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「ようやく、二人は隣の部屋へ移ったようだな」


 ベルリオーズ公爵が、部屋を出ていく二人を見つめながら、嘆息する。


「若い者は恥じらいがあり、なかなか思いのままに行動できないのでしょう。初々しくてよいではありませんか」


 アベラール侯爵は、ほほえましいかぎりと口元をほころばせるが、息子のディルクは口の片端を吊りあげてつぶやいた。


「初々しい、という感じでもないような……?」


 食卓に残っていたのは、爵位を持つ三人と、ディルク、シャルル、そしてベルトランだった。ディルクの言葉を拾う者は、もはやそこにはいない。

 アベルの周りに若者らが集まる光景を見ていたエルヴィユ侯爵は、ベルリオーズ公爵へ向きなおり真剣な様子で問いかけた。


「あのアベルという少年、低き身分でありながらどれほどの才覚があって、リオネル様やレオン殿下のような高貴な方々の目にとまっているのでしょう」

「……それは、私もわからない」

「ご存じないとは?」


 聞き返したのはアベラール侯爵である。


「私は、あの少年の技量を知らないということだ。リオネルがなぜあの者をそばに置きたいと考えるのか、私にはわからない」


 黙り込んだ侯爵らに、ディルクはいつもの軽さを捨てて、低い声音で言う。


「アベルは実力がありますよ。それはベルトランも認めているからこそ、従騎士になれたのでしょう。それにあの器量と、聡明さと、人柄です。身分などにこだわっていては、大切なものを見失うのではありませんか」

「それほどまでに、あの者の才覚を買うか」

「はい」

「私も同じ意見です」


 短く、しかし、はっきりとディルクに同調したのは、長いこと無言だったベルトランである。けれど、公爵の心にたちこめる靄が晴れた様子はなかった。


「私はまだあの者を、リオネルのそばに置いておくことを許したわけではない」

「…………」


 ディルクは食事の手を完全に止めて、言葉を続ける公爵を見やった。


「公の場で腕に覚えのある者と剣を交え、その上であの者の技量を私や皆が認めれば、リオネルにそばにいることを許すと約束を交わした」

「なんと……」


 同じようにフォークやナイフを卓に置き、エルヴィユ侯爵がつぶやく。


「そのような約束があったとは」

「では、本日この宴は、それを行う最適の場ではありませんか」


 アベラール公爵のひと言に、皆がはっとした面持ちになった。


「たしかにそうですね、アベラール侯爵殿」

「父上、今日というのは急な話では」

「いや、これほど多くの者が見守る場もない。技量を見定め、アベルの存在を皆に納得させるためには、よい機会になるでしょう、公爵様」

「……たしかに、この場は相応しいかもしれないな」


 心を定めつつあるようにベルリオーズ公爵がつぶやくと、エルヴィユ侯爵が後押しするように言う。


「そのような約束があるのであれば、先延ばしにするより、早々に試合をさせ、あの者の実力を見定めておくべきです」

「しかし、だれと戦わせるのがよいか」

「それならば、不肖ながら我が息子ディルクはいかがでしょう」

「――は?」


 アベラール侯爵の提案に、ディルクはあんぐり口をあけた。


「ご冗談を、父上」

「いや、本気だ。対戦相手は、実力のある者でなければならないだろうが、皆が技量を認める者はそう多くはない。リオネル殿はお強いが、アベルが仕える主人であるし、ベルトラン殿はあの者の師、そして騎士隊長のクロード殿はこの場におられない。レオン殿下にはお怪我でもあったら大変なことだ。そなたであれば、シュザン殿に鍛えられた身――そなたの腕が並々ならぬものであることは私も、家臣らも、皆知っているから不足はあるまい」

「私は気が進みません」

「決めるのはそなたではない、公爵様だ」

「では、はっきり言います。嫌です」

「言っただろう、決めるのは公爵様だと」


 皆がベルリオーズ公爵に視線を向ける。さほど時間をかけずに公爵は決断を下した。


「すまないが、ディルク殿。そなたに頼みたい」

「…………」


 返事をしないディルクに代わり、ベルトランが珍しく慌てた様子で口を挟む。


「公爵様、おそれながら、アベルは近頃本調子ではございません。どうか別の機会に――」

「この機を逃したら、またいつになるかわからない」

「せめて、リオネルが戻ってからお決めくださりませんでしょうか」

「あれが戻ってくるまえにこそ、始めなければならない」

「…………」


 ディルクもベルトランも口をつぐんだ。

 彼らがベルリオーズ公爵に逆らえるはずがない。


「受けてくれるか、ディルク殿」

「…………」


 王弟派貴族にとって、クレティアンに逆らうことは、王の命に逆らうことと同じだ。ディルクは視線を合わせずに、苦い面持ちのまま軽く頭を下げた。


「――かしこまりました」

「では、そうと決まれば、早々に始めよう」


 公爵は席を立ち、手を二度たたいた。

 その音はさほど大きくなかったはずだが、途端に会場内の一切の音は消え去り、静まり返る。


 一同の視線が、ベルリオーズ公爵に集中した。


「皆の者、宴の途中だが、今から余興を行う」


 あとに続く言葉を、皆は無言で待った。アベルもそのうちの一人であったが――。


「アベル、こちらへ」







 突然、名を呼ばれて、アベルの心臓は跳ねあがった。

 いったいなぜ自分が呼ばれたのか、いったい何を言われるのか、まったく見当がつかない。


 速くなる鼓動を鎮めるように、ゆったりとした歩調で公爵のもとへ進むと、波が引くように人々が道を譲った。


 食卓には、苦い顔をしたディルクと、いつになく険しい表情のベルトランがいる。

 彼らのまえに跪くと、公爵の重々しい声がアベルの背中を打った。


「今からそなたに、約束の試合をしてもらう。相手はディルク殿だ」


 アベルは、後頭部を鉄棒で殴られたような気がした。

 実際に、強い痛みが頭から喉元にかけて走り抜ける感覚がある。


「今……なんて……」


 失礼であるということなど考えられずに、アベルは顔を上げて公爵に聞き返した。


「ディルク殿と真剣勝負をするようにと命じたのだ」

「それは――」

「これは、そなたと交わした約束だ」


 アベルは言われた言葉を、頭のなかで理解しようと努力した。

 けれど混乱と激しい困惑が思考を遮る。

 ディルク・アベラール。

 あれほど恋焦がれた婚約者に、剣を向ける――。

 そんなことができるはずがない。


 レオンの言葉が、再び脳裏に甦る。


 ――ディルクの部屋にあったスミレの押し花が、なにかを思い起こさせると思っていたが、ずっとわからなかった。

 ――そうだ、きみの目の色だ。


 ディルクの部屋に、アベルの贈ったスミレの押し花はあった。

 心が深い痛みを覚える。


「どうか」


 アベルは額が床に着くのではないかというほど、頭を下げた。


「どうか、今回はお許しください――」

「約束はどうするのだ」

「叶うなら、別の方に」

「ならばリオネルと戦うか?」


 アベルは唇を噛みしめた。


「…………できません」


 消え入るような声に、会場内にはおそろしいほどの静寂が降り落ちる。


「ディルク殿に勝てとは言わない。私が認められるくらいの剣技を披露してくれればいい」


 アベルは跪いたままうなだれた。


「公爵様」


 人々のなかから聞こえてきたのは、マチアスの声だった。

 アベルの横に来て、同じように深々と跪く。


「どうした、マチアス」


 クレティアンは意外そうな顔で、ディルクの従者を見下ろした。


「アベル殿は今宵、かなりの酒を召しております。ディルク様はともかく、アベル殿が怪我をしては、リオネル様も深く心を痛められるでしょう。どうか日を改めることはかないませんでしょうか」

「戦えなくなるほど酒を飲んだとあっては、そもそも、身辺警護としての役目を成さないだろう。そのようなことは言い訳にならない」


 返す言葉を失ったマチアスを眺めながら、ディルクは独りぼやいた。


「……ついにおれの身ではなく、アベルの身を案じるようになったか、マチアス」


 アベルはゆっくり顔を上げた。その目に浮かぶのは、諦めと決意の色。


「マチアスさん、ありがとうございます」


 隣に来て弁護してくれたマチアスに小声でそう言うと、公爵に向かってあらためて頭を下げる。


「かしこまりました。ディルク様との試合、謹んでお受けしいたします」


 その静かな声音に、会場内がどっとどよめいた。

 なにせ新年の余興に、ベルリオーズ家の跡取りの身辺警護を担う少年と、アベラール家の跡取りとが、真剣勝負をするのである。


 ディルクがクレティアンに逆らえなかったように、アベルもまた、命令に背くという選択肢はなかったのだった。






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