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 二人が壮麗な客間に通されてから、さほど時間は経っていなかった。


 広い室内の中央には小ぶりの卓が置かれ、その周りに五つの肘掛椅子が並んでいる。

 壁にずらりとかけられた肖像画は、代々ブレーズ家に所縁のある者たちである。

 飾り棚の花瓶には、冬に咲く数少ない花が楚々と活けられていた。


 落ち着き払った様子の貴婦人は、まったく蜂蜜酒に手をつけようとしない息子に微笑する。


「カミーユ、そんなに緊張しなくてもいいのですよ。ここは、母であるわたくしが生まれ育った家であり、この館の当主はあなたの伯父上なのですから」

「はい、わかっています」


 カミーユはそう返事したが、完全に身体から緊張が抜けたようには見えなかった。


「それに今日は、お兄様はご不在ですから、会えるのは従兄弟のフィデールだけ。気張る必要はありませんよ」

「そうですね」


 カミーユは堅苦しく返事をした。


 彼はデュノア領から一歩も出たことがないというわけではなかった。ディルクのいるアベラール邸や、隣接する所領の屋敷へ赴いたことは幾度もある。

 けれどカミーユがこれほど緊張していたのは、今まで見たどの屋敷よりもブレーズ邸が立派であったということと、従兄弟であり、ノエルの従騎士となる彼の先輩でもあるフィデールに会うのは、初めてのことだったからだ。


 十三歳の少年は、ある種の憧れと羨望のようなものを、七歳年上の従兄弟に対して抱いていた。

 ようやく蜂蜜酒に手を伸ばそうとしたとき、扉が鳴る。


「フィデール様がいらっしゃいました」

「どうぞ」


 かつてこの家の令嬢であり、今はデュノア伯爵夫人であるベアトリスは、ごく自然に答える。


「失礼します」


 執事が扉を開けると、ひとりの若者が姿を現した。


「叔母上、お待たせいたしました」


 ディルクに引けを取らない、すらりとした長身の若者は、ベアトリスの前まで歩みよると、彼女の手を取り、恭しく口づけする。


「先日も来てくださいましたが、またこのように近いうちにお会いでき、嬉しく存じます」


 若者がベアトリスを見る目には、鋭さのなかにも親愛の情が浮かんでいる。


「わたくしも、とても嬉しいです」


 ベアトリスは、若者へ深い笑顔を向けた。


「今日は、約束どおり息子のカミーユを連れてきました。カミーユご挨拶なさい」


 優しい声音を向けられて、カミーユは一礼する。


「はじめてお目にかかります、カミーユ・デュノアです」

「フィデール・ブレーズだ。きみが、私の従兄弟殿か」


 カミーユは顔を上げ、従兄弟の顔を見た。


 フィデールはベアトリスやカミーユと同じように、青みがかった灰色の瞳の持ち主で、非常に端正な顔立ちをしている。

 けれど、ディルクのように明るく気さくな雰囲気ではなく、鋭さと、わずかな冷たさを感じさせた。


「きみの母上にはずいぶん世話になっている。私は幼いころに母を亡くしているから、叔母上は私の母も同然だ。そういう意味では、きみと私は兄弟のようなものだから、気楽に話してほしい」


 フィデールが笑うと、鋭さのなかに柔らかさが混ざり、彼を魅力的に見せる。


「ありがとうございます」


 カミーユは、ややくすぐったそうに、けれど嬉しそうにうなずいた。


「では、姉上もいっしょに兄妹ですね」

「……カミーユ」


 母に諌められて、カミーユはうつむき、その表情に陰を落とした。

 ベアトリスが諌めた理由はわかっている。シャンティが、死んだのではなく追放されたのだということを悟られてはならないからだ。


「もうひとりの従兄妹殿にも会えたらよかったのだけど。残念だ」


 フィデールは、しょげたカミーユを慰めるように言う。

 カミーユは無言でうなずいた。


「今日は、父上が不在で申しわけない。きみと会えるのを心待ちにしていたようだったが、暮れに突然、王宮に呼び出されてそのままだ」

「お兄様もお忙しいのでしょう」


 ベアトリスが口を挟む。


「父は、とても忙しいですよ。時折ここへ戻ってはくるものの、ほとんどは王宮に滞在しています。私もいずれあのようになるのかと思うと、今から気が滅入ります」

「あなたが言うとおり、あなたはお兄様の跡を継ぎ、陛下やジェルヴェーズ殿下を支える身になります。それは、とても誇らしいことだわ」

「そうですね、忙しくともやりがいのある大切な務め。殿下のそばに仕えることができるならば、それは名誉なことだと思っています」


 カミーユは、そんなフィデールを羨望の眼差しで見つめた。

 自分は、シャルム西方に位置する国境辺境の伯爵領を治めて一生を終えるが、この青年はこれから国政の中枢に携わっていくのだ。そして、ひと目で英明であることがわかるこの若者は、それを完璧にこなすだろう。


「伯父上と、フィデール殿はすごいですね」


 そうつぶやくと、ベアトリスとフィデールがカミーユを振り向く。


「あなたや、あなたのお父上の仕事も立派ですよ、カミーユ」


 カミーユは曖昧にうなずく。


「きみの母上の言うとおりだよ。現に、父上は一年の半分以上はこの領地にいないから、領内の政務は私と家臣に任せきり」

「領地を、領主自らきちんと治めることは大切なことですから」

「わかりました」


 生真面目に返事をするカミーユをほほえましく思った様子で、ベアトリスはその肩にそっと手を置いた。


「フィデールも知ってのとおり、今年この子は十四になり、ノエルの従騎士として王宮へ行くことになります。そのことで、あなたにいろいろ聞きたいみたいです」

「ノエル様の従騎士でいらした際のお話など、聞かせていただければ嬉しいです」


 少年から真剣な眼差しを向けられて、フィデールは微笑した。


「私が従騎士だったのは、たったの一年だ。さっきも言ったが、父が領地を不在がちだったから、私はここを長く離れるわけにはいかなかった。そのころはいろいろあって政務を長期間、家臣だけに任せておくわけにはいかなかったからね」

「一年……」

「あなたが一年で叙勲を受けたのは、それだけの理由ではないでしょう?」


 ベアトリスが甥にほほえみかける。


「さあ」


 フィデールはそう答えたが、その顔には静かな微笑が浮かんでいた。

 二人のやりとりの意味がわからず、カミーユが首を傾げる。彼の疑問に答えるように、ベアトリスが言った。


「フィデールは、ノエルに何年も教わる必要がないほど優秀なのです」

「へえ……」


 カミーユはまじまじとフィデールの顔を見る。


「ディルクよりも強いのですか?」

「……ディルク・アベラール殿か」

「カミーユ、そのような質問をしてフィデールを困らせてはいけませんよ。フィデールはディルク様と剣を交えたことがないのですから、どちらが強いかなどわかるはずがないでしょう」

「あ、そうですよね……」

「いいえ、決して困っているわけではありません、叔母上」


 フィデールはベアトリスに目配せしてから、口をつぐんでしまったカミーユを静かに見下ろす。


「今の私は、おそらくシュザン殿には敵わない。そういう意味では、どちらが強いかというのはディルク殿がシュザン殿からどれほどのものを習得したかどうかによる」

「シュザン様とノエル様はどちらが強いのですか?」


 目を輝かせる少年に、二人は苦笑した。


「あなたはなぜ、だれがどれだけ強いかにこだわるの、カミーユ?」

「それは――」


 カミーユは少し言い淀み、視線を蜂蜜酒の杯に落とす。


「……姉さんが強かったから」

「…………」

「強い人はかっこいいと思います。だから、この国でだれが強いのか知りたいし、おれもそんなふうになりたいです」


 ベアトリスとフィデールが無言になってしまったので、その場には重い静寂が訪れた。

 そこへ、トントンと扉をたたく音がする。

 フィデールが返事をすると、さきほどの執事が現れ、


「お医者様がご到着されました」


 と、一礼して告げた。


「ありがとう。すぐに行きます」


 ベアトリスはゆっくり席を立ち、息子と甥を見下ろす。


「わたしはしばらく席を外しますが、そのあいだ二人で話していてください。フィデール、カミーユをよろしく頼みます」


 若者らの返事を聞き届けると、ベアトリスは満足げにうなずき、執事や侍女とともに部屋を出ていった。


 母がいなくなり、カミーユは少し緊張した面持ちになる。

 初対面の従兄弟と二人になると、聞きたかったことはたくさんあったはずなのに、それがなんだったか思い出せない。

 沈黙を紛らわせるように蜂蜜酒をひと口飲むと、フィデールが口を開いた。


「さっきの質問だが」


 カミーユは銀杯を卓に戻し、顔を上げる。


「シュザン殿とノエル殿、どちらが強いか、私にもわからない。それぞれ正騎士隊と近衛隊の隊長を務めているから、二人とも生半可な腕前ではない。ただ、実践を積んでいるという意味では、シュザン殿のほうが上かもしれないな。我らが叔父上は、陛下の身辺を守っている時間が長い。一方、シュザン殿は正騎士隊に所属する騎士らや、従騎士らを鍛え上げ、ローブルグやユスターをはじめとした国境周辺の国とも剣を交えている」

「なるほど……」


 カミーユは遥か王宮に思いを馳せながら、フィデールの話を聞く。生まれてから十三年間ずっとデュノア領で過ごしてきた少年にとっては、それはとてつもなく華々しい世界だった。


「姉さんが男だったら、きっとその二人より強かったと思います」


 カミーユが自信たっぷりに言うと、フィデールはかすかに口角を上げた。


「きみはシャンティ殿の話ばかりだね」

「はい。だれよりも大切な姉……でしたから」


 母の諌める顔を思い出し、苦労して言葉を過去形にする。


「シャンティ殿を失って悲しいか?」


 かぎりなく直接的な、しかし、遠慮や配慮から滅多に聞かれることのないその問いを投げかけられ、カミーユは少し驚いた。

 そして、ゆっくり深くうなずく。


「……悲しいです。言葉にできないくらい」

「では、言葉にできないほど、ディルク殿のことは恨まないのか」

「いいえ」

「ずいぶん、信頼しているのだな」

「ディルクと会ったことがあるのですか?」

「いいや、会ったことはない。しかし、シャンティ殿の婚約者だったことは知っている。そして、婚約が一方的に破棄されたことも、そのすぐ後に彼女が死んだことも」


 従兄弟の青年が暗に言いたいことを感じとり、カミーユはやや声の調子を落とした。


「……ディルクは優しい人です」

「シャンティ殿を殺した人間だ」


 冷然とした口調で言うフィデールを、カミーユは驚きと苛立ちを混ぜた表情で見返した。


「姉さんを失った悲しみに沈み、孤独と憎悪のなかで自分を失いかけていた私を、ディルクはひたすら受けとめ、助けてくれました」

「それで彼は罪を償ったつもりかな」


 フィデールの言葉は、その表情と同様に、どこまでも冷たかった。


「ディルクはいつまでも、罪の意識にさいなまれています。従騎士だったあいだも、帰郷した際はどんなに忙しくても、必ずデュノアへ来て姉さんに花を手向けてくれました」

「罪の意識か……それが本当なら、私が聞いた噂はどういうことだろう」

「……噂?」

「ディルク殿は、王宮で多くの美女と浮名を流している。きみの姉が死んだあとからだ」

「――――」


 カミーユは反論する言葉を失った。

 口にすることができたのは、根拠も説得力もない、たった一言だった。


「嘘だ」

「嘘じゃない。王宮に行ったら、周囲の者に聞いてみるといい。ディルク・アベラールがどれほど艶聞の多い男か」

「…………」

「婚約者を死に至らしめ、罪の意識もなく自分は生き延び、若い女たちと新たな関係を築く――。なぜだかわかるか?」


 返事はなかったが、フィデールは言葉を続ける。


「彼の家は生粋の王弟派だ。我ら国王派は彼の敵であり、その娘ひとりの命など、おそらくディルク殿にとっては枯葉一枚ほどの重みもなかったのだ。……彼は、そういう人間なのではないか、従兄弟殿」

「…………」


 唇を噛みしめうつむいたカミーユは、もはやひと言も発しなかった。


 ディルクのあたたかい茶色の瞳が脳裏に浮かぶ。

 その瞳はいつだってカミーユに優しくほほえんでいたし、死んだシャンティに対して真摯だった。

 こらえきれなくなった涙が一滴、少年の手の甲に落ちる。

 静まり返った部屋は、時間が止まったようだった。


 フィデールがハンカチを差し出す。


「すまない、余計なことを言ったかな」


 カミーユはハンカチを受けとったが、フィデールがどんな顔で自分を見ているのか、もはや彼のぼやけた視界では見ることができなかった。


「……それでも」


 カミーユはかすれた声を絞り出した。

 フィデールをとりまく空気がわずかに揺れる。


「それでも、姉さんが想いつづけた人だ」


 カミーユはそれだけ言うと、服の袖で涙をぬぐい、使わなかったハンカチをフィデールに返した。

 かすかに口角を上げたフィデールは、小さくつぶやく。


「そのようだな」








 ベアトリスとカミーユは、ブレーズ邸に数日間滞在する予定である。

 診療を終えた母が客間に戻るなり、カミーユが「疲れた」と訴えたので、彼を寝室で休ませてから、ベアトリスとフィデールは客間の卓を挟んで向かいあった。


 カミーユが座っていた椅子を見やり、ベアトリスは低い声音で尋ねる。


「全てはうまく?」


 若い甥は苦笑しながら首を横に振った。


「わかりません」

「そう……」

「衝撃を受けているようでしたが」

「……ええ、充分よ」


 温かかったカミーユの蜂蜜酒は、ほとんど減っていないまま、冷えきっていた。







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