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 王宮には、王族でさえもが入室を認められていない一室がある。そこに入ることができるのは、現国王ただひとり。


 シャルム国王エルネストは、葡萄酒の杯を片手にその部屋の扉を開ける。

 控えの間を通り過ぎると、低い円卓と肘掛椅子が二つ。広く優美な室内にある家具は、それだけである。


 ただそこに多大な存在感を与えているのは、壁にかかっている一枚の大判な絵画であった。

 ひとりの女性が描かれた肖像画である。

 彼女は、深い紫色の瞳をひたとこちらに向けて、優しげにほほえんでいた。




 ――はじめて彼女を見たのは、初夏の夜に開かれた、王宮の舞踏会においてだった。


 昼間降っていた雨が夕方には止み、夜になると満点の星空が見えるほど空は晴れわたった。

 そのせいだったかもしれない。エルネストは、どこか浮かれたような気持ちでいた。

 玉座から見下ろす会場の景色を、葡萄酒を片手に見下ろしていると、自分が権力の座にあることを実感する。


 この国で最高の腕を持った音楽家たちが奏でる曲、最高級の料理、酒、煌びやかな衣装に身を包んだ高位の貴族たち……彼ら上に立つのは、この自分だ。

 正妃の子である弟から王座を奪ったエルネストは、酒にも、自らの立場にも、酔いしれていた。


 満ち足りた気持ちで会場を眺めていると、ふと、視線がある一点に止まった。

 貴族らに囲まれて、ひとりの若い令嬢が談笑している。

 青紫色のドレス、首の横に流れる濃い茶色の髪、そして柔らかな笑みをたたえる横顔は、三美神の化身のように美しい。


 正面からこの女の顔が見たいと思ったが、この位置からでは彼女が振り向かないかぎり無理である。

 エルネストは侍従を呼び、隣にいる妻のグレースには聞こえぬように、小声で彼女がだれであるか尋ねた。


「あの方は、トゥールヴィル公爵家のご令嬢、アンリエット様でございます」

「アンリエット……」


 エルネストはその名を聞いて突然、息苦しさを覚えた。


「アンリエットというのか、彼女は……」


 なんと美しい名だろう。アンリエットという名の女性は幾人か知っていたが、今までその名がこれほど素晴らしい名であることに気がつかなかった。

 すでにこのとき、エルネストは彼女に恋をしていたのだ。

 はじめての経験だった。


 王座さえ手に入れば、他になにもいらないと思っていた。

 自らの王妃には、味方となる大貴族の娘を選んだ。結婚が決まるまで、相手の令嬢グレースに一度も会ったことはなかったし、別にどんな容姿でもかまわないとさえ思っていた。

 エルネストは今までに心の底から手に入れたいと思った女などいなかったし、王になれば、国中の女など思いのままになるからである。


「あの娘と話がしてみたい。密かに別室に呼び、丁重にもてなせ。私もあとからそこへ行く」

「陛下、それはいささか難しいかと存じます」

「なぜだ」


 侍従が言いにくそうに口を開く。


「アンリエット様は……王弟殿下との結婚が決まっていらっしゃいます。ここで、陛下がアンリエット様と二人きりでお話をされたとなると、なにかと波風が立ちましょう」


 エルネストは目の前に、漆黒のカーテンが下りたような気がした。


 王となるべく生まれた異母弟クレティアンに、しかるべき婚約者がいることは知っていたが、エルネストはいっさい興味がなかった。

 あの美しい娘が、なんと自分が王宮から追い出した弟の、婚約者であるとは……。


 玉座をクレティアンに認めさせたときに交わした約束がある。生まれてはじめて、胸の奥をざわめかせるような女に出会ったのに、それは、世界で唯一手に入れられぬ娘だった。


 しかし、どうしても近くで彼女を見てみたかった。

 どのような声で話すのか、どのような瞳をしているのか、どんなふうに笑うのか、見てみたくてしかたがない。


「かまわぬ。彼女を呼べ」

「……御意」


 侍従は、浮かない顔で頭を下げると、エルネストのそばから離れた。

 それは子供の心理ににていたかもしれない。

 手に入らぬとわかれば、余計にほしくなる。

 そして、別室で待つ彼女を間近で目にしたとき、エルネストは、自分の行動に対して深く後悔した。――それも、すでに遅かった。


 椅子に腰かけず、崇高な一輪の花のように立ったまま、窓の外を見ていたアンリエットが振り返った瞬間、エルネストは身体中の血が熱くなるのを感じた。


 深い紫色の瞳が、まっすぐに彼を射た。

 エルネストは、その瞳にすべてを奪われた気がした。

 囚われた、という表現に近いかもしれない。


 衝撃から抜け出られぬうちに、彼女は、ドレスの裾をつまみ、丁寧に挨拶をした。


「アンリエット・トゥールヴィルです。お目にかかれて光栄です、陛下」


 しかし、エルネストはなにも言えずに、彼女の姿を見つめていた。

 これほど完璧な造形美を、今までに見たことがない。

 そして、その造形美を造った神は、その瞳に、紫色の珠玉を埋め込むことを忘れなかった。


 その美しさは容姿だけではない。彼女が醸し出す雰囲気と、視線の不思議な強さが、エルネストに眩暈さえ覚えさせた。


「……呼び出してすまない」


 自分が呼んだにもかかわらず、エスネストは、なにを言えばいいのかまったくわからなくなってしまった。

 他愛のない話をしたかっただけだが、どんな言葉も思い浮かばない。

 まるで思考が完全に止まってしまったようである。


 そんな王を前に、まだ二十歳にもなっていないだろうアンリエットは微笑し、落ち着き払った様子で話しはじめた。


「ご存知のこととは存じますが、わたくしは、あなたさまの弟君クレティアン・ベルリオーズ様と婚約しております。陛下と義兄妹になれることを心から誇らしく思うとともに、本日こうしてお呼びくださったことを、大変嬉しく思います」

「そうか……」


 なにか言わねば、なにか返事をしなければと思うのだが、そう思えば思うほど、なにも考えられなくなっていく。

 エルネストは、目の前の女性にただただ見惚れていた。

 そして、胸には、どうしようもないほどの葛藤が生じた。


 すべてを手に入れたはずだったのに、今更になって、これほど手に入れたいものが目の前に現れたのだ。

 それも――けっして手に入れられぬものが。


「陛下とクレティアン様のお顔立ちは、どこか似ていらっしゃいますね。お二人のご年齢は離れていらっしゃるのに、不思議なものです」


 黙り込んでいるエルネストに、アンリエットは優しげな笑顔でそう言った。

 それは、婚約者から王座を奪った皮肉だったのかもしれないが、その美しい笑顔に包まれた言葉は、まったくそのようには聞こえなかった。


「わたくしにも、弟が二人おります。上の弟は十四、下の弟はまだ五つで、年が離れているせいか今はあまり似ているように思えませんが、成長するにつれて似たところも出てくるのかもしれませんね」


 アンリエットは、まるで蝋人形のようにかたまっているエルネストにかまわず、独り言のようにそう言い、ふふと小さく笑った。


 エルネストは、絶望的な気持ちになった。

 この女性は、美しいうえに、なんと愛らしいのだ。

 ――会わなければよかった。

 心の底からそう思った。


 会わなければ、こんな気持ちにならずにすんだのに。

 今まで感じたことのない、燃えたぎるような感情で、胸が焼けつくようだった。

 愛おしさと同時に、嫉妬に狂いそうだった。


 ――クレティアン。

 九年前に、王宮から追放した、十二歳年下の腹違いの弟。

 王になるべくして正妻の腹から生まれ、父王にかわいがられ、周囲からはちやほやされ、それなのに、苗木が太陽の光を浴びてすくすく育つように、まっすぐで、聡明で、ほがらかに成長する弟に対して、ずっと嫉妬してきた。

 それをようやく自分が、彼からなにもかもを奪い、王となった――それなのに。

 この瞬間、全てを奪い返されたようだった。


 その日、アンリエットが気を使っていろいろと話してくれたが、エルネストはほとんどなにも語れないままだった。

 彼女が異母弟クレティアンと結婚したのは、その二年後である。


 アンリエットと出会い、彼女が結婚するまで、エルネストは幾度も彼女に手紙を書き、花やドレスや宝石を贈った。彼女の気持ちを動かすことができたなら、と思ったのだ。

 彼女を手に入れるためなら、王妃と離縁し、産まれたばかりの息子から王位継承権を剥奪してもかまわないとさえ考え、実際にアンリエットに、自分がそれほどまでに想っていることを伝えた。

 しかし、アンリエットは、まったく心を動かすことはなかった。


 エルネストのことを始終「将来の義兄様」と呼び、はじめて会ったときと同様、優しい笑顔を向けてきたが、けっして心の内を見せることはなかった。

 クレティアンの王座を奪い、婚約者までをも彼から奪おうとしているエルネストのことを、心の底では軽蔑し憎んでいたかもしれない。それでもアンリエットはずっと変わらず、穏やかな態度でエルネストに接した。


 ……だからこそ、エルネストは、なにもできなかった。


 実際のところ、アンリエットを無理矢理にでもクレティアンから奪わなかったのは、クレティアンと交わした約束のためではない。

 口約束を反故にすることは、今のエルネストの立場ならできないこともなかった。

 多くの犠牲を払えば、手に入れられないことない。

 エルネストが真に恐れたのは――アンリエットが彼に向ける笑顔を、失うことだった。


 彼女を力ずくで奪ったとき、彼女の紫色の美しい瞳から笑みが消え、憎しみを向けられるのが怖かったのだ。

 いつまでも、笑っていてほしかった。

 ――たとえそれが偽りのものであっても。

 憎しみを閉じこめた笑顔でもいい、アンリエットに笑いかけてほしかった。


 クレティアンと結婚してすぐ彼女は子供を生んだが、さらにその六年後、腹に子を宿したまま、この世を去った。

 そのときの衝撃は言葉にならないものだった。

 気が狂うのではないかと思うほどに。


 彼女の面影をみとめて、アンリエットの末の弟であるシュザンを正騎士隊の隊長に抜擢した。

 しかし皮肉なことに、だれよりも彼女に似ていたのは、アンリエットとクレティアンのあいだに生まれたリオネルだった。

 リオネルをはじめて見たとき、アンリエットの顔を鮮明に思い出した。

 母親譲りの美しい目鼻立ち、濃い茶色の髪、深い紫色の瞳、そして、考えの全てを包み隠してしまうような柔らかなほほえみ。

 なにもかもが生き写しだった。


 だから、彼を殺すことに関して長いこと心が定まらずにいた。

 彼が死ねば、アンリエットの血を引く者はいなくなる。

 しかし、かの青年には異母弟クレティアンの、正統な王家の血筋も流れているのだ。


 エルネストは、肖像画を見上げながら、片手の葡萄酒を揺らした。


 どこから風が入りこんだのか、すっと冷ややかな空気を感じる。

 ベルリオーズ家に対して山賊討伐を命じる書状を出したが、未だにエルネストはそれが正しかったのか、確信を持てずにいた。







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