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昼食を挟んで、再び会議が開かれた。
今度はアベルも傍聴する。
広い会議場の中心には大きな楕円形の机が置かれており、諸侯らはその周りに腰かけている。騎士らはその背後で、立ったまま主人らの討議を聞いた。
会議場といっても、机を移動させれば舞踏会場と呼んでも遜色のない、壮麗な広間である。
正面は、天井から床まで一面が扉窓になっており、その対面には壁画が描かれていた。
壁に描かれた神話の一節には、三美神が立ち並んでおり、そのうちのひとりである戦いと勝利の女神アドリアナは金糸の髪と水色の瞳で、長剣を片手に握るその姿は、どこかアベルに似ていた。
この日は久しぶりに晴れて、大きな扉窓からは、春を感じさせるあたたかな日差しが差しこんでいる。窓際に立つ騎士らの背中は、柔らかい光で包みこまれていた。
普段なら、会議などなければ外を散歩できるのにと思うアベルであろうが、今はそんなことも思い浮かばない。午前の会議をすっぽかしたからではない。落馬してリオネルに迷惑をかけたこと、そのせいで警護役を外されたこと、それからずっとリオネルと言葉を交わしていないこと、そしてつい先程、自分が起こした揉め事に巻きこんで彼に怪我をさせたこと、それらのすべてがアベルの心に暗い影を落としていた。
自分は、彼の役にたっていない。それどころか、迷惑ばかりかけている。
―――そして、そんな自分を、リオネルは必要としていない。
そんな気がしてならなかった。
どれほど役に立たなくても、自分のそばにいてよいのだと、リオネルは言ってくれたが、それは必要とされているということとは異なる。
リオネルを守ることのできない自分。そこには、自分が存在する価値はない。
十五歳の少女の心は、孤独と虚無感の深海に沈みはじめていた。
一方、机を囲い議論を交わす諸侯らのあいだでは、緊迫した空気が流れている。
先程から、ベルトランが説明してくれたとおり、意見は対立しており、まとまる気配はない。
そのような状況のなか、自分より年上の諸侯らのまえで、物怖じせず意見を述べるリオネルの姿は、少なからずアベルの胸を打った。
この人にとって、真に怖いものなどあるのだろうかと、アベルは思う。
ディルクは一貫してリオネルの味方に付いているが、レオンはさほど興味なさそうに話を聞いているだけだった。
ウスターシュは、とにかく早急に兵を率いて、最も被害が多く出ているラロシュの村々のそばにあるスーラ山に攻め入るべきだと主張する。
それに対してリオネルは、むやみに山に入っても騎士らを危険にさらすだけのこと、まずは山賊の様子を探るべきであると主張する。
「しかし、リオネル殿。山賊の様子を探ったうえで、貴方がしようとしていることは、頭領との話し合いなどという茶番でしょう。馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるように言ったのは、むろんウスターシュである。
「たしかに、ただの茶番になるかもしれません。ですが、やってみなければわからないこともあります。兵士を戦わせるのはそのあとでもけっして遅くはありません」
冷静に答えるリオネルに、ウスターシュは小さく舌打ちする。追い打ちをかけるように、シャレット男爵が彼に問う。
「そもそも、ウスターシュ殿は攻撃をしかけるとおっしゃいますが、山賊の居場所もわからぬのにどこを目指して攻撃するというのですかな」
「それは、リオネル殿の案とて同じこと。頭領の居場所がわからないのに、いかにして話し合いなどするのですか」
「ですから、それをつきとめるためにも、まずは山賊の様子を探るべきだと、リオネル様はおっしゃっているのです」
「そのようにのんびりと事を進めていたら、この山賊退治、いつまでたっても終わりませぬ」
苛立つウスターシュを、皮肉っぽく見やるのはブリアン子爵である。
「貴方はいったいなにを焦っていらっしゃるのですか。さほど急がれて事を進めることに、どのような益があるのです」
ウスターシュが返答するより先に、口を挟んだのはフォール公爵の長男セドリックだった。
「たしかに急ぐ必要もありませんが、のんびり構えている余裕があるわけでもありません。こうしているあいだにも、どこの村が被害にあっているかわかりません。そのことについて、リオネル殿はいかにお考えになりますか」
問われたリオネルは、静かにうなずいた。
「セドリック殿が危惧されることは、もっともなことだと思います」
「では、貴方はそう思っていらっしゃるのに、なにも行動しないと申されるのですか」
すかさず割りこんできたのは、ベロム領の北に隣接する領地を治めるグヴィド子爵であった。彼は王弟派に属しつつも、状況によって国王派にも媚びる、抜け目のない男である。そういう男だから、リオネルに対する敬服の念は深くはない。
リオネルは、グヴィド子爵の物言いに気分を害した様子もなく答えた。
「いいえ、なにもしないわけではありません。兵士たちを被害が多い地域の村に潜ませ、警護にあたらせます」
「それは良い案ですが、それだけでは山賊は一掃できますまい」
「これから申しあげることは、あくまで私の意見ですが……農村を警護し、実際に襲われた際には、一部の山賊らを生かしたまま捕らえます。そして、捕らえた賊から情報を聞き出すのです」
「なるほど、捕らえた山賊から居場所を聞き出すということですな」
クヴルール男爵がうなずくと、ラロシュ侯爵がうなった。
「しかし、山賊どもは口が堅く、けっして居場所を語らないと聞きます」
「さて、たったひとりだけ捕らえても口を割る可能性は高くありませんが、十人も捕らえれば、そのうちのひとりくらいは口を割るのでは」
こともなげに言ってのけたのはディルクである。
その言葉にブリアン子爵が笑った。
「それはそうかもしれませんね」
他の諸侯らも同調する。
「良い案だと私は思います。村々を警護できるうえに、山賊を捕らえる機会にもなり、一挙両得ではありませぬか」
「最終的にどのような方策をとるにせよ、山賊の居場所がわかれば、我々にとって大いに有利に働きましょう」
「ですが、山賊らが村を襲ってこなければいかがするのです」
方向性が見えはじめていたところへ、再びつっかかってきたのはウスターシュである。
「襲ってこなければ、それはそれで平和でよいではありませんか」
ブリアン子爵が呆れたような顔をすると、ウスターシュは顔をしかめた。
「私はそのようなまどろっこしい方法には賛同できません。いつまでも襲ってこなければ、我々はいつまでもこの地に留まらねばならなくなります」
「それもひとつの真実ではありますね」
どちらかと言えば、リオネルの意見のほうへ傾きかけている流れを、セドリックは中立的な立場で見つめている。しかしそれは、ウスターシュにとっては、歓迎すべき加勢だった。
「では貴方は、具体的にどうやって山賊の居場所を突きとめようと考えているのですか」
胡散臭いものを見るような目で、ウスターシュに視線を向けたのはディルクである。
「それは……」
しばし会議場を静寂が包んだ。
「お考えがないのであれば、リオネルの意見に従うほかないのでは」
ウスターシュがディルクを睨む。
「いえ、考えはあります」
ディルクは答えを求めるように、軽く目を開けてみせた。
「それは、どのような?」
「囮を使うのです」
「囮?」
その場にいた諸侯らが、わずかに表情を変える。
騎士らが集まって警護に当たるというリオネルの案に比べ、囮という言葉には、少数の者に犠牲を強いる不穏な響きがある。
「どういうことでしょう」
ラロシュ侯爵が、やや声音を低めて問う。
「最近、山賊らは農村を襲うより、貴族らを標的にする機会が増えています。ですから、そこをあえて狙わせるのです」
「そのほうが、可能性が高いと?」
「むろん狙いやすい獲物を鼻先にぶら下げてやれば、間違いなくやつらは食らいつきます。そして、獲物を奪って逃げ去るやつらのあとを追跡すけば、口の堅い山賊から話を聞き出さずとも、やつらの本拠地を確実につきとめることができるということです」
「なるほど」
自信ありげに語られるウスターシュの案に、セドリックは少なからず興味を抱いたようだが、同時に湧きあがってくる疑問を投げかける。
「彼らの狙いは、財宝や女子供です。それをどうやって囮にするのですか? 財宝を庭先にばらまいておくのは、あまりにもあからさまで不審に思われるでしょうし、まさか剣も握れない女子供を囮にするわけにはいきますまい」
「そこなんです」
ウスターシュは腕を組んで、考えこむようなそぶりを見せた。
「山賊らは、男なんぞを連れ帰ったりしませんから、我々では囮にはなれません。しかし、囮になる者は、もし我々の力で追跡しきれなかったときには、自力で山賊から逃れ、山から降り、我々にやつらの居場所を伝えることができる者でなければならないのです」
「そんなことができる女や子供が、いるわけがないでしょう。先が見えてこないので、この話はこのへんでやめませんか?」
つまらぬ話に耳を傾けたと言わんばかりのディルクに、ウスターシュは彼らしくない、気味が悪いほど冷静な視線を向けた。
「本当におりませんか?」
「私に聞かれても困ります。貴方の案でしょう?」
ディルクは眉を寄せて、怪訝な顔をする。
すると、ウスターシュは口端をつりあげて、うすら笑った。
「少女にも見紛うほど端正な姿形なのに、決闘で貴方と互角に戦うほどの腕を持つ騎士がひとりいることを、貴方はお忘れになったと?」
わずかに瞳を見開いたディルクの横で、身にまとう空気を一瞬にして凍りつかせたのはリオネルだった。
幾人かの視線がアベルに集まる。
どこかぼんやりと諸侯らの議論を聞いていたアベルは、ウスターシュが暗に示した人物が自分であることに、皆から数泊遅れて気がついた。
「そんな者がいるのですか? どの者のことでしょう」
セドリックが問う。
しかし、その質問への返答より先に、ひとりの青年が言った。
「私は認めません」
静かだが、激しい怒りを押し隠した声音――リオネルである。
「私はまだ、だれとも申しあげておりません。貴方は、どなたのことだと思われたのですか?」
リオネルは黙して、ウスターシュを睨み据えた。
その視線の鋭さに内心でひるみつつも、ウスターシュは虚勢をはって話し続ける。
「それだけ、貴方も適任だと思われたのでしょう?」
「まどろっこしい言い方はおやめになったらどうですか」
ディルクがウスターシュに向ける声や眼差しには、もはや侮蔑の色さえたたえられていた。
「では、はっきり申し上げましょう。ベルリオーズ家に仕えている、アベルという名の従騎士は、この役目に最適です。彼の協力があれば、山賊の居場所をつきとめることは容易になります」
リオネルの背後に立っているベルトランは、訝るようにウスターシュを、そして、周囲の諸侯らを眺める。
――おかしい。
単純なウスターシュが、独りでこのような案を考えつき、芝居じみた段階を踏んだすえに、わざわざアベルを名指しするとは到底思えない。
いくら先程、諍いを起こしたからといって、アベルを窮地に追い込むために急にそのような複雑なことを思いつく男だろうか。
――あるいは、だれかが彼に入れ知恵したか。
「ウスターシュ殿の言うことが真実であれば、たしかにこの方法は、時間をかけずに、かつ農村や騎士たちの被害も最小限に抑えて、山賊の居場所を探ることができますね」
セドリックは、騎士らのほうを見やって穏やかに問いかけた。
「アベルという者は、ここに?」
名を呼ばれて、アベルはためらいつつ、その場でセドリックに向かって軽く一礼した。
「わたしがアベルです。セドリック様」
諸侯らがその姿を見ることができるように、アベルの周りの騎士らは数歩後退して空間を空ける。
彼らのまえに現れたのは、壁画に描かれたアドリアナのように美しい、ひとりの少年だった。
「たしかに美しい。きみなら充分に囮がつとまるだろう。それに、剣の腕が立つというのは本当か?」
どう答えるべきか考えあぐねて視線を伏せると、代わりに答えたのは、午後の会議がはじまって以来ずっと発言していなかったシャルルだった。
「たしかです。私は、ディルク殿とアベルの試合をこの目で見ました。それは素晴らしい腕の持ち主です。彼と戦って勝てる相手は、このシャルムなかで数えるほどでしょう」
どう考えても大げさな言いぶりにアベルは慌てるが、このような場でシャルルの言葉を否定することもできずに、開きかけた唇はそのままの形で止まってしまった。
「そうですか……」
なにか考えこむように、セドリックはアベルを見つめてから、リオネルへ視線を向けた。
「リオネル殿、貴方はいかがお考えでしょうか」
その視線を追うように、アベルに集まっていた皆の視線が、いっせいにベルリオーズ家の青年へ移る。
リオネルは両眼を閉じた。
激しそうになる感情を抑えるためである。
「先程も申しあげたとおり、私はアベルを囮にすることなど認めません」
きっぱりと言い切った迷いのなさ、そして怒気を押し殺しているようにも聞こえる口調に、セドリックは一瞬驚く。しかし、気を取り直すように、「そうですか」とうなずいた。
納得したようなその態度に、ウスターシュが慌てた。
「理由を聞かせてもらえませんか、リオネル殿。その少年がいれば、こちらの被害を最小限にとどめて、最初の目的を達成することができるのです。アベルが噂どおりの剣名の持ち主であれば、無事に戻ってくることもできましょう。貴方が反対する理由がわかりません」
「ならば、はっきり申しあげましょう」
リオネルは、閉じていた瞳を開いた。
その瞳に宿るのは、静かだが激しい感情だ。
「アベルはまだ十五歳の、騎士にもなっていない子供です。彼の身を危険にさらすことはできません。この囮の話に、彼の名が挙がることだけでも私は不快です」
「子供とおっしゃいますが、元は乞食のような生活をしていた、身寄りのない者でしょう? 仮に、彼の身になにかあったところで、だれが困るというのです」
必死に感情を押し鎮めているらしいリオネルの両手が、強く拳を握る。
同時にアベルの心にも、目には見えない、しかし鋭く冷たい刃が突き刺さった。
――彼の身になにかあったところで、だれが困るというのです。
それはたしかにそうだ。エレンを母と信じるイシャスがアベルを必要としているとは言いがたく、また、リオネルには、ベルトランやディルクをはじめとした頼りがいのある騎士らがいる。
……自分の身になにかあったとて、真に困る者など、どこにもいないだろう。
「多くの農民や、騎士らは家族のある身。彼らを守るために、たったひとりの家臣を働かせることくらい、たいしたことではないでしょう」
「いい加減にしたらどうだ? 刃向かわれて気に入らないからといって、アベルをおとしいれようとして、なにがおもしろい」
丁寧な言葉づかいも捨て去り、苛立ちを露わにしたのはディルクだった。
「私は、個人的な恨みでこのように言っているわけではありませんよ。おそらく、ここにいる多くの方々も賛同してくださっていることでしょう」
ウスターシュが机を囲む諸侯らを見渡すと、彼らは気まずげに視線を逸らした。ウスターシュの意見は、たしかに的を射ているように思われる。だが、ひとりの少年を犠牲にするような方法について、公然と賛同するわけにもいかない。
なにより、少年の主であるベルリオーズ家の嫡男が認めないことを、無理に進めることなどできるはずがなかった。
このとき、ウスターシュの強引な話の進め方に、リオネルの我慢は限界に達していた。
「これ以上この話を続けるなら、私は退席します」
そう言うが早いか、リオネルは席を立っていた。