5
激しい雨の音は苦手だ。
『ラトゥイ領内で十七番目においしい食堂』で起こった事件のせいかもしれない。アベルはその夜、夢を見た。夢の内容はわからない。けれど、恐ろしい夢だ。助けを求めて叫ぶ。そのとき、だれの名を呼んだのか。どんなに泣いても、叫んでも、だれも助けてはくれなかった。
雨が地面を打つ音が、耳鳴りのように頭中に響く。
そのとき。
――アベル……。
だれかの声が聞こえた。
まるで、幻聴のように。
――アベル。
鬱蒼とした森のなかで見つけた、たったひとかけらの陽だまりのような、哀しいほど優しい声だった。
アベルは、手を伸ばした。
手を伸ばせば、届くかもしれない――――この声の主に。
金縛りから解けたようにアベルの身体は自由になり、激しい雨音と、宙を彷徨う白い手だけが残った。
「アベル」
伸ばした手を、受けとめた手がある。
アベルがはっとして目を開くと、蝋燭の炎を閉じこめた深い紫色の瞳が映った。
その瞳は、心配そうに、そして、どこか切なげに、アベルの顔をのぞきこんでいる。
「目が……覚めた?」
「リオネル、さま……?」
アベルは涙でぼやけた視界と、朦朧とした頭で、思考を巡らせる。
自分たちはラトゥイの宿で、それぞれ寝台で眠りについたはずだった。どうして、自分の寝台のかたわらにリオネルがいて、しかもアベルの手を握っているのか。
呆然としているアベルに、リオネルは安心させるように、ほほえんでみせる。
「起こすのも悪いと思ったんだけど、なんだかとてもうなされているようだったから……ごめんね、寝ていたのに」
リオネルはそっとアベルの手を離して言った。
温もりを失った手を、もう片方の手で包む。リオネルの手の温かい感触が去り、握られていたのは指先だけだったはずなのに、身体中がとても寒く感じられた。
「申しわけございません、わたしは寝言を言っていたのですね……リオネル様を起こしてしまいました」
アベルは顔を赤らめたはずだったが、冷え切った身体はほとんど熱を帯びなかった。
自分の手を温めるような仕種をするアベルに、リオネルはゆっくりと手を伸ばし、触れる手前でわずかに躊躇う様子をみせてから、再びそっとその手に触れた。
「……冷たい」
アベルは、その手を振りほどかない。
リオネルの手の温もりは、アベルの気持ちを落ちつかせた。
「大丈夫?」
心配そうなリオネルの声に、アベルは視線を上げ、相手の目を見てうなずく。
「もう、よく覚えていませんが……夢を見ていた気がします」
「そう……」
リオネルはそれ以上なにも言わない。
「お疲れのところ、お騒がせして申しわけございませんでした。明日もあるので、どうぞお休みになってください」
リオネルは返事をせず、危うく燃える蝋燭の火に照らし出されたまま、アベルを見つめていた。蝋が尽き、ついに燭台の火が消える。アベルの姿も、リオネルの姿も、闇に溶けて消えた。
その瞬間、二人は互いに同じような心細さを覚える。
いつか、こんなふうに、自分の目の前からこの人がいなくなってしまうのではないか。
今は触れあう手の感触だけが、二人を繋いでいる。この手を離せば、闇のなかで相手を見失い、二度と会えなくなるのではないか――そんな気がした。
アベルは手からリオネルの優しさが伝わってくるように感じ、目を閉じる。
窓や壁をたたきつける雨の音が、鼓膜を打つ。
そして、ふと我に返る。自分はいったいなにをしているのだろう。寝言で主人を起こしたうえに、冷えた手を温めてもらっているなんて。
アベルは、軽く手を引きながら言った。
「リオネル様が冷えてしまいます。どうぞ、寝台にお戻りになってください」
「おれは寒くないから大丈夫……けど、すまない、手など握って」
リオネルの手が、ゆっくり離れていく。
彼の思いもよらない謝罪に、アベルは軽く目を見開いた。
「いいえ、わたしこそ、お騒がせして申しわけございませんでした。もうけっして寝言など言いませんので」
アベルの宣言に、リオネルはふっと笑ったようだ。
「どうやって?」
「それは……心がけと、心意気で……」
「寝ないつもり? だめだよ、ちゃんと眠らなければ」
アベルは小さく笑ってうつむく。だれも眠らないとは言っていない。
「こわい夢を見たら、おれがまた起こすから。ゆっくり休んで」
「はい」
暗かったせいか、心細かったせいか、それとも雨の音が雑念を流し去ったためか、アベルは素直にうなずいた。
「おやすみ、アベル」
「おやすみなさい、リオネル様」
リオネルは立ちあがり、自らの寝台に戻る。
ベルトランは身じろぎひとつしないが、おそらくずっとまえから目覚めていただろう。
三人はそれぞれの思いを胸に、目を閉じた。
+++
『ラトゥイ領内で十七番目においしい食堂』で騒ぎが起こった日の翌日、夜明けとともに宿を出た五人は、昼前にラトゥイ領からノートル領に入った。
ノートル領を越えれば、ベルリオーズ領である。けれどベルリオーズ領は他の所領とは比較にならないほど広いので、領内に入っても、その中心都市シャサーヌへ辿り着くまで、馬車でさらに二、三日を要する。
現在、馬車の左側を守るのはベルトラン、右側を守るのはアベルだ。
夜中に降った激しい雨は早朝に止んだが、冬の太陽は厚い雲に隠されたままである。連なる丘の彼方は、低い雲か霧に霞んで見えない。
馬の足も、車輪も、水たまりを跳ねて進んでいく。
ノートル領に入ると、いましがたまで涙をこらえていた空から、ついに小粒の雫が滴りはじめた。
「ああ、雨が降ってきちゃったね」
ディルクは窓の外を見やり、だれに言うともなく言った。
その言葉を、隣にいる従者のマチアスも、幼馴染みのリオネルも拾わない。
馬車のなかは静かで、馬の蹄と車輪の音以外は、降りだした雨の、聞こえるか聞こえないかというくらいのざわめきが感じられるだけだった。
ディルクは不満げな顔でリオネルを見た。けれど、リオネルは考えに耽っているのか、それとも気づかないふりをしているのか、馬車の壁面に肘をついて顔をもたせかけ、目を閉じている。
「リオネル」
ディルクはついに、目の前に座る親友の名を呼んだ。
紫色の瞳がゆっくり開くが、言葉はない。
「起きてるの?」
「うん」
「さっきから、妙に無口だけど」
「ごめん、なにか話してた?」
ディルクは訝しげな視線をリオネルに向けた。リオネルの自分に対する態度が、今朝から、どこかおかしい。長年つきあっている幼馴染みの変化に、ディルクが気づかないわけがなかった。
「どうかした?」
平然とリオネルが問うので、ディルクは片眉を上げる。
「どうかしたかっていうのはおれの台詞だよ。リオネルこそ、どうかしたの? 今朝から口数が少ないけど」
「……そんなことないよ」
「そんなことあるから、言ってるんだよ」
ディルクは腕を組んでリオネルを真っ向から見据えたが、リオネルは表情を変えず、濃茶色の睫毛を伏せた。
――リオネルは昨夜のことを思い出していた。
昨夜、ラトゥイの宿場町の食堂で無料の夕餉をとり、五人が宿に戻るとほぼ同時に激しい雨が降りはじめた。幸いにも、降りだす前に宿に辿りついたので、濡れずにすんだ。
五人は二部屋に分かれたが、アベルは、むろんリオネルやベルトランと同室だ。扉側の寝台にはベルトラン、窓側の寝台にはアベル、そして中央の寝台でリオネルは寝ていた。
皆が寝付いてしばらくしてからのことだった。時刻は深夜を過ぎていただろう。リオネルは、激しい雨音の合間に、かすかに鈴が鳴るような音が聞こえた気がして目を覚ました。
一本だけ灯してあった燭台の火が、消えかけて揺れている。耳を澄ますと、たしかに左手から聞こえてきたのは、アベルの声だった。
ひどくうなされているようだった。
リオネルは起き上がり、アベルの寝台に歩み寄って片膝をついた。
かすかな炎の光に、アベルの白い顔が映し出される。かつて見たこともないような、苦しげな表情でうなされていた。
『アベル……』
眠っているところを起こすのは気が引けたが、このままにしておきたくはない。
『アベル』
『カ…ミ……、……ルク……ま……』
苦しげなアベルの寝言に、リオネルは眉を寄せた。
少女の身体を揺すって起こそうとしたが、次の瞬間、アベルがすがるように発した言葉に、リオネルはその手を止める。それと同時に、呼吸までが止まるような心地がした。
『……ディ、ルクさ、ま……』
『ディルク……?』
リオネルは思わず呟く。
アベルが、悪夢のなかで助けを求めている。――自分ではなく、ディルクに。
リオネルは思いもよらない出来事に、呆然とアベルの苦しげな寝顔を見つめた。
少女の閉ざされた瞳の端から涙が伝う。
どれほど辛い夢のなかにいるのだろう。
こんなときに、自分はアベルの心の拠り所になれない。アベルが求めているのは他でもない、幼馴染みのディルクだとは。リオネルは沈痛な面持ちで目を細め、そして閉ざした。
両手をかたく結び、しばらく目をつむったままでいたが、そっと両目を開き、全身から力を抜く。
『アベル、アベル……起きて』
リオネルは、アベルの頬を優しく撫でた。触れている感覚をはっきり感じられないほどに、やわらかい肌。
指先がアベルの涙で濡れる。
リオネルはアベルを抱きしめたいと思った。存在を強く感じたい。けれどそれは抑えなければならない思いだった。
アベルが呼んだのは自分ではなく、親友の名前。もし彼女が自分の気持を知ったら、この場所から離れていってしまうかもしれない。そんな不安がリオネルの心に暗い影を落とす。
その後アベルは目を覚まし、話しているうちに落ち着いたようだったので、再び床についた。
ふと思考の淵から戻ると、ディルクがあいかわらず不満げな顔で、リオネルを見ていた。
「まあ、話したくないならいいけど……」
「そういうわけじゃないんだ。ごめん」
率直に謝られて、ディルクは複雑な面持ちで頭をかく。
「いや、謝る必要はないけどさ――、なんていうかそういうところが、優しいようでいて掴みどころがなよな、おまえは」
「ちょっと考え事をして、ぼんやりしていたんだ」
「こんなふうにいつも冷静だから、リオネルとは喧嘩できないよね。小さいころから、一度も喧嘩したことがない気がする」
「そうだったかな」
「まあいいや、考えごとを中断させてこちらこそ悪かったよ」
ディルクの声を聞くともなく聞きながら、リオネルは窓に視線を向けた。
「雨がけっこう降ってきた」
「それ、さっき、おれが言ったことなんだけど」
「マチアス、すまないが、アベルと変わってくれないか」
「はい、かりこまりました」
マチアスがリオネルに向かって丁寧に頭を下げる。
「やっぱり過保護だね」
しみじみとディルクが呟く。
「アベルはまだ子供だから」
「子供……たしかに。でも、そうと知っていて身辺警護にしたんだろう?」
「雨ざらしにするのは耐えられない」
「…………」
ディルクは口をつぐんだあと、ふと思い出したように尋ねた。
「フェリシエ嬢のことは?」
突然その名を出されたので、リオネルはディルクにやや不機嫌な眼差しを向けた。
「どうして彼女が出てくるんだ?」
「婚約者じゃなかったっけ」
「婚約していない」
「え、そうなのか?」
ディルクの父アベラール侯爵と、シャルルやフェリシエの父であるエルヴィユ侯爵は旧知の仲である。ベルリオーズ家からだけではなく、エルヴィユ家からもそういった話はディルクの耳に届いていたので、彼は意外そうに目を見開く。
「……父上が勝手に進めた話だ。おれは、そのつもりはない」
「そうだったんだ、……だからおまえの口からその話を聞いたことがなかったのか」
会話が途切れると、マチアスがさりげなく口を開いた。
「ではアベル殿と交代いたしますので、馬車を止めましょう」
頼む、とリオネルが答え、ディルクもまた深く首肯した。
「そうだね、おれもアベルが雨に打たれているのはなんとなく落ち着かない。守られる立場のはずが、守ってあげたくなる、というのはわかる気がするよ」
ディルク台詞に、リオネルの瞳が周囲に気づかれぬほどに細くなる。
「……ディルクは――アベルのことを、どう思う?」
リオネルの質問は、いささか唐突だった。唐突になってしまったのは、本当は逆のことをアベルに尋ねたいのに、それができないからだった。
ずっと、胸に抱いている疑問だった。二人を引きあわせた日からずっと。
リオネルが、本当に気になっていたのは、アベルのディルクに対する気持ちのほうだ。細い糸を辿るようになにかを掴みたくて、逆の質問をディルクに向けたのだ。
ディルクがリオネルを見る。
「どう思うって……」
言い淀んだとき。
窓のすぐ外から突然、アベルの声が聞こえてきた。
「リオネル様」
その声は、緊張をはらんでいる。
「どうした?」
リオネルが窓を開けようとすると、アベルがすぐさまそれを制止する。
「窓をお閉めになってください。斜め右前方の木立に、刺客がいます」
その言葉に、三人はいっせいに表情を引きしめた。