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王の執務室から出てきたシュザンの表情は曇っていた。
彼の後方に従う正騎士隊副隊長のシメオンも、けっして晴れやかな面持ちとはいえない。
二人が衛兵の間を通り、大階段への回廊を進んでいると、正面から白い祭服をまとった糸杉のような男がこちらへ歩んできた。
大神官ガイヤールである。
嫌な頃合いで、嫌な相手に出くわしたと、シュザンは思った。
「おや、我が国は正騎士隊の隊長殿と副隊長殿がそろって王に謁見ですか」
二人の前まで来るとガイヤールは立ち止まり、すべて見透かしたような薄い笑みを浮かべる。
「ええ、謁見が終わったところです。大司祭殿は、これから赴かれるところのようですね」
「私は山賊の討伐の件で参るわけではありませんが」
黙って視線を鋭くしたシュザンに、ガイヤールは笑みを深めた。
「図星のようですね。さぞやご心配でしょう、正騎士隊を動かせずに、ベルリオーズ家だけを犠牲にするとなると」
「……貴方は喜々として賛同されたのでしょう? むしろ率先して陛下に献言した、というところですか」
「人聞きの悪いことをおっしゃらないでいただきたい。私は聖職者。政治に関しては一切の口出しはしません」
「そうでしたね、大司祭殿。それにしてもお耳が早い」
「噂はいろいろ聞こえてくるのですよ」
「貴方には、神の声よりも、人の噂のほうが多く聞こえるのでは」
シュザンの辛辣な皮肉に、ガイヤールは笑顔を消した。
「これで、ベルリオーズ家も弱体化するでしょう。もしかしたら若い跡取り殿も、お命を落とされるかもしれませんよ。貴方はそれを黙って見ていられるのですか」
ガイヤールの魂胆は見え透いている。シュザンの焦りと、怒りを煽っているのだ。
王の命令なくして正騎士隊を動かすか、もしくは隊長の座を退いて個人で参戦するか、そのどちらかの行動を取ればシュザンはこの王宮から永遠に追放される。
それこそが、ガイヤールの望むところだった。
「討伐が実現したとしても、参加するのは、ベルリオーズ家だけではありません。左翼を治める諸侯らが力を合わせて戦うことになりましょう。貴方の役目は、このようなところで私につまらぬことを吹き込むことではなく、彼らの無事と勝利を祈ることではないのですか」
「このシャルム王国の安定と、平和な未来のために、ひとりの輝かしい青年が〝活躍〟することを祈っていますよ」
暗にリオネルの死を匂わせる言いぶりに、シュザンは眼差しを強めた。
「この国の、真の平和と安定を望むのであれば、歪んだ祈りを改めることが賢明です。もっとも、祈っているだけ、であればよいのですが」
「私には祈ることしかできません。シュザン殿のように、人を殺傷することはありませぬゆえ」
「直接に手を下すことだけが罪なら、この世の真の悪の多くは、闇に葬り去られます」
そのときガイヤールの唇に蔑むような笑みが浮かぶ。
「それでは、陛下はそのうちのひとりになると? 貴方は、陛下を愚弄されるおつもりですか」
「どういう意味ですか」
「陛下は、ようやくご決心されたのでは。――最後まで手に入れることのできなかった愛しい女の産んだ、たったひとりの子供を、自らの手を汚さずして山賊らに殺させることを」
「…………」
シュザンは目を眇めて、ガイヤールを睨んだ。
「貴方が正規軍の隊長に抜擢されたのも、美しい姉上のおかげでしょう?」
「大司祭殿、言葉が過ぎますぞ」
ガイヤールを諌めたのは、それまで二人の会話を黙って聞いていたシメオンだった。
「おや、シメオン殿は我々と同じ政派であるにも関わらず、シュザン殿の肩を持たれるのですか」
「私は政派に属するまえに、正騎士隊の副隊長です」
「敬愛する隊長殿への不敬は許さぬというわけですか。やれやれ、人殺しどもの結束は強いようですね」
「その人殺しに、この国と貴方の命は守られていることを、お忘れなきよう」
シュザンは歩き出しながらそう言い、ガイヤールの脇を通り過ぎる。
「貴方がたのような人殺しにも神の加護があるのは、私の祈りのおかげであることを、お忘れなきよう」
もはやガイヤールの戯言に言い返さず、シュザンはシメオンを従え足早に回廊を去っていった。あまりにくだらないので、言葉を返す気も起きない。
彼の信じる神などに加護を与えられるくらいなら、いっそ悪霊に取りつかれたほうがましだとさえ思える。
「ガイヤール殿は、いつの間に貴方にあのようなことを口にできる立場になったのでしょうな。もとは名もない男爵家あたりの次男だか三男だかで、どこかの田舎町の礼拝堂の聖職者であったのが」
限られた者しか通ることが許されぬ回廊が終わり、使用人や貴族らが入り乱れる雑多な大回廊になると、シメオンは苦々しげに口を開いた。
「ジェルヴェーズ殿下には、特に気に入られているようだからな」
「あの者が言ったこと、お気になさいますな」
気遣うようなシメオンのひと言に、皮肉めいた笑みをたたえながら、シュザンは低い呟きを返した。
「……まったく真実ではないとも、言い切れないがな」
「シュザン殿」
強まったシメオンの語調には返答せず、気持ちを切り替えるようにシュザンは話題を変える。
「それにしても、山賊討伐の話がこのような形で進められていたとは」
相手の心情を察したシメオンもまた、それ以上この話題には触れなかった。
「さようですな。我ら正騎士隊を動かさぬとなると、今回の討伐、はたして成功するでしょうか。ラ・セルネの山賊どもは手強いと聞きます」
「自然の驚異のなかに身を隠し、居場所もわからぬ敵を相手どるのは、容易なことではない。もし、万が一、左翼側の諸侯が山賊相手に痛手を被れば、この国の西側の守りは脆弱になり、ローブルグやネルヴァル、果ては同盟国リヴァロも含めた周辺国の脅威から無縁ではいられなくなる」
「正騎士隊の一部を、密かに動かしますか」
「いいや、もしそうしたことが知れたら、我々はただではすまない」
「……それはそうですが」
「ベルリオーズ公爵様に一度、書状を送ろうと思う。おそらくすでに討伐の命は受けておられるだろうから、公爵様のお考えを聞いたうえで、どうすべきか検討する……といっても私には、隊長の座を退き個人的に加わる以外には、なにも手助けできないのだが」
隊長の座を退くという言葉に、シメオンは敏感に反応した。
「今なんと……?」
「冗談だ、シメオン殿」
表情を曇らせたシメオンに、シュザンは苦笑する。
まだ正騎士隊隊長の座を退くわけにはいかない。
地位と権力を失うのが怖いわけではない。
今や、国王派の勢力に支配されつつあるこの政情のなかで、シュザンがこの立場にいることによって、なにかとベルリオーズ家をはじめとする王弟派の者たちを助けることができるのだ。
そしてなにより、この国を守りたかった。
正騎士隊を率いることで、自らの手でこの国を守ることができる。
しかし今回ばかりは、その立場のせいで身動きができなくなってしまっていた。
シュザンは目を閉じ、甥の姿を思い浮かべる。
――リオネル・ベルリオーズ。
現国王エルネストが愛した絶世の美女アンリエットの、忘れ形見。
エルネストは弟クレティアンから王位を簒奪したが、彼の妻だけは奪うことができなかった。それは、二人が交わした約束のためである。
王弟派の迫害が始まったとき、真っ先に現国王を支持したクレティアンは、ある条件を出した。
――王位は譲るが、これ以上の迫害を止め、自らの家族に手出しをしないということ。
エルネストは異母弟との約束を守った。
しかし、彼の息子ジェルヴェーズはそのかぎりではない。
そして今、ベルリオーズ家やクレティアンの家族に、約束を交わしたはずのエルネルト自身が魔手を伸ばそうとしているのである。
シュザンは頭痛を覚えて顔をしかめる。
もし、万が一、リオネルの身に何かあったら――。
この国は終わりだ。
それは、シュザンの直感であった。
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「リオネル、ベルトラン、シャルル殿、ディルク殿……そなたらに知らせておかなければならないことがある」
ベルリオーズ公爵がそう切り出したのは、自領に戻るアベラール侯爵とエルヴィユ侯爵を玄関で見送った直後だった。それぞれの子弟らはもう数日ベルリオーズ邸に留まる予定である。
普段に増して重々しい口調に、若者たちは一瞬顔を見合わせた。
「レオン殿下もいっしょに聞いていただきたい。……アベルも同席してかまわない」
こうして皆は公爵の執務室に集まった。
先程までアベラール侯爵やエルヴィユ侯爵が話し合っていた場所である。
アベルがこの場所に来るのは二度目のことだった。
一度目は、はじめてベルリオーズ公爵に挨拶をしたときだ。あのときほどの緊張はないにせよ、自分のような立場の者がその部屋に入ることに、まったく緊張しないわけではなかった。
広い室内の窓からは、柔らかい陽光と、それを反射する雪の青白い光が差し込んでいる。
前回訪れたときは、朝方だったにもかかわらず薄暗く感じられた部屋が、今日はまるで広さまで違っているように見えるほど明るい。
もともと美しい調度品は、輝きを増したようだった。
貴族の子弟らは小ぶりな円卓を囲む肘掛椅子に座ったが、マチアスとアベル、そして執事のオリヴィエは扉のそばで控えめに立っていた。
「アベル、おいで」
リオネルは手招きしてアベルに椅子に座るように促す。
アベルが無言で小さく首を横に振ると、リオネルが席を立ち、彼女のもとへ歩み寄る。
「怪我をしているのだから、立ったままだとよくない」
「怪我をしたのは肩です。立っていても関係ありませんので」
「いいから」
リオネルは、負傷していないほうのアベルの手を引き、皆から少し離れた窓際の腰掛け椅子へ連れていく。
「ここならいいだろう?」
「…………」
その様子を見ていたディルクが、呆れた顔で言う。
「あれは、愛する貴婦人を扱うような態度だな」
「あれくらい、フェリシエのことも大切にしてくれるとありがたいのだが」
小声で切実なぼやきをこぼしたのは、彼女の兄シャルルである。
まったくそのとおりなので、周囲はなにも答えることができず、彼らのあいだには微妙な沈黙がおりた。
皆のもとへ戻ってきたリオネルは、シャルルのぼやきなど聞こえていなかったので、いつもと変わらぬ穏やかな様子である。たとえ聞えていたところで、さして気にしなかったであろうが。
「お待たせしました」
開いていた扉口に、深い緑色の服をまとった男が現れる。ベルリオーズ邸の騎士隊長、クロードだ。
扉が開けっぱなしになっていたのは、彼が来るのを待っていたためだろう。クロードが入室するとオリヴィエが扉を閉める。
跪いたクロードへ腰かけるようにと公爵は言ったが、
「私は立ったままでけっこうです。お気遣い感謝いたします、公爵様」
とクロードは丁重に謝絶した。
こうして全員がそろうと、公爵は執務机に向かい、一枚の書状を手に取った。
「皆に集まってもらったのは、王宮から、ある命令が下されたためだ」
「王宮から命令……?」
つぶやいたのはシャルルである。
その傍らで、レオンの顔色がたちまち悪くなる。父や兄、そして国王派の貴族らは、今度はなにを企んでいるのだろうか。
「公爵様、それはいったいどのような」
「ラ・セルネ山脈に巣食う山賊を、一掃せよとのことだ」
公爵の声は淡々としていたが、その内容は、ひと言では片付けられぬ難題であった。