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外套を脱いだ若者らが、ラロシュ侯爵に案内されたのは、広い客間だった。
ラロシュ邸は、国境にある領主家という意味ではデュノア邸と同様だが、その内部の装飾は、より華美で重厚感がある。
それは、かつてこの地にあったアンセルミ公国の影響を濃く受けているためだ。
かつて、かの公国は小国ながらも、芸術や文化において栄華を極めた国だった。公国が滅亡した後も、それらはこの地の各所に息づいているのである。
また、シャルムの民とかつてアンセルミの民だった者同士の混血も進んでいるため、このあたりには、シャルム人に多い茶系の髪以外にも、アンセルミ人特有の黒に近い褐色の髪や瞳の者も多かった。
客間に案内されたのは、リオネル、ディルク、レオン、ベルトラン、マチアス、そしてラロシュ侯爵の二人の子供からようやく解放されたアベルだった。
騎士たちは、その名にふさわしく「騎士の間」へ集められている。数百人もの騎士ら全員が客間などには入りきらないためだ。
クロードは騎士たちを統括しているので、彼らと行動を共にして「騎士の間」におり、彼の従騎士であるジュストもそれに従っていた。
客間で、リオネルは諸侯らと挨拶を交わす。
そこはアンセルミ様式を取り入れた壮麗な部屋だった。
壁の側面の三分の一ほどを占める巨大な鏡は金の装飾で覆われており、対面にある窓からの光を反射して、室内を明るくしている。
残りの壁の一方には暖炉があり、その脇に肖像画が並んでいる。
三重になっている銅製の燭台は思いのほか簡素な造りであるが、木製の家具も含め、すべての調度品は古く趣のあるものだった。
その場にすでに集まっていた諸侯は、エルヴィユ侯爵家の長男シャルル、ブリアン子爵、シャレット男爵、そして、フォール公爵家の長男セドリックである。
そのなかでアベルがよく見知っていたのはシャルルだけだったが、ブリアン子爵やシャレット男爵については、彼らがベルリオーズ邸に訪れた際に、姿だけは遠目に見たことがあった。
諸侯らが一人ずつ王子であるレオンに挨拶し終わると、
「リオネル様」
まっさきにリオネルに近づいたのは、シャルルだった。
「このような場所で、最後にお会いしてから二ヵ月も絶たないうちに、再びお会いできるとは思ってもおりませんでした」
「本当にそうですね。年明けにお別れしたときは、私も想像しておりませんでした」
「フェリシエから、ずいぶんうらやましがられましてね。貴方にとても会いたがっておりました」
そう言うシャルルの視線は、なにかを探るようにリオネルの瞳をのぞきこむ。
しかし、それはリオネルの静かな笑みにはね返されて、なにも見出すことはできなかった。
「リオネル殿、この度はありがとうございます」
次にそばへ来て挨拶したのはブリアン子爵である。
ラロシュ侯爵と同じ三十六歳の子爵は、年相応の整った顔立ちに、褐色の顎鬚がよく映える伊達男だ。
「誠に、このような危険な場所に、叙勲なされたばかりのご嫡男である貴方様を遣わしたベルリオーズ公爵様のお心、察するに余りありますな」
溜息をついたのは、六十四歳のシャレット男爵である。
シャレット領は、ベルリオーズ領の北部に隣接し、領主である男爵は熱心な王弟派であった。
「万が一にでも貴方様を無事に公爵様にお返しできなければ、この老いぼれの命をもって償うほかありません」
「それは、大変です」
老男爵の言葉を冗談と受けとめて笑うブリアン子爵に、
「私は本気ですぞ」
と硬い表情で男爵は答えた。
「では、貴方のためにも、私は、なんとしても無事にベルリオーズへ帰らねばなりませんね」
そう言ったリオネルの声音は、本気とも冗談ともつかない。
彼らが話している傍らで、ディルクとレオンはシャルルと会話を交わしている。
ラロシュ侯爵は、鳶色の髪の若者をリオネルに紹介した。
「こちらは、フォール公爵のご嫡男、セドリック殿です」
フォール公爵領は、シャルム左翼の最北端に位置しているので、リヴァロ王国と国境を接しており、その領地はベルリオーズ公爵領の五分の一ほどの広さである。
西側はグヴィド領やベロム領と隣接しており、そのため山賊に襲われることもときにはあったが、さほど多いわけではない。
フォール家は今回、ベルリオーズ家と同様、被害の甚大な諸侯らに支援を求められたうえでの参加である。
この公爵家はシャルムの端に位置するということ、そして、隣国からの脅威に備えて国内の政情から距離を置いていることから、国王派にも王弟派にも属さない中立という立場をとっている。
公爵家の嫡男セドリックは二十一歳、マチアスと同い歳だった。
「リオネル殿、はじめまして。セドリック・フォールです」
「リオネル・ベルリオーズです」
短い鳶色の髪と、緑灰色の瞳の若者は、落ちついた物腰と思慮深そうな雰囲気をまとっている。
「共に力をあわせて、山賊らの被害を食い止めることができれば幸いです」
同じ、公爵家の嫡男同士であり、立場上はまったくの同等であるが、家の格式や血筋からすると、実質的にはリオネルのほうが格段に上である。
「共に参加できることを、嬉しく思います」
公爵家の嫡男同士の挨拶が終わると、さらに、セドリックはディルクとレオンにも挨拶して、ひと通り皆がそれぞれの顔と名を認識する。
「あと、のちほどベロム伯爵のご嫡男ウスターシュ殿、バヤール伯爵殿、グヴィド子爵殿、グノー子爵殿、クヴルール男爵殿をご紹介いたします」
主人らが挨拶するのを見ながら、顔と名前を覚えようとしていたアベルは、まだそんなにたくさんいるのかとぎょっとする。
その様子に気がついたのか、マチアスが小声でアベルに話しかけた。
「今、ラロシュ侯爵があげたのは主要な諸侯の名前だけで、それ以外にもまだたくさんいらっしゃると思いますよ」
アベルは苦笑を浮かべてマチアスを見上げる。
「くらくらしてきました」
マチアスは小さく笑ってから、ふと表情を引きしめた。
「お身体は、大事ありませんか?」
「……はい、もう大丈夫です。今まで食べていなかったぶん、お腹が空いてしかたないくらいです」
「そうですか。それを聞いて安心しました」
「いろいろと助けていただきありがとうございます。マチアスさんが馬に乗せていってくださらなかったら、わたしは今頃ベルリオーズとシャレット領の境目あたりで、ひとり彷徨っていました」
冗談めかして言っているにも関わらず、アベルの瞳はどこか思いつめたような硬さがあった。
「馬に乗れない貴方を独り残していくなど、リオネル様は、けっしてないさいませんよ」
そのようなことは、アベルは充分承知のはずである。にもかかわらず、ひとりで彷徨っていたかもしれないなどと言う真意を測りかねて、マチアスはあえてこのように述べた。
表情を曇らせて、アベルはうつむく。
「リオネル様は優しすぎるのです。足手まといになったわたしなど、即座に見捨ててくださればよいのに……」
わずかに眉をひそめたマチアスは、うつむいたアベルの睫毛に視線を落とす。
その伏せられた瞼の奥に、どのような思いが秘められていたら、このような言葉がでてくるのだろうか。
「……なぜそのようなことを、おっしゃるのですか」
問われて、しばしの間をおいてから、アベルは独り言のようにつぶやいた。
「わたしは、リオネル様をお守りしたいのです。けっして足を引っ張りたいとは思っていません。なのに、わたしはいつも迷惑ばかりかけてしまいます。いざというときに見捨ててくださらない、そのリオネル様の優しさが、わたしはなにより怖いのです」
マチアスは痛々しいものを見るように、目を細めた。
「貴方は、ご自分の身がどうなっても、リオネル様をお守りすること――ただそれだけを望んでいるのですね」
「それ以外には、なにもありません。それが家臣である者の務めです。マチアスさんも、そうなのではありませんか?」
「そうですね。おっしゃるとおりです。ですが、自分のことは棚にあげておいて、貴方がそれを望まれることが心配です」
アベルは首をかしげる。
「なぜですか?」
「もちろん、私は命をかけてディルク様をお守りします。ですが、それはあくまで最終的な方法です。私には貴方が――貴方が、むしろ、自ら進んで己が身を投げ出そうとしているような気がしてならないのです」
「…………」
思いも寄らないことを言われ、アベルはわずかに目を見開く。
――リオネルを守るためなら、命をかけることができる。
それは、たしかにそのとおりだ。
だが、マチアスが言っているのは……。
困ったような、驚いたようなアベルの様子をまえにして、マチアスは表情を和らげた。
「すみません、勝手な思いこみで申したことを、許してください」
小さくアベルが首を横に振ると、マチアスは心中で独りつぶやいた。
思い込みであることを、切に願っています、と。
アベルはしばし考え込む。
マチアスが意味したことは、リオネルを守るためなら命をかけることができる、ではなくて、リオネルを守るために命をかけたい……アベルがそう思っているのではないか、ということだ。
十五歳の少女は胸に手をあてる。
人の心の奥底など、だれしも己自身で気がつかないものである。
アベルには、わからなかった。
自分がなにを求めているのか。
リオネルに命を助けられた日から、死に焦がれたことは一度もない。
けれど、リオネルのために生きて、そして死ぬのが、己の幸せであるということも、気が付き始めていることではあった。
それは、自分自身のために生きられなくなってしまった少女に、ただひとつ残された幸福な生き方――。
デュノア邸を追いだされた日から、魂が死んだも同然のアベルに、再び生きる意味を与えてくれた青年。
リオネルだけが、今のアベルのすべてだ。
それが、彼女の強いところであり、そして、ひどく脆いところでもあった。
「アベル」
ふいに高い位置から声がふりかかってきて顔を上げると、長身のベルトランがそばに来ていた。
「ベルトラン」
アベルが笑いかけると、赤毛の若者はやや言いづらそうに口を開いた。
「今夜からの寝所の話なのだが……」
「どうかしましたか?」
こんなときに、あらためて寝場所の話などする必要があるのかと、アベルは怪訝に思う。
「この館においては、リオネルには最上階の一室が用意されている。むろん、おれはリオネルの寝台の傍らに毛布を敷いて寝る」
ベルトランがそのような形で寝るのは、国王派の人間も多くいるこの見知らぬ土地で、主人を守るためである。
「では、わたしもそうします」
「いや……アベルには、騎士たちが使う部屋の一室を用意してもらった。おれたちからは離れるが、ひとりで使えるからなにかと気がらくだと思う。このことを伝えておくようにと、リオネルからの伝言だ」
「なぜですか? なぜわたしは、リオネル様のおそばで警護をさせてもらえないのでしょうか」
彼女がそう問うのは当然のことである。
これまでは、「リオネルの警護のため」という名目で、リオネルの隣室を使用していたのだ。それは、貴族の使用する豪奢な寝室だった。
もし、その名目がなければ、アベルはけっしてその部屋を使わなかっただろう。
それが、ここに来ていきなり寝所を離されたのだ。しかも、最もリオネルの命を守らねばならない、この状況において。
アベルが納得いかないのも無理はない。
けれど、彼女に真実を告げることはできない。
――リオネルがアベルの寝所を離したのは、他の諸侯らがいるなかで最上階の部屋を一室、アベルのために使用させてもうわけにはいかず、かといって、自分は快適な寝台を使用し、アベルを床の上でなどで寝かせられるわけがないからだ。
アベルを床の上で眠らせられない理由、それをベルトランの口から伝えることは、けっしてできないことだった。
「先日の一件のせいでしょうか」
アベルが言う先日の一件とは、彼女が食事をとらなかったせいで落馬し、皆に迷惑をかけたことである。
警護役としてアベルが不適任であると判断されたのか、そう聞いてくるアベルの眼差しは真剣だった。
「いや、違うと思う」
しかしそれに答えるベルトランは、言葉少なである。
「では、なぜ?」
「……あの日から、リオネルと話してないのか?」
少女の問いには答えず、ベルトランは逆に質問を返す。自分などにうまい言い訳が思いつくはずもなく、できれば、リオネル本人から話を聞いてもらいたいと思ったからだった。
返答が得られなかったアベルは、不服そうな顔のままうなずく。
「そうか……」
リオネル本人からの説明は望めそうにもないので、ベルトランは逃げるようにアベルから視線を外して言った。
「とにかく、おまえはひとり部屋でゆっくり過ごしていればいい。体調も万全ではないだろうからな。リオネルのことは、しばらくおれに任せろ」
「…………」
うつむき唇をかみしめたアベルを見ることなく、ベルトランは立ち去っていく。
言葉が足りないことも、アベルが納得していないこともよくわかっていたが、気の利いた説明ができない以上、アベルのそばにいても余計に事態を悪化させるだけだと判断したからだ。
残された少女の心を支配していたのは、悔しさや怒りではなく、哀しみだった。
彼女にとっては、警護役をしばらく罷免されたようなものだ。
アベルの瞳から涙がこぼれてくるのではないかと、傍から見ていたマチアスは心配になった。
そして、こんなとき、リオネルが己の全てであるという、彼女の強いところであり、かつ脆いところでもあるその両局面のうち、脆い部分が露わになるのだ。
セドリックやシャレット男爵と話していたリオネルの視線が、会話のあいまに、ふとアベルを探してさまよう。
そして、窓際でうつむいている姿をみとめると、しばらく見つめてから、ついに顔を上げなかったアベルから視線を戻した。
からみあうことのなかった視線。
すれ違う、二人の気持ち。
それが、これからもたらすことになる重大な結果を、リオネルは知る由もなかった。
ふと、ブリアン子爵が、親友であるラロシュ侯爵の顔を覗きこんで言う。
「なにかあったのか?」
ラロシュ侯爵は、苦笑した。
「わかるか」
「なんとなく」
「……いろいろと、あってな」
そうつぶやいた侯爵は、窓際に立つ、ひとりの少年騎士を見やった。
その視線を追って、自らも少年に目を向けたブリアン子爵は、
「あの子がどうかしたのか?」
と不思議そうな顔をする。
「マドレーヌが惚れたらしい」
束の間、面食らった顔をした子爵だったが、すぐに表情をゆるめて笑った。
「なるほど、滅多にいない美少年だ。マドレーヌも、もう立派な乙女だな。それで、おまえは娘が若い男に心を奪われたことに落ちこんでいるというわけか」
「それだけじゃない」
「他にもなにかあるのか?」
「セザールまでが、あのアベルという従騎士に惚れてしまったのだ」
「…………」
今度は、さすがにブリアン子爵も笑わなかった。
「なるほど、女にもないほどの美しさだが――」
親友の複雑な気持ちを思うと、次の言葉は続かなかった。
その夜、ラロシュ邸に集まった全ての諸侯らは、食堂で顔をあわせた。
若いベルリオーズ家の青年を、王弟派の貴族は熱烈に歓迎した一方で、国王派の貴族は様々な心境で受けとめていたようである。
ただ、リオネルが到着したことによって、山賊討伐を本格的に開始できるようになったことは事実だった。
それは、所領を山賊に荒らされていた全ての諸侯が、一様に待ち望んでいたことである。
この件についての話し合いは、翌朝から開始されることが決定した。