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 月も星もない漆黒の闇のなかに烈火が燃え盛り、明るく映しだされた白煙が天に舞い上がっている。


 宿営地の中央に設置された巨大な火を囲いながら、騎士らが夕餉をとっていた。

 彼らが手にしているのは、乾燥させた羊肉、根菜のスープ、パン、そして林檎などである。

 雪は深くはないが、直接地面に腰をおろすと身体が冷えるため、多くの騎士らは立ちながらの食事だった。


 リオネルの左右にはレオンとディルク、さらにその周りに、ベルトラン、マチアス、クロードなど重臣らがいる。

 けれど、そこにアベルの姿はなかった。


 リオネルは時折、視線を自らのテントに向けたが、そこから動くことはなかった。

 宿営の夜の食事時に、突然姿を消せば、率いられてきた兵士たちは不安がるだろうからだ。リオネルが、遠征を重ねている経験者ならともかく、今回は初めてのことなので、単身での行動は極力避けたほうがよい。


「アベルがいないね?」


 まっさきに問いかけてきたのはディルクだった。


「ああ、お腹が空かないと言って、テントに残っている」

「お腹が空かない? 寒い中を、こんなに長いあいだ、馬で移動してきたのに?」


 ディルクはスープをすくう手を止めた。

 釈然としないのは、ディルクだけではない。だれよりも気になっているのは、リオネル自身である。

 けれど、晴れない顔つきでありながらも、うなずくしかない。


「……そうみたいだ」

「体調を壊したのかな?」

「そうではないことを願うけど」

「お腹が空かないだけなら、こっちに来て暖まっていればいいのに。テントのなかは寒いんじゃないのか」

「…………」


 それは、リオネルとて同様に思ったことである。けれど、言葉少なで、顔もリオネルへ向けたがらないアベルに、しつこく話しかけることはできなかった。

 けっして機嫌が悪いとか、愛想がないというわけではないのだが、アベルに視線を向けると不思議と顔を逸らされてしまうのだ。


「アベルなら、先程見かけましたが、荷台で顔をぶつけたと言っていましたよ」


 近くで主人らの会話が聞こえていたクロードが、口を挟む。


「……荷台に顔を? なにをしていたらそんなことになるんだ」


 ディルクは怪訝な顔をする。


「そこまでは……」


 小首をかしげたクロードは、アベラール家の従者の姿を探した。彼はディルクのすぐ後ろにいる。


「いっしょにいたマチアス殿なら知っているのでは」


 ここでクロードがジュストの名を出さなかったのは、彼が食事の担当で、今の時間は大変に忙しいことを知っていたからだ。


「マチアス、おまえアベルといっしょだったのか?」


 話をふられたマチアスは、すでにしばらくまえから食事の手が止まっていたようで、なにかを思案するようにうつむけていた顔を主人に向ける。

 そして、その視線をディルクからリオネルに移した。


「……もしお許しいただけるのであれば、アベル殿の様子を見てきても差し支えないでしょうか」


 リオネルは、深い紫色の瞳をひたとマチアスに向ける。


「なにかあったのか」

「……いいえ。ただ、このなかでは私がもっとも動きやすいかと思いまして」

「荷台に顔をぶつけたというのは?」

「私はその現場を見ておりませんでしたので……ご説明できず、申しわけございません」


 なにかを判じようとするようなリオネルの視線が、マチアスの瞳を射抜く。

 己の主人であるディルクからは感じられない、静かな畏怖のようなものを感じて、マチアスはつい視線を外してしまった。


 リオネルの瞳には、隠し事を見抜かれるような気がしたのだ。

 従騎士の二人には、今回の一件をリオネルに告げないと約束した。約束したからには、それを違えるわけにはいかない。


 親友の従者がなにかを知っているらしいことを悟ったリオネルは、鋭い眼差しを、どこか諦めたように和らげる。


「――わかった。アベルの様子を見てきてほしい」


 マチアスはベルリオーズ家の跡取りである青年に頭を下げると、主人やレオンに対しても一礼してテントへ向かった。


 心配そうな色をたたえたリオネルの表情が瞼に焼きつく。

 リオネルがあれほど気にかけながらも、それ以上問いただしてこなかったのは、自分を信頼し、アベルのことを任せるという意味である。

 その信頼に応えなければならないと、テントに向かいながらマチアスは感じていた。


「マチアスのやつ、なにか知っているな」


 従者の姿が闇のなかに溶けていくと、視線を手元に戻しながらディルクが言った。


「あとで聞き出しておこうか」


 しばらく間をおいてから、リオネルは軽く首を横に振り、親友の申し出を断った。


「……いや、いい。彼なら、任せても大丈夫だろう」

「ずいぶんと、おれの従者をかっているんだね」

「マチアスは、しっかりしているよ」


 感情が読みとれぬ調子でリオネルが短く答えると、レオンがからかうような笑みを見せた。


「それは、ディルクのような主人に仕えているのだ。しっかりしていなければ、このような激務は務まらないだろう」

「おれに仕えることの、どこが激務なんだ?」


 ディルクは、腑に落ちないという様子である。


「基本的におれは、従者であるあいつから放置されているぞ」

「それは放置されているのではなくて、適度な距離を保っているというのだ。やりたい放題の主人のかわりに、方々で頭を下げるだけでも疲れるのだろう。そのうえ、いちいちおまえについてまわっていたら、マチアスは心労と過労で倒れてしまうぞ」


 片眉を上げてディルクは渋い顔をしたが、ベルトランやクロード、さらにはリオネルまでもが笑うので、反論しづらい雰囲気になってしまい、


「リオネルまで笑わなくても」


 と、いじけ気味につぶやいただけだった。

 一方レオンは、昼間の報復を果たせたことに、大変満足そうである。


 それから彼らの話題は、ラ・セルネ山脈の賊や、ラロシュ邸に集まる諸侯らのことなどに移っていった。








 テントの前まで来たマチアスは、内部に向かって呼びかけた。

 返事がないので、入口の布を開け、ゆっくりと足を踏み入れる。


 たった一本だけ灯っていた蝋燭が、入りこんだ外気に危うげに揺らめいた。

 その揺れる炎が照らしだしたのは、毛布の上で膝を抱えるように横になっているアベルの華奢な身体だった。


 焦慮にかられて足早に近づき、しゃがみこむ。

 名前を呼びかけようとしたが、少年の顔を見ると、声を発することなく再び口を閉ざした。


 水色の瞳は薄い瞼に覆われ、おだやかな深い呼吸を繰り返すたびに、身体全体がゆっくり上下している。

 ただ眠っているだけのようだった。

 ジュストとの喧嘩のために、ひどく調子を崩しているというわけではなさそうである。

 安心しきったわけではないものの、マチアスはひとまず肩をなでおろした。


 傷ついた身体が、休息を欲しているのかもしれない。傍らにあった毛布を、アベルの身体にかけてやる。

 肩が外気にさらされないように、首の周りまで毛布をかぶせていると、アベルの顔が間近になった。王都へ主人を迎えに行き、アベラール領に戻る道中において、幾晩か同じ部屋で休んだことがあったが、これほど近くで眠る姿を見るのは、初めてのことである。


 かすかに揺れる長い金色の睫毛、やわらかそうな白い肌、濡れたような唇――その、あどけない寝顔。

 なぜか一瞬、自らの心臓が跳ねるのを感じて、マチアスは胸に手をあてた。


「……なるほど」


 マチアスは、独り納得する。

 この少年が、自分が抱いた予感どおりの人物かどうか、まだ確信してはない。けれどリオネルが、アベルを他の騎士たちと同室にさせない理由が、少しわかるような気がした。

 それは自分が、この人を女性かもしれないと思っているから抱く思いだろうか。

 ……このような寝顔が、狭いテントのなかで一晩中目の前にあったら、落ちついて眠れそうにない。


「おやすみなさい」


 マチアスは、眠っているアベルにそうつぶやき、長居を避けてテントをあとにした。








 少女が眠っているテントに、二人の若者が戻ってきたのは数刻後のことだった。


 茶色い髪の青年は、テントに入るやいなや、真っ先に横たわる少女のもとへ向かう。そして、彼女の寝顔を目にして、静かに嘆息した。

 アベルが眠っていただけだということは、マチアスから聞いていたが、それでも実際に自分の目で確認するまでは落ちつかなかったのだ。


 今、目のまえで、少女はいとけない表情で眠っている。

 荷台に顔をぶつけたと聞いていたが、この暗がりではっきりわかるほどの怪我はない。

 そのことが、どれほどこの青年を安堵させたことか。


 白い頬に、軽く指を触れる。

 真綿のように柔らかい感覚が指先から伝わり、その瞬間、リオネルは背筋が凍りつくような感覚を覚えた。

 それは、ある種の恐怖だった。


 これほどそっと触れていても、傷つけてしまいそうな肌。

 眠っている少女の姿は、いつもに増して、もろく見える。

 今更ながら、彼女を戦わせることが、恐ろしくなった。


 ――本当に山賊討伐などに連れてきて、よかったのだろうか。


 そして、そのとき、リオネルの紫色の瞳は、唇の端にある小さな傷をみとめる。

 荷台にぶつけたというときのものだろう。荷台にぶつけたにしてはいささか不自然な位置だが、顔に暴力を受けた形跡もない。

 アベルが、自分からやたらと顔を背けていたのは、このせいかと思い至る。心配をかけまいとする彼女の気持ちは理解できたが、逆にリオネルはそれを寂しく感じた。


 もっと頼ってくれればいいのに、と思う。

 いつも、独りで抱え込み、独りで解決させようとする彼女の態度が、寂しくもあり、そして、怖くもある。

 それがいつか、取り返しのつかないことにならなければいいがと、願わずにはいられない。否、そのような状況は、なんとしても未然に防がなければならない。


「アベルはよく寝ているみたいだな」


 眠る少女を上からのぞきこみ、ベルトランが言った。


「ああ」


 リオネルが、アベルから視線を外すことなくうなずくと、ベルトランも同様に少女の顔をまじまじと見つめる。


「無邪気な寝顔だな……。剣を握らせれば鋭い刃のようなのに、眠っているときは、これほど隙だらけとは」


 ベルトランやリオネルなら、これほど近くに人が来て顔を覗きこまれたら、即座に目を覚ますだろう。

 彼らは休んでいるときも、けっして外界からの感覚を遮断しない。それは、騎士になるべく生まれた彼らにとっては、当然のように幼いころから身についている習慣だった。


 だが、いくら腕が立つといってもアベルは実のところ、貴族の令嬢として育った娘である。彼女の眠りは、赤ん坊のように無防備なのだ。


「おまえは、心配だろうな」


 ベルトランは、リオネルの気持ちを慮るように、気遣わしげな口調で言った。

 傍らに立つ赤毛の若者を見上げて、リオネルは困ったように微笑する。その笑みは、ベルトランの言葉を肯定していた。


 そして、リオネルは視線を再び愛しい少女の寝顔に落とし、視線とともに言葉もぽつりぽつりと落とすようにつむいだ。


「初めて会ったときは、警戒する小動物のようだったのに、いっしょにいればいるほどその警戒心の裏にある、とても柔らかいものが見えてきて、ひどく不安になる」

「柔らかいもの?」


 リオネルはうなずく。


「脆いもの、というのかな。それがなにかよくわからないけど、その壊れそうなものを必死で守ろうとして、近づく者に対して警戒し、牙をむき、爪を立て、引っかこうとしているように見える」

「今でもか?」

「今でもそういうふうに見えるときはあるけど、そうじゃないときもある――そうじゃないときが、おれは怖いんだ」


 ベルトランは、青年の顔を見つめた。


「それは、こんなふうに、すべての警戒心を捨てて寝ている状態とよく似ていて……き出しの、壊れそうな心が、たやすくだれかに傷つけられるのではないか、壊されてしまうのではないかと、心配になることがある」

「おまえは、その柔らかいものがなにか、知っているんだろう?」

「…………」


 伏せられたリオネルの睫毛に縁取られた紫色の瞳は、憂いをたたえ、普段より一層美しく蝋燭の火に輝いている。


 アベルが必死に守ろうとしているもの。

 リオネルには、なんとなくわかっていた。

 それは、彼女自身の、人を信じる心だ――。人を信じる心のさらにその先にあるのは、人を愛する心である。

 アベルは、人を信じ、愛することを恐れている。


 そして、リオネルもまた、恐れていた……彼女が、だれかを信じ、裏切られることを。

 いつか、だれも信じることができないと言っていたアベル。

 もし何者かがそんな彼女の守るものを無残に侵したら、アベルの心が今度こそ壊れてしまうのではないか。


 人を信じないことが、素晴らしい生き方などとは思わない。

 けれどリオネルは、アベルの心が傷つくことが、怖かった。


「では、アベルは、どうして野良猫のように警戒しなくなったのか、考えたことはあるか?」


 ベルトランに問われ、リオネルはしばし考えこむ。そして、


「わからない」


 と小さく答えた。

 ベルトランは、赤毛の髪をかき上げ、ややためらうように一拍おいてから口を開く。


「それは、信じたいからじゃないか?」

「……信じ、たい」

「信じようとしている相手は、おそらくおまえじゃないか、リオネル」


 リオネルの表情が、再び考えこむようなものにある。


「だれも信じられない人間は、孤独だ。孤独な者が辿りつく先がどこだか、わかるだろう?」


 なにも信じられない者は、孤独である。孤独な人間が辿りつく先、それは――。

 紫色の瞳を、リオネルはすっと細めた。


「だが、アベルは生きようとしているんだ、必死で。この子がどんな過去を背負っているかはわからないが……今は、人を信じ、生きようとしている」


 難しい表情のままのリオネルに、ベルトランは続ける。


「心配するな、おまえ以外の相手には、まだ牙をむき、爪を立ててしょっちゅう威嚇している。だから、おまえが気をもむ必要はない。おまえは、アベルの信じたいという思いを受けとめ、見守ってやればいい」


 ベルトランの言葉を聞くうちに、リオネルの表情は徐々に和いでいき、目元にかすかな明るい光が灯る。


「――ありがとう」

「ああ、それと、寝ているときは要注意だな。無防備すぎるうえに、ほうっておくといつまでも起きてこない」


 リオネルは小さく笑った。この少女と朝の相性の悪さは、相当なものである。


 少しほっとした気持ちになれば、ふと、霧のなかにいるような自分のもやもやした気持ちを、いつも真剣に聞いてくれ、そのうえ、その霧を動かそうとしてくれる忠臣であり、友人であり、師でもあるベルトランに、深い感謝の念がわきあがる。


「ありがとう、ベルトラン」


 リオネルに再び礼を言われて、ベルトランは頭をかいた。主人である青年から、あらためて礼を言われるのは、照れくさいものである。


「いや」


 短く返事をして、ベルトランは休む準備を始めた。








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