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お読みいただきありがとうございます。
本作の休止に関することや今後の活動などについては、活動報告でお伝えします。
どうぞよろしくお願いします。
今回戦闘シーンがあります。苦手な方はご注意ください。
「アベル、気をつけて」
リオネルは声に心配を滲ませて低く告げた。
「相手はおそらく矢を構えています。矢が飛んできたら馬車を止め、攻撃が止むまでけっして外に出ないでください」
アベルの言っていることは正しい。相手はおそらく馬車を止めるために矢を用いる。馬車の壁は、厚い木の板の上に銅板を張っているので、けっして矢が突き抜けられない。そのことは敵も承知しているだろう。
御者や馬が倒れ馬車が止まれば、敵は矢を放つのをやめ、リオネルの命を奪うために、抜き身の刀で襲いかかってくるはずだ。そのとき馬車から出ればいい。それ以前に、姿を現わせば、むざむざ矢の餌食となりかねない。
けれどリオネルのほうは気が気ではない。
自分が外に出るまで、アベルは言葉通り、敵の矢面に立つことになる。
「ベルトラン」
反対側の扉に向かってリオネルは厳しい声音を発した。
「わかってる」
ベルトランは短く答える。
その直後――、矢が宙を裂く音がした。と同時にアベルが御者に向かって叫ぶ。
「馬を止めて、そこから降りてください!」
強まった雨とともに矢の雨も猛烈に降り注ぐ。
こちらへ飛んでくる矢をアベルは長剣で払い落としながら再び叫んだ。
「ベルトラン、こちらへ来ないでください!」
援護するために、左の側面からアベルのいるほうに馬首をめぐらせたベルトランは、その言葉に手綱を引いた。
「アベル?」
「そちら側で、馬から降りて伏せていてください」
その指示にベルトランが怪訝な顔をしたのと、矢が飛んできてアベルが馬から落下したのが同時だった。
その気配に、リオネルは心臓が止まるような心地がする。
「アベル……ッ」
焦りと不安で揺れた声で叫び、馬車の扉を開けようとしたとき、冷静な声音が地上から聞こえてきた。
「リオネル様、扉を開けないでください」
「アベル、大丈夫なのか」
「馬を守るために、倒れただけです。わたしやベルトランが馬上にいるかぎり、彼らは、少なくともわたしたちを殺すまで、矢を射るのをやめないでしょうから」
「馬……」
リオネルが呆気にとられて呟いた。
たしかに敵は標的を失い、矢の雨は止んだ。
ディルクが小さく笑う。
「アベルは本当におもしろい。馬を守るために敵を欺くなんて」
御者は車の陰に隠れて無事なはずだ。アベル一人に攻撃が集中したために、馬車を引いていた二頭の馬も――、アベルが早々に倒れたために、彼女が跨っていた馬も、全て無事だ。
そして、アベルの演技は、降り注ぐ矢を剣で払い落としていくという、緊張と集中力を要する作業を早々に終わらせ、余計な体力を費やすことも防いだ。
リオネルは戦う前に、全身から力が抜けていくのを感じた。
一方、刺客は弓を捨て、馬車に向かって襲いかかってきている。
「リオネル様、敵襲です。ですが、まだ弓を構えている者がいるかもしれませんので、しばらく出ないでください」
リオネルはすぐにでも外へ出たい気持ちを、両目を閉じて、なんとか抑え込んだ。
ディルクはその親友の様子を見やりながら言う。
「リオネル、おまえの用心棒はとても優秀だね。腕が立つだけじゃなくて、頭もいい」
このように評しながらも、ディルクは心中で別のことも思っていた。
アベルはリオネルを守るための資質をそなえている。そして、それに対して命をかける気概も充分にある。用心棒としては申し分がない。
けれどその資質と努力とは裏腹に、リオネルは守られれば守られるほど、苦しそうだった。アベルのこととなると、彼はいつもの冷静さも判断力も、精細を欠く。さっきもアベルが倒れてすぐに扉を開けようとするなど、冷静さを欠いた行動をとろうとするのは、ディルクのよく知るリオネルらしくなかった。
馬車の外で、アベルは薄目を開け、雨に打たれながら走り寄ってくる黒服の刺客の集団を見た。彼らの服は、もとはいつかのように灰色だったのかもしれないが、雨に濡れて濃い色に染まっている。その人数は、数え切れないほどだった。十人、二十人……いや、三十人はいるかもしれない。
アベルは土の上に倒れたまま、剣の柄を強く握りしめる。
敵はまたたくまに馬車を取り囲み、長剣を抜き払う。その金属音は強い雨にかき消され、雨音以外に聞こえるものはなく、ある種の静寂と緊張感があたりを包んだ。
それを破ったのは、一人が顎で指図した瞬間。
剣を構えた黒服の男たちが、すさまじい勢いで馬車に殺到した。
先頭を切って車に走り寄った男は、扉の目前まで来たところで、矢を受けて倒れたはずの少年が背後で起き上がる気配を感じ、嫌な予感とともに振り返る。その男が最後に見たのは、雨のヴェールを斬るように振り下ろされた相手の長剣と、雨水に濡れた、彫刻のように美しい顔だった。声をあげる間もなく、男は地面に崩れ落ちた。
刺客たちは意表をつかれて、一瞬動きを止める。
しかし敵は無言で長剣を握りなおすと、標的を改め、細身の少年に向かって斬りかかる。
そこへ突然、若い男の声がした。
「おまえらの相手は、ここにもいるぞ」
アベルに襲いかかってきた男たちのうちの一人の腹から、突きさされた剣の先が覗き、口から赤黒い液体がこぼれ出た。腹から長剣が抜かれ、男がなにか言いたげに口を開いたまま倒れると、その背後に現れたのはベルトランだった。
刺客たちは、車に辿りつく前に現れた二人の敵に対し、殺気をみなぎらせ、雨で足場の悪くなった地面を蹴り上げ、襲いかかった。
多勢に無勢の戦いが繰り広げられる。
「行こう」
鋭い光を瞳に宿し、リオネルは車の扉を開け、長剣を抜き払った。
「はいよ」
ディルクは軽い調子で返事をしながら、リオネルに続いて馬車を降りる。マチアスは左側の扉から外に出た。
すぐに横合いから突きだされた剣先を弾きながら、ディルクはどことなく明るい調子で言った。
「リオネル宛ての贈り物と剣を交えるのは久しぶりだ」
「手間をかけてごめん」
「いいよ、ちょうど馬車の旅で、身体も鈍っていたところだし」
「贈り物なら、手紙に贈り主の名前と、贈る趣旨くらい書いてよこすものだ」
ベルトランが、三人の敵を相手にしながら、皮肉っぽく言った。
刺客たちの攻撃は捨て身で、すさまじい勢いだった。おそらく彼らは、リオネルの首を持ち帰らなければ、戻る場所がないのだ。彼らの眼光と剣先は、迷いのない殺意にみなぎっていた。けれど、応戦する五人の若者たちの技量は並大抵ではない。
大降りの雨のなか、壮絶な戦いが始まった。
三十人ほどいる男たちは、ただひとつの目的であるリオネルの命を狙い、攻撃を仕掛けてくる。
それを、残りの四人はそれぞれ自分たちに敵の注意を引きつけ、リオネルに集中するのを防ぐ。
現在リオネルの間近で、彼を背に守るように戦っているのは、ベルトランとディルクだ。
リオネルは、自分に敵が集まることを知っているので、アベルから距離を置こうとしていた。アベルも、二人がリオネルを守っているなら、自分はあえて敵を分散させることに専心する。
リオネルらとは少し離れたところで、アベルは黒服の男たちと戦っている。
手をひるがえし、長剣をふるう姿は、まるで剣舞を舞うように優美だ。アベルの握る長剣の刃に、刺客たちは次々に倒れていく。
その姿を遠目で見ていたディルクは、感嘆のため息をついた。
「アベル……すごいね。あの細さと、あの容姿で、あんなに強いなんて」
剣を振るう姿でさえ美しい。返り血と雨に濡れた秀麗な少年は、敵の目には、戦いと勝利の神の化身にさえ見えるだろう。
けれどどれほど剣技が優れていても、ほんの些細なことが命取りになる。殺到した複数の攻撃を、身を引いて避けた瞬間、アベルの足はぬかるんだ地面に滑り均衡を失った。
「アベル!」
だれが自分の名を呼んだのかわからなかった。
斬られると思った瞬間、アベルの頭上に落ちてきた剣を、近くにいたマチアスが受け止める。しかし、自らを守りきれなくなったマチアスと、地面に手をついたアベルに、複数の剣が集中した。
マチアスに襲いかかる男を切り捨てたのは、体勢を立て直したアベルだ。間髪を入れず背後と側面に迫る敵の襲撃に、アベルがわずかな緊張とともに剣を握り直したとき、背後の男の動きが止まった。
脇からの攻撃のみを受け止め、一瞬だけ振り返れば、見慣れた若者が血雫を滴らせた剣を男から引き抜くところだった。
「リオネル様」
先程まで自分からは離れたところで戦っていた主人が、今はすぐそばにいることをアベルは不思議に思う。
リオネルは、アベルにほほえんでから、襲いかかる敵の一人の胸元を斜め上方に斬り上げ、下ろす剣でもう一人、肩から腹までを裂く。たった一呼吸さえ置く間もなく、懐に飛び込んできた敵の剣先を受け止め、弾き返すかと思いきや刃を押さえこみ、解放して相手がよろめいた瞬間にその胸の中心を突き刺す。
その様子を、アベルは戦いながら目の端に捉えていた。
リオネルの剣さばきには一切の無駄がなく、その動きは強くしなやかだ。余裕さえ感じられるほど軽々と振るっているのに、その手に握る剣の勢いはすさまじく、刃はまるで意思を有しているかのようにひらめき、的確に相手の急所を突く。
アベルは、何年かけて腕を磨いても、とてもこんなふうに戦えないと思った。リオネルの技量は、卓越している。アベルの師であるベルトランとも互角に戦いうるだろう。
自分を狙う刺客からアベルを遠ざけるために、リオネルは彼女のそばから離れたはずだったが、先ほどの光景を目にして気持が揺らいだ。離れていたら、いざというときに助けられないことのほうが、怖く感じられた。あのときマチアスが助けなければ、アベルは無事では済まなかったのだ。
リオネルはアベルの近くへ行き、自分の手で彼女を守ることを選んだ。
なんのために強くなろうと思ったのか。どれだけの敵が、自分に、そしてアベルに襲いかかってこようとも、そのすべてを迎え討つ以外に、彼女を確実に守る方法はない。
リオネルの剣は、一切の迷いを断ち切るように、男たちを斬っていった。
一方、ディルクも、危なげない剣さばきで周囲の敵を地面に転がしていく。倒しても、倒しても尽きない敵の数の多さに、ディルクの顔に皮肉めいた笑みが浮かんだ。
「リオネルが騎士に叙勲された祝いは、かつてないほど盛大だね」
「どうせなら、晴れた日に祝ってほしいものだ」
ベルトランが雨に濡れた赤毛を鬱陶しそうに払い、こともなげに敵を切り捨てつつ言った。
雪になるにはまだわずかに気温が高く、しかし凍る寸前のような雨はひどく冷たい。
敵の数は、数えられるほどになっていた。
刺客が潜んでいた林に、リオネルが完全に背を向けたそのとき。幾重もの雨のカーテンをかいくぐって、一本の矢がその背に向けて放たれた。
羽音は激しい雨にかき消され、それに気づくことができたのは、そちらを向いていたディルク、ベルトラン、そしてアベルだけだった。
――――間に合わない。
アベルの心を恐怖が支配した。
「リオネル!」
だれかの叫び声が上がったが、それがリオネルの耳に届く前に、アベルは夢中でリオネルの背後にまわっていた。アベルの身体を矢が貫こうとした――、けれどその瞬間、矢はだれかの放った別の矢によって、真っ二つに裂ける。
裂けた破片が、アベルの脇腹あたりの服を裂いた。
リオネルが背後を振り返ると、目前で立ちすくむアベルの後ろ姿があった。裂けた破片を避けようとしたのか、わずかによろめいた彼女の身体を支える。
「アベル?」
リオネルの目に、二つに折れた矢と、ルブロー家の紋章の入った短剣が落ちているのが映った。あまりの速さに、皆の眼には矢であるように映ったものは、ベルトランの投げた短剣だ。
リオネルは瞬時に状況を呑み込む。
二人を守るようにベルトランとマチアスが駆け寄り、残り少なくなった刺客たちと対峙する。逆に、ディルクは彼らから離れ、林の方角へ駆けていった。
アベルは、振り返ってリオネルの紫色の瞳を見る。凍てついたような気がした心臓が、リオネルが無事であることを知って、逆にひどく高鳴るのを感じた。しかし、それを落ちつかせている時間はない。敵の攻撃は再び目前に迫っている。
鼓動を押さえられないまま、リオネルの手から離れ、彼を背に守って剣を構えなおした。
「アベル、怪我は」
リオネルの切迫した声が、耳に届く。
アベルは無言で首を振ってから、突きつけられた長剣を弾き返した。
それから、五人が敵を全滅させるのに、長い時間は要さなかった。馬車の周りには、黒服の男たちの死屍が折り重なり、多量の血と雨と泥によって赤黒い泥濘が広がる。
何事もなかったような顔で戻ってきたディルクは、木の陰に隠れて矢を放った刺客を、無事に葬ったようだった。
リオネルが長剣に付着した血と脂と雨水をひと振りして払い、鞘に収める。それが合図だったかのように、皆も剣を戻した。ひとまず刺客との戦いは終わったのだ。