42
二人を乗せた馬は、果てがないように思われるような庭園を、奥へ奥へと進んでいく。
館やリヴァロ式庭園、シャルム式庭園は、もはや影も形も見えず、今しがた通った造園や迷宮でさえ、すでにはるか後方だ。
右手には、木立が続いている。
左手には雪原。
時々リオネルの香りがアベルの鼻を、――心をくすぐった。
気持ちを落ち着けるために景色に目を向けていたアベルに、リオネルは説明する。
「春になれば、この道沿いには百合の花が咲く」
「この長い道に、ですか?」
「ああ、ただひたすらまっすぐに白い百合の花が続く。逆に造園やこの草原には、様々な色の花が咲く。そして、ここからは見えないが、この雪原のむこうにはさっきからずっと池が続いているんだ。このまま進めば道は三手に別れ、左に曲がると池の東端に出る」
「右に行くと?」
「木立のなかに入る。その向こうには人口池がある」
「まっすぐ行くと?」
「果樹園につながっている」
「果樹園……」
「そう、アベルの好きな梨の木もあるよ。今の季節は、行ってもつまらないけど、春になったらまた一緒に花を見にいこう」
アベルは嬉しそうにうなずいた。
「秋になったら、実も食べたいです」
「好きなのか?」
「はい、とても」
「そうか」
リオネルがほほえむ。
「ほしいだけ、採ってあげるよ」
「リオネル様が木に登るのですか?」
「木登りは得意だよ」
木に登るリオネルの姿を思い浮かべてみたが、うまく想像できなかった。
それにしても、武術に優れ、聡明で、器用で、木登りさえ得意とは、リオネルにとって苦手なことなどあるのだろうかと思ってしまう。
「だが残念なことに、それをきみに披露するまでもなく、果樹園の木はそう高くないから、おれの身長で充分に届いてしまう」
「では、いずれの機会に拝見するのを楽しみにいたしております、リオネル〝殿〟」
「いつでもお見せいたしましょう、アベル〝殿〟」
互いの冗談めいた口調に、二人は笑った。
気がつけば、すでに道が三手に別れる地点である。リオネルは迷うことなく、馬を左へ進めた。
池に向かっているようだ。
「あ」
広大な池に近づいたとき、アベルがひときわ瞳を輝かせる。
「白鳥」
「そう、この番はだいたいこのあたりにいるんだ」
「わあ……」
アベルは馬から身を乗り出すようにして、二羽の白鳥を見つめた。
剣だけではなく乗馬にも秀でているはずのアベルだが、どこか危なっかしく感じられるので、リオネルは少女の身体を支える腕に力を入れる。
「この番以外にも、白鳥はいるのですか?」
「館の前の池や、木立の向こう、堀、リヴァロ式庭園にもいるよ。みんなあちこち移動しているけど、気に入っている場所はそれぞれ違うみたいだ」
「降りて、じっくり見ても?」
「ああ、いいよ」
リオネルは先に馬から降りると、アベルが異議を唱える隙を与えず、彼女の身体を引き寄せ、そっと地上に降ろした。
「じ……自分で降りられますから!」
アベルが抗議できたのは、雪の上に降り立ったあとだった。
「万が一、均衡を崩して肩でも打ったら大変だ」
いつもの優しい笑顔を返され、アベルはそれ以上文句を言う気力を失う。
「ほら、羽ばたいているよ」
リオネルが視線を向けた先で、白鳥が大きく羽を広げた。
雪の色と同じ、純白の翼だった。
翼を広げたその姿は、気高く、美しい。
「真っ白だから、雪に溶けてしまいそうですね」
「アベルもね」
「わたしが?」
「色が白いから、雪のなかにいると見失いそうになるよ」
大げさな言いぶりに呆れつつも、不思議と嫌な気はしなかった。
「本当にこんなに白いと、雪のなかでは目とくちばしくらいしか目印がありません」
「なにか食べるものを持ってくればよかったね」
「白鳥はなにを食べるのでしょうか」
「普段は、池の藻や、水草の根や茎を食べている」
「冬でも?」
「今の時期は、館の者が餌をやって世話をしているんだ。おれも昔、母やディルクといっしょに、小麦やパンを白鳥に与えて遊んでいた」
初めて聞くリオネルの母の話に、アベルは視線を白鳥から傍らの青年に移した。
リオネルが幼いころに、彼の産みの母であるベルリオーズ公爵夫人が世を去ったということは、別邸にいるころにエレンから聞いていたが、リオネル本人の口からその名が出たことはこれまでほとんどなかった。
「母上は、幼いおれを連れて庭を散歩するのが好きだった」
「……そうだったのですか」
「そこに離宮が見えるだろう」
アベルはリオネルの視線を追って、池の先に目を向けた。
白鳥に夢中になっていて意識に登っていなかったが、池の畔に、控えめだが美しい建物がある。
「あれは、父が母に贈ったものだ。母はよくそこで過ごしていた」
「素敵な贈り物ですね」
「離宮の主は母上だったから、父上もおれも、あそこを訪れる際はいつも客人のように扱われて、不思議な心地がしたよ」
その逸話から、リオネルの母のかわいらしい性格が垣間見えたような気がして、アベルは口元をほころばせる。
「だが残念なことに、母が亡くなってからは、父上が離宮の全ての扉に鍵をかけてしまった。掃除や手入れをする以外は、一切立ち入りできない」
「公爵様にとって、大切な思い出の詰まった場所なんですね」
「父上に、離宮での母上との思い出を、独り占めされてしまった気がするよ」
リオネルが寂しがっているのだと思って、アベルは気遣わしげな視線を向ける。
けれどアベルの懸念に反して、リオネルはいたって普通の、いやむしろ普段よりも深い笑顔を返してきた。
「いつかアベルを連れていきたい」
「どこへですか?」
「離宮だよ」
「……わたしは、そのような立場でも、身分でもありません」
「どんな立場や身分ならいいんだ?」
「それは……将来あなたの妻になり、ベルリオーズ公爵夫人になられる方なら……いいのではないでしょうか」
リオネルが深い紫色の双眸をひたと向けてくるので、アベルは内心でひるみ、台詞の最後のほうは徐々に小声になっていってしまった。
「アベル」
「……はい」
あらためて名を呼ばれ、アベルは戸惑いつつも返事をした。
しかし、リオネルはアベルの瞳を見つめたまま、なにも言わない。
しばらく二人の視線が絡みあっていたが、リオネルはなにかを言うのを諦めたように、少し寂しげにほほえんだだけだった。
「そろそろ戻ろうか」
「……もう、ですか?」
「ベルトランには、アベルを探しにいくとしか言っていないし――」
「では、わたしはここに残ります」
「アベル」
強い調子で名を呼ばれ、アベルは視線を地面に落とした。
「早く戻ったほうがいいと思う最大の理由は、きみの怪我の具合と、きみの身体が冷えるのではないかということが心配だからだ」
アベルは消え入るような声で反論した。
「……まだ果樹園も、木立のなかも、その向こうにある池も見ていません」
「またいっしょに来よう」
アベルはしかたなく、小さくうなずいた。
二人を乗せた馬は、今度は三手に別れたところを、往路に通った道ではなくまっすぐに進み、木立の合間の道を館のほうへ向かった。
木々の枝に葉はなく、陽の光が木の幹や地面に積もった雪を、青白い水面のように輝かせている。
リオネルの腕のなかにすっぽりおさまり、アベルは冷えた身体が再び温まるのを感じた。
来たときと同様に不思議な心地を覚える。
リオネルの香り、リオネルの温もり、そしてリオネルの強さと優しさに、包まれている。
安堵とも、安らぎともつかぬ――これを、人はなんと呼ぶのだろう。
そして振り返らなくても、いや、けっして迂闊に振り返ることはできないが、それでも、リオネルがどんな顔をしているのか、なんとなくわかる気がした。
不意に馬の歩調がゆっくりになる。
アベルは不思議に思い、心構えをしてから、慎重にリオネルを振り返ろうとした。
けれど、それを止めたのはリオネルの声だ。
「そのまま、前を向いていて」
最近どこかで似たようなことを言われたような気がしつつ、アベルは言われたとおり、そのまま前を向いた。
「しばらく手綱を持っていてくれないか」
リオネルの腕が、アベルの身体から離れていく。
背中に、すっと冷たい空気が流れた。
「寒い? ごめんね、すぐにすむから」
なにがすむのだろうと思っていると、リオネルの手が、一瞬アベルの眼前を通過した。
「……え」
なにかが見えた気がした。
澄んだ陽光を受けて透明に光る、水色の石。
「できた」
リオネルは満足げにうなずく。
「ここからでは見えないのが残念だけど」
アベルはうつむいて、リオネルが自分の首にかけたものを見た。
いつかサシャーヌの街で見かけた、雫の形をした水宝玉の首飾りだった。
「これは――」
「どうしても、きみに贈りたくて」
いつのまに買っていたのだろう。
パンとスープを買ったときだろうか。
婚約者がいるのに、こんな高価な首飾りを自分のような者に贈ってよいのだろうか。からかわれているのかとも思ったが、リオネルの声は、どこまでも真剣でまっすぐに響いた。
「いつか渡そうと思っていたのだけど、なかなか機会がなくて、今日になってしまった」
「…………」
「――迷惑でなければ、もらってくれないか」
「…………」
「やはり、嫌か?」
「い……いえ、あの……」
このまえは、購入するまえだったのできっぱり断ったが、これはすでに買ってしまっているものだ。――それも、アベルのために。
アベルはリオネルを振り返り、激しい困惑のなかで必死に言葉をつむいだ。
「その……迷惑とか嫌とか、なんというか、そういうのではなく……わたしは、ドレスも着ていませんし、男として生きる従騎士ですし……その……なにが言いたいかと言うと……いいのでしょうか、わたしのような者がいただいて……」
「きみがもらってくれたら、すごく嬉しい」
「……ああ、あの……ええっと……」
リオネルの瞳は不安そうにアベルを見ていた。
彼がこのような表情をするのを、今までに一度も見たことがない。アベルには到底、断ることなどできなかった。
「……あ…………ありがとうございます」
アベルは戸惑いつつも、ようやく首飾りを受けとる。
フェリシエに贈らなくていいのだろうかと思ったが、なんとなく今は聞いてはいけないような気がしたので、口にはしなかった。
そして、どうして自分にこのような贈り物をしてくれるのだろうかとも思ったが、それも問うことができない。
アベルは再び自分の首に下がる宝石に視線を落とす。
それは、優しく美しい光を放っていた。
「アベル、もらってくれてありがとう」
「いいえ、わたしにはもったいないほどの贈り物です。ありがとうございます、リオネル様。大切にします」
アベルがもう一度背後を振り返り、深い紫色の瞳をしっかりと見つめながら言うと、リオネルは少年のように、嬉しそうに笑った。