63
アベルが目を覚ましたとき、テント内に広がる光景に驚愕した。
あろうことか、リオネルとベルトランが、まだ寝ているのである。
サン・オーヴァンからシャサーヌへの道中も含めて、同室で休んでいる際に、アベルが彼らより先に起きたことなど、かつて一度もない。
――奇跡のようである。
けれど、アベルが同じテントで眠る三人のうちで一番先に目覚めたのは、前日に相当早く休んだということと、いくらリオネルが密かに毛布を厚めに敷いたからとっても、地面に長時間横になっていると身体が痛むからで、けっして奇跡が起こったわけではなかった。
二人のうちのどちらかが、かけてくれたのだろうか、いつのまにか首元までくるまっていた毛布をよけて立ちあがる。
そしてアベルは、なんとなしに興をそそられて、少し離れたところで眠るリオネルの枕元にしゃがみこみ、その寝顔をのぞきこんだ。
……そんなことをすれば、彼が間違いなく意識を取り戻すなどということには、気づきもせずに。
リオネルの寝顔を見るのははじめてのことかもしれない。
いや、彼の容貌そのものをこれほど間近でまじまじと見つめること自体、はじめてだ。互いの顔が近くなると、落ち着かなくなって視線を逸らしてしまうことが多いからである。
けれど、相手が目をつむっていれば、それも平気である。
間近で見る青年の寝顔は、このうえなく端正で美しく、アベルは吐息をもらした。
濃い茶色の髪は、白い肌を際立たせ、だが色白なのにけっして貧弱に見えない。
長い茶色の睫毛、形のよい唇や眉、細おもてだが、男性的な色気を漂わせる顔立ち……。
リオネルの母であったベルリオーズ公爵夫人も絶世の美女だったと、騎士たちが話しているのを聞いたことがあるが、彼はその人に似たのだろうか。
これほどの造形美を造り上げた神は、自らの腕に誇りをもったことだろう。
けれどなぜ、自らつくった至高の傑作に、平穏で安らかな人生を与えなかったのか――神の意思とはつくづくわからないものだと、アベルは思った。
頬に落ちかかっていたリオネルの髪を、触れてもいいものかどうか迷ってしばらく手を宙に彷徨わせた末に、指先でそっとよける。
彼が目覚めなかったことにアベルは安心して、再び寝顔を見つめた。
一生に、たった一度の奇跡かもしれない。
この造形美をじっくり眺められるのも、これが最初で最後かもしれないと思うと、目を離すのが惜しいように感じられた。
けれど、しばらくそうしていたアベルは、はたと我に返る。
「わたし……なにをやっているのかしら」
眠っていることをいいことに、主人の顔を観察するなど、甚だ無礼なことである。
「申しわけございませんでした」
アベルは小声で謝罪すると、頭を下げて立ちあがり、自らの使用していた毛布をたたみに戻った。
そして、片付けを終えたアベルがテントを出ていくと、眠っていたはずの青年の双眸がそっと開き、瞼のあいだから紫色の水晶のような瞳がのぞいた。
彼は、ゆっくり半身を起こすと、肩より少し長いつややかな茶色の髪をかき上げた。
「――――」
その表情には、わずかな動揺が垣間見える。
恋する相手に、まじまじと寝顔を見つめられたのである。
気恥かしくないわけがない。
しかも、なぜだか、最後に謝られた。
彼女がなにに対して謝罪したのか、リオネルにはよくわからない。
アベルが、自分の頬におちかかる髪をよけた、その指先の感覚が、まだ肌に残っている。
その個所に手をやり、熱くなる想いを沈めるように、リオネルは再び瞳を閉じた。
「あの子が先に起きると、おかしな気分になるな」
起きあがる気配とともに聞こえてきた声は、テントの入り口近くで寝ていたベルトランのものである。
「おはよう」
気持ちを平静に戻しながら、リオネルはベルトランに挨拶した。
二人とも、アベルが起きあがった時点ですでに目覚めていたが、彼女がテントを出るまではそのままでいたのだ。
アベルも、主人の顔を眺めていたことを二人に知られたくないだろうが、二人もどう反応していいかわからなかったからである。
「朝から、愛する娘に見つめられた気分はどうだ?」
珍しくからかうようなベルトランの台詞に、
「ひやかさないでくれ」
と、リオネルは苦笑した。
二人は身のまわりを整え、そして、リオネルが最初にテントを出た。
朝の、冷ややかだが、清々しい空気が肺に入りこむ。
戸口からすぐの場所に、アベルは立っていた。
彼女の後ろ姿は、雪化粧をほどこされたラ・セルネ山脈が広がる景色を背景に、ぽつんとたたずんでいる。
「アベル……おはよう?」
リオネルが、先程のこともあり、戸惑いがちに声をかけると、少女はぱっと振り返る。
その水色の瞳は、きらきらと輝いていた。
「リオネル様、山です!」
「山?」
シャサーヌでは遥か遠くにしか見えなかった山脈が、たしかにここでは、かなり近くに見える。
昨夜は暗くてほとんど見ることができなかったが、今朝は、薄ぼんやりと明るくなってきた空に、たしかにその偉大な山の影は浮かびあがっていた。
「あんなに大きな山があるのですね!」
アベルはとても嬉しそうだった。
まだ、近くの川で顔も洗っていないのに、そんなこともすっかり忘れているようである。
「そうか。アベルはこれほど大きな山を、間近で見るのは初めてなのか」
その姿がほほえましくて、リオネルは目を細める。
こんなときのアベルの笑顔は、なんと眩しいのだろう。
「初めてです、リオネル様。あれほど大地が盛り上がっているなんて信じられません。あの山の頂上へ行けば、空に手が届いてしまうのではないでしょうか」
「盛り上がった大地か――たしかにそうだね」
リオネルは、その素直だが斬新な表現に笑った。
そして、空に手が届いてしまうのではないかという、アベルの無邪気な想像も、なんともかわいらしい。
「山に登れば、本当に空に手が届くかもしれないね」
「本当ですか?」
少女の瞳がひときわ輝いたので、リオネルはやや慌てる。
「いや、山の上は危険だ。試してみようなんて、思ってはいけないよ?」
「…………」
アベルが、残念そうな顔で口をつぐんだので、リオネルは困ったように笑った。
「いつか、あの山が安全な場所になったら、いっしょに行こう」
「はい!」
顔をほころばせたアベルに、リオネルは再び目を細める。
この少女は、なんて嬉しそうに笑うのだろう。
「もうお腹の具合は大丈夫なのか?」
「あ……はい、もう平気です。昨夜は先に休み、すみませんでした」
頭を下げたアベルを、リオネルはまっすぐに見つめ、真剣に問う。
「本当に?」
「はい」
「では、今朝は食事をとれるのか?」
「……とります」
返答に含まれた意味を判じようとするように、リオネルは一拍の間をおいて、重ねて問いかけた。
「その唇の傷は?」
「……ええ、あの……荷台に顔をぶつけました」
「本当に?」
「リ、リオネル様は、わたしの言うことを、疑ってばかりいらっしゃいます」
たしかに、そう言われてみればそうである。
だが、この少女は、リオネルに心配かけまいと、なにもかも独りで抱えこむようなところがあるため、疑いたくなるのはしかたがない。
「わかった。何度も本当かどうか聞いたりして、すまない。けっして疑っているわけではないんだ。ただ……いろいろ気になってしまって」
「お気を煩わせて、申しわけございません」
「きみが謝ることじゃない。とにかく、なにかあったらおれに正直に話してくれないか。そうでなければ、余計に心配になるから」
「……わかりました」
深い紫色の瞳からわずかに視線を外しながら、アベルは答えた。
これでは、隠し事をしていることは、明白である。
だが、それ以上に、リオネルに瞳の奥を覗かれたら、なにもかも見透かされてしまうような気がした。
リオネルは小さく溜息をつき、アベルの腕に遠慮がちに手を添えた。
「アベル」
「はい……」
やはり唇の傷のことを問いただされるのかと、アベルは身構える。
けれど、リオネルはそれ以上そのことについては、触れてこなかった。
「――きみが、話したくないことは、無理に聞かない」
「…………」
「でも、辛いことや、危険なことがあったときは、独りで抱えこまないでくれないか」
なんとかリオネルの紫水晶のような瞳を見返して、アベルは小さくうなずいた。
心配性の主人である。
この心優しい主人を――これほど心優しい主人だからこそ、余計に心配をかけさせたくないと思うのだ。
そんな気持ちから相手を安心させようと、ほほえみ再度うなずくと、リオネルは軽く眉を寄せたまま、複雑な顔で笑みを返した。
徐々に明るさを増していく薄曇った空の下。
リオネルの端正な顔は、どこか寂しそうだった。
ベルリオーズ家とアベラール家の騎士隊は、その日の昼前に、ベルリオーズ領からシャレット領に入った。
アベルは、これほど北に来たこともはじめてだったし、これほど山が徐々に近くなってくるのを見ることもはじめてだった。
どう表現してよいかわからないほど、山は巨大で荘厳だった。
あまりの偉大さに、神聖なものさえ感じる。
だれかとこの感動を分ちあいたいが、周りの騎士たちは、何度も見たことがあるのか、まったく感銘を受けている様子はない。あの明るいラザールでさえもが、真剣な面持ちで騎乗している。
たしかに、これは物見遊山などではなく、重要な任務を遂行するための遠征だ。
それも、山賊がいるラ・セルネ山脈を見てはしゃぐなどということは不謹慎なことである。
けれど、アベルは気持ちが高ぶるのを、止めることができなかった。
少し前方で、リオネルと並んでいたはずのディルクが、アベルのすぐ隣に馬を寄せてきたのはそんなときだった。
「アベル、大丈夫?」
唐突に尋ねられたので、アベルは水色の瞳を幾度かまたたかせた。
「今朝も、ほとんど食事をとっていないようだったから。体調が悪いのかと思って」
アベルが、ちらと視界に映っていたマチアスへ視線をやると、彼は軽くうなずいた。
どうやらマチアスは、ディルクにも昨日の喧嘩のことを言わないでいてくれたようだ。彼の計らいに感謝しつつ、アベルはディルクに笑顔を見せる。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。少し興奮して食欲がないだけなので、お気になさらないでください」
「興奮?」
「はい」
「なにか、わくわくすることがあったの?」
「はい」
ディルクが不思議そうな顔をするので、アベルは半ばしかたなく、半ば喜々として口を開く。
「山です。次第に山が大きく見えてくる、この壮大な景色が素晴らしくて」
ああ、とディルクはうなずく。
「山ね。アベルは山が好きなの?」
「いえ、好きというか、こんなに大きいものは初めて見ました」
「そうなんだ。アベルは、大きな山が見えないところに住んでいたんだね」
過去を詮索され、ぎくりとしたが、目の前の青年はにこにこしている。
「アベルが住んでいたところには、何があったの?」
「……何がというか……なにもないところでした」
「なにもない? 山も、海も、川も、森もなかったの?」
「川や森くらいはありました」
「へえ、どんな川?」
「どんなって……普通の、小さな川です」
「そこは、サン・オーヴァンではないんだろう?」
「……違います」
投げかけられる質問に答える声は、だんだんと小さくなっていく。
「山も海もないところということは、シャルムの右翼や尾の部分ではないし、ラ・セルネ山脈沿いの所領でもなく、かつ、王都でもなく……」
「おい、ディルク。リオネルがいないことをいいことに、アベルの身元を探るとはいささか卑劣ではないのか」
「身元を探るとは、人聞きが悪いな。ちょっと話していただけだよ」
「どうだか」
困り果てたアベルに助け船を出したのは、近くに来たレオンである。
「アベル、こいつの質問になど答えなくていいぞ。おまえは、リオネルに仕える者なのだから、ディルクの言うことなど無視してもかまわない」
「いやにアベルの肩を持つんだな」
「おまえの意地が悪いからだ。アベルがおまえに逆らえないのを知ったうえで、質問に答えさせるなど卑劣なことをするからだ」
「さっきから、卑劣だ卑劣だと言うけど、おれはリオネルが聞けないことを、代わりに聞いてやっているだけだぞ」
「そのようなことは、余計なお節介だろう」
「余計なお節介……といえば、おまえのことじゃないか。おれが婚約者からもらったハンカチと押し花を捨てようとしたのは、どこのだれだ」
「おれは、別に捨てようとしわけでは――」
そのとき、レオンの声が途切れたのは、視界の端で細い指から手綱が滑り落ちるのが見えたからだ。
アベルの身体が均衡を失ったのは、二人の会話のなかに、自らが五年前に贈ったハンカチと押し花の話題がでてきたため――ではない。前日の昼食を最後に、ほとんどなにも口にしておらず、体力がもたなかったためだった。
「アベル!」
ディルクが名を叫んだのと同時に、馬上からアベルの身体が滑り落ちる。
騎兵隊の列が乱れ、最前にいたリオネルが叫び声に振り向く。
彼の目に映ったのは、落ちていくアベルの身体と、馬上から手を伸ばしてその身体を引き寄せようとして、自らも落馬するディルクの姿だった。