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 前庭に辿りついたディルクは、降り注ぐ雪のなかにたたずむ四人の影へ、ゆっくりと近づいた。そして、カミーユの姿をたしかにみとめると、薄茶色の瞳をやや細める。

 ディルクはリオネルらの視線を受けながら、カミーユから数歩ほど離れたところで歩みを止めた。


「カミーユ」


 目の前の少年は、自分の手紙を読み、わざわざこんな遠いところまで馬を駆けてきたのだろうか。


 カミーユの瞳は、まっすぐにディルクを見据えていた。そして、一歩、二歩と歩み寄ってきたと思うと、白蝶貝の埋め込まれた木箱をディルクに突き出す。

 ディルクは黙ってそれに視線を落とした。


「嘘だろう?」


 カミーユの小さな声が、音もなく舞い落ちる雪の合間をぬって、ディルクの耳に届く。

 質問の意味がわからず、ディルクは木箱を受けとらずに、視線だけを再びカミーユに向けた。


「嘘だよね、ディルク」


 カミーユは再び同じ言葉を繰り返した。


「なんのことだ」

「噂を聞いたんだ」

「噂……」

「ディルクが、王宮でたくさんの女の人と噂があったって」

「――――」


 ディルクは、かすかに瞳を見開く。

 カミーユの口から飛び出したのは、予想もしていなかった言葉だった。


「姉さんが死んだあとに、そんなふうに振る舞うなんて、許せなかった」


 カミーユは、木箱を持っていた左手に力を入れ、右手で拳を作る。


「なん……で。なんで! どうして。姉さんが死んだから、他の女の人と遊べるようになったのか? それとも、そうするために、姉さんとの婚約を解消したのか!」


 ディルクはなにも答えず、哀しそうな目で、カミーユを見つめているだけだった。


「なんでなんだよ! なにか答えろよ!」


 握った拳を、カミーユはディルクの胸に叩きつける。


「ぜんぶ嘘だったのか? 姉さんを弔っていたのも、すまなかったって謝っていたのも、その哀しそうな目も全部嘘なのか!」


 なにも言わないディルクの身体を、カミーユは幾度も叩きつけた。その力は強くはかったが、ディルクの心から血を流させるには充分だっただろう。

 心から血を流しているのは、二人とも同じだった。


 そのとき、少年の手を掴んで止めさせたのは、マチアスでもトゥーサンでもなく、わずかに眉を寄せたリオネルだった。

 デュノア家の跡取りの少年の、燃えるような瞳が、リオネルの深い紫色の瞳を射抜く。


「離せ! おまえもどうせ、国王派の娘が死んだところで、これっぽっちも心が痛まないんだろう!」


 カミーユは大声で叫んだ。


「カミーユ様! お止めなさい!」


 トゥーサンが、慌てて主人を止めようと一喝する。一伯爵家の者が、王族であり公爵家の嫡男でもあるリオネルに、このような暴言を吐くなど許されないことだ。


 しかしトゥーサンの制止も、カミーユの憤りを静めることはできなかった。


「おまえらには、そんなどうでもいい存在でも、おれにとっては――――おれにとっては、たったひとりの、大切な、大切な、大切な姉さんだったんだ!」


 少年の瞳から、涙があふれ出る。


「どれだけ姉さんが、おまえなんかを想っていたか……! 姉さんを返せ!」


 リオネルに腕を掴まれたまま、カミーユはディルクに向かって叫び続ける。

 ディルクは苦しげに顔を歪めていた。






 アベルはその様子を、館の門の両脇と館を結ぶ城壁の踊り場から見た。

 水色の瞳から、水宝玉アクアマリンの欠片のような涙がこぼれ落ちる。


 遠すぎて細かな会話はわからないが、カミーユの叫ぶ声だけはここまで聞こえる。

 彼の悲痛な叫びが、その言葉が、アベルの胸を貫いた。


 止めなくては――。

 ディルクやリオネルに暴言を吐きつづける弟を、彼の心から流れつづける血のような哀しみと憎しみを、止めなくてはならない。

 けれどカミーユのまえに姿を現すことができない。

 叶うことならカミーユに会い、その身体を抱きしめ、涙をぬぐってあげたい。が、現実はそれを許さない。


 名門ブレーズ家の血を継ぐ令嬢が、婚約者がいる身で別の男の子を身ごもったこと。それを恥じた父伯爵が彼女を追放し、亡き存在としたこと。その令嬢が男装し、政敵であるはずのベルリオーズ家の跡取りのそばにいること。それらすべてが明るみになればどうなるか。

 カミーユが将来継ぐべきデュノア家の社会的立場は大きく揺らぎ、アベラール家にも、ベルリオーズ家にも……つまりディルクやリオネルにさえ、迷惑がかかるだろう。

 また、必然的にアベルの立場もリオネルやディルクに知られることになる。そうなれば、もはやこれまでの関係に戻ることはできないだろう。

 ――アベルは、リオネルのそばにいられなくなるのだ。


 アベルは、あふれでる涙を止められないまま、祈るように両手を重ねてかたく握り、胸が張り裂けるような思いで震えていた。


「カミーユ……ディルク様――――」






 泣き叫び疲れたカミーユが、言葉を止めて、大人しくなったときだった。

 この少年はもうディルクを傷つけないだろうと判断したリオネルが、ずっと掴んでいた少年の腕を解放し、冷静な声音で言った。


「ディルクが王宮で噂があったのは、本当だ」


 泣き腫らした目で、カミーユは虚ろに地面を見つめているだけだった。


「だけど、カミーユ殿。ディルクのほうから話しかけたり、彼が楽しそうに会話したりしているところを、おれは見たことがない。ディルクは人当たりがよくて、見た目もこのとおりで、さらに長年の婚約者がいなくなったあとだったから、周囲が放っておかないのも仕方がないことだ」


 カミーユは視線も上げず、返事もしない。


「でもそれだけだ。ディルクと彼女たちのあいだにはなにもなかった。それでも王宮というのは噂が広まるものだ。では、ディルクはなぜ王宮内で流れる噂を否定しなかったと思う?」

「……わからない」


 ようやく、渇いた喉からしぼりだすように少年は小声で答えた。


「そうだね、おれも最初はわからなかった。だが、考えてごらん。ディルクのように若い侯爵家の跡取りの婚約者が亡くなれば、新たに多くの縁談が舞いこむ。おれ自身も身につまされることだが、縁談を理由なく断るのは、なかなか貴族としては難しいことだ。では、どうすればいいと思う?」

「…………」

「噂をそのままにしておけば、大切な娘を艶聞の多い男に嫁がせたくない親は、縁談を持ち込まないだろう。実際に、ディルクのところに持ちこまれる縁談は少ない。ディルクが、新たな婚約者を作りたくない理由は……きみにもわかるだろう」


 カミーユが不意に顔を上げる。そして、ずっと苦しげな表情でカミーユを見つめていたディルクと目が合った。


「それは、シャンティ嬢への償いだ。そしてこれはおれの推測だけど、ディルクはこの十三年間、シャンティ嬢が亡きあとも、彼女のことを考え続けているのではないかな」


 青灰色の瞳が揺れる。


「そう、なのか?」


 かすれた声で問われると、ディルクは口角を上げて、自嘲するように笑った。


「なにを言っても言い訳にしかならない。……おれは、カミーユをこんなに苦しませて、罪の上塗りをしているだけだ。カミーユに、そうだったのかと聞かれても、胸を張って返事などできないよ。……本当におれはダメな男だ」


 少年の瞳に涙が溜まり、こぼれ落ちる。

 それを、ごしごしと腕で拭くが、涙は次から次へと湧いてくるようだった。


「ディルクは、馬鹿だ……」


 泣きながら言われて、ディルクはうつむく。


「本当に、ディルクは馬鹿だ。馬鹿で、馬鹿で、大馬鹿だ。いつもいつも、姉さんや、おれのことを考えているのに、裏目裏目に出て……。本当に、大馬鹿のなかの大馬鹿だ」


 何度も馬鹿と繰り返されて、ディルクもさすがに苦笑した。


「優しくて、こんなにいい男なのに……不器用で、お人好しで、大馬鹿だ」


 背後で全てのやりとりを聞いていたレオンが、「……お人好しか?」と小声で不満そうな声をこぼす。

 ただ、ディルクはいつも飄々としているように見えて、実は肝心なところで抜けていて、不器用だったりするのは、たしかにレオンも心のなかで認めた。


「これは、姉さんがディルクに贈ったものだ」

「…………」


 押しつけるようにして、カミーユは木箱をディルクに渡そうとする。


「それなのに、なんで手放そうとしたの」

「……カミーユのところが最も安全だと思ったからだよ。カミーユなら、これを大切に持っていてくれると思ったから」

「大切なものなら、自分で持っていろよ。これをおれが持っていて、姉さんが喜ぶとでも思うのか?」

「…………」

「死んだら許さないからな」


 潤んだ瞳で、カミーユは睨み上げるようにディルクを見た。

 それは小さな声だったが、周囲の者にははっきり聞えた。


「山賊討伐で死んだりしたら、絶対に許さないからな!」

「カミーユ……」

「姉さんがどれほどディルクのことを、想っていたか――死んだりしたら許さない。無事に戻って、この手紙と贈り物を自分で保管して……」


 カミーユは、拳を握る。


「……また、花を手向けに来てほしい」


 ディルクは、はっとした。


「今、なんて?」

「また姉さんに花を持ってきてよ」

「――いいのか?」


 なかなか木箱を受けとらないので、カミーユは痺れを切らして、ディルクの手をとり、そこへ木箱を置く。

 そしてディルクの質問には答えず、逆に問い返した。


「もし、姉さんに会うことができたら、ディルクは今度こそ結婚してくれる?」


 そんな起こりえないことを想定しても今更どうにもならないことではあったが、それを承知でディルクは寂しげに目を細めて答えた。


「おれは、自分から一方的に婚約を解消したんだ。彼女と結婚する権利は、もうおれにはないんだよ」


 ディルクに持たせた木箱から手を離すと、カミーユはしばし考えこんでから、再び相手を見上げる。


「この木箱の中身は、ディルクのものだ」


 ディルクは、かすかにほほえんで、視線を木箱に落とした。


「ありがとう」

「ひとつ言っておくけど――ディルクは、幸せになってもいいんだ」


 少年の言葉に、ディルクは淡い茶色の瞳をわずかに見開く。


「ディルクは、自分の幸せを願ったことがある? 姉さんとの婚約を破棄したときも、王宮で噂が立ったときも、この木箱を手放したときも、それは本当にディルクの望んだことだったのか?」

「――――」

「この木箱の中身はディルクのものだ。もし……もしもディルクがそうしたいのなら、これを箪笥たんすの奥にしまって、真剣に愛する人を見つけてもいいんだ。女遊びはだめだよ。そうじゃなくて、姉さんの存在を忘れないでいてくれさえいれば、おれは、ディルクが愛する人と幸せになることに対して、憎しみや怒りを覚えたりしない。それは、きっと姉さんも同じだ」


 カミーユは、シャンティが生きていると信じている――信じているが、それは、根拠のない願望からくるものだ。本当に生きているかわからぬ彼女と、結ばれるかどうかわからないディルクを、いつまでも縛り付けておくものではなかった。


 言葉を失ったまま、ディルクはしばしカミーユを見つめる。

 静かに……それは静かに、雪が、若者たちの髪や肩に、そして木箱に降り積もる。


 ディルクはゆっくりと口を開いた。


「ありがとう、カミーユ。きみにそんなふうに言ってもらえるなんて、思ってもみなかったよ。だけど……」


 言い淀むディルクを、カミーユはまっすぐに見上げた。


「おれはね、ずっと幼いころからすぐ近くに、命を狙われながら生きる友達がいたんだ。そいつの苦しみを考えると、自分の幸せなんて考えていられなくなってね。こういう生き方しかできなくなってしまったみたいだ」

「おれのせいか?」


 複雑な表情で、リオネルは親友を見やった。


「いや、おれが言いたいのは、この先のことで……つまり、おれにとっての幸せは、こいつと、今は亡きシャンティ嬢のために生きることだけだということだ。だから、おれはけっして山賊討伐などで死んだりはしないし――今、自分に許されるかぎりの幸せがそばにある」


 カミーユは、そう言ったディルクと、傍らで苦笑するリオネルを交互に見やり、そして、安堵したように小さく笑った。


「……そっか。とりあえず、姉さんの贈り物は箪笥の奥にしまわれなさそうだね」

「そんなことはしない」

「だけど、おれが言ったことは本心だから」


 少年の寂しげな笑顔に、ディルクは内心で「参ったな」と思う。

 カミーユは普段、無邪気で、むしろ年齢よりも子供っぽく見えるほどなのに、ふとしたときに大人顔負けの雰囲気をまとうのだ。


「おれたちは、もう帰るよ」


 表情をうかがうように、カミーユはちらとトゥーサンに視線を向けた。


「え、もう帰るのか?」

「うん。ディルクに直接これを届けられたから、もういいんだ」

「しかし、この雪のなかを?」


 帰ると言い出したカミーユに驚きつつ、ディルクは周囲を見渡す。

 雪は大降りであるうえに、もう日が暮れようとしている。


「……うん」


 ややためらいつつうなずく少年に、リオネルも声をかける。


「疲れているだろうから、今夜はここで泊まり、明日の朝デュノア領へ発てばいい」


 優しさと聡明さがにじみ出るような雰囲気の青年から諭されるように言われ、カミーユは思わずうなずきかける。しかし、


「ご好意には感謝いたしますが、我々は今夜、シャサーヌの宿で泊まります」


 カミーユの代わりにすかさず返事をしたのは、トゥーサンだった。

 国王派に属する以上、ベルリオーズ家に世話になるわけにはいかぬというところらしかった。


「せめて暖炉のあるところで、温かいものでも飲んでいったらどうだ」


 背後から、二人を引きとめるべく参戦したのは、レオンだった。


「綺麗な水色の目をした従騎士にも会えるぞ」

「水色の目?」


 すかさず食いついたカミーユの様子に、トゥーサンは慌てる。

 伯爵夫妻に無断でベルリオーズ領へ赴いたあげく、館内で飲みものを振る舞われたなどとなれば、どれほどの叱りを受けるか。


「いいえ、我々は暗くなるまえに、宿を探さねばなりません」


 強い語調で言われて、カミーユは残念そうにトゥーサンを振り返る。


「リオネル様、ディルク様、数々の非礼、誠に申しわけございませんでした。加えて、このような寒空の下にお引き留めし、お詫びのしようもございません。どうか今回だけはお許しくださいませ」


 トゥーサンは、高貴な二人に深々と頭を下げると、カミーユにも同様にするよう促す。


「非礼なんてなにもなかったよ。そうだろう、リオネル」

「ああ」


 頭を上げたカミーユとトゥーサンに、リオネルは穏やかにほほえんだ。

 カミーユの瞳に明るい光が宿る。それは、羨望や、尊敬にも近いものだった。


「ディルクもかっこいいけど、ディルクの友達は、お伽話の王子様みたいだね」


 嬉しそうに笑う少年は、先程までの様子とはうってかわり、十三という歳より幼く見えるほどかわいらしい。

 リオネルは微笑する。


 彼らのやりとりを見ていたトゥーサンは、さらに焦りを覚えざるをえない。このまま長居をすれば、カミーユはますますこの王弟派の若者たちと繋がりを深くするだろう。

 トゥーサンとて、何も問題がなければ、カミーユを彼らと共にここで過ごさせてあげたい。しかし、デュノア邸に戻ったときのことを考えれば、こうするしかなかった。


 はやる気持ちで、トゥーサンは馬に飛び乗る。


「カミーユ様」


 呼ばれて、カミーユは後ろ髪を引かれながら、ゆっくりと馬を引き寄せた。

 そして騎乗すると、最後にディルクへ真剣な眼差しを向ける。


「待っているから」


 それは、必ず無事に戻ってきてほしいということだ。


「それと――頬の怪我、ごめん」


 頬に花束を叩きつけたことを謝るカミーユに、ディルクは笑顔で片手を上げた。

 馬上から再び深く一礼すると、カミーユとトゥーサンは正門までのゆるやかな坂を下っていく。

 そして、二騎の姿は白い視界に完全に消え、嵐のような訪問者は去っていった。


 降りしきる雪のなかで、リオネル、ディルク、レオン、ベルトラン、そしてマチアスはしばらく無言で佇んでいたが、リオネルが「戻ろうか」と皆を促す。


「馬を走らせるんじゃなかったのか?」


 ディルクが問うと、


「身体が冷えたから、温まってから出なおすよ」


 と答え、リオネルは館へ向けて歩き出す。

 それを契機に、マチアス以外の四人は白い景色のなかを、館の門を過ぎ、玄関の扉をくぐって館内へ入っていく。マチアスは、己の馬を厩舎へ繋ぎに行った。








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