ベルトランがリオネルを抱えて馬にまたがる。


「戻ろう。もうすぐ夜が明ける」


 だんだんと日が長くなってきている空は、東の方角からかすかに白みはじめていた。

 負傷した子爵の身体も、気を失ったリオネルの身体も、それを抱く二人にはとても重く感じられた。


 ベルトランとディルク、そしてマチアスは、闇に沈んだ黒い山を振り返る。

 そして、だれかが祈るようにつぶやいた。


「アベル――」






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