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「いい月夜だなあ」


 のんびりと空を見上げてつぶやいた若者の声は、月明りに吸い込まれていく。


「こんな夜は、酒を飲みながら、花でも眺めたいもんだな」

「おまえのいう花ってのは、女のことじゃないんだろう」


 あざけるように言ったのは、仲間のひとりである。


「花といったら花だ。木に咲くやつ」


 すると、周りにいた数人の男たちがいっせいに笑った。


「花なんか見て、なにがおもしろいんだ」

「この時期に、山に花なんて咲かねえよ」


 しかし若者はそれを気にせず、木張りの床に片膝を立てて座ったまま、窓に縁取られた月夜の景色を見つめている。

 その様子を冷めた目で見つめながらも、ひとりが酒瓶を若者のそばに置いた。


「酒ならあるぜ、ヴィート」

「ああ」


 生返事をしたが、ヴィートは酒瓶に目を向けなかった。

 そのとき、小屋の扉が開いて数人の男たちが入ってくる。


「あれ、おまえら、なんでここにいるんだ? バルトロたちといっしょに、山を降りたもんだと思ってたぜ」

「山を降りた?」


 その言葉に、まっさきに反応したのは、今しがたまでぼんやりと月を見ていたヴィートだった。


「仕事をしにいったのか?」

「もちろん」


 仲間がうなずくのを見て、ヴィートは即座に立ちあがる。


「あいつらなにやってるんだ。山の下では、ベルリオーズの騎士隊が到着したばかりだぞ。慎重に行動しろと、ブラーガから指示が出ているのを忘れたのか」

「そんなことおれに言われてもなあ。おまえらが一緒だと思ったから、引きとめなかっただけだ」


 ヴィートは忌々しげに舌打ちした。


「あいつらが勝手に死ぬのはかまわないが、下手なことをして居場所が知られたら――」

「首長が激怒するだろうな」


 先程ヴィートに酒瓶を差しだした男が、恐怖に顔を歪めてそう言ったので、ヴィートは呆れた。


「あいつが怒ることが問題じゃないだろう」


 仲間たちは、ブラーガを怒らせる事をなによりも恐れているのだ。


「問題は、下手なことをして、貴族らがここを攻撃してくることだ」

「ヴィート、おまえが山を降りてバルトロたちを監視してきてくれよ。おまえが行けば、なんとかなるだろう」


 仲間のうちで動こうとする者はひとりもいない。皆、バルトロらの軽率な行動に巻きこまれて、ブラーガからの怒りをかいたくないのだ。

 再び舌打ちしてから、ヴィートは扉に向かった。


「ああ、せっかく、人がいい気分で月を見ていたっていうのに……」


 自分が動かなければ、だれもなにもしてくれそうにない。結局、山賊など、自分のことしか考えていない、薄情で、残酷で、身勝手な者の集まりなのだ。


 一抹の寂しさを覚えながら、ヴィートはぼんやりとブラーガやエラルドのことを思い出した。

 ……あの二人なら、この山の仲間たちとは違う行動をとっただろうか。


 駆けていく彼の後ろ姿は、月明りの届かない森の闇の中へ消えていった。




+++




 ドレスの寸法はやや大きめだったが、腰まわりの結い紐をきつく縛って、なんとか身体にあわせる。それから、ドレスの上に厚手の外套を羽織り、外で待たせていた女中を部屋に入れた。

 外套を羽織ったのはなるべく身体の線を見せないためである。


 ドレスを着たアベルを見て、女中メイドは目をみはった。美しい騎士だとは思っていたが、ドレスを着た姿は言葉にならぬほどであり、さらに、これほど女性らしいものとは想像していなかったのである。

 けれど、彼女はすぐに己の本来の仕事を思い出し、アベルを椅子に腰かけるよう促して、髪を結いあげ、化粧を施しはじめる。


 少年騎士の肌の白さ、水色の宝石のような瞳、整った目鼻立ちを間近にして、化粧を施す手が震える。

 耳飾りをつけ、最後に首飾りをかけようとしたときだった。

 彼女は、はじめて声を発した。


「アベル様、首にかかっている首飾りは、お外ししてもよろしいでしょうか」


 問われて、アベルはリオネルからもらった水宝玉の首飾りを見下ろす。

 ――外したくない。

 だが、奪われる可能性があるところに、つけていくわけにもいかない。アベルはややためらってから、自分で首飾りを外した。

 そして、ぽつりと言った。


「あなたのお名前を聞いてもよろしいですか?」

「わたし……ですか?」


 唐突に名を聞かれた女中は目を丸くする。

 歳は、アベルより少し上くらいだろうか。邪心の感じられぬ焦げ茶色の瞳は、純朴そうな人柄を現している。


「はい」


 アベルがうなずくと、女中はおずおずと名乗る。


「エヴァといいます」

「エヴァ」


 振り返ってアベルはエヴァを見上げる。


「これを、預かっていてもらえませんか?」


 そう言って、右手に持った首飾りを差し出した。


「……このような高価なものを、わたしが?」


 緊張した面持ちのエヴァは、なかなか首飾りに手を伸ばそうとしない。


「もしも、わたしの身になにかあれば、これをリオネル様にお渡ししてほしいのです。引き受けていただけませんか?」


 アベルの顔と首飾りを交互に見て、エヴァはようやくゆっくりと首飾りの下に手を添える。アベルはそっと首飾りを掴む手から力を抜いた。

 水色の宝石は、エヴァの手にうえに落ちる。


 この少年騎士の身に今夜なにが起こるのかエヴァは知らなかったし、それを問うことも許されてはいなかったが、けれど、優しくも哀しげな笑みを向けてくるこの少年のために、たかが女中の身分である自分ができることがあれば引き受けたいと思った。


「かしこまりました。たしかにお預かりいたします」


 ベルリオーズ公爵家の跡取りの青年。

 遠目に見たことはあったが、身分が違いすぎて、まかりまちがっても話しかけることなどできようはずがない。少年騎士からの頼みを引き受けたものの、彼が無事に戻ってくることをエヴァは心から願う。


「ありがとう」


 女性に扮した騎士の笑顔に、エヴァは頬を染めた。

 化粧を施した少年は、清楚でありつつも艶やかだった。


 ――奥方様やマドレーヌ様よりも、はるかに美しいわ。


 エヴァは、この少年が今夜いったいなにをするのか、だんだんと不安になってくる。このような姿で出歩けば、危険であることこの上ない。

 けれど、そこは女中が詮索することではなかった。

 最後に別の首飾りをつけ、エヴァの仕事は終了する。


 アベルは再び彼女に礼を述べると、ほとんど視線を合わせることなく、己の姿を隠すように外套のフードを目深にかぶり、そして寝室を出た。


 ラロシュ邸の庭園側から外に出たアベルは、庭に下りたところでつないであった一頭の馬のもとへまっすぐに歩む。

 シャルルらが用意した馬だ。

 この馬に乗って、スーラ山の麓にあるラロシュ邸の別荘に向かう。そこには、すでにこの計画に賛同した諸侯らが集まっているだろう。


 ドレス姿で騎乗するのは、とても久しぶりだった。

 馬の背にまたがり、そして、ほとんど明りの消えているラロシュ邸の最上階を見上げる。

 あの一室にリオネルがいる。

 深い紫色の瞳。やさしい眼差し。穏やかな声音……。そのすべてが思い浮かんできて、不思議と胸を熱くする。


「ごめんなさい」


 アベルは迷いを振り切るように、顔をうつむけて馬の腹を蹴った。

 十五歳の少女を乗せた馬は、軽快にスーラ山の方角へ走りだした。







 月が空高く登り、ラロシュ邸を包む。

 領民のほとんどが、深い夢のなかにいるころ。


 近くにいたはずなのに、互いに深く思いやっていたはずなのに、ほとんど会話を交わしていなかった青年と少女は、もはや同じ館のなかにいなかった。


 最上階にあるリオネルの寝室。

 騎士らと同様の、地上階にあるアベルの寝室――そこには、もう、アベルはいない。


 ……月の明るさが輝く星をかすませてしまう、静かな夜だった。


 ベルトランは、豪奢な寝台の傍らに敷いた寝具で横になっていたが、とうに布団に入ったリオネルに寝た気配がないことに気がついていた。

 深い闇の大気を震わせたのは、ベルトランの低い声だった。


「眠れないのか」


 返ってきたのは、静寂と、意識が向けられるかすかな気配である。


「……なにか気になることでもあるのか」


 返事はなかったが、その沈黙が質問の答えだった。

 ベルトランは、相手がなにか言うまで待った。

 話したくないなら、話さなくていい。なにか聞いてほしいことがあるなら、自分から口にするだろう。


 再び訪れた長い静寂を破ったのは、リオネルの声だった。


「ずっと、アベルと話していない」


 沈んだ声音に、ベルトランは闇のなかでかすかに目を細める。二人がほとんど会話をしていないことは、彼も気がついていた。


「ああ」


 ベルトランは短く答える。


「――いや、話していないのではなくて、話せないんだ」


 今度は、ベルトランからの返事がない。だが、彼がきちんと聞いていることをリオネルは知っていた。


「怖いんだ」


 室内は、月明りのある外よりも暗い。

 恐ろしいほどの静寂が、二人がいる部屋を呑みこんでいる。


「アベルを傷つけてしまうことが怖い――他でもない、おれ自身のこの手で」


 二人とも、布団にくるまったまま身じろぎひとつしない。わずかな衣擦れの音も聞こえなかった。


「口を開けば、おれはどんな言葉を彼女にぶつけてしまうかわからない。心配で、心配で仕方がないのに、それを口にすれば、抑えきれない感情があふれて、真実を伝えられないぶん、厳しいことばかり言ってしまいそうになる。だから、彼女を傷つけまいとすると、なにも言えなくなってしまう」


 カーテンの隙間から差し込むわずかな月明りだけが、室内の光源である。そのなかで、リオネルとベルトランは、両目を開けていた。

 見えそうで、見えないなにかを探るように。


 長い沈黙のあと、ベルトランの声が静かに響いた。


「おまえは――逃げているんじゃないか?」


 紫色の瞳が、闇のなかで大きく見開く。今度はリオネルが押し黙る番だった。


「おまえは、今アベルがどんな気持ちでいるか、想像できるか。落馬した日からおまえと会話も交わさず、寝室を離され、そして、今日の昼のようにおまえに怪我を負わせ……アベルは、どんな気持ちでいると思う?」

「それはアベルを守るため――」


 そこまで言って、リオネルは口をつぐんだ。


「アベルを守るため。そうだな、彼女の身は安全だ。だが、彼女の心はどうだ? なによりもおまえを守ることだけを考えて生きているアベルが、己は主人の役にたたず、逆に迷惑ばかりをかけていると感じたとき、どんな気持ちがするだろうか」

「…………」

「彼女をあらゆる危険から守りたいという気持ちは、あの子を愛おしく思うなら当然のことだ。だが、アベルを安全な場所にかくまうことで満足しているなら、それは彼女を救うことにはならない」


 寝台の上で、リオネルはゆっくり半身を起した。


「傷つけるのが怖くて会話を交わせないというのは、おまえが、アベルの本当の気持ちから逃げているからではないか? なにが最も彼女を傷つけるか、あの子が真に望んでいることはなにか、あの子の気持ちに向き合えばわかるんじゃないか」


 降り落ちた沈黙と静寂。

 そして青年は、黒い闇を見据えていた瞳を、自らの手のひらへ向けた。


「おれは、アベルの気持ちを……」


 ――受け止めきれていなかったのか。

 それは、質問と言うよりは、愕然とするようなつぶやきだった。


 ベルトランの言うとおりだった。

 アベルの、澄んだ色の瞳。そのまっすぐな眼差しに秘められた、まっすぐすぎるほどの思いが、怖かった。

 己のなにもかもをかけて、守ろうとしてくれる彼女の気持ちが、怖かった。

 そのせいで、彼女を失う日が来るのではないか、不安だった。

 不安で、不安で仕方がなかった。

 だから、彼女をベルリオーズに置いて行こうとも思ったし、落馬したとき厳しい言葉をぶつけてしまったし、ずっと話しかけることができなかった。


 けれどそれは、すべて己の一方的な気持からではなかったか。

 それは、すべて己の不安の裏返しではなかったか。

 ……そのとき、彼女は、どう感じたのか。

 そこまで思い至るほどの余裕は、リオネルにはなかった。


「言っただろう? 恋をすれば、己が見えなくなると。おまえは少し厚い霧のなかにいただけだ」


 張りつめた空気を感じて、ベルトランも半身を起し、気遣わしげに青年に言葉をかける。


 リオネルは、両手に顔をうずめていた。

 受け止めようと思っていた。

 受け止めていると、思っていた。

 それなのに――。


「――おれは、アベルのなにもわかっていない」

「リオネル」


 深く沈みこんでしまった主人に、ベルトランはかける言葉を失う。

 二人が会話を交わさない状況が続くことは、けっして良い結果を生まない。それを懸念し、今の状況をどうにかしたいとベルトランは願っていたが、リオネルを落ち込ませかったわけではない。


「アベルは、今どんな夢を見ているだろう」


 かすれた声は、静寂のなかに溶けていく。


「リオネル、身体が冷える。布団に入ったほうがいい」


 ずっと半身を起したままであることが気になり、ベルトランは立ちあがって毛布を青年の肩にかける。

 するとリオネルは、ひとりごとのように、ぽつりと言葉を布団の上に落とした。


「アベルに会いたい」


 ベルトランは気遣わしげな表情で、わずかな月明かりが照らす青年の横顔を見つめる。


「……もう、寝ているだろう」


 ベルトランのひと言には答えずに、リオネルは再びつぶやいた。


「アベルと、話したい」


 字面のみを捉えると、まるで、駄々をこねる子供の台詞のようである。けれど、その声は、苦渋に満ちていた。


「明日、話せばいい」


 リオネルが返答などを求めていないことはわかっていたが、ベルトランはなんとかして言葉を探す。


「――アベルを抱きしめたい」

「それは……」


 なにを言うべきか決めかねていたベルトランが、突如、床の寝具のわきに横たえてある長剣に手を伸ばした。扉の外に人の気配を感じたからだ。

 リオネルも枕の下に手を差し入れて短剣があることを確認し、扉口に神経を集中させる。


 赤毛の若者がゆっくりと扉へ歩み寄り、取手を掴むと、それを勢いよく開けた。

 構えた長剣の先にいたのは――。


 赤みがかった銅色の髪の少女と、褐色の髪の少年だった。






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