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二人が庭を散策しているころ、館では朝食が終わっていた。
各々がいったん自室に戻っていくなかで、アベラール侯爵はリオネルを探していた。
「ディルク、先程からリオネル殿のお姿が見当たらない。どちらにいらっしゃるのだろうか」
「さあ、腹の具合でも悪いのかもしれませんよ。私は、アベルがいないことのほうが気になります。怪我の具合が良くないのかな……」
息子の適当な返答に呆れつつ、侯爵が次に声をかけた相手はベルトランである。
「ベルトラン殿、リオネル殿は今どちらへ」
「アベルを探しにいくと言っていました。そろそろ戻るとは思うのですが」
「困ったな……」
「なにかご用向きでも?」
「リオネル殿に、お話ししたいことがあったのだが……私は、今日の昼にはここを発たなければならない」
「探して参りましょう」
「いや、いい。また別の機会もあるだろう……」
なにやら考えこむ様子で、廊下を歩み去っていくアベラール侯爵の後ろ姿を、ベルトランは小首を傾げて見送った。
それからしばらくして館に戻ってきた二人に、ベルトランはどこでなにをしていたのか一切聞かずに、アベラール侯爵がリオネルを探していたということだけを伝えた。
長い間どこへ行っていたのかはわからないが、リオネルの穏やかで幸福そうな表情を見れば、いちいち野暮なことを聞く必要はない。
アベルはいつもどおりだったが、その首にかかっている水色の宝石の首飾りだけは、見慣れぬものだった。
ベルトランは、それについてなにも知らなかったが、だいたいのことは察することができる。
彼が知るかぎり、リオネルが女性に贈り物をしたのは、生まれて初めてのことだ。
そして正直なところ、彼女がよく受けとったなと、ベルトランは思った。
リオネルが贈り物をするとは思いも寄らなかったし、それをアベルが受けとるとは、それ以上に想像できなかったことだった。なにせアベルは頑固である。男からの贈り物など、丁寧な言葉遣いで、すげなく謝絶しそうなものである。
リオネルはいったいどのような手を使って、アベルに受けとってもらったのだろうかと内心で首を傾げる。
ベルトランの視線が一瞬だけ首飾りに移ったことに気づいたアベルは、そっとそれを服のなかに隠した。
自分のような立場の者が、美しい宝石を身につけていることは身分不相応なことであり、また、男として生きる身としては、多くの人の目には触れたくなかった。
「侯爵殿には、アベルの手当てが終わったら会いにいくよ」
そう言うリオネルに、
「包帯の巻きなおしくらい、自分でできます。リオネル様は侯爵様に会いに行かれてください」
と、いつもの強情さでアベルが主張する。しかたがないので、
「ではおれがアベルの手当てをするから、リオネルは侯爵殿を探したらどうだ」
とベルトランが提案すると、
「絶対にだめだ」
と、リオネルはベルトランを睨みつけた。
「あ、アベル」
大広間の脇の廊下で立ち話をしている三人を見つけ、ディルクが歩み寄ってくる。彼はアベルの前まで来ると、自らが怪我を負わせた肩と、アベルの瞳とを交互に見やりながら心配そうに問いかけた。
「大丈夫? 朝食に顔を出さなかったけど」
「少し散歩をしていたのです、ご心配をおかけして申しわけございません。怪我のほうは治りました」
「治った……?」
「はい、完全に」
きょとんとしているディルクに、リオネルは「そんなわけないだろう」と不機嫌に言った。
「そうだよね、傷は痛まない?」
「痛みません」
「そう、それならいいのだけど……」
「ディルク、アベラール侯爵を知らないか?」
ベルトランが思い出したように聞く。
「父上は、公爵様やエルヴィユ侯爵殿と集まってなにやら話しているみたいだよ。そういえば、リオネルを探していたっけ」
「それなら、話し合いが終わってから会いにいくよ。それまでにアベルの手当てができる」
リオネルがそう言うと、アベルはやや肩をすくめた。
再びリオネルやベルトランに背中を見られると思うと、ひどく恥ずかしいうえに、気が重たかった。
「またおまえがやるのか?」
ディルクは呆れているというよりは、諦めたという雰囲気である。
「ああ」
「じゃあ、おれがやるよ。おれが怪我させたんだし」
「絶対に、だめだ」
リオネルの語調は、先程ベルトランに言ったよりも、はるかに強かった。
+++
アベラール侯爵とエルヴィユ侯爵の両名がベルリオーズ邸を去ったのは、その日の昼前だった。
結局、直前まで三人で集まっていたので、リオネルは侯爵と話すことができなかった。
玄関で見送りに出たリオネルは、アベラール侯爵の前で柳眉を下げる。
「すみません、私にお話があるとうかがったのですが、今朝は外出していました」
「いいえ、私たちが長いこと話し合っていたため、出発の時間になってしまったのです。リオネル殿のせいではありません」
「お話の要件は、どのようなものでしょうか。急ぎのことであれば私も時間がとれますので、侯爵殿のご都合がよろしければ、今少し館にお留まりください」
「その……貴方に謝りたいことがあったのです」
アベラール侯爵の声は、リオネルにしか聞こえぬほど小さくなった。あまりに小さな声だったので、リオネルがようやく拾うことができるほどだった。
「謝る?」
「……はい、息子の婚約者のことで」
リオネルは、眉根を寄せる。
「ディルクの?」
「はい」
「シャンティ・デュノア殿……でしたね。彼女のことで、私に謝ることが?」
「正確にいえば、あなたのお母上に、です。しかし今日はもう時間がありません。午後には人と会う約束があります」
「そう……ですか」
死んだ母に謝ることがあると言われれば、リオネルは余計に気になった。
「いえ、その……大袈裟な話ではないのです。私の胸のなかにあることなので、急ぐことでもありません。今回お話しできなかったことを、この場でお詫び申し上げるとともに、今度お会いした際に、お時間をいただければ幸いです」
「もちろんです」
リオネルは、もやもやしたものを感じたが、うなずくしかなかった。
「父上となにを話していたんだ? ひそひそ話しているから、なにも聞こえなかった」
侯爵が玄関を出ていくのを見送りながら、ディルクはリオネルに尋ねた。
ディルクはなにも知らされてないのだろう、無邪気に問いかけられたので、リオネルは少し迷ったが、彼の婚約者のことだと侯爵が言っていたことは告げなかった。
「いや……今日は時間がないから、また今度話してくれるらしい」
「ふうん」
ディルクはリオネルの瞳をのぞきこむように見たが、リオネルは視線を合わさなかった。
ディルクの婚約者であるシャンティ・デュノアは、二年前に死んだ。
彼女のことで、どうしてアベラール侯爵がリオネルに、いや、ベルリオーズ公爵夫人である母に謝る必要があるのか。
シャンティ嬢の死にまつわることだろうか。
大げさなことではないと言っていが……。
謎だけを残された気がして、リオネルは小さく溜息をついた。
一方、彼らの会話など少しも聞こえていなかったアベルは、リオネルの後ろ姿を見つめていた。
服の下に隠れている首飾りの存在にまだ慣れず、その冷たい鎖と宝石の感触がアベルの首元に巻きついている。
リオネルは、なぜこのような贈り物を自分にしたのだろう。
彼の考えていることがわからない。本当にわからない……。
アベルがそう思ったのは、一時間ほど前の出来事のせいだった。
……肩の包帯を巻きなおしたリオネルとベルトランがアベルの部屋を出ていくと、しばらくして扉をたたく音がした。
だれかと思い、そっと扉を開けると、そこにいたのはフェリシエだった。身なりのよい侍女を一人だけ伴っている。
「フェリシエ様」
アベルは思いがけぬ来客に驚き、慌てて一礼した。
そんなアベルに、フェリシエは笑顔を向ける。
「アベル、そんなに畏まらなくていいのよ。あなたは怪我をしているのだから」
「おそれいります」
「突然お邪魔してごめんなさい。朝から、あなたとリオネル様のお姿が見えなかったものだから」
「申しわけございません」
アベルはそれだけ言うと、再び頭を下げた。
やましいことはなにもないが、それでも二人だけで庭を散歩していたとは告げにくかった。
「少しお話しても?」
「……もちろんです。このような場所でよろしければ、どうぞお入りになってください」
窓際に控えめに置いてある肘掛椅子へ、フェリシエを促す。
小さな八角形の卓にも、窓の脇にある飾り棚にも、花や小物などは飾られていない。アベルの寝室は、全体的に私物の少ない、良くいえばさっぱりした、悪くいえば飾り気のない佇まいである。
フェリシエは品定めするようにぐるりと室内を見渡してから、椅子に腰かけた。
侍女はその傍らに立ったままである。
「怪我の具合はいかが?」
「大変良好です、フェリシエ様。ご心配いただきありがとうございます」
アベルも立ったまま答える。
若く美しいフェリシエは、怪我の心配をしているわりには、怪我人を立たせたままでも平気なようだった。けれど、アベルはそのような細かいことを気にとめたりはしない。
「よかったわ、あなたが無事で。ディルク様なんてどうでもいいけど、あなたになにかあったら、わたしはとても哀しいわ」
「……身に余るお言葉です」
ディルクに関する文言がやや気にはなったが、家臣があえて追求することでもない。
フェリシエの訪問の意図はなんだろう。最初はリオネルを探しに来たのかと思ったが、落ちついて座っている様子からすると、そういうわけでもなさそうである。
まさかアベルの怪我を心配して、などということはないだろうが、彼女の心遣いには恐縮する。
フェリシエは初めて会ったとき、アベルが貴族ではないことを侮蔑せず、むしろ仲良くしたいとまで言ってくれた。
実はそれが、ライラによって綿密に仕込まれた演技であるということを、まっすぐで素朴な性格のアベルには到底見抜くことができない。リオネルにはなんと素晴らしい婚約者がいるのだろうと、アベルは心から感嘆していた。
守ってさしあげなければと思う。リオネルの大切な人だからこそ。
「今日ここへ来たのはね、アベル。あなたなら、わかってくれると思ったからよ」
アベルはフェリシエの青緑色の瞳を見つめる。
なにもない部屋を退屈そうに見やりながら言ったフェリシエは、最後に視線をアベルへと戻す。
「リオネル様の近くにいて、なおかつ他の殿方よりもとても女性的な感じのするあなたなら、わたしを助けてくれるのではないかと思って」
「……わたしが、フェリシエ様を?」
「難しいことではないのよ。アベル、あなたは恋をしたことがあって?」
「恋……」
「だれかを想ったことがあって?」
「……昔、ずっと憧れていた相手がおりました」
「今は?」
「おりません」
「そう。では、わたしの気持ちが、少しおわかりなるかしら。わたし、リオネル様を愛しているのよ」
「…………」
「心の底から。毎晩あの方のことを想うと、胸が熱くなって眠れないわ。リオネル様のおそばにいると、この世のどこにいるよりも幸せなの。あなたには、そういう気持ちがわかるかしら?」
アベルはやや返答に困った。
婚約者であったディルクのことは長いこと憧れ続けていたが、実際に会ったことがなかったので、フェリシエが抱くような気持ちにはなったことがない。
リオネルのそばにいると「幸せ」だと、フェリシエは言った。
その気持ちだけは、なんとなくわかる気がした。
リオネルの腕のなかにくるまれていると、温かく、安心できる。
あの不思議な気持ちを、人は「幸せ」と呼ぶのかもしれない。
しかし、自分もリオネルといると幸せだなどと言えるはずもなく、恋するフェリシエに向ける気の利いた答えは思いつかなかった。
「なんとなくなら、わかる気がします」
苦労してそう答えると、フェリシエは嬉しそうに笑った。
「あなたならわかってくれると思ったわ」
アベルは曖昧にほほえんだ。
「そしてね、アベル。リオネル様も、わたしが抱いている想いと同じくらい、わたしを愛してくださっているのよ」
熱のこもったようなフェリシエの強い視線を受けて、アベルはゆっくりうなずく。
リオネルの様子からそのような雰囲気は見受けられなかったが、フェリシエがそう言うのなら、そうなのだろう。
「王宮にいる四年間、リオネル様はわたしに手紙を送りつづけてくれたの。向こうでの生活のことや、アベル、あなたのこともたくさん書いてあったわ」
フェリシエが実際にそれらのことを知ったのは、ジュストがライラに宛てた手紙からであったが、嘘をつくことに対して、この若い女性の胸は微塵も痛まないようだった。
「そこには、わたくしのことが恋しくてたまらないと――早く会いたいと、あの方の切ないお気持ちが綴られ、それとともに指輪や首飾りなどの宝石も、たくさんいただいたわ」
むろんフェリシエの言うことはまるきりの嘘だったが、アベルにとっては疑う理由がなかった。
首飾りと聞いて、アベルはどきりとする。
鎖骨のあいだに冷たい石を感じた。
胸の奥がかすかに疼くが、それがなぜなのか、わからない。
――どうしても、きみに贈りたくて。
――きみがもらってくれたら、すごく嬉しい。
リオネルの口から出た言葉が、脳裏によみがえる。
その声は真剣で、深い紫色の瞳は切なげな色をたたえていた。
……だからといって、なにかを期待したわけではない。自分の立場は、わきまえているつもりだった。
それなのに胸の奥が疼く。
やはりアベルに宝石を贈ったのは、ただの気まぐれだったのか。
サシャーヌの街で、宝石を贈る相手などいないと言ったのは、なぜだったのだろう。
リオネルが、どのような気持ちでアベルに水宝玉の首飾りを贈ったのか、まったくわからなかった。
「それなのにね、アベル」
「は……はい」
名を呼ばれて、アベルは我に返る。
「リオネル様は、皆がいるまえでは、恥ずかしがってなかなかお気持ちを表にだしてくださらないの。わたしはそれが哀しくてしかたがないのです」
「それは……お寂しいですね」
「そうなのよ。わかってもらえるかしら?」
「わかる……ような、気もします」
「そうよね。だから、あなたへのお願いというのは、そのことで少し協力してほしいことがあるのよ」
「わたしなどに、できることがありますか」
ためらいがちにアベルは尋ねた。
「たいしたことではないわ。わたしとリオネル様がこれからなるべく二人きりになれるようにしてほしいだけ。せっかくお会いできたのに、ベルトラン様や、ディルク様なんかがそばにいたら、ゆっくりお話しできないでしょう?」
「なるほど……」
アベルは、わかったような、わからないような曖昧な返事をした。
けっして二人の恋路を邪魔したいわけではないが、自分にそのようなことができるか自信がなかった。
「いいのよ、肩肘張らなくて。あなたがリオネル様のおそばから離れるだけで、きっと周りは気づいてくれるわ」
「……そうかもしれませんね」
「協力してくれる?」
「わたしにできることは、精一杯させていただきます」
アベルの返事に満足したように、フェリシエは華やかにほほえんだ。
「ありがとう、アベル」
フェリシエは立ち上がって、アベルの手をとった。
二人の白く細い指が触れあう。
アベルは恐縮して頭を下げた。
首飾りをくれたリオネルの真意は計りかねるが、二人が愛し合っているのなら、アベルは骨を惜しまず二人の関係がうまくいくように協力するつもりである。
けれど喉の奥に不思議な感覚が詰まり、どうしても言葉にならない。
それは、なにに対する、どんな感情なのか。
近頃、アベルは自分の気持ちが、自分自身にもよくわからなかった。