表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/132

37





 人々が部屋の壁際に寄り、ひらけた大広間の中央部分の空間が、試合の舞台となった。


 ディルクが食卓から会場へゆっくりと歩む。そしてアベルのそばまで来ると、二人はそろって公爵らに向かい深く一礼した。


「始めよ」


 公爵の声が、静まり返った会場を震わせた。


 対戦者の二人は向きあい、視線を交わす。

 ディルクはアベルの顔を見て、激しく気持ちが揺れるのを感じた。アベルは、いつか騎士館で見たときのように、哀しげで、泣きそうな顔をしていたのだ。


 やはりなんとしてでも断ればよかったか――。

 そう思ったが、すでに遅かった。

 ここまで来て試合を辞退することは不可能だ。いや、どんなに後悔したろころで、やはりクレティアンに逆らうことなど無理なことである。


「マチアスの言うとおり、アベルに怪我でもさせたら、おれはリオネルに殺されるな……」


 なにより、そんなことになったら自己嫌悪で立ち直れなくなりそうだ。

 ディルクは独りつぶやきつつ、視線を伏せた。


 それから互いに一礼したが、二人はなかなか剣を構えない。

 しかし、いつまでもそうしているわけにはいかないので、先に鞘から長剣を抜きはらったのはディルクだった。

 その剣は、普段から愛用しているものなのに、ひどく重く感じられた。


 続いてアベルが、ゆっくり剣を抜く。

 二人は、剣を構えて見つめあう。

 そのとき、アベルの水色の瞳に薄い膜がかかり、シャンデリアの光を反射した。


 アベルが迷いを断ち切るように剣を振り下ろしたのと、会場にリオネルが戻ってきたのは、ほぼ同時のことだった。


 アベルの攻撃を、ディルクが受けとめ弾き返す。

 戦いが始まったのだ。


「――――」


 リオネルは、あまりに様相を変えている会場の景色に、そして剣を交えている二人の姿に、ただ茫然とした。


「なんだ、これは――」


 リオネルはようやく言葉を発する。


「まあ、ディルク様と……あれはアベルですね」


 まるで二人が散歩でもしているかのようにのんびりとフェリシエは言ったが、もはやリオネルの意識には届いていない。

 剣を撃ちあう音だけを聞きながら、足早に父公爵のもとへ歩み寄ると、リオネルは今まで彼らが見たこともないような、冷静だが激しい怒りを露わにした。


「父上、いったいこれはどういうことですか」

「二つの約束のうちの、ひとつだ」

「父上が――」


 リオネルは目をすがめて、ベルリオーズ公爵を睨んだ。


「――父上が、二人を戦わせたのですか」

「そう、そなたのためだ」

「私のため……?」

「そなたが、あの者をそばに置くと頑なに言い張ったからだ。ここに住まう騎士らの理解を得るためにも、その願いを叶えるためには、こうするほかない」

「ふざけるな――」


 リオネルはもはや怒りを止められないところまできていた。

 ベルトランが慌てて、リオネルを言葉の続きを制する。


「公爵様の御前だ、リオネル!」

「――――」


 リオネルは両手の拳を握り、奥歯を噛みしめた。

 抑えた感情の分だけ、鼓動が高鳴る。

 こうしているまにも鳴り響きつづける金属音。

 ぶつかりあう二つの剣。

 アベルと、ディルクが戦わされている。

 世界でだれよりも愛しい娘が、悪夢のなかでその名を呼んだ、自らの無二の親友と――。


 見間違えではない。

 アベルは、たしかに戦いはじめる瞬間、瞳に涙を溜めていた。

 ディルクに剣を向けることに、どれほど心を痛めているのか。

 その気持ちを思うと、自らの心の痛みよりも、彼女の苦しみに胸が締めつけられた。


「なんてことを」


 リオネルは握った拳を額に当てた。なんとひどいことを、この人たちは十五歳の娘に強いたのだ。


「リオネル、大丈夫だ。相手はディルクだ、けっしてアベルを傷つけたりはしない」


 ベルトランが静かな声音でリオネルに言ったが、リオネルはなにも答えなかった。

 激しい刃音が、耳を打つ。

 ディルクの斬撃がアベルの頬すれすれをかすめ、アベルの剣がディルクの、足元を薙ぐ。

 とてもではないが、冷静に見てなどいられなかった。


 観衆も息を呑み、食い入るように二人の戦いに見入っている。


「すごいな、あの少年は。ディルク殿と互角に戦っている」


 やや前のめりになって見物しながらつぶやいたのは、シャルルである。


「あんなに細い身体で、よくあのように立ちまわれるな」

「見た目のとおり、アベルに腕力はありません」

「え?」


 ベルトランの説明の意味がわからず、シャルルは聞き返した。


「腕力がないとは?」

「アベルの筋力や体力など、同年代の少女ほどでしょう。それをすべて技だけで補っているのです。もし彼に肉体的な力があれば、もっと強かったかもしれません」

「そうなのか。もったいないことだな」

「アベルは強いですが、彼が剣を交えて勝てるのは、彼の技量をもって対抗できるだけの力量の持ち主だけです。つまり、技量が同等なら、体力が上まわる相手に勝てません。……といっても、そうはいないと思いますが」


 すでに何合も撃ちあっているが、二人に明らかな疲労の様子はない。

 実力の拮抗している二人の試合は、いつまでも終わらないかのように思われた。


 しかし、少しずつ呼吸を乱しはじめたのはアベルのほうだった。長引く緊迫した試合に、体力は限界に近づいていた。

 相手の剣を弾き返す動きが鈍い。

 それでもけっしてアベルの剣そのものにひるむ様子はなかった。

 その剣は、無情なほど迷いなく、ディルクへ向けられている。


 アベルに迷う余地などなかった。

 この試合で、認められるだけの剣技を披露しなければ、永遠にリオネルのそばには居られなくなる。

 この一瞬が、アベルの人生にとっての永遠だった。


 シャンティ・デュノアは、とうの昔に死んだ。

 想いを断ち切らなければならない。

 アベルは自分に言い聞かせた。


 ――リオネルのそばにいたい。


 今は、それだけを頭のなかで繰り返す。

 ディルクの攻撃を避け、彼の背後にまわり剣を振りおろす。

 即座に向きなおり、それを受けとめ押さえつけたディルクの剣が、今度はアベルの脇に向かって突きだされる。

 アベルはその剣の先を危うく流し、ディルクの肩に向けて長剣をひらめかせた。


「……このままでは、本当に互いを斬りそうだな」


 まばたきもせずに試合を凝視しているシャルルが、だれにともなく言った。


 リオネルは無言で試合を見守っているが、その目には焦慮がにじんでいる。

 皆には未だ試合は拮抗しているように思えたが、リオネルの目には勝敗がほぼ見えていた。


「父上、もうアベルの技量はお分かりになったでしょう。この試合は終わらせるべきです。――二人が怪我をする前に」

「ああ……そうかもしれないな」


 他の者と同様に、息を詰めて試合に見入っていた公爵がうなずいたときだった。

 聴衆から悲鳴が上がる。

 攻撃をかわしながら繰りだしたディルクの剣が、アベルの肩を裂いたのだ。


 アベルの水色の礼服に、眩しいほど鮮やかな血の色がにじむ。


「アベル――――」


 リオネルが叫ぶ。


「試合は中止だ!」


 リオネルの声は切迫していた。


 しかし、だれよりも動揺していたのは、アベルを傷つけたディルク本人だった。

 アベルの肩を裂いたこと自体もそうだが、このような事態を招くほど、自分に余裕がなかったことに気がついたのだ。

 この少年に怪我をさせるつもりは一切なかった。

 けっして傷つけないように戦うつもりだったのに、剣の先が肩に触れてしまったのだ。

 ディルクに余裕を無くさせるほど、アベルは想像以上に強かった。


 彼の動揺は、剣に表れた。

 ディルクの剣が、これ以上アベルを傷つけることを躊躇ったために、精細を欠いたのだ。

 そのとき、鈍ったディルクの剣を払い飛ばしたのは、傷ついてもなお、戦いをやめようとしなかったアベルだった。


 アベルの剣に薙ぎはらわれ、ディルクの長剣は宙を舞い、壁画に突き刺さる。

 その瞬間、会場内は水を打ったように静まり返った。

 魔法をかけられたように、だれも身動きしない。

 ただアベルの目から、幻のように一粒だけこぼれて落ちた涙が、時間の経過を告げていた。


 記憶のはるか彼方から、アベルの耳にカミーユの声が届く。


 ――だいたいね、姉さんは女のくせに強すぎる。

 ――ディルク様も自分より腕の立つ女なんてお嫌だろうね。


 この人にだけは、剣を向けたくなかったのだ。

 そして、勝ちたくなかった。


「アベル……?」


 剣を奪われた衝撃よりも、アベルの涙に驚き、ディルクはつぶやく。


 目を閉じて、アベルはディルクの視線から――そして表現しがたい思いから逃れた。

 ……全ては遠い昔に捨ててきたものだ。

 それを今、形のうえでも断ち切っただけのこと。


 アベルがおもむろに公爵らに向かって跪くと、ディルクも我に返り同様に頭を下げた。


 会場内に盛大な拍手が沸き起こる。

 滅多に目にすることのない、並々ならぬ剣豪同士の戦いであったうえに、十五歳の少年が、最終的には勝利したのである。

 公爵が立ち上がり、右手を上げると、拍手がやむ。


「アベル、そなたの剣技、存分に見ることができた。たしかに力量はディルク殿のほうが上まわるかもしれない。しかし、負傷してもなお、ディルク殿に対して迷いなく向かい、勝敗を決したこと、そなたのリオネルへの強い思いを感じとることができた。約束どおり、そなたをリオネルの身を守る者として認めよう。皆の者も、そのことを胸に留めおくように」


 再び会場内に拍手が起こった。

 公爵の言葉と、観衆の拍手を受けて、アベルはさらに深く頭を垂れた。




 その熱気が冷めやらぬうちに、食卓のほうからアベルに歩み寄る人物がいた。

 リオネルである。


 今のリオネルには、父公爵の言葉も、拍手も、そんなものはどうでもいいことだった。

 アベルは、これほどまで苦しんだ試合の末に、肩に怪我を負ったのだ。

 出会ったころの彼女もまた、心も身体も傷つき苦しんでいた。皆、どれだけこの少女を傷つけ、心からも身体からも血を流させれば気がすむのだろうと、怒りや、哀しみにも似た思いが込み上げる。


「アベル」


 リオネルはかがんで、跪くアベルに手を伸ばす。


「リオネル様」


 アベルは顔を上げた。リオネルの顔は、ひどく苦しげだった。


「行こう」

「……え?」

「痛いだろう」


 アベルは自分の肩を見た。

 無我夢中だったので忘れていたが、指摘されてはじめて肩の痛みに気づく。けれど公爵に認めてもられたことを考えれば、これくらいの痛みは些細な犠牲だった。


「大丈夫です」

「肩だけじゃない」


 アベルは驚いて、リオネルの瞳を見つめる。

 深い紫色の瞳は、どこまでも優しく、そして哀しげだった。


「すまない、守ってやれなくて」

「――――」


 アベルはなんと言っていいのかわからなかった。

 この人は、自分の気持ちの、なにを、どこまで知っているのだろう。

 まさかディルクと婚約していたことなど知るはずがないのに。


「早く手当てを」


 そう言ったのは、そばに来たマチアスだった。


「アベル……ごめん、怪我をさせて」


 見ているこちらが辛くなるほど苦しげに謝ったのは、先程まで剣を交えていたディルクである。そんなディルクの様子を目にすれば、アベルの胸も痛む。


「けっしてディルク様のせいではありません」


 アベルがそう言ってほほえむと、ディルクの顔が歪む。


「泣くほど痛かったんだろう?」

「いえ、まあ、その……」


 アベルが言いよどんでいると、リオネルが、負傷していないほうの手を支えてアベルを立ち上がらせた。


「行こう」

「医者を呼びましょう」


 マチアスの提案に、アベルは大きく首を横に振った。医者などに診せたら、女であることが知られてしまう。

 しばし逡巡した末に、リオネルも「いや……いい」と答えた。


「けれど」

「とにかく、部屋に戻ろう」


 一度も自分に視線を向けることなく、アベルとともに立ち去ろうとするリオネルに、ディルクは声を放った。


「リオネル、すまなかった」


 リオネルは振り返ってディルクを見たが、無言のまま、再び歩きだす。

 そして食卓のそばを通ったとき、公爵がリオネルの背中に言葉を投げかけた。


「リオネル、そなたはここに残れ」


 しかしリオネルは、それには振り返りもせずに、広間を去っていく。


「あの、公爵様が残るようにと……」


 眉尻をわずかに下げて見上げてくるアベルに、彼は微笑した。


「いいんだ」


 二人のあとを、ベルトランだけが追った。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ