56
踊り場の陰に身を隠すようにしゃがみこんでいたアベルは、彼らが近くを通りすぎていくのを、息を殺して見送った。
こんな場所で、ひそかに一部始終を見ていたなどと知られれば、不審に思われることは間違いない。
それに、カミーユが最後に明るく笑うのを見て、涙があふれ出すのを止められないでいた。こんな顔で、彼らのまえに現れるわけにはいかない。
どんな話をしていたのかはわからなかったが、最終的には和やかな雰囲気が漂っていたことに、心から安堵する。
リオネルに向けた、カミーユの嬉しそうな顔。
二年ぶりに見たカミーユは、身長も伸び、少し大人びていたが、その無邪気な笑顔は以前と変わらなかった。
突然別離の日が訪れるまで、当たり前のようにそばにあった、その明るい笑顔。
楽しそうな笑い声。
……今、共に過ごした時間が、よみがえるような気がした。
アベルは両手に顔をうずめ、溢れる感情を、ほんのかすかに声にした。
「カミーユ――――」
怖いものなどなにもなく、すべてが輝き、希望と光に満ちあふれていたころ。
太陽が沈み夜の闇が訪れるように、また、明るい夏がやがて凍える冬に変わるように、幸せもいずれ終わるのだということを、想像さえしなかったころ。
よみがえるのは、そんなころの記憶。
けれどあの無垢な少年も、アベルの身に起こったことによって、その頃のままではいられなくなったはずだった。
――あのころに戻りたい。
二人だけの……とても小さかったが、幸せだった世界。
「あれ? アベルがいないね」
玄関で雪を払った若者らは、アベルが待つはずの書斎に戻ったが、部屋は暖炉の火が明々と燃えているだけで、ひとけがなかった。
無造作に置かれた本が、そのままの形で机の上に残っている。
「おれが出たときは、まだ部屋にいたが」
つい先程のことを思い出しながらレオンが首をかしげる。
皆がいないあいだに、いったいどこへ行ってしまったのか。
「二日酔いなのに、大丈夫だろうか。ディルク、責任をとっておまえが探しにいけ」
「行くとしたら、騎士館かな。見てくるよ」
ディルクは探しにいこうと立ち上がったが、それより先に心配を顔中にたたえたリオネルが、「いや、おれが行ってくるからいい」と足早に扉口へ向かう。
「リオネル、いいよ。おれが二日酔いにさせたんだし……」
「落ちつかないから、自分で見にいくよ。ありがとう。すぐそこだから、ベルトランもここで休んでいてくれ」
周囲が引き止める間もなく、リオネルは再び部屋を出ていった。
それからしばらくして、厩舎からマチアスが戻ってくる。リオネルとアベルがいないことを不思議に思ったらしい従者に、ディルクは事の経緯を説明した。
「貴方は、それほどアベル殿に葡萄酒を飲ませたのですか」
マチアスが呆れ返ると、ディルクは肩をすくめる。
「まさか、こんなに二日酔いになるとは思わなかったんだよ」
たしかに、アベルはお酒に強いようだったが……。
マチアスは、以前アベルが語っていたことを思いだす。蜂蜜酒だとなぜか酔いにくいのだと。
昨夜は葡萄酒だったから、悪酔いしたのだろうか。
そして、ふと思った。
アベルは本当に騎士館に行ったのだろうか。ベルトランが、この部屋にカミーユの来訪を告げに来たとき、アベルもここにいたという。
それから、アベルはどこへ――?
「――――」
マチアスは、ある衝動にかられて、自らの外套を手に取り扉口へ向かった。
「マチアス、どこへ行くんだ?」
「アベル殿を探しに」
「え? 騎士館へは、リオネルが行っているよ」
「いえ……少し、外を見てきます」
マチアスは曖昧に答えて、さっさと部屋を出ていく。
「どうしたんだ、マチアスまで」
ディルクは、リオネルに続いて慌ただしくアベルを探しに行った従者を見送った。
マチアスは外套を羽織らず片手に持ったまま、正面玄関を出てから、周囲を見渡した。
館の門の脇には、建物につながる城壁があり、そこには前庭を眺められる踊り場がある。ゆっくりとそちらへ歩んでいくが、人の気配は感じられない。
すべては自分の思いすごしだろうか。
踊り場につづく階段を登る。
そこからは、騎士像があるあたりがよく見渡せた。しばらく自分たちがいたそのあたりを見つめてから、視線を踊り場へ戻す。
そして、登ってきたのとは逆側の階段から降りはじめたとき、わずかに気配を感じたような気がして、下方へ視線を向ける。
階段のすぐ下、あらゆるところから死角になっている場所に、膝を抱えてうずくまる小さな身体があった。
淡い金糸の髪に、白い雪が降り積もっている。
外套も羽織らずに、こんな寒空の下で、いつからこうしていたのだろう。
マチアスは急いで階段を駆け下り、その人物のまえで膝をつくと、外套をかぶせた。
細い肩がびくりと震えて、相手は顔を上げる。
間違いなく探していた少年、アベルだった。
「驚かせてしまいましたか。申しわけございません」
目前に現れた相手をアベルは驚き見つめていたが、はっと我に返り、自分が泣きはらした顔であったことに思い至る。
即座に、目の周りの涙をぬぐうが、すでに遅かった。
ディルクの従者には、すべて見られていた。
一方マチアスは、この細い少年が顔をあげた瞬間、どきりとした。
寒さで青白くなった肌、そこを濡らす涙、うるんだ宝石のような瞳、震える唇、哀しみにつつまれた表情、その美しさ……。
仮に、この少年が女性だったとしたら、この姿を見て守ってやりたいと思わない男がいるだろうか。
「アベル殿、こんなところにいては風邪を引きます。部屋に戻りましょう」
マチアスは、うずくまり震えるアベルに優しく声をかける。
けれどアベルは首を横に振った。
「……もう少しだけ、ここにいさせてください」
「リオネル様もご心配されて、貴方を探していらっしゃいます。貴方がこんなところにいては、お心を痛められるでしょう」
そう言われると、アベルには返す言葉がない。
「ディルク様が貴方を二日酔いにしたと聞いております。本当に申しわけございません。リオネル様には、貴方が寝室で休んでいると私からお伝えしておきますので、どうか中へお入りください」
アベルからは、はっきりとした返答はなかったが、マチアスは抱え起こすようにしてアベルを立たせる。
華奢だとは思っていたが、実際に触れてみると、十五歳の男性とは思えぬ細さだった。
外套をかぶせた背に軽く手をあて、玄関へ促す。
ふらふらと歩きだしたアベルを、転んだりしないように支えながら、自らも歩き出した。
泣きはらした横顔を見ながら、マチアスは思考の淵に沈んでいく。
アベルは、やはり館の門の踊り場のあたりにいた。
カミーユとディルクらが話す様子を、ここから見ることができただろう。
そして、どれほど涙を流したのか、憔悴しきった顔をしている。
この人は本当に、もしかしたら――もしかしたら――。
幾度も断ち切ろうとしては、浮上するその予感。
マチアスは眉間を深く寄せたが、アベルの寝室に近づきつつあったそのとき、向かいからだれかが歩んでくる気配がして視線を上げる。
均衡のとれたしなやかな長身の若者は、騎士館でアベルを見つけることのできなかったリオネルだった。
「アベル……?」
探していた少女の姿をみとめると、リオネルは足早に近寄る。
マチアスの外套を羽織り、泣きはらし、哀しみを隠しきれないその表情を見ると、途端に表情を曇らせた。
アベルは、厄介な相手に会ってしまったと思った。
心配性のこの主人は、自分が泣いていたことを気にするだろう。
「なにがあったんだ」
リオネルは、当惑したような声で言った。アベルの震える肩に伸ばそうとした両手が、触れる寸前でためらって、宙に留まる。
「あ……あの、ふ、二日酔いで、頭を冷やそうと思って、外へ出て座っていたら、ええっと、うとうとしてしまい……その、怖い夢を見て、目が覚めたら泣いていて……そこに、マチアスさんが探しに来てくださり……」
しどろもどろに言い訳をするが、それはとても真実には聞こえなかった。
リオネルは、うつむくアベルの金色の睫毛を黙って見つめ、
「怖い夢……」
とぽつりとつぶやく。
「……具合が悪いわけでも、だれかになにかされたわけでもないんだね?」
主人の杞憂に、アベルは大きく首を左右に振る。
するとリオネルは胸をなでおろし、アベルの言い訳をそれ以上追求することはなかった。
「外で寝たりしたら、命に関わる。マチアスが見つけてくれてよかった」
咄嗟の言い訳を、リオネルが信じたかどうかは疑わしいところだったが、とりあえずは受け入れてくれているようだったので、心配してくれる相手に嘘をついていることにアベルの胸が痛む。
「寝室へ行くところだったのか」
「……こんなみっともない顔をしておりますので……」
「いや、むしろおれが、そんな状態のきみを館の者に見せたくない。それに、布団であたたまったほうがいい」
リオネルが意味したのは、このような今にも壊れてしまいそうなアベルを、他の男に見せたくないということだったが、アベルは、自分はそれほどひどい顔をしているのだと思い、少し落ちこんだ。
こうしてアベルは結局、一日中布団のなかで過ごすことになった。
アベルを寝室で休ませた後、リオネルはマチアスにあらためて問う。
「アベルは、どこにいたんだ?」
「中庭の隅に、うずくまっていました」
リオネルは眉をひそめる。
「そんなところで、なにをしていたのだろう」
「わかりませんが、顔を上げたときには、あのような状態でした」
「なにがあったのか言っていた?」
「いいえ、なにも」
「本当に、嫌な目に遭ったりしたのではないだろうか」
「それについては、おそらくアベル殿がお答えになったとおりだと思います」
「そうか……」
リオネルは、考えこむような顔をしてから、マチアスに向きなおる。
「見つけてくれて、助かった。ありがとう」
「いいえ、とんでもございません」
マチアスは、恐縮して頭を下げる。
二人はそれ以上なにも話さず、ディルクらが待つ書斎へ戻った。
そのかんリオネルは、かつてアベルをサン・オーヴァンの街の外れを流れる川で見つけたときのことを思い出していた。
アベルが泣きはらしていた理由は、わからない。
わからないが……。
二年前、暮色に赤く染まった風景のなか、黒ずんだ水の流れに身をまかせ、命を絶とうとしていたアベル。
だれのことも信じられない、だれのことも愛せないと、そのとき、彼女は言った。
――死にたいのではない。生きるのが辛いのだ、と。
今日、彼女は雪のなかでひとり、なにを思っていたのだろうか。
自分は、アベルの哀しみや苦しみを、救えない。
こんなに近くにいるのに、こんなに愛しく思うのに……彼女の心の奥底に手を差し伸べることができない。
リオネルは、紫色の瞳を堅く閉じた。