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 扉のまえにいたのは、ラロシュ侯爵の子供たちである。

 廊下に灯された燭台の炎が、鋭い剣先を向けられて怯える彼らの表情を、くっきりと照らしだしていた。


「申しわけございません、マドレーヌ様、セザール様」


 ベルトランが慌てて剣を引いて一礼すると、二人はほっとしたように肩の力を抜いた。

 羽織を肩にかけたリオネルが戸口へ来ると、姉のマドレーヌは安堵したような、少し困ったような顔で、


「夜遅くにごめんなさい」


 と、リオネルに頭を下げた。


「いいや、大丈夫だよ」


 そう答えたものの、十歳と八歳の幼い姉弟が、このような時間まで起きており、女中や使用人も伴わずに、自分たちの部屋を訪れたことを不審に思う。


「きみたちは、二人だけなのか?」


 怯えるような目を向けてくる二人を、なるべく怖がらせないように優しく問う。

 普段から穏やかな物腰のリオネルが、つとめて優しい口調にしたのだから、それは溶けるように甘い響きさえある。

 緊張がほぐれたマドレーヌは、顔を赤くしてうなずくと、


「セザールが、おかしなことを言うんです」


 と、やや唐突に話しはじめた。


「お母様も信じてくれないので、だれに言えばいいのかわからなくて」

「それで、二人でここへ?」


 マドレーヌがうなずくのを見て、リオネルは八歳の少年のまえでしゃがみこみ、その瞳をのぞきこむ。


「どうかしたのか?」


 幼いセザールの必死な眼差しが、リオネルを見上げた。


「……僕は見たんです」

「だれを?」

「ぼくのお姫さまです」


 リオネルはわずかに眉を寄せる。


「……アベルのことか?」


 うまく説明できない弟を見かねて、マドレーヌが口を開く。


「いつも寝る前に挨拶してくださるお父様が、今日はなぜか部屋へ来てくださらなかったの。それで、わたしたちなんとなく寝付けなくて、二人で窓の外を見ていたんです」


 窓の外には、透けるように淡い上弦の月。

 そして、庭園へつづく階段の下に繋がれていた一頭の馬と、現れたひとりの貴婦人。

 それはまるで、おとぎの国の世界か、泡沫うたかたの幻のよう。


「とても綺麗な人でした。でも、その人を見てセザールが、『僕のお姫さまだ』って言うんです。セザールはアベルのことを言っているのだと思うのだけど、そこに現れたのはドレスを着た女の人でした」

「きみは、アベルではないと思ったんだね」

「似ているような気もしますが……わたしは、アベルだとは思いませんでした」


 マドレーヌがそう思ったのは、貴婦人があまりに女性らしかったからである。憧れる騎士があれほど女らしく、しかも艶美であるとは、どうしても思えなかった。


「でもセザールが、あれは自分のお姫さまだって騒いで……」

「それで、その人はまだ庭にいるのか?」

「馬に乗ってスーラ山の方向へ行きました」


 スーラ山と聞いて、リオネルは瞬時に表情を硬くする。


「だから心配なんです。暗くなってから山のほうへ行ってはいけないって、必ず山賊に襲われるって、お父様とお母様からいつも言われているのに、あの人はひとりで行ってしまったんです」


 要領よく説明できないながらも、マドレーヌは懸命に伝えようとしていた。

 自らが目撃した人がアベルであるかどうかはともかく、女性が夜中に独りでスーラ山へ向かったことを心配しているのだ。


「そのことをお父様に伝えにいったら、寝室にはお母様しかいらっしゃらなくて、お母様は、そんな人はいない、夢を見たんだって言うだけで信じてくれなくて、だから――」


 少女が話し終わらぬうちに、リオネルは長剣を片手に握りしめて立ちあがり、廊下に飛び出した。

 そのあとをベルトランは追おうとするが、そうするまえに幼い姉弟を振り返り、


「貴方がたは、寝室へ戻っていてください」


 と指示を出す。


 リオネルは疾風のような早さで地上階まで大階段を駆け下り、騎士たちの寝室が並ぶ回廊に位置するアベルの寝室へ向かう。


 なるべく自分を落ちつけるようにゆっくり扉を叩いたつもりが、思った以上に力が入って、それは大きな音になった。

 返事はない。

 速まる鼓動を感じながら、取っ手を握り、扉を開け放つ。


 灯されたままの燭台。

 だれもいない部屋。

 空っぽの寝台。

 脱いでたたまれた、アベルの夜着。


「まさか――――」


 紫色の瞳は、驚愕に見開く。

 まさか、アベルは――。

 追いついたベルトランが、同じ光景を目にして言葉を失う。


 リオネルは踵を返して再び最上階へ向かおうとした。ウスターシュがいるかどうか確認するためである。しかし、すぐにその必要はなくなった。


 振り向いたとき、ベルトランの指示に従わなかった幼い二人の姉弟が、すぐ後ろに来ていた。

 さらに、叫び声が近づいてくる。


「お待ちください!」


 姉弟の後ろから、血相を変えた婦人が、侍女らの制止を聞かずに走ってくるのだ。


「マドレーヌ! セザール!」


 それは、髪もまとめておらず、夜着姿のままの、ラロシュ侯爵夫人だった。子供たちに追いつくと、二人を抱きしめ、夫人は心から安堵したように声をもらす。


「ああ、よかった――あなたたちがいなくて、どんなに心配したと思っているの」


 寝室に戻ったはずの子供たちの姿が見えないと侍女らが騒ぎたてたので、侯爵夫人は二人を探していたのだ。

 姉弟は強く抱きしめられたまま黙っていた。


 そこへ歩み寄る青年の姿に、ラロシュ侯爵夫人はすぐに気がついたようだった。


「リオネル様……」


 ラロシュ侯爵夫人の表情には、明らかに動揺の色が浮かんでいた。


「侯爵夫人殿、アベルは――ラロシュ侯爵は、今どこに」


 リオネルの声音は厳しい。


 青年を見つめ返し、その瞳に逡巡の色を走らせたが、リオネルの気迫に観念したようにラロシュ侯爵夫人は視線を逸らす。その顔は、泣きだしそうにも見えた。


「申しわけございません……」

「アベルはどこへ」


 詰め寄るようにリオネルは問う。


「わたしは詳しいことはわかりません。ただ、夜更けにウスターシュ様が夫を呼びにいらして、共に部屋を出ていきました。しばらくして戻ってきた夫から、わたしのドレスと宝飾品を貸してほしいと頼まれ、それらを渡しました」

「ラロシュ侯爵は――」


 二人の居場所を早く聞き出したい。

 リオネルの声は切迫していた。


「夫は、ウスターシュ様やブリアン子爵様と共に、スーラ山の麓の別荘へ行くと言っていました。……すぐにお話しせず、申しわけございませんでした」


 リオネルは唇を強く噛みしめる。だが、ここで後悔や怒りの感情に身を任せている時間はない。


「クロードとディルクに、このことをすべて伝えてください」


 それだけをラロシュ侯爵夫人に告げて走りだしたリオネルと、それに従うベルトラン。


 侯爵夫人は子供たちを強く抱きしめながら、駆け去る二人の後ろ姿を不安げな瞳で見送る。

 ――なにか、とんでもないことが起こっているようだった。



 厩舎に向かうリオネルの心には、表現しがたい感情がうずまいていた。

 馬に飛び乗り、スーラ山の方角へ駆けだす。

 冷たい夜風が、疾走する馬にまたがる二人の騎手の髪を激しくなぶっていく。


「アベル――」


 彼女はおそらく囮になったのだ。

 ウスターシュは諸侯らを説得し、囮の案に反対した自分に内密に計画をすすめ、そして、アベルを利用した。


 自分がもっとしっかりしていれば……もっと彼女の心と向き合っていれば、こんな事態にはならなかったのではないか。

 そんな後悔が押し寄せてくる。

 今、自分にできることは、一刻も早く彼女を見つけて、諸侯らと山賊の手から救うことだけである。


 ――おれが行くまで、無事でいてくれ。


 月光が、夜道を駆けぬける二騎の姿を、淡い金色に縁取っていた。





+++





 久方ぶりに、スーラ山の麓にあるラロシュ邸の別荘の窓に、光が灯った。


 時間が止まったかのような静寂と闇のなか、月明りと、窓からもれる光だけが、この世界に存在する唯一の目印のようである。


 山賊の被害が多発してから、このあたりを貴族が訪れることは滅多になくなり、こぢんまりとしたこの館も長らく使用されていなかった。

 この夜、館に光が灯ったのは、山賊らをおびき寄せるためである。


 諸侯たちは、別荘の前庭で着替えを終えたアベルが現れるのを待っていた。

 一頭の馬が、ドレス姿の者を乗せて現れたのは、上空にわずかな雲が出てきたころのこと。雲に陰った月が、アベルの姿形を曖昧に浮かび上がらせる。


 アベルは馬を降りて、諸侯らの前で一礼した。


 あたりの暗さと、目深にかぶったフードのせいで顔はよく見えないが、ほっそりとした身体の線は、薄明かりのなかでも充分に認識できる。その出で立ちは、疑うことなく女性そのものだった。


「ふむ、完璧だな」


 想像以上の変装ぶりに、作戦の成功を確信して笑んだのはウスターシュだった。


「遅くなり、申しわけございません」

「夜明けまで、まだ充分時間はある。焦る必要はない」


 シャルルはアベルの姿から目を逸らすように言った。少なからぬ罪悪感が、その胸には芽生えはじめていた。

 このような危険な場所で、主人を守るために女性に扮して囮になる十五歳の少年は、献身的で、健気だった。

 しかしこれもすべて、かわいい妹のため。

 あの子の幸せと、エルヴィユ家の繁栄を願えばこそ……。


 ラロシュ侯爵とブリアン子爵は、複雑な表情のままなにも言わなかった。

 ウスターシュは、アベルとブリアン子爵を交互に見やる。そして、


「危険な役目ですが、どうぞよろしくお願いします」


 子爵にだけそう言ってから、今度はアベルに向きなおり、


「場所はブリアン子爵がご存じだ。おまえは、そこで山賊が現れるのを待つのみ。――しっかりやれ」


 と、冷淡な声音で告げた。


 アベルは返事をせずに、フードの奥で表情と感情のすべてを隠した。

 それと同時に、己の心にも蓋をして、自ら気がつかぬようにする。


 ブリアン子爵とラロシュ侯爵は視線だけを交わして、無言の確認をしあってから、アベルへ視線を移す。


「ラロシュ家、ベロム家、エルヴィユ家の兵士が、きみのあとを追う。必ず守るから」


 ラロシュ侯爵の言葉は、アベルを安心させようとしているというよりは、彼自身を納得させようとしているようだった。


 ブリアン子爵はそっとアベルの背中を押して、歩きだすよう促した。

 歩む先は、別荘の裏手にある、領民にも開放している庭園。この庭園兼公園の果ては、そのままスーラ山の麓の森につながっている。


 二人の後ろ姿が小さくなっていくと、諸侯らは別荘の館なかへ入っていった。

 館の窓からは庭園が見渡せるので、二人の動向を確認するためだった。






 子爵の腕に、少女の繊細な指がからんでいる。


 長身で整った容姿のブリアン子爵と、フードからのぞく髪が輝くように美しい細身のアベル――。庭園の芝生を囲う砂利道をゆっくり歩む二人の姿は、似合いの恋人同士だった。


 いつまでもフードを外さず、顔を見せようとしないことが気になっていはいたが、ブリアン子爵はなにも追求しなかった。


 二人は無言だった。


 月明りは、庭園のところどころ解け残った雪を、青白く光らせている。

 いつ山賊が現れるかもしれないという緊張感が、二人のあいだには流れていた。


 だが、その長い沈黙をブリアン子爵が破る。


「不思議だな」


 なにが不思議なのかはわからなかったが、アベルはあえてなにも問わない。

 押し黙ったままのアベルにかまうことなく、子爵は言葉を続ける。


「こんなふうにきみといっしょにいると、本当に女性を同伴しているような気がしてくる」


 恋人同士のように寄り添っている相手の言葉に、アベルは内心でぎくりとした。

 なぜ、そんなふうに思ったのだろうか。

 アベルが抱いた疑問を見透かしたように、子爵は答えた。


「私の腕に添えた手のからませ方とか、ドレスをまとって歩く身のこなしとか、とても女らしい」


 アベルは無言をつらぬく。なにか口にすれば、それはすべて裏目に出て、さらなる疑惑を招くような気がしたからだ。


 彼女の沈黙の意味を、当惑と受けとった子爵は、ふと口元をゆるませ、フードに隠れて見えないアベルへ視線を向けた。


「おかしなことを言ってすまない」

「……いいえ」


 ようやくアベルはそれだけ答える。


 しかし、なおもブリアン子爵は、どこかでひっかかるものを感じていた。

 彼は、その容姿や、身にまとう独特の気だるげな雰囲気ゆえ、多くの女性の気を引く。そのため、子爵は十年ほどまえにすでに結婚しているが、それ以前は幾多の女性から誘いを受け、彼女らを伴って夜会や舞踏会に出席していた。


 だからこそ、感じたのだ。

 アベルの身のこなしは、かつて同伴した貴族の令嬢らと寸分も引けをとらず、むしろ彼女らよりも流麗でさえある。

 手の添え方や、歩き方、立ち居振る舞いは、完璧以上のものだ。

 これが、本当に昼間見た従騎士の少年と同一人物なのかと、疑わずにはおれなかった。顔が見えないぶん、あの少年が、すぐ隣にいる女性であることが余計に信じがたい。


 ある不安に駆られて、ブリアン子爵は歩みを止める。

 それに伴って、アベルも立ち止まった。


 アベルが不審に思ってフードの奥から視線を向けると、心配そうな子爵の眼差しとぶつかる。

 そして、彼は思わぬことを口にした。


「顔を見せてくれないか」


 真剣な声だった。

 彼がなにを確かめようとしているのかわからない。けれど、それがなんであろうとも立場上、子爵の頼みを拒否するという選択肢は、アベルには与えられていない。

 わずかにうつむいてから、ためらうように細い両手が上がる。

 そして、ゆっくりフードを上げた。


 顔を隠していたフードが後方へ滑っていくと、うすい雲に覆われた、おぼろげな月明りのもとでもそれとわかる、まばゆいほどの美貌があらわになった。


 子爵は息を呑む。

 それは、たしかにアベルの顔である。

 だが、アベルだと知っていたから、わかったのであって、もしなにも聞かされていなかったら、これがあの従騎士の少年と同じ人だとは思わなかったかもしれない。


 なぜなら目前の人物は、真に女性のようだったからだ。

 薄く化粧がほどこされた白い肌、赤い唇、美しく結いあげた金糸の髪、それを彩る宝石たち。

 華やかな貴族界に身を置いてきた子爵でさえ見たこともないほどの、絶世の美女だった。


 そのとき、ブリアン子爵の脳裏に、ある光景が思い起こされた。


 昼間、アベルをかばってウスターシュの拳を受けたリオネル。

 顔を背けて斜めから睨みかえした青年の、紫色の瞳にたたえられた激しい感情。普段穏やかな彼からは、想像できない激情の波を垣間見せた。


 そのあとの、ディルクの言葉。


 ――貴方のご子弟のお気に入りであるアベルは、リオネルのお気に入りでもありますから、なかなか手放してもらえないと思いますよ。


 そして、アベルを囮にすると言ったときの、リオネルの反応。

 なぜ、リオネルはあれほどまでアベルを――。


「…………!」


 ブリアン子爵のなかで、突如として理解のひらめきが生じた。


「きみは――」


 彼がなにか言いかけたとき、それはアベルの瞳に走った緊張で遮られた。

 二人が素早く周囲を見渡すと、とたんに月が雲に隠れて辺りは陰る。


 闇のなかで幾多の足音が近づいてくる。


 背後に気配を感じたが、振り返る間もなくアベルの身体は、すさまじい力で背後から拘束されていた。

 悲鳴を上げそうになって、無意識に息を詰める。


「アベル!」


 次の瞬間、信じられないことが起こった。

 長剣の鞘鳴りとともに、刀が人を裂く鈍い音――そして、どさりとだれかの身体が砂利道に落ちる、重たい音が聞こえた。


 アベルは蒼白になって、子爵の名を呼ぶ。

 計画では、ブリアン子爵は即座に剣を捨てて逃走するはずなので、剣を抜いたのが賊のほうだとすれば、斬られたのは子爵である。


 しかし、雲間から漏れた月明りが照らし出したのは、返り血を浴び、長剣を構えて佇む子爵の姿と、地面に横たわった見知らぬ男の死屍だった。

 また、月明りは、二人が置かれている状況も教えてくれた。

 周囲は完全に賊に囲まれている。山賊をおびき寄せることには成功したようだ。


 けれど、ブリアン子爵の行動はまったくの予定外である。


「子爵様、剣を捨てて、お逃げください!」


 アベルは、男たちに羽交い絞めにされながら叫ぶ。

 しかしブリアン子爵は剣を捨てなかった。


「ご領主様は、愛する恋人を置いて逃げられないみたいだぜ」

「仲間の仇だ。おれたちが、なぶり殺しにしてやるよ」


 賊が恰好の暇つぶしを見つけたとばかりに、喜々として武器を構え、次の瞬間、子爵に襲いかかった。







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