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「なにをしているのですか」
アベルは男の手を掴み上げた。
男たちは若く、皆、二十代といったところだ。酒に酔った顔が、いっせいにアベルを向く。アベルが手を掴んだ相手は体格が良く、口髭と顎髭を無造作に生やした熊のような風貌の男だった。
驚いた様子でメイドがアベルを振り向く。
「嫌がっているようなので、やめてください」
メイドは盆を両手に抱え、隠れるようにアベルの後ろに下がった。
「ほそっこいガキが、なにしにきた? そいつの両親は、うちに借金してるんだ。そいつをどう扱おうとおれの自由だ。どきやがれ」
借金、という言葉に、アベルは嫌な心地がする。サミュエルもかつて父親の借金で苦しんでいた。そしてそれが遠因で、アベルはサミュエルに売られた。
「借金と、彼女とは、関係ありません」
「なんだと?」
男はアベルを睨みながら、ゆっくり立ち上がる。
その背は高く、威圧的にアベルを見下ろした。
「ずいぶん綺麗な顔のガキじゃねえか。偉そうなことを言ってるが、どうせなにもできないんだろう。それとも、おまえが酌でもしてくれるのか?」
男たちが笑ったが、アベルはまっすぐに男を睨み上げる。
「ここは食堂です。静かに食事ができないなら、別のところへ行ったらどうですか?」
「生意気なこと言いやがって!」
男は拳をアベルに向かって振り下ろした。店内にメイドの悲鳴が響きわたる。
アベルは咄嗟にかがんで拳を避けた。周囲で食事をしていた客が、慌てて席を立ち、その場を離れる。店内がざわめきはじめた。
「こざかしい真似を!」
男が酒の入っていた瓶を卓で叩き割り、アベルに向かって振り下ろしたので、アベルは後ろに飛び退いてそれを避ける。
剣を抜けば男を倒すことは容易だが、帯刀していない相手に、刃を向けることはできない。けれど剣がなければ、アベルには相手の攻撃から逃げることはできても、立ち向かう術がなかった。
それでもアベルは臆せず、こみあげてくる怒りを相手にぶつける。
「暴力や権力で相手を従わせようとする人間は卑劣です」
怒り狂った男は、力任せに、秩序のない攻撃をアベルに開始した。
「アベルは大丈夫かな」
ディルクが心配そうにアベルを見やったが、その斜め向かいではやはりリオネルが焦慮に駆られた様子でアベルの姿を目で追っている。
「おれが一年以上、稽古をつけてきたんだから平気だ。それに、いざとなったらおれがいく」
ディルクへ答えたと見せて、実のところリオネルに〝おまえは出るな〟と再び牽制したのはベルトランだ。その意図を正確に汲み取ったディルクは、リオネルの気を逸らすために口を開く。
「……でもアベルはいい子だね。見ず知らずの女の子を助けてあげるなんて。マチアスならやらないでしょ」
「そんなことはありません。けれど、アベル殿は我々が手出しすることを望んでいないでしょう」
「そうだね。やっぱりリオネルは出ていかないほうがいいと思うよ。ね」
今にも席を立って現場に向かいそうなリオネルを、ディルクはちらと見やる。
けれどリオネルは返事も視線も寄こさない。そのかわり、彼のまとう緊迫した空気だけが強まった。
腰に剣を下げているにもかかわらず抜刀しないアベルに向かって、男は執拗に攻撃を続けていた。アベルはしなやかに逃げつづけ、男の拳はひとつも命中しない。
苛立った男は、暖炉の前にあった卓をひっくり返し、椅子を踏み倒し、暴れながらアベルを追い回した。それが終わったのは、仲間が放って寄こした戦闘用のナイフを、男が受け取ったときだ。
「鼠みたいにうろちょろしやがって。これで最後にするぞ!」
両手を床につき、いつでも動けるようにしゃがんでいるアベルの頭上に、男はナイフを振り下ろした。
奥の壁際まで下がっていたメイドが、両手で顔を覆う。けれど、静まり返った一瞬ののち、店内に響いたのは、なにかが石の床の上に転がりおちる高い金属音だった。
メイドが顔を覆っていた手をゆっくりはがすと、そこに倒れていたのは、大柄な男のほう。アベルは短剣を手に、静かにそこに立っていた。
向かってきたナイフを、アベルは抜きはらった短剣で叩き落とし、驚いた男の後方に回り込んで短剣の鞘で男の首の後ろを打ちすえたのだ。それは一瞬のできごとだった。
男は首を両手で押さえながら、痛みに呻いている。
その男を見下ろして、アベルは冷然と告げた。
「店内の半数にわたる卓、椅子、皿、これらを損壊したのはあなたです。弁償として、彼女の借金からそのぶんの代金を差し引いてください。店を騒がせた責任、給仕の娘に手をだした代償もあわせて相殺し、他の客の料理の代金ももちろんあなたが支払ってください。不服なら、ラトゥイの領主さまに事の次第を書き送りましょう」
最後の部分はハッタリだ。けれど打ち負かされた男には、充分な脅しの効果があった。
アベルの台詞が終わると、店内に盛大な拍手が起こる。
アベルは困ったような顔でうつむき、拍手をする客やメイドに目もくれず、リオネルたちの座る卓に戻っていく。少女を助けたわけではない。拍手をされるような立派なことはしていない。
助けたのは、自分自身の心だ。二年前の嵐の日の自分を、助けてあげたかった。
もとの卓に戻ると、アベルは皆の顔を見ずに、深々と一礼した。
「とんだ騒ぎを起こし、申しわけございません」
「おかえり、アベル。かっこよかったよ」
神妙な顔のアベルに、明るい笑顔を向けたのはディルクだった。
リオネルが席を立ち、立ったままのアベルに向かいあう。
「怪我はないか?」
「はい。ご迷惑おかけしました」
「……頬に傷が」
アベルの白い頬にかすり傷。最初に、割れた酒瓶で傷つけられたところだ。
「こんなの平気です」
リオネルは眉を寄せて傷口を見る。
「座って」
指示されるままに、アベルは椅子に座った。
リオネルが布巾を手にとり、アベルの頬の血をぬぐう。続けて酒を別の布巾に染み込ませて、傷口を消毒しようとすると、アベルは慌ててその手を制した。
「自分でやります」
「いいから」
少し苛立ったような口調で言われて、アベルは口をつぐみ、瞼を伏せた。リオネルが騒動を起こした自分に対して怒っているのかと思った。
けれど実際はそうではなかった。
「剣も使わずに、無茶なことを――」
リオネルはアベルに言いたいことが山ほどあったが、それ以上は口にしなかった――口にできなかったのだ。言いたいことを全て言ってしまえば、伝えてはならない感情まであふれて出てきそうだった。
アベルが無茶をしたこと、その結果としてわずかでも身体に傷をつけたこと、そしてなにより、それを事前に止めることができなかった自分自身に、リオネルは苛立っていた。
リオネルがアベルの頬の傷の手当てを終えたときだった。
「アベル!」
ディルクが鋭い声を発して腰を浮かす。
ようやく痛みをやり過ごし、屈辱と復讐心に震えた男が、再びナイフを手にこちらに襲いかかってきたのだ。
その瞬間、男のナイフを手刀打ちで叩き落としたのはリオネル、側面から男の脇腹に蹴りを食らわせたのはマチアスだった。ちょうど二人はアベルの両脇にいた。
なおも起き上がり、アベルの肩につかみかかってきた男の腕を、リオネルが捻り上げる。息を切らした男が、驚いた顔でリオネルを見上げた。
「離しやがれ!」
リオネルは目を眇めただけで、男の腕を離さない。男は力を込めて腕を振りほどこうとするが、リオネルの手から逃れることができなかった。それから突如リオネルは男の腕を掴んでいた手から力を抜いた。
逃れようともがいていた男は、勢い余って床の上に転がる。
「こいつ……!」
男は身体を起し、怒りの形相で、今度はリオネルに襲いかかる。
リオネルは攻撃を避けるかと思いきや、微動だにせず、拳を握った相手の腕を左手で払いのけた。
「な……に」
男が驚きに目を見張った瞬間、リオネルの右手が相手の腹を突く。
「ぐはっ」
腹を押さえて男は呻きながら屈みこんだ。
「見かけ倒しで、たいした力はないようだけど、男ならそのなけなしの力を、暴力を振るうためではなく、もっとましなものに役立てたらどうだ」
リオネルは、初めて男に対して声を発する。その声には、冷淡な響きさえ感じられた。
よろめきながらも再びリオネルに襲いかかろうとする男の頬を、リオネルは渾身の力を込めて殴った。男の身体は三つ後方の卓のあたりまで飛ばされる。
「今のは、連れの頬を傷つけた礼だ」
リオネルは呟いたが、もはやその声は男の耳には届いていなかった。
その様子を見ていたディルクは、口の片端をつりあげる。
「相当、頭にきてるな、あれは」
「リオネル様――」
礼か、詫びのどちらかを言おうとしたアベルに、リオネルは無言で首を横に振る。そして、すっきりした顔で笑った。
「お腹が空いたね」
「少し冷めてしまいましたが、食事をしましょう」
マチアスが、粛々と小皿に料理を分けながら言う。アベルはそれらの食事が並んだ卓を見て、はっとした。
「すいません、飲み物を催促しにいこうと思っていたのですが」
「もういい。もう行かなくていいから」
再び厨房に視線をやるアベルに、リオネルが慌てて言う。アベルが隣からいなくなるたびに、リオネルの心労は重なっていく。飲み物などもはや、なくてもいいくらいだった。
「あの……」
再起不能になって転がっている男の脇を、こわごわと歩んできたメイドが、五人の卓の前で止まる。五人はいっせいに顔を向けた。
少女は顔を赤らめて、アベルを見た。
「……助けていただき、ありがとうございました。店の弁償と借金のことも……」
「いいえ、わたしはなにも。彼が懲りて、きちんと弁償してくるといいのですが」
「そのことについては、念のためラトゥイの領主に手紙を送っておくよ」
リオネルがさりげなく言うと、メイドが頭を下げた。
「助けてくださったお礼など、なにもできないのですが……お食事代はいただきませんので、お好きなだけ召し上がってください」
こちらが返事をする間もなく、少女は真っ赤になりながら頭を下げ、厨房に戻っていく。その後ろ姿を、アベルは呆気にとられて見送った。
「やったね、今夜はアベルの奢りだ。ごちそうさま」
ディルクが、おかしそうに笑いながら、羊肉をほおばる。
「あ、飲み物……」
せっかく給仕の少女が来たというのに、アベルは飲み物を催促し忘れてしまった。
腰を浮かしかけたアベルに、
「いいから、もう。ここにいてくれ」
リオネルは慌てて、さきほどの台詞を繰り返したのだった。