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 ――リオネルの目に映ったのは、落ちていくアベルの身体と、馬上から手を伸ばしてその身体を引き寄せようとして、自らも落馬するディルクの姿だった。


 地面に落下する二人。

 けれど、倒れたディルクの身体には、しっかりとアベルが抱かれている。


「アベル! ディルク!」


 血相を変えたリオネルが、隊列のなかを二人のもとまで駆け戻り、馬から飛び降りる。

 同じく蒼白な顔で馬を降りたのは、マチアスである。


「ディルク様、アベル殿、お怪我は」


 しかし、近寄る二人に、ディルクはいつもの調子で言った。


「あ、いてててて。腰を打ったけど、おれは大丈夫」


 幸いにも、周囲の騎士らが咄嗟に手綱を引いたので、落馬した二人は馬に蹴られることなく、怪我もなかった。


「アベル――」


 再びディルクに名を呼ばれたが、彼の腕のなかで、アベルはなにが起こったかわからないまま、大きく目を見開いている。


「大丈夫か、アベル」


 リオネルの心配そうな紫色の瞳と、ディルクの柔らかい茶色の瞳がこちらを見つめている。


「わたし……」


 ぼんやりとつぶやいてから、自分がだれの腕に抱かれているのか、ようやく理解する。

 アベルの顔は、熟れたトマトのように赤く染まった。


「ディ、ディルク様……!」

「覚えていないのか? きみは、馬から落ちたんだ」


 二人の会話を聞いていたことは覚えている。それからひどい眩暈を覚えて――。

 状況からすると、馬から落ちたアベルを助けるために、ディルクも落馬したようである。


「すみません、わたしは、なんてことを……! ディルク様、お怪我は」


 慌ててアベルはディルクの腕から離れた。


「いや、おれは大丈夫。だけど、アベルは明らかに栄養不足だよ。二食も抜いて馬に乗るなんて無茶だ」

「……いえ、わたしはなんともありません。そんなことより、ディルク様にこんな――」

「なにが、『なんともありません』なんだ」


 突然、厳しい口調でアベルを叱ったのは、リオネルである。


「ディルクが助けなかったら、大怪我をしていたかもしれないということを、きみはわかっているのか。それに、アベルを助けるために、ディルクまでもが怪我をするかもしれなかったんだ。きみが食事をとらず、それでも大丈夫、なんともないと言っていた結果がこうだろう」

「リ……リオネル」


 その勢いと、容赦のない言いぶりに、ディルクでさえたじろいだ。


「お、おれは大丈夫だ。勝手に助けたのはおれだから、そんなに叱らないでやってくれよ。ほら、新年にアベルに怪我を負わせたから、これでおあいこだし。な?」


 ディルクは懸命に二人のあいだをとりなすが、リオネルは渋い表情を崩さず、アベルは黙ってうつむいたままである。


 アベルとて、あえて食事をとっていないわけではないし、好きで馬から落ちたわけではない。

 ……だが、皆に迷惑をかけたことは、否定のしようもないことだった。


「本当に、申しわけございませんでした。深く反省しています」


 すっかりしょげてしまったアベルは、けれど、はっきりと大きな声で謝罪した。


 謝罪を求めていたわけではなかったリオネルは、このとき、心配のあまり強く言いすぎてしまったことを自覚し、後悔の念が湧きあがる。


 けれどここでゆっくり話しあっている時間はない。前へ進まなければ、予定通りにラロシュ領に着くことはできない。

 再び落馬する危険のあるアベルを馬に乗せたくはないが、はたしてどうすればよいかリオネルが考えをめぐらせていたとき、横から控えめな声がした。


「リオネル様、責任の一端は私にあります。食事が充分にとれるようになるまで、私にアベル殿を連れて行かせてはいただけませんか」


 リオネルが答える前に、ディルクが呆れたような視線を己の従者へ向ける。


「マチアス、なんでおまえが出てくるんだ? 責任ってなんのことだ? しかもアベルを馬に乗せるなんて、役得なんじゃないのか?」

「高位の貴方がたが、乗せて行くわけにはいかないでしょう」


 マチアスが冷静に答えると、ディルクは黙って片眉を上げた。


 たしかに、兵を率いているリオネルやディルクがアベルを同じ馬に乗せるわけには行かないし、ベルトランはリオネルを守らなければならず、クロードは騎士を束ねなければならない。

 アベルのことを信頼できる者に任せるのであれば、適任はマチアスしかいなかった。


 心を決めたようにリオネルはうなずき、


「――わかった、それがいいかもしれない。ディルク、おまえの従者に頼んでもいいか」


 本人に直接頼む前に、彼の主人であるディルクに話を通す。


「ああ、それはかまわないよ」

「ではすまないが――マチアス、アベルを頼む」

「かしこまりました」


 マチアスは深く一礼する。

 最後に、複雑な表情をアベルに向けたが、なにも口にはせず、リオネルは自らの馬に跨った。


「それじゃあ、マチアス。しっかり頼まれてくれ」


 ディルクも立ちあがり、服に着いた汚れを払って騎乗する。


「すみません、マチアスさん」


 しょんぼりと、アベルは視線を落とす。


「あなたのせいではありませんよ。お気になさいませんように」


 マチアスの言葉は優しかったが、アベルの気持ちを明るくはしなかった。

 そのとき、アベルに向けて、ひとりの青年の声が馬上から降りかかる。


「おまえは本当に迷惑をかけてばっかりだな。来ないほうがよかったんじゃないのか」


 アベルは、その言葉に悔し涙がこぼれ出そうになり、声の主を降り返らずにマチアスの馬のほうへ向かった。


 彼の言葉が聞こえていたのは、アベルと、彼女のすぐそばにいたマチアスだけである。

 去っていくアベルの後ろ姿を見つめてから、マチアスは青年を顧みた。


「ジュスト殿」

「なんでしょう」


 なにか言われるだろうことを察したジュストは、マチアスの声音の冷たさに負けぬ冷淡な声を返した。


「アベル殿が馬から落ちた原因は、貴方が振るった暴力にあります。アベル殿がこれほどひどい状態であると知っていたなら、貴方がたに、今回の件をリオネル様にご報告しないなどという約束はしませんでした。もし次にこのようなことがあれば、私は必ずリオネル様に、今回のことも含めてすべてお話します」


 言葉を聞き終えたジュストは、目を眇めてマチアスを見据える。


「なぜ私のせいだと言いきれるのですか。アベルが食事をとらないのは、彼が勝手にそうしているだけのことでしょう。それとも、本人の口から聞いたのですか? 蹴られたところが痛くて食べられないと」


 アベルの性格からしてそんなはずはないと、ジュストは踏んでいた。


「それに、リオネル様に言いたければ言ってかまいませんよ。先に手を出したアベルが、最も咎を受けることになると思いますけれど」


 そう言い捨てて、ジュストはマチアスに反論を許さず、馬首をめぐらせた。


 立ち去る彼の姿を、マチアスが見据えていたのは一瞬のこと。すぐに、アベルがすでに乗っている自らの馬に戻り、自らも跨った。


「ご迷惑をおかけします」


 すっかり元気のなくなってしまったアベルは、声までもが沈んでいた。


 それはそうである。

 こんな重要なときに、体調を崩しているのだ。

 そのうえ、主人の親友を巻き添えにして落馬し、そのことを主人から叱責され、独りで騎乗もさせてもらえないとなれば、周りに迷惑ばかりかけているような気持ちになり、意気消沈するというものである。


 けれど、どんなふうに慰めたとしても、この少年の沈んだ心を晴らしてやることは叶わないということを、マチアスは知っていた。


 けれど、ただひとつだけ、彼はどうしてもアベルに伝えたいことがあった。

 それは――。


「アベル殿。さきほどジュスト殿が言っていたこと……気にする必要はありませんよ」


 腕のなかにすっぽりおさまるほど華奢な少年は、なにも答えなかった。

 ただ、すぐ目の前にある金糸の髪が、わずかに揺れる。


 こんなとき、ディルクなら明るい冗談でも言って、相手を笑顔にできるのかもしれないと、マチアスは生まれてはじめて、主人に教えを仰ぎたいと思った。


 それから視線を前方に向けると、峰を雲に覆われた壮大なラ・セルネ山脈の山々、そして、普段と変わりないはずのリオネルの後ろ姿がある。

 けれど、その背中がどこか憂いを帯びているように見えるのは気のせいだろうか。


 マチアスは、アベルに気がつかれないほどの、小さな溜息をついた。





+++





 庭の隅に植えてある一部の木の枝に、小さな堅い蕾がつきはじめている。

 それは、冷たい空気や暗い空にはからはまだ感じられない、近づきつつある春のささやかな合図だった。


 その合図とともに、エマがシャンティの寝室に絶やさず活けている花の種類も、少しずつ豊富になってきている。春から夏にかけては、花瓶からあふれんばかりになるだろう。



 カミーユが、姉の寝室に独りで来るのは、珍しいことではなかった。

 その存在を懐かしむように、追憶のなかのシャンティに会いに来るように、幾度もこの部屋に足を運んでいる。


 シャンティが毎晩使っていた寝台に、横たわる。


 寂しいときや、哀しいとき、カミーユはよく姉の布団にもぐりこんだ。

 いつもは、男らしさとは云々などと厳しいことを言うシャンティだったが、そんなときは、必ず落ち込んでいるカミーユをあたたかく迎え入れてくれた。

 そして必ず、「なにかあったの?」と聞く。

 カミーユがなにか答えれば、それにじっと耳を傾けてくれたし、なにも言わなければ、それ以上は追求せず朝まで一緒に眠らせてくれた。


 カミーユはシャンティの寝台にぼんやりと横たわりながら、彼女が自分には充分優しかったとトゥーサンが言っていたことを思い出す。


 そうだったのかもしれない。


 シャンティは、カミーユが元気のないときにはいつもそばにいてくれた。

 泣いていれば、泣きやむまで頭を撫でてくれたし、風邪をひいたときは、隣でずっと本を読み聞かせてくれた。

 今更ながら、そんなことを思い出して、目の奥から熱いものがこみあげてくる。


 最近、姉がディルクに贈ったスミレの押し花や手紙を見たからかもしれない。

 たしかに数年前までこの部屋にいた姉の存在が、今、鮮明に思いだされた。


 庭で摘んできたスミレを、この部屋まで持ってきて本に挟んでいる光景を想像して、カミーユはこぼれる寸前の涙をぬぐって、「似合わないや」と軽口を叩いてみる。

 いつも剣を振りまわし、馬に乗って走りまわっていたシャンティである。

 花を摘んでいる姿など、あまり思い浮かばない。


 けれど、似合わないと言ったのは、本心ではなかった。


 カミーユは、未だに姉ほど美しい女性を見たことがない。

 彼女が花を摘んでいる姿は、幻想的なほど美しいだろうと思った。

 しかし、あえて心にもないことをつぶやいたのは、そう言い放てば、どこかからシャンティの怒る声が聞こえてくるような気がしたからだ。


「うるさいわね、カミーユ! どうせわたしは、花より剣のほうが似合うわよ。でも、ディルク様からもらう花だけは、絶対に似合うと思うわ」


 そんな台詞が、聞こえてきそうだった。


 聞こえてくればいいと思った。

 聞きたいと、思った。


 ――ディルクからもらった花束を抱えて、嬉しそうにほほえむシャンティの姿。


 見たこともないそんな光景が、突如、鮮明に瞼に浮かび、カミーユは急いで目を伏せた。

 けれど、伏せたものの間に合わず、涙が両目から一粒ずつ、ぽろぽろとこぼれ落ちて布団に小さな染みをつくる。


 その跡をぼんやりと見つめていると、音もなく扉が開いた。



 入ってきたのは、黒い服をまとった乳母のエマである。彼女は、シャンティが「死んだ」日から二年以上経った今も、ずっと喪に服したままだった。

 手には水色を基調とした花束を持ち、窓際にある飾り机に近づく。


 カミーユが寝台の上にいることに、まったく気がついていないようだった。


「エマ」


 驚かせないように小声で呼んだつもりだったが、身をかたくしたエマの手から花は滑り落ちてしまった。


 窓際には絨毯が敷かれていないので、濃い茶色の板張りの床に、淡い水色が鮮やかに散る。その二色――濃茶と淡い水色の対比が、とても美しい。


「ああ、カミーユ様。申しわけございません。お部屋にいらっしゃるとは、まったく存じあげませんで」


 主人に向かって頭を下げてから、エマはしゃがみこんで花を拾いはじめる。


「驚かせて、ごめん」


 カミーユも寝台から降り、彼女の手助けをしようと、散乱した花をかき集める。


「いいのですよ、若様はそんなことをなさらなくて。わたしが全て拾いますから」

「いいよ、おれが驚かせたんだから。それより、エマは寝てなくていいの?」


 彼女と話すのは、久しぶりのことだった。

 というのも、徐々に体調が安定してきている母のベアトリスとは逆に、エマは少しずつ体調を崩しはじめていたからだ。

 シャンティの花を摘みに行く以外に、このところ自室からほとんど出ていない。


「これだけが、今のわたしの仕事なのですから」

「そんなことを言わずに、元気になったら、もっといろいろできるよ」


 明るく言ったが、エマは哀しそうな顔をしただけだった。


「そんな顔していたら、トゥーサンも心配するよ」

「……そうですね」


 顔を上げずにつぶやいたので、その返事はほとんど聞こえるか聞こえないかというくらいだった。


 シャンティがいなくなってからのエマのやつれぶりは、傍目から見ていて痛々しいほどである。

 身体の調子が悪いのも、気持ちの落ちこみからくるところが大きいのだということは、容易に察することができた。


「そういえば、このあいだ、はじめてベルリオーズ領のシャサーヌに行ったんだ」


 花を拾いながら、カミーユは口を開く。あえて、エマが喜びそうな話題を選んで。


「本当に、華やかで、活気にあふれる街だったよ。エマが見たこともないような野菜や、果物がいっぱい並んでいて、市場ではあちこちからいい匂いがするんだ。他にも、とても綺麗な布や、飾りもの、宝石がたくさん売られていて、それを見に来るお客さんでごったがえしているから、うっかりトゥーサンと、はぐれかけたよ。同じシャルムの国とは思えない雰囲気だった。エマも連れて行きたいな」


 ベルリオーズになにをしに行ったのか、無断でそこへ行ったことで、あとで両親から説教されたことは言及しない。そのようなことまで伝えれば、余計な心配をかけるだろう。


「シャサーヌですか」

「元気になったら、エマもいっしょに行こうよ」


 エマは軽くうなずいたが、口から出た言葉はカミーユが思ってもいなかったものだった。


「伯爵様には、お許しを得て行かれたのですか?」

「え、あ、いや……」

「しばらく前に、伯爵様と奥方様が慌てていらっしゃったのは、そのためだったのですね」

「知っていたのか」


 苦笑いを浮かべながら、カミーユは頭をかいた。墓穴を掘ってしまったようだった。


「あまりお二人に心配をかけてはいけませんよ」

「あれは、しかたがなかったんだ。でも心配していたというわりには、それほど叱られなかったよ」


 エマは曖昧な表情でカミーユを見ると、なにも言わずに再び視線を花に戻す。その乳母の行動の意味が、少年にはわからない。


「でも、母上には最後に釘をさされてしまった。あまりベルリオーズ家や、アベラール家には近づかないようにって。そんなこと言ったって、ディルクは姉さんの婚約者だったのにね。どうして今更そんなことにこだわるんだろう。ディルクの友達も、悪い人には見えなかった。国王派とか、王弟派とか、そういうの、おれはあまり好きじゃないな」


 押し黙り、感情と表情とを胸の奥にしまいこむようにして、エマは拾い集めた花をきつく握りしめた。


「そんなに強く束ねたら、茎が折れちゃうよ?」


 不思議そうな顔で、カミーユはエマをのぞきこむ。

 すると、少年の視線から逃れるように彼女は顔を背けた。


「ベアトリス様は、国王派の大貴族のご令嬢でいらっしゃいます……それを――」


 ――それを忘れてはならない。


 そう言おうとしたのかもしれない。

 しかし、エマは、それ以上、言葉を続けなかった。

 聞こえなかっただけだろうか。もしくは、聞こえてほしくなかったのだろうか。


 黙々と花を活け替えるエマを、カミーユはじっと見つめていた。








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