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「リ……リオネル様!」
アベルは思わぬ事態に青ざめる。
しかし、リオネルはアベルを振り返らず、切れた唇の血を拭いながら、ウスターシュを斜めから睨んでいた。
リオネルとウスターシュは、互いに無言だった。
激しい感情が二人の心には流れていたに違いないが、どちらかがひと言でも発すれば、事態は収拾がつかなくなるということを、血の気の多いウスターシュでさえ気がついていた。
それに、たとえどのような経緯であったにせよ、一伯爵家の嫡男にすぎないウスターシュが王族であるリオネルに非礼を働いたことは、変えようのない事実である。本来なら、父親であるベロム伯爵が謝罪しなければならないほどの事態だ。
会議場の周りにいた騎士らも、この状況を前にして微動だにできず、静寂がその場を包む。
そばに来たベルトランが顔をしかめた。
たかが拳といえども、主人を守りきれなかったのである。
そしてそれは、アベルも同様の思いだった。まさか、リオネルが自分をかばうとは思ってもいなかったのだ。
二人の貴族の跡取りは、しばらく睨みあっていたが、先にウスターシュが視線を外して、踵を返しざまに小声でつぶやいた。
「私は謝りませぬぞ。その者が無礼を働いたのです。臣下の無礼を、主が償ったということだけのこと」
虚勢を張るようにそう言って、ブリアン子爵が厳しい声音で呼びとめるのも聞かずに、足早に廊下を去っていく。王族に対して、許されざる態度である。
あとを追おうとするブリアン子爵を、リオネルは手で制した。
それから、ようやくリオネルがアベルを振り返る。
リオネルの深い紫色の瞳は、なんと表現して良いのかわからぬほど、苦しげな色をたたえていた。
アベルは言葉を失って、その瞳を見つめ返す。
リオネルの左頬は赤くなり、切れた唇に血が滲んでいる。
それなのに、言葉はひとつも出てこなかった。
かばってもらった礼とか、騒ぎを起こした謝罪とか、いくらでも伝えなければならない言葉はあるはずなのに……。
考えてみれば、落馬して叱責された日から、リオネルとはほとんど口を聞いていない。
今更なにを言っていいのか、まったくわからなかった。
「リオネル様、大事ありませんか」
ブリアン子爵が気遣わしげにリオネルへ声をかける。
アベルの水色の瞳を見つめていたリオネルが、しばらく間をおいてから、ゆっくりと顔をうつむけてアベルから視線を外す。
そして、次の瞬間にはブリアン子爵に顔を向けて、小さく笑った。
「大丈夫です。ラロシュ侯爵殿、シャルル殿、話の途中ですみませんでした」
近くに来ていた二人に、リオネルは謝罪する。彼らと話しているときに、アベルがウスターシュともめているのをみとめて、駆けつけたからだ。
「傷の手当てを」
そう言う周囲に、これくらいの怪我には手当てなど不要だと返して、会議場へ戻っていく。
自分になにも言わずに立ち去ってしまったリオネルの後ろ姿を、アベルはぼんやりと見送った。
そんなアベルの肩をぽんと叩く者があったので振り返ると、ブリアン子爵だった。
目をまたたくアベルへ微笑を向けてから、子爵もリオネルやラロシュ侯爵のもとへ向かう。その目は心配するなと言っているようだった。
それほど、自分は情けない表情をしていたのだろうか。
自分は、なにに心を悩まされているのだろう――。
そして、ベルトランは結局ひと言も会話を交わさなかった二人を、渋い面持ちで見つめていた。
「リオネル殿」
ラロシュ侯爵、シャルル、そしてリオネルが集まっているところへ歩み寄ったブリアン子爵は、リオネルに声をかける。
「アベルをお叱りにならないでください」
振り向いた三人に子爵は、ウスターシュとアベルがもめることになった経緯を説明した。
「あの従騎士の少年は、貴方が誹謗されたて黙っていられなかったのでしょう。ウスターシュ殿に、はっきりと自らの意見を述べた態度は潔いものでした。貴方のことを深く慕ってのことです。どうかお咎めなきよう」
彼の説明を黙って聞いていたリオネルは、最後に目を伏せてうなずいた。
この状況に至った流れは、説明されずとも、だいたい想像できたことだ。
……会議中のウスターシュの不満げな様子、そして、アベルの正義感と負けん気の強い性格。
部屋の入口付近で二人が話していることには気がついていた。
そして、アベルがウスターシュに殴られると思った瞬間、リオネルは血の気が引いた。アベルをかばったのは、咄嗟の行動だった。
ウスターシュと意見の対立はあったし、彼から敵意に近いものは感じていたが、それまでリオネル自身はさほどそのこと自体を気にしてはいなかった。
しかし、アベルを拳で殴ろうとしたウスターシュに、今は、深い憎しみと嫌悪を感じる。
どうして、あのような無抵抗で、自分よりもはるかに細身の相手に拳を振りあげられるのか、リオネルにはまったく理解できない。
殴られた頬は、十八歳の男であるリオネルでも鈍く痛み続けている。
このような痛みを感じるのが、愛しい娘ではなく自分でよかったとつくづく思う。
それは、自分が彼女に惚れているからだろうか。
リオネルの名誉を守るために、アベルがこのような危ない目にあうなど、耐えられないことだ。
――自分はどれだけ誹謗されてもかまわない。どうか、アベルは己の身の安全のことだけを考えていてほしい。
だが、そのことを伝えようにも、先日のように、心配のあまりどのような言葉を口にしてしまうのか、自分にもわからなかった。
だからこそ、かばったアベルを振り返ってから、なにも言うことができなかった。
「アベルは顔に似合わず勇ましい少年ですね」
「マドレーヌの相手としては、不足ないんじゃないか?」
冷やかすように子爵が言うと、ラロシュ侯爵のみならずリオネルもが、苦虫をかみつぶしたような顔になった。
「お、リオネル。どうしたんだ、その顔は」
国王派の貴族らに囲まれて抜け出せないレオンを置き去りにして、ディルクが彼らのそばへ来る。その後ろにはいつものようにマチアスが従っていた。
ディルクが指摘したのは、むろんリオネルの表情ではなく、赤くなった頬のことである。
まじまじとリオネルの顔を見やるディルクの表情が、またたくまに険しいものになっていった。
「もしかして、殴られたのか?」
「……まあ、そんなところだ」
リオネルはどこか他人事のように答える。
部屋の反対側でレオンや国王派の者たちとともにいたディルクは、リオネルになにが起こったかまったく知らなかったようだ。
「おまえが?」
ディルクは信じられないというように眉間に皺をつくる。
「おまえが殴られるところなんて見たことないし、想像もできない。ベルトランとアベルはいったいなにをやっていたんだ?」
事の経緯をディルクに説明したのは、彼らの友人であるシャルルだった。
すべての話を聞き終わると、ディルクはなぜか感嘆の溜息をもらした。
「アベル、かっこいいなあ。主人を守るために、ウスターシュ殿に盾突いたのか」
「その臣下を守ったリオネル様も、素晴らしいと思います」
親友をほめたたえたラロシュ侯爵に、ディルクは笑顔で言う。
「貴方のご子息のお気に入りであるアベルは、リオネルのお気に入りでもありますから、なかなか手放してもらえないと思いますよ」
再び苦い表情になったリオネルとラロシュ侯爵の傍らでは、ブリアン子爵が大笑いしていた。
だがシャルルだけは、まったく口元をゆるめず、思いつめたような表情でリオネルを見つめていた。
その心のなかにあったのは、かわいい妹の泣き顔と、「アベルを殺して」と嘆願する彼女の取り乱した声、そして、今しがたディルクが放ったばかりの「アベルはリオネルのお気に入りだから」という台詞だった。
シャルルはそっとその場から離れて扉口へ向かうと、ウスターシュが去っていった廊下の先に消えていった。
どこか呆然としたままだったアベルに、声をかけたのはベルトランだ。
「大丈夫か」
怪我をしているかどうか心配したわけではない。
ウスターシュと言い争った末に、リオネルにかばわれ、そして会話も交わさぬまま残され動けないでいることを心配したのだ。
ベルトランは、未だに二人がずっと言葉を交わしていないことをリオネルから聞いている。
それは、言い争いをするよりも悪い事態である。
アベルを愛するリオネル。
そして、リオネルに忠誠を誓うアベル。
二人の気持ちはひたむきに互いに向いているのに、なぜか、どこかですれ違ったままだ。
顔を上げたアベルは、魂が抜けかけたような空虚な目をしていた。
「ベルトラン……」
「どうした?」
その瞳がなにかを訴えようとしているような気がして、ベルトランはなるべく優しく声をかける。
「わたしは――」
小さな声でアベルがなにかを言いかける。
口が動いたが、言葉は聞こえてこなかった。
「え?」
なにを言ったのかわからず、ベルトランは聞き返す。
すると、アベルは哀しげな顔で口を閉ざし、そして首を横に振った。
「なんでもありません。……寝坊したうえに、このようなもめごとを起こしてすみませんでした。リオネル様を怪我させてしまったこと、すべてわたしの責任です」
「……気にするな。たいした怪我じゃない」
主人と、そして主人の愛する人とを、守れなかったことに不甲斐なさを感じていたのは他でもないベルトラン自身であったが、それをこの少女のまえでは口にしなかった。
「会議ではどのようなことが話し合われたのでしょうか」
アベルは、ウスターシュの言葉が気になっていた。ウスターシュの口ぶりからすると、意見はまとまっていないようである。
そして、ベルトランが語ってくれた会議の流れは、アベルが予想したとおりのものだった。
速戦即決を唱えるウスターシュの意見と、慎重に状況を把握したうえで、まずは山賊の頭領と一度話をする機会を持てないだろうかというリオネルの意見が、大きく対立していた。
諸侯らは、どちらかの意見に同意する者、両者の考え方にも道理があるという者、そして決めかねる者というように、てんでばらばらに分かれていた。
午後の会議も難航することが予測されると、ベルトランは最後につけ足した。
会議室の重厚な扉から出ていく人々の流れのなかに、クロード、そしてジュストの姿もあったが、この従騎士はアベルの横顔を一瞥しただけで、なにも言ってはこなかった。
近くにクロードと、ベルトランがいる。
寝坊したことをはじめ、ジュストにはアベルに言いたいことがいくらでもあったが、この状況では、なにも口にすることができなかったのだ。