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「しかし、おまえがいつか花束で殴られるなら、思い込みの激しい貴婦人あたりからだと思っていたが、まさかあの少年からとはね」
ディルクが頬に傷を作ってデュノア邸から戻ってきたときの姿を思い出し、レオンは皮肉っぽく笑った。
ディルクは今、自室で医者に傷の様子を診てもらっている。
経過は良好で、傷の痕は一ヶ月ほどで完全に消えるとのことだった。
「よかったな、ディルク。顔に傷などが残ったら、これから女にもてなくなるろころだったではないか」
「そのほうがいいんだけどね。新たにだれとも婚約しない理由が見つかれば、なんでもいい」
「…………」
レオンはなにも答えなかったが、肘掛椅子から立ちあがると、ディルクの書物机の前まで歩んだ。
なにをするかと思いきや、引き出しの上段を開け、その奥から、おもむろに白蝶貝が埋め込まれた美しい木箱を取り出した。
「なにをやっているんだ?」
ディルクは、頬を消毒されているので動くことができなかったが、目だけでレオンの動きを追った。
「勝手に触るな」
常の明るさを排除した、低い声音だった。
けれどレオンはその声を無視して、木箱の蓋を開ける。
なかには水色のハンカチと、その上に、小さく折りたたんだ手紙とスミレの押し花が丁寧に置かれていた。
「もう二年も経つ。そろそろ忘れてもいいころなのではないか」
レオンが箱のなかにまで手を伸ばしたとき、ディルクが叫んだ。
「触るな!」
ディルクが、手当てされているにもかかわらず立ちあがったのと、レオンが顔を上げたのと、そして、マチアスがレオンの手を制したのが同時だった。
「殿下」
マチアスの瞳がひたとレオンを見据えた。
「別に、これをどうこうするつもりはない。ただ、ディルクにも幸せになる権利があると、おれは思っただけだ」
「…………」
「おまえだってそう思っているのではないか、マチアス」
そう言うレオンの眼差しから視線を逸らし、マチアスは小箱を取り上げると蓋を閉めた。
レオンの言葉は、つい最近、他の者から聞いた言葉とよく似ていると、マチアスは思った。
それは、デュノア邸から戻った日の夜、アベラール侯爵に呼び出されたときのことである。
……ディルクの頬に傷ができた経緯を問われ、あの日に起こったことをマチアスはありのまま話した。
すべて聞き終わると侯爵は、肘掛椅子の背もたれに深く身体を預け、大きな吐息を吐いた。
「〝人殺し〟か――」
侯爵は、ぽつりとつぶやいた。
「あれも、そのような言葉を浴びせられ不憫なことだ……。私は、息子に酷いことをしてしまったのかもしれないな」
侯爵の言葉は独り言のようだったので、返事をしてよいものかどうかマチアスは迷った。
「哀しむ権利もないなどと言われて、どのような気持ちだろうな」
「……言ったほうも、言われたほうも、同様に苦しんでいます」
「しかしな、マチアス。ディルクはもう充分に苦しんだのではないか? あれも、そろそろ婚約者の娘の死から解放されてもよいのではないか。あれが苦しんでいる姿を見ているのは、私も辛い」
「……そうですね」
マチアスはそう答えたが、内心ではまた別のことも思っていた。
充分に苦しめば、人はそこから解放されるものなのだろうか。
カミーユやトゥーサンは、日々の生活から愛しい存在が失われた現実を、血を流すような思いで受け入れ続けなればならない。
それは、彼らの命が尽きるまで変わらないだろう。
また、彼女の死が、ディルクが婚約を解消したことが原因だったのかどうか、未だにはっきりしないが、おそらくそのことがなくてもディルク自身は苦しみ続けただろう。
それはディルクが、シャンティが死んだという現実を、血を流すような思いで受け入れ続けている人間のひとりだからだ。
「傷が癒え、苦しみが終わるためには、どれほどの時間が必要か……」
「傷というものはいずれ癒えますが、感情が途絶えるかどうかは、だれにもわかりません」
「厳しいことを言うものだな、マチアス」
「申しわけございません」
「マチアス、おまえも思わないか。ディルクは、自分の乗る船が幸せなところに行きつくよう、自ら帆を張り、舵をとってもよいのだと。いつまでも同じところで漂流していなくてもいいのだと……そうは思わないか」
「そうですね」
マチアスは再び同意したが、心中でつぶやく。
違う。
ディルクはけっして、帆を張らず、舵をとっていないわけではない。
風が吹き、波が寄り、船をどこかに運ぼうとするたびに、帆を張り、舵をとり、あえて同じところに留まるように船を動かしているのだ。
……どこにも行きたくないのだ。
いまは、そこが、ディルクが居たいと思う場所なのだろう。
罪の意識や、亡くなった婚約者への思いから逃れることなど、おそらく彼は望んでいないのだ。
けれど。
――もしも。
もしも、亡くなったはずのシャンティが、生きていたら――。
マチアスは、かたく目をつむり、思考を絶ち切った。
そんなことが、あるわけがない。
……あるわけが、ない。
レオンの手から取り返した木箱が、自らの手から離れていく感覚に、マチアスは我に返った。
視線を上げると、木箱を持っていたのはディルクだった。
「今度、勝手にこれに触ったら赦さないぞ、レオン」
「……だれかを忘れるためには、まずは思い出の品を捨てるところから始めなければならないと聞いたことがある」
「おまえ、まさか、これを捨てようとしていたのか」
ディルクの声音が再び低くなる。
「そういうわけではない」
ディルクは訝しげにレオンを見た。
「なぜ忘れる必要があるんだ」
「おまえの幸せのためだ」
「おまえに、おれの幸せがわかるのか?」
「……少なくとも、カミーユに『人殺し』と罵られ、怪我を負わされ、しかしそれ以上に自分自身を責め続けているおまえは、おれの目から見ていても痛々しい」
「シャンティのことを忘れ、新たな婚約者ができれば、より幸せになれるとでも?」
「そうは言わないが」
「……とにかく、おまえがおれのことを考えてくれる気持ちはわかったよ。ありがたいとは思うけど、この木箱に勝手に触るのは勘弁してくれ」
「……触るくらいいいではないか」
「嫌だ」
「ケチだな。減るものでもあるまいし」
「汚れるかもしれないだろう」
「おれの手は汚くないが」
「見えない埃とかがついているかもしれないし」
「…………」
互いに無言になると、ディルクは木箱を再び引き出しの奥にしまった。
レオンはそれをじっと見つめている。
マチアスには、わかるような気がした。
ディルクが怒ることを承知のうえで、レオンがこのようなことをやった理由が。
それは、ディルクの幸せのためというよりは、ディルクを守るためである。
おそらくディルクの船が、自分の意思でその場に漂流していることを、レオンは知っている。
そして、その船がカミーユの言葉によって沈んでしまうことを、いや、今まさに沈みつあることを、心から案じているのである。
「あの……お手当がまだ……」
医者が遠慮がちにディルクに言う。
「ああ、悪い」
ディルクは再び長椅子に腰かけた。
そのとき扉を叩く音がして、マチアスがそれを開ける。館の執事が一歩だけ部屋に入り、深々と一礼した。
「おくつろぎ中、申しわけございません」
「なんだ?」
「皆様に至急のお話があるとのことで、侯爵様がお呼びです」
「至急の?」
ディルクとレオンは顔を見合わせた。
「すぐに行く」
立ちあがったディルクに、医者が再び遠慮がちに言う。
「あの……お手当は……」
「そうだった、すまない。話が終わったら頼む」
「かしこまりました」
かくして三人は侯爵の執務室を訪れ、山賊討伐の話を聞かされることになったのだった。
「思ったより、早かったですね」
ディルクはほとんど動揺を見せずに言った。
アベラール侯爵のもとに、ベルリオーズ家から書状が届いたのは、つい先程のことである。
「それにしても、爵位剥奪のうえ財産没収とは……手荒い方法に出たものです」
「いや、クレティアン様が最も恐れたのはそのことだけではない」
「どういうことですか?」
「おそらくクレティアン様は、そのあとの事態もまた深く憂慮されたのだ。爵位剥奪、および財産没収などとなれば、王弟派貴族や民衆が黙っていないだろう。我々はじめ、未だ公爵殿のお血筋が正統な王家であると考える者は多くいる。クレティアン様は、このことがきっかけで王弟派と国王派の争いが激化し、内乱につながることを恐れたのだ。忌々しいことだが、陛下は、異母弟がそう考えることも承知のうえで、このような書状を送ったに違いない」
「……狡猾な、くそ髭じじいだな」
「それに、ラ・セルネ山脈沿いの貴族らがベルリオーズ邸に頻繁に通い、助けを求めているようだ。動かざるをえないとお考えになったのであろう」
「それも、裏で国王派が糸を引いていたのでしょう」
「……ところでレオン殿下、ベルリオーズ家から届いた書状とは別に、貴殿に宛てた書状も受け取っております」
家族の横暴を絶望的な気持ちで聞いていたレオンは、侯爵の言葉にはっとする。
「私宛ての?」
「王宮におられる、お兄上様からのようですが」
「兄上……」
レオンは嫌な予感がした。
侯爵から、封蝋の解かれていない書状を受けとる。
ベルリオーズ家に書状を送ったのは父王である。しかし、レオンにこれを送ったのが、父王ではなく兄ジェルヴェーズとなると、おそらく、さらにまともな内容ではない。
恐々と書状を開き、見慣れた兄の筆跡を辿った。
ざっと読み終えると、レオンは苦い顔で、自分の様子を見守る二人へ視線を向けた。
「なんて?」
ディルクが問う。
「口が裂けても言えない」
侯爵はやや面食らったが、ディルクは口の片端を吊り上げる。
「だいたい想像はつくよ。さて、それと同じような内容を、いったい幾人の国王派貴族に送っているのやら」
「…………」
「いっしょに来るんだろう? 山賊討伐に」
ディルクはやけに「山賊」という台詞を強調して言った。
レオンも負けじと、「山賊」というところだけ語調を強めて返答する。
「……そうだ。おれも、山賊討伐に加わることになった」
「なんと」
侯爵は、レオンが討伐に加わることになるとは想像していなかったようだ。
けれどレオン本人やディルクには、ぼんやりとした予感があった。
ジェルヴェーズから届いたレオン宛ての書状には、山賊討伐に加わり、混乱のなかでリオネルを殺害するようにと書かれていたのだ。いかにも彼が考えそうなことである。
またも不本意な任務を一方的に押し付けられたレオンは、書状を右手でぐちゃぐちゃに握り潰し、そしてそれを額にあてて項垂れた。
王子のその様子に、アベラール侯爵は首を傾げる。
一方ディルクはすべてを見抜いており、むしろ同情の目でレオンを見つめていた。