71
月が空高く登り、ラロシュ邸を包む。
領民のほとんどが、深い夢のなかにいるころ。
同じ館のなかにいるのに、互いに深く思いやっているのに、ほとんど会話を交わしていない青年と少女は、それぞれの部屋で自らの寝台に横たわっていた。
最上階にあるリオネルの寝室。
騎士らと同様、地上階にあるアベルの寝室。
……月の明るさが、輝く星をかすませてしまう、静かな夜だった。
少女の部屋に、招かざる客が訪れたのは、そんなときだった。
扉を叩く音は、なかなか寝付けないでいていた少女を少なからず驚かせる。
――こんな夜更けにだれだろう。
はっとしてから、ある面影がアベルの脳裏をよぎる。そして、そっと首飾りを握りしめた。
寝台を降り、上着を羽織ってから、静かに扉を開ける。
けれど、そこにいたのは思い浮かべた人物ではなかった。
自分はなにを期待しているのだろう。アベルは、自らの思い上がった考えが恥ずかしくなった。
「ジュストさん、なにか」
冷ややかな声音で、訪問者に要件を問う。
「役立たずのおまえが、役に立つかもしれないようだ」
唐突に言われて、アベルは形のよい眉をひそめた。
「なんのお話でしょう」
「シャルル様や侯爵様がお呼びだ。そのままの格好でいいから、ついてこい」
「このままって……」
自分が着ている服をあらためて見下ろし、アベルは眉間のしわをさらに深くした。
男物とはいえ、羽織の下には夜着一枚だけである。
「こんな格好で部屋を出ることはできません。シャルル様や侯爵様にも失礼です」
「ごちゃごちゃとうるさいな。だれもおまえの格好なんて気にしていないから、それでいい」
「わたしが気になります」
強い口調で反論されて、ジュストは舌打ちした。
「じゃあ、早く着替えろよ」
「あなたは出ていってください」
「女じゃあるまいし、着替えを見られたところで困らないだろう」
「人にはそれぞれ事情があります。私は嫌です」
ジュストは嫌味なほど大きな溜息をついたが、「早くしろ」と吐き捨てて扉を閉めた。
彼には、下手に出ざるをえない理由があった。
アベルには、どうしてもシャルルやウスターシュに会ってもらい、そして、協力してもらわねばならないのだ。
囮に関するすべての話は、シャルルから聞いている。自分の手を汚さずにアベルをおとしいれることができる、絶好の機会だった。
室内では、侯爵がいったい自分になんの用だろうと思いながら、アベルは服を着替えていた。
挙がった名前のなかに、ウスターシュがいれば、アベルも警戒して赴くことを躊躇したかもしれない。けれど、シャルルやラロシュ侯爵はリオネルとの仲も良好で、信頼のおける人たちなので、彼らが呼んでいるというのなら断る理由はない。
着替えが終わると、二人は二階の一室へ向かった。
その部屋の扉が開いた瞬間アベルは、どこか重たく、緊張した空気を感じとった。
そこには、シャルルとラロシュ侯爵だけではなく、ウスターシュ、ブリアン子爵、そして、フォール公爵家のセドリックもいる。
当惑した表情のアベルに、まずはラロシュ侯爵が申しわけなさそうにほほえんだ。
「こんな夜更けにすまない」
「……いいえ」
わずかな警戒心を宿した目で、アベルはラロシュ侯爵を見返す。
アベルが身構えたのは、そこにウスターシュがおり、逆にリオネルやディルク、ベルトランの姿がなかったためである。
リオネルらがいないのに、従騎士である自分をひとり呼び出すなど、普通のことではない。
その心情を察したのか、ラロシュ侯爵はさらに眉尻を下げた。
諸侯らによる、アベルの説得がはじまったのは、その直後だった。
中心にある肘掛椅子に座るよう促され、謝絶したものの、やや強引に座らされる。
アベルの前には、どこで情報を仕入れたのか、彼女の好きな蜂蜜酒まで用意されていたのだから、余計に不気味である。
こうして万全の環境を整えてから、彼らが企てている計画を説明したのはシャルルだった。
リオネルやディルクに秘密裏に囮の案をすすめること、その囮の役をアベルにやってもらいたいということ。それらを説明されて、アベルは大勢の名だたる諸侯らを前に、きっぱりと言い切った。
「わたしは、リオネル様の命令なくして、この役目を引き受けるわけにはまいりません。まずはリオネル様のご了承を得ていただけますか」
多くの諸侯らに囲まれて、ラロシュ侯爵やブリアン子爵でさえ威圧感を覚えたのだから、この従騎士の少女にとってはなおさらだっただろう。
けれど、アベルの瞳はまっすぐにシャルルを見据えていた。
そこにいるすべての諸侯らが虚をつかれたが、シャルルはすぐに立ち直った。彼には、どうしてもこれを成し遂げなければならない理由がある。
「ああ、そうだと思う。だが、リオネル様の命令如何については、とりあえず置いておいて、まずはきみ自身の考えを聞かせてほしい」
アベルは、リオネルの婚約者候補の兄である男を、水色の瞳でひたと見上げる。
シャルルの真意を測りかねたからだ。自分のような一介の従騎士の意見など聞いてどうするつもりだろう。
リオネルの命令がなければ動かないと言っているのに、この人は自分からなにを引きだそうとしているのか。
「そんなに身構えないでいい。正直に思ったことを話してくれ」
横合いから声をかけてきたのはセドリックだった。
しかたなくアベルは口を開く。
「リオネル様のお考えになることが、わたしの考えです」
その強情な口ぶりに、ウスターシュは思わず顔を引きつらせ、ジュストは苛立った。
「アベル、侯爵様やセドリック様に対して、なんて口のきき方だ」
後輩を叱咤するように見せて、ジュストはなんとかしてアベルを言いくるめられないかと内心で焦っていた。
「おまえはリオネル様に迷惑をかけてばかりいるのだから、綺麗事ばかり言っていないで、なにが自分にできるのか考えてみなさい」
彼の言うことには納得できなかったが、アベルは反論しない。この青年を相手に口答えしても、ただ喧嘩になるだけだからだ。諸侯らのまえで、ベルリオーズ家の二人の従騎士が喧嘩するなどという見苦しい姿を晒したくなかった。
「ジュスト」
シャルルに諌められて、ジュストは口をつぐんだ。
「では質問を変えよう、アベル。囮になること自体を、きみはどう思っている?」
「それは――」
やや考えをめぐらせてから、戸惑いがちに答える。
「わたしにできることで、リオネル様や皆様のお役にたてるなら、お引き受けいたしますが」
「そうか……!」
アベルの返答に、求めていたものを見出したことで、シャルルの声には喜々とした響きが加わった。
その響きを感じとったアベルは、すかさず付け加える。
「ただし、それもリオネル様がご納得されていれば、です」
シャルルは幾度もうなずいているが、それはアベルの言葉に対するものではなく、もうひと押しと、自らを激励するものであった。
「では、もうひとつ聞かせてほしい。仮に、リオネル様が危機に立たされているとする。あの方の危機を救うことができるのはきみだけなのに、リオネル様が助けに来るなとお命じになったとしたら、きみは黙ってそれに従うことができるか? それとも、命に背いてリオネル様をお助けするか?」
「…………」
架空の状況を設定しているように見えて、シャルルが意味しているのは、今のこの状況そのものである。
アベルは表情を曇らせた。
ずるい質問だ。質問をするごとに、アベルをあるひとつの方向へ誘導しようとしている。
けれど、質問に答えているのは他でもないアベル自身である。アベルは、自分のなかに潜在的にある思いに気がつかざるをえない。
美しい水色の瞳を、口をつけていない蜂蜜酒の杯のうえに彷徨わせてから、
「……命に背いても、リオネル様を助けにいきます」
とアベルは小声で答えた。敗北感に近いような思いを感じながら。
シャルルとウスターシュは、深く首肯する。
「アベル、きみはもう気がついているのはないか? 自分がどう行動すれば、リオネル様とベルリオーズ家を助けることができるのか。そして、きみひとりを犠牲にすることができないリオネル様のお優しさも、わかっているのではないか? それでも、きみはリオネル様のご命令に従うことが、自分の成すべきことだと思うか?」
たたみかけられて、アベルは唇を噛んだ。
答えは、ひとつしかない。
このように問われれば、他に返答のしようはなかった。
「……いいえ」
かすれた声でつぶやいた。
「それはどういう意味だ?」
焦れたウスターシュが口を挟む。
彼を睨み返す気にもならず、アベルは小さな声で答える。
「……リオネル様のご命令に背いても、成すべきことがある場合があると、思います」
「それはどういう場合だ?」
「……今、かもしれません」
それは、小さい声だったが、たしかにここに集まった諸侯らの期待していた言葉だった。
最後に問いかけたのはセドリックだった。
「では、囮の話を受けてくれるか」
アベルは、セドリック、シャルル、ウスターシュ、ラロシュ侯爵、ブリアン子爵の顔の上に視線を滑らせ、そして、諦めたようにかすかにうなずく。
だれも、アベルを救ってくれそうにはなかった。
「感謝する」
セドリックに謝意を述べられ、アベルはうなずいたが、心は沈んでいた。
皆に迷惑をかけ、リオネルの警護を外され、挙句の果てには、彼の意思を無視して囮になる役目を引き受けてしまったのだ。
けれど逆にこのような状況だからこそ、アベルがリオネルや仲間たちのために役立てることなど、これくらいしかなかった。
これでいいのかもしれない。
そんな気もしたし、そう自分に言い聞かせようとした。
それからシャルルが具体的な計画を説明したが、アベルは言葉を理解しつつも、どこかぼんやりとそれを聞いていた。
舞台は、スーラ山の麓にあるラロシュ家の別荘近くの公園である。
山賊の被害が著しく、夜にそこらをうろつけば必ず襲われると噂される場所だという。
アベルは貴族の令嬢になりすまし、恋人役のブリアン子爵と共にそこで山賊が現れるのを待つ。
賊が襲ってきたら、ブリアン子爵はすぐに剣を捨てて逃げ去り、アベルはあえて山賊らに連れされて、彼らの居場所をつきとめる。
この役にブリアン子爵が抜擢されたのは、外見の良さと、優れた剣技の持ち主だからだった。いざというときには、戦うことができる者が選ばれたのである。
「基本的に自力で逃げ出してもらうことになるが、なにかあれば、きみの後を追う兵士たちが、きみを無事に逃がせるように動く。安心していてくれ」
シャルルはそう言った。
一応こちらの身の安全を考慮してくれているらしい諸侯らに、アベルは曖昧な笑顔を返す。
自分の命が惜しいわけではない。
リオネルのためなら、いつだって差し出す心構えはできている。
けれど、彼の意思に沿わないことをしようとしているという罪悪感は、アベルの心を苦しめた。
そのアベルの最後の迷いを断ち切らせたのは、部屋を出る前にシャルルが口にした言葉だった。
「アベル、きみにこんなことをさせて本当にすまない。リオネル様やベルトラン殿にも申しわけなく思っている。だが、これもリオネル様と、そして、フェリシエのためなのだ。フェリシエは、山賊討伐に赴くリオネル様のことをひどく心配して、それは心労で倒れるのではないかというほどだ。妹のためにも、リオネル様を早く無事にこの任務から解放してさしあげたいと思っている。二人の幸せのために、この役目を引き受けてほしい。きみにしかできないことだからこそ、こうやって頼んだのだ」
どこか寂しげに、アベルは笑った。
なにが哀しいのか、自分にもよくわからないが、もはや心を定めたのはたしかだった。
囮になるのは、今夜だという。
事の性急さに驚いたが、すぐに納得した。
自分たちがこのような話を進めていることに、長いこと気がつかないリオネルやディルクらではない。すぐに行動を起こさなければ、勘付かれて阻止されるだろう。
また、シャルルやウスターシュには別の焦りもあった。
一夜明けて、再びリオネルらと会議の場で話し合ったら、ラロシュ侯爵やブリアン子爵をはじめ、まだわずかな迷いを見せている諸侯ら、そして、なにより囮になってもらわねばならぬアベル自身が、考えを変えてしまうかもしれない。
彼らの気持ちが変わらぬうちに、やれることはやっておかなければならなかった。
アベルは、いっそのことリオネルが気づいてくれたら――という気持ちを心のどこかで持っていた。彼の意思に背きたくない。
けれど、シャルルの言葉が背中を押す。
難題を背負っているリオネルと、彼のことを心配して心を痛めるフェリシエ。
ベルリオーズ家の未来を背負っていく二人のために――。
アベルは女性物のドレスと外套、そして宝飾品と化粧道具を、なんともいえぬ表情のラロシュ侯爵から受けとり、自室へ戻った。それらはすべて奥方のものだろう。
着替えと化粧を手伝う若い女中がひとり与えられたが、アベルは彼女を寝室に入れず、いったん扉の外で待つように指示した。
時刻は深夜をとっくにまわっていた。