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 三日目の夜まで、宿営はベルリオーズ領内だった。


 四日目には、シャレット領に入り、その翌日にはいくつもの小さな所領を通過して、目的地であるラロシュ領に到着する予定である。

 ベルリオーズ領内には、領主家の別荘が各所にあったが、なるべくラロシュ領までの直線距離を最短で辿ることを優先したので、別荘を使用することはなかった。


 宿営は、地面にテントを張り、ひとつのテントのなかで五人から六人の騎士が夜を明かす。眠るだけなので、当然、地面のうえに薄い毛布を直接敷いただけの寝所である。


 従騎士であるアベルは、当初、ジュストや他の若手の騎士と同じテントになるはずだった。それを、「身辺警護の役割を担っている」とか、「ベルトランの従騎士だから」などという理由をつけて、あっさり自分とベルトランのテントに変更させたのは、リオネルである。


「他の騎士の方々と同室で問題ありません」


 アベルはそう言ったが、この件に関しては、リオネルはアベルを超える頑固さでそれを否定した。


「だめだ。なにかのはずみで、きみが女だと知られたらどうするつもりなんだ」

「な、なにかのはずみって……」

「とにかく、おれのそばで、寝ながらおれの警護をしてくれ」

「…………」


 どこか滅茶苦茶なリオネルの言いぶりに、アベルは首をひねる。

 一方でリオネルは、とりあえずこのような説明をしたが、それは、心にあったことのほんの一部を口にしたにすぎなかった。


 愛しい娘が、狭いテントのなかで若い男に囲まれ、地面に近いような場所で眠るなど、リオネルには到底耐えられることではなかった。


 リオネルをはじめ、ディルクやレオンが使用するのは、騎士らのものよりは幾分か重厚なテントで、雨風や寒さをより防げるし、地面には厚手の毛布が敷かれることになり、そのぶん快適である。

 リオネルは、そのテントの一角に、密かに毛布を他より数枚多く敷き、そこにアベルを寝かせた。密かに敷いたのは、真実を告げれば彼女がけっしてそれを受け入れないことを知っていたからである。

 そのため、寝起きの悪いアベルが、ベルトランに起こされ目覚めたとき、意外とすっきりとした気分だったのは当然のことだった。





 そして、ベルリオーズ領内における最後の宿営の夜。


 テントを張る作業がすみ、主人らが集まりなにやら話しこんでいるあいだ、アベルは鞍にくくりつけていた花を外していた。


 領民からもらった花である。

 ずっと携えているわけにはいかないが、けっして捨てることはできない。

 今までの二日間で受けとった花は、いくつかに束ねて食糧の荷台の隅に置かせてもらっている。

 アベルは三日目になるその夜も、同じように束ねた花を、少し離れたところにある荷車へ持っていった。

 そして、荷台にかぶさっていた布をはずし……、目を疑った。


 この日までにもらった花の束が、ひとつ残らず、忽然と消えているのだ。場所を間違えたのかとも思ったが、いくら考えてみてもこの荷台に間違いない。

 花弁が一片ひとひらだけ木目に挟まっている。

 その淡い紫色の花弁をつまみあげ、


「どうして……」


 アベルはしばし呆然と立ちつくした。


 移動中に、落ちたのだろうか……。

 いや、上には布がかぶさっていたし、ひとつ残らず花束だけがなくなるというのもおかしな話だ。

 アベルは考えこむ。

 たしか、この荷台の食糧を管理していたのは――。


「こんなところで、また怠けているのか」


 聞こえてきたのは、たった今、思い出しかけていた人物の声。

 ここの食糧の管理を任されていたのは、ジュストである。


「夕餉の準備の手伝いでもしたらどうなんだ? それとも、花をたくさんもらって王子さま気分か?」


 アベルは不快感を覚えつつも、思いきって聞いてみることにした。


「……ここに置いておいた花を、ご存じありませんか?」

「花? 食糧の荷台にそんなものを置いたのか? 花に毒でも仕込んであったらどうするんだ。リオネル様や殿下の身になにかあったら、どう責任をとるつもりだ」


 言われてみればそのとおりである。


「……すみません」


 反論できず、アベルはうつむく。


「まったくおまえはどんくさくて、要領も悪いうえに、頭も悪い。いったいリオネル様は、おまえのどこを評価されているのだろう。少しばかり顔がよくて腕が立つということだけで気に入られているのなら、リオネル様が抱く印象が下がるまえに、自分を鍛えなおすか、もしくは、もといた場所に戻ったらどうだ?」


 ジュストにとっては、自らがなにか行動を起こすまえに、アベルが消えてくれるのがなにより好都合である。


「突っ立っていないで、働けよ」

「…………」


 アベルは無言で踵を返した。

 すると、背中にジュストの声がふりかかる。


「ここにあった『ごみ』なら捨てておいた」

「え――」


 花は捨てていないと、ジュストは言った。

 しかし、彼が捨てた「ごみ」とはいったいなんのことか。


 愕然として従騎士の青年を振り返るアベルに、氷のような言葉が突き刺さる。


「思い上がるなよ、アベル。おまえは高貴な方々に気に入られて立派な騎士のつもりかもしれないが、もとは物乞いだろう? 領民から花を受け取る立場にはないし、リオネル様や殿下と言葉を交わすこと自体が、非礼を働くことだと思え」


 アベルはうつむき、拳を握る。

 自分が一時期、浮浪児であったことは事実だ。

 けれど、そんな理屈で花を捨てたとは。


 アベルの様子を見て、あとひと押しと踏んだジュストは誹謗ひぼうを続けた。


「おまえのような賤民せんみんは、ここにいるに値しない。花はおまえに相応しくない。ごみは、ごみらしく地面にばらまいた」


 黙したままジュストの目前まで歩んだアベルは、水色の瞳にかつてないほどの怒りをたたえて青年を睨みあげる。


 その瞳の強さ――そして、美しさに、ジュストは内心でややひるむ。

 怒りの色に染まったアベルは、普段とは違った色気さえ感じさせるほど、相手を惹きつけるものがあった。


 次の瞬間、アベルの右手がジュストの頬を張る。

 ぱしりと高い音がして、張られた勢いとわずかな痛みで青年は顔を背けた。


「わたしは卑しい物乞いかもしれません。ですが、花は花です。あれは、ベルリオーズの民がくれたものです。それを捨てるなんて……!」

「さきに手を出したのは、おまえだからな、アベル」


 そう言うや否や、ジュストは前触れなくアベルの腹部を突きあげた。

 相手は、十六歳の男である。その力は、相当なものだった。

 襲い掛かってきた痛みと、内臓がこみあげてくるような感覚に、アベルは唇を強く噛んで半身を折り、身を縮める。

 均衡を失った少女の背中を、ジュストが足先で踏みつけると、アベルはいとも簡単に雪のつもった地面に伏した。


「剣の腕はそれなりでも、体力はからきしのようだな」


 そのアベルの襟首をつかみ上げ、今度は拳を振りあげる。反射的にアベルは目をつむった。

 けれど、殴られるはずだったアベルの頬には、なんの衝撃もおとずれない。


 そっと開いたアベルの目に映ったのは、思いもかけない人物の姿だった。

 ディルクの従者である若者が、ジュストの腕をしっかりと掴んでいる。


「なにをやっているのですか?」


 彼の声は、冷ややかだった。


「アベルが先に手を出したのです。ゆえなく殴られたら、殴り返すのは当然のことです。離してください、マチアス殿」


 腕を掴まれたまま、ジュストはマチアスに顔だけを向けて答える。


「……事の経緯はわかりかねますが、貴方がなさろうとしていることは、ずいぶん一方的ではありませんか」


 歳は近いといえども、体格には明らかに差がある二人の喧嘩である。

 それに、唇の端が切れ、どこかぐったりした状態でジュストに襟首を掴まれているアベルに、抵抗する気配はまったく見受けられなかった。


「先に手を出した者に非があります。なにをされても文句は言えないはずです」

「これ以上この少年を傷つければ、とがめられるのは貴方ですよ、ジュスト殿。どなたの怒りをかうか、貴方はよくわかっているのではありませんか」


 その言葉に我に返ったジュストは、観念したようにアベルの襟首を離した。

 ぱさりとアベルの身体が雪のうえに落ちる。それとほぼ同時にジュストの腕を解放したマチアスは、アベルの身体を急いで抱え起こした。


「アベル殿……! 大丈夫ですか」


 なにが起こったのかはっきりわからないまま、アベルは返答をしなければと思い、反射的にうなずいた。


 ジュストは武術にも体力にも長けている。アベルが受けたのは腹部へのひと蹴りだったが、打撃は大きく、思考がぼんやりしていた。

 一方ジュストは、マチアスに助け起こされているアベルの姿を見て、苛立ったように言い放った。


「何度も言うようですが、先に手を出したのはアベルです。私はやり返しただけですから」


 その主張を聞き、アベルの身体の奥に再び怒りがこみあげてくる。思考が急激にはっきりしてくるのを感じた。


「それは……あなたが、花を捨てたからです。なんの断りもなしに捨てるなんて……!」

「だれが、花を捨てたと言ったんだ? おれは、ごみは捨てたが、花など捨てていない。言いがかりだ」

「そんなのは、ただの屁理屈です! あなたは、わたしの花を勝手に捨てたのです」

「なんだと」


 再び喧嘩を始めそうな勢いの二人を、マチアスは両手で静かに引き離す。


「アベル殿、ジュスト殿が貴方の花を捨てたという証拠はあるのですか?」

「それは……」


 ない。

 ないが、ジュストが捨てたと認めている「ごみ」は、花以外のなにものでもないだろう。

 しかし、やはり証拠はなかった。


「……ありません」

「そうですか。では、根拠のないことで相手を責めるのは、もうやめましょう」


 アベルが悔しさに唇を噛みしめると、すでに傷ついていた個所から血の味がにじんだ。

 その顎にそっと手を置いて、軽く口を開かせたのは、マチアスの指先だった。

 驚いて視線を上げると、マチアスは首を横に振った。


「リオネル様や、ディルク様がご心配なさいます」

「…………」


 マチアスは、不満げなアベルの顔をしばし見つめてから、今度はジュストに視線を向ける。


「先に手をだしたのはアベルかもしれませんが、先に『ごみ』を捨てたのは貴方ですね。貴方にとっては『ごみ』でも、他人にとっては大切なものがあるということを、忘れないでください」

「…………」


 押し黙った二人に、マチアスは告げた。


「先にゴミを捨てたのは、ジュスト殿。先に手を出したのは、アベル殿。今回のことは、お二人ともに非があります。ですので、この喧嘩についてリオネル様にはお伝えしませんので、二人ともよく反省し、今後どう振る舞うべきかそれぞれ考えてください」


 従騎士の二人はうつむいたまま、どちらも返答をしなかった。

 双方とも、自分が正しいと思っているのである。


 二十一歳のマチアスから見れば、アベルもジュストもまだ十五、六歳の、きかん気な少年らだった。

 けれど、ジュストがアベルに対して抱く激しい憎悪に、まったく気がつかない彼ではない。アベルがもらった花を「ごみ」だと言って捨て、喧嘩の末に一方的に暴力を振るおうとしていたことは悪質である。

 黙ったままの二人を見やり、マチアスは小さく溜息をついた。


 そこへ、足早に近づいてくる音がして皆が視線を上げると、深緑色の軍服がよく似合う長身の若者が歩んできていた。


「お、従騎士二人と、アベラール家の従者殿が集まって何をしているんだ?」


 今までの重苦しい雰囲気にそぐわない、明るい声音だった。


「クロード様」


 クロードの従騎士であるジュストが、真っ先に居住まいを正し、丁寧に一礼する。

 続いて、マチアスとアベルも頭を下げる。


「夕餉の支度をするために、食材を選んでいました。アベルには、それを手伝ってもらっていたのです」

「そうか、仲がいいことだな。きみたちの師匠同士は皮肉ばかり言いあっているけど、きみたちがうまくやっているなら見習わなければな」


 ほがらかに笑うクロードだが、現実は正反対であることを、彼は知らない。軽口をたたき合っている師匠同士は、実は仲がよく、一見仲が良いように見える従騎士二人は、実は犬猿の仲である。


 しかしそんなことはおかまいなしに、ジュストは師に穏やかな表情を返している。

 先程まではあれほどアベルに敵意を向けていたのに、この態度の変わりようはすごい。いや、実際、ジュストは、アベル以外に対してはどこまでも真面目で忠実なのだ。もとはそういう性格なのかもしれない。


 彼の心を乱しているのはアベルの存在なのだろうか。

 アベルはもやもやとした気持ちで、その様子を見ていた。


「アベル、口端が傷ついているようだが、どうかしたのか?」


 クロードがアベルの切れた唇に気がつく。

 だれかになにかを答えさせるまえに、口を開いたのはジュストだった。


「ぼんやりしていて、荷台に顔をぶつけたのですよ。あとで、私が手当てをしておきます」


 どれほどぼんやりしていたら、荷台に顔をぶつけるのだろう。

 アベルはジュストを睨みつけたが、彼は素知らぬふりでいる。


「荷台に? それは、痛そうだな。大丈夫か、アベル。ジュスト、アベルの面倒をよく見てやってくれ」


 そう言って、独り満足げにうなずいたクロードは、食糧の荷台のさらに向こうにある武器を積んである台車に向かって歩いていった。ここに立ち寄ったのは、もともとそちらへ行く用事があったからだろう。


「それで、手当てをしてさしあげるのですか?」


 マチアスに問われて、ジュストは片眉を吊り上げた。


「もちろん、しますよ」

「いいえ、けっこうです。舐めておけば治りますので」


 即座に言い放ち、アベルは二人に頭を下げて歩きだした。

 ジュストに手当てなどをさせたら、どんな荒治療になるか。


「あ」


 そして、アベルは、ふと立ち止まった。

 マチアスに助けてもらったのに、礼を言っていない。


 そういえば、最近、彼に世話になることが多い。

 近いうちに必ず礼を言おうと心に決めて、ジュストに蹴られた腹部の鈍い痛みに嫌な予感を覚えながら、アベルは口をゆすぎにいった。







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