38
大広間を出ていった三人の後ろ姿を、多くの者は好奇の目で見送ったが、ひとりの女性はその瞳に冷たい炎を燃やして睨みつけていた。
彼女の侍女がそばに来て、その腕にそっと手を置く。
「――許せないわ」
侍女にだけ聞こえる、震える声で娘はつぶやいた。
「リオネル様は、どれほどあの少年をお気にかけられるの?」
「お嬢様……」
「許せないわ。杯を落としただけで駆けつけ、肩に少し怪我をしただけで自ら部屋に連れていかれるなんて――それも、わたくしをここに残して」
「そのとおりですね」
侍女は安心させるように、主人の腕にそえた手に軽く力を入れる。
その意味を確認するように向いたフェリシエの、嫉妬と怒りをたたえた青緑色の瞳をまえに、ライラは深くうなずいた。
アベルを彼女の寝室まで連れていったリオネルは、すぐに自ら暖炉に火を熾し、ベルトランに医療用具と湯を張った盥、数枚の布、そして着替えを持ってくるように指示した。
てきぱきと動くリオネルのまえで、アベルはなにもできずにいる。
ベルトランが出ていくと、戸惑っているアベルに対し、背もたれのない腰かけに座るようリオネルは言った。
「あの……」
「こちらに背を向けて、服を脱いでくれないか」
「え……? ええっ?」
アベルは珍しく声を上ずらせて、瞳を大きく見開いた。
「いや、その――けっして変な意味じゃなくて……医者には診せられないが、せめておれが手当てしたい」
またたくまにアベルの顔が赤くなる。白い頬を、落日の陽光が染め上げたようだった。
「じ……じじ、自分でやります!」
その様子をまえにして、リオネルの頬までもが、ほんのり朱色に染まった。
「そんなところ、独りではできないだろう」
「い、いいえ、できますっ。できますとも!」
アベルが負傷したのは、左肩と左腕のつけ根との境目のあたり。
自分で手当てするとしたら、片手でやるしかないのだ。「できる」と答えておきながら、それが不可能であることはアベル自身にもよくわかっていた。
しかし。
「アベル、傷口から血がにじんでいる。早く手当てしなければ」
「あ……あの、それは、ですので、わたしが自分で……」
「だから、それが無理だから、言っているんだ」
「……む、無理…………。そう、ですか、ね」
「おれやベルトランでは、簡単な治療しかしてあげられないけど」
アベルはさくらんぼのように顔を朱色に染めてうつむく。
そう言ったリオネル自身も、やや気まずげな顔で、視線を逸らした。
そこへ、ベルトランが医療道具の入った大きな木箱やら盥やらを乗せた小さな荷車を携え、戻ってくる。
赤くなって黙りこんでいる二人に、ベルトランは怪訝な顔をした。
「なにをやっているんだ、二人とも」
「いや……」
「急いだ方がいい。アベル、傷口の治療を始めるぞ」
精一杯の気を使いながら言ったリオネルとは違い、ベルトランの言葉にはいささか配慮が欠けている。
それは、ベルトランが乙女心を理解していないというわけではなく、普段なら今よりはるかに気を使えたはずなのだが、彼なりにアベルの怪我が心配で気が焦っていたからだ。
「ベルトラン、女性にそんな言い方はないだろう」
リオネルはやや不機嫌に言った。
「え? ああ、そうか。すまない」
ベルトランは頭をかく。
「いえ……女性というほどのものではありませんので……」
アベルはぼそぼそと答えながら、二人の様子に小さく溜息をつく。
女としての生き方を捨てたはずなのに、どうにも中途半端な乙女心を手放すことができないでいる。
しかし、この二人に手当てしてもらうよりほかに、選択肢はないのだ。
これ以上、主人と師匠を困らせるまえに、腹をくくって大人しく指示に従うのが最善の道だろう。
「すみません、色々とお手を煩わせてしまいました……」
アベルは二人に背中を向けると、戸惑いがちに、リオネルから借りていた礼服の留め具に手をかける。
リオネルはその姿からそっと目を背け、目配せして、ベルトランにも同様に視線を外させる。
しばらく衣擦れの音がしていたが、それが止むと、アベルの静かな声音が聞こえてきた。
「用意ができました」
ためらいがちに振り返り、
「――――」
リオネルは息を呑んだ。
想像した以上に華奢な背中は、信じられないほど白い。
なめらかな肌に落ちかかる、ゆるやかに波うつ金糸の髪。
そして……傷口から滲む真紅の血が、白すぎるほどの肌にあまりに鮮やかだった。
リオネルは、胸が張り裂けるような思いがする。
触れることさえ叶わない最愛の人の肌に、傷を作らせてしまったのだ。激しい自責の念が押し寄せてくる。
リオネルが沈黙したままなので、アベルは不安になって少しだけ振り向いた。
「どうか、しましたか?」
「――いいや、なんでもない」
リオネルは布を湯に浸し、そっとアベルの背中に当てた。
流れる血を拭うその手つきは、わずかにためらいつつも、限りなく優しい。
まわりの血をなぞると、その下から白い肌が甦る。布が患部に触れた瞬間、アベルの肩が震えた。
「す、すまない」
リオネルが慌てて手を止める。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
リオネルに気を使わせたくないのだが、痛みに身体が自然と反応してしまうのは、アベルの努力ではどうにもならないことだった。
「あ、あの……気にしていただかなくてけっこうですので」
そうは言われても、気にならないはずがない。
好きな相手の身体を診るということが、あらゆる意味で、これほど神経をすり減らすことだとは思わなかった。刺客と戦っているほうが、リオネルにとってはよほど冷静でいられる。
持ちあわせているかぎりの神経を使って、リオネルは傷口の血をぬぐった。
「――――」
アベルが身を硬くする。
「すまない。すぐに終わるから」
リオネルは眉間に深くしわを寄せ、難しい顔で手当てを続けた。
ベルトランは、負傷しているアベルよりも、そんなリオネルのほうをむしろ気の毒そうに見やる。
「……痛かったら、すぐに手を止めるから。遠慮なく言うんだよ」
アベルが無言でうなずくと、リオネルは治療を再開する。
「リオネル様」
痛みを紛らわせるようにアベルは口を開いた。
「痛い?」
リオネルの手が止まる。
「いいえ、そうではないんです。あの……お借りしていたあなたの礼服を、こんなふうにしてしまい、申しわけございませんでした」
アベルの言葉に、治療をしていた青年は手を止めたまま沈黙した。
不思議に思ってアベルが振り返ろうとすると、リオネルが背後から、両手でそっとアベルの耳と頬のあたりを包んだ。
「あ、あの……」
リオネルの額が、アベルの後頭部に触れる。
「アベル」
「……はい」
アベルは緊張し、固まったまま硬い声音で返事をした。
頬と耳にリオネルの手の温もりを、頭と首筋にリオネルの吐息を感じて、鼓動が速くなる。
「服なんて何枚裂いてもいい」
「……リオネル様?」
「いっそのこと、おれの身体だって幾度引き裂かれてもかまわない」
脳内に直接響くように聞こえるリオネルの声に、指の先がしびれるような感覚を覚える。
「アベルがこんなふうに傷つくくらいなら、おれがその何万倍も傷ついたほうがましだ。きみをこんな目に遭わせて、おれはなにをしているのだろう――」
リオネルの言葉の最後は、自問しているようだった。
アベルには、リオネルがなぜそんなことを言うのかわからない。家臣が怪我をするより、自分が負傷したほうがいいなどと、どこの主君が言うだろう。リオネルは、アベルの想像が及ぶ範囲を超えるくらい、よほど家臣を大切にする人なのだろうか。
「あ、あの、リオネル様……」
なにか答えようとしたが、リオネルの真剣な雰囲気に呑まれて、言葉が出てこない。
リオネルは、その絹のような感触を確かめるように、親指の腹でアベルの髪を優しく梳き、そして「すまない」とつぶやきながらゆっくり――それはゆっくりと、額と手をアベルから離した。
離れていくリオネルの感覚をどこか名残惜しく感じ、そんな自分に気づいて、アベルは自らを叱咤した。
主人に触れられていることに安堵を覚える家臣なんて、どこにいるだろう。
主君が主君なら、家臣も家臣だ。
家臣に対して優しすぎる主君に、その主君の優しさに甘える家臣。
アベルこそ、主君に手当てなどをさせて、自分はなにをやっているのだろうと思った。
互いに無言になって、治療が再開する。
そのとき、扉を叩く音がした。
「入るな」
相手を確かめることなく厳しい語調で制止したのはリオネルだ。
ベルトランが扉へ向かう。しばらくして戻ってきたベルトランは、来訪者がマチアスだったことを告げた。
「……なんの用だ?」
「ディルクから様子を見にいくように言われたらしい。ディルクももうすぐここへ来るとのことだ。こちらがいいと言うまでは、入らないようにと伝えておいた」
「急いだほうがいいね」
リオネルは要領よく手元を動かし、アベルの肩に包帯を巻いていく。
手当てが終わると、リオネルは包帯の巻かれた肩に自らの上着をかけ、ベルトランが持ってきた替えの服をアベルに手渡しながら言った。
「長くかかってすまなかった」
アベルは振り返らずに首を横に振る。
「わたしのような者を、このように手当てしてくださりありがとうございました」
「――アベル、そのままの姿勢で聞いてほしいのだけど」
主人がなにを言い出すのか想像もできずに、戸惑いながらもアベルは小さくうなずいた。
「今回、父上に認められるために、きみに辛い試合をさせ、このような怪我を負わせてしまった。そのことでおれは父上のことも、ディルクのことも、自分自身のことでさえしばらく赦すことができそうにない」
「リオネル様、そのようこと――」
「おれは、ひとつアベルに言い忘れていたんだ」
真剣な口調で言われ、アベルは息を詰める。
「……なんでしょうか」
「それは――たとえ、きみにどのような力もなく、なんの技能や資格も持ちあわせず、この世の一切の役に立たず、この世のだれにも認められなくとも――それでも、きみはおれのそばにいていいのだということだ。……いや、いてほしいんだ」
アベルは思わずリオネルを振り返りそうになって、「そのままの姿勢で」と言われていたことを思い出す。
「な……なんだか、自分が無能な気がしてきました……」
「あっ、いや、きみが役に立たないとか、そういうことを言いたかったんじゃなくて」
慌てるリオネルに、アベルはうなずいた。
リオネルが言葉を選ぶようにゆっくりと再び口を開く。
「つまり……だれかにおれのそばにいることを許してもらう必要はないし、そのために、こんな目に遭う必要などないと言いたかったんだ。もし、もっとまえにこのことを伝えていたら、こんな試合を受けないでいてくれたか?」
「え……?」
アベルは混乱のなかにいた。
先程からリオネルの発する言葉は謎だらけであり、優しくも切なそうにつむがれる台詞の、その真意がわからない。そのようななか質問を投げかけられても、どう答えてよいのかわからなかった。
アベルの困惑を感じとったリオネルは、ふっと吐息をもらし、かすかに笑う。
「いや、いいんだ。今更、変なことを聞いてすまなかった……きみには、父上に抗う道などなかったのに……。ただ、今おれが言ったことを、覚えておいてくれないか」
「わたしが役立たずでも、あなたのおそばにいてもよいということですか?」
「いや、だから、きみが役立たずというわけではなくて……」
アベルはリオネルを振り返って、花が綻ぶように笑った。
「冗談ですよ」
リオネルは一瞬、面食らったような顔になったが、アベルの笑顔につられて口元をほころばせる。
そんなリオネルを見つめながら、アベルは柔らかい声で伝えた。
「あなたの優しさは、痛いほど伝わりました」
しばしどう反応してよいものか迷ったすえに、リオネルは「そうか」とだけ答える。
本当に自分の言いたいことが全て伝わったかどうかわからなかったが、それでもかまわないような気がした。伝わっていないなら、また何度でも言えばいいのだ。
何度でも、伝えたい。
アベルにそばにいてほしいと。
そのために辛い目に遭わせたくない、と。
そして、いつか伝えたい。
アベルのことが好きだと。
――だれよりも愛している、と。