31
「アベル、寒くないか?」
部屋に戻る大階段で、リオネルがアベルに問いかけてきた。
どぎまぎしながらアベルは顔を上げて、雪まみれのリオネルを見る。
なんだかとても久しぶりに、この深い紫色の瞳を間近で見るような気がした。
「着替えればすぐに温まります」
「怪我は?」
「大丈夫です。リオネル様こそ――」
「おれは、なんともない」
そう言って、リオネルは階段を上っていく。
無言になったリオネルだが、しばらくして再びためらいがちに振り返り、口を開いた。
「その……アベル」
「はい」
「……いや――」
歯切れの悪い主人をまえに、アベルは小さく首を傾げる。リオネルにしては珍しいことだった。
リオネルが大階段から回廊に続く踊り場で立ち止まってしまったので、他の皆もそこで止まる。
するとリオネルはディルクやレオンに目配せして、「戻っていてくれ」と言った。
ディルクは肩をひょいと上げ、
「じゃあ、行こうか」
と、レオンやマチアスと自室へ戻っていく。
三人を先に部屋へ帰して、リオネルは何を言い出すのかと、アベルは少し身構える。
「早く着替えたほうがいいのだけれど……そのだな」
「はい」
「さっきの女性は、おれと婚約の話が進んでいる、エルヴィユ家の令嬢だ」
「……さきほど、ディルク様からうかがいました」
ようやく彼の口から出たのは、エルヴィユ家の令嬢のことだった。今までアベルに婚約者のことを伝えていなかったので、この場で教えてくれているのだとアベルはひとり納得した。
「……そうか……伝えてなくてすまなかった。けれど、まだ正式に婚約したわけではないんだ」
「そのことについても、さきほどベルトランから聞きました。ご丁寧にリオネル様からもご説明くださり、ありがとうございます」
アベルは、リオネルの律義な性格に微笑する。
リオネルは嘘をついていたわけではなく、婚約者がいることを気恥かしくて打ち明けられなかったのかもしれない。アベルはそんなふうに思うことにした。
リオネルはなんとも言えない表情をしている。
「リオネル様のご伴侶となられる大切なお方なのですね。あなたをお守りすると同様に、心してフェリシエ様のこともお守りいたします」
アベルの台詞に、ベルトランが聞いていられないといったふうに天を仰ぐ。
しかしリオネルは根気よくアベルに向きあった。
「いや……アベル。これは父上が進めている話なんだ」
「はい」
「おれが王宮にいるあいだに、いつのまにかこういう話になって」
「リオネル様のご意志を汲まずに……?」
「いや、そのときは、父上の意向に沿うと答えたのだが――」
「そうですか」
「だが今は、その……」
アベルには、リオネルが何を言いたいのか、よくわからなかった。リオネルは時々こんなふうに謎の多い言動を取るときがある。
リオネルがはっきりしないことを言いつのっているうちに、服についた雪が溶け、アベルは徐々に氷水に包まれているような寒さを覚えた。
そのとき、着替えを終えたディルクらが回廊を戻ってくる。
「まだいたのか?」
ディルクは三人のところまで歩み寄ると、アベルの顔を見て、かすかに眉をよせてからリオネルへ視線を移した。
「寒そうだよ、部屋に戻してあげたら?」
リオネルは、はっとしてから申しわけなさそうな顔になる。
「すまない」
「いいえ、大丈夫です」
しばらくリオネルはアベルの瞳をじっと見つめていたが、アベルが不思議そうに見返していると、なにかを諦めたように目を閉じ、
「部屋に戻ろう」
とつぶやいた。
「あの、お話は……?」
「――とりあえず着替えよう。このままだと、風邪をひかせてしまう」
アベルは、歩き出したリオネルに従って部屋へ戻った。
再び皆が集まった場所は、食堂に隣接している広間だった。
食堂を挟んで大広間がある。それは玄関口につづく広間とはまた別のもので、夜会や舞踏会が開催されるときは、そこが会場になった。
今、人々がいるのは、小規模な祝宴が開けるほどの広さの部屋である。しかし、そこにアベルの姿はない。来なくていいとリオネルが告げたのだ。
そのかわり、若者らが着替えているあいだに予定より早く到着したアベラール侯爵の姿があった。
あらためて彼らは挨拶を交わす。
若者らがフェリシエの手をとり、口づけする。
エルヴィル公爵は、レオンの姿を見て恐縮した様子だった。
「それにしても、レオン殿下がまことにおられるとは、思いも寄りませんでした」
「……いろいろあってな」
「聞いたところによると、西方国境周辺の視察とか」
「まあ、そんなところだ」
「すでにどちらかへ行かれたのですか」
「……デュノア領へ」
「デュノア領……」
エルヴィル侯爵がつぶやくと、皆がそれとなくディルクに視線を向ける。
「愛しいご婚約者にでも会いに行かれたのですか?」
フェリシエが冷ややかな口調で問うと、アベラール侯爵は軽く咳払いをし、ディルクは彼女を睨んだ。
「フェリシエ、ディルク殿の婚約者殿は、亡くなられたのだ」
「まあ」
兄から事実を告げられたフェリシエだが、さほど悪びれた様子もない。
「ごめんなさい。存じあげなくて」
触れられたくないことに触れるのは、十年前の仕返しだろうか。
アベラール家とエルヴィユ家は、熱心な王弟派として仲が良かった。そのため、子供たちが小さい頃は、両家が集まる際に遊んだことがあった。シャルルとディルクは仲が良かったが、フェリシエとディルクについては、マチアスが語っていたとおりである。
「それは、お気の毒なことね」
「…………」
「いや、しかし、リオネル様もディルク殿も素晴らしい青年になられましたね。さながら神話の世界に活躍する、強く美しい英雄たちのようだ」
シャルルは、妹がさらに下手なことを言いださぬよう話題を変える。
父であるエルヴィユ侯爵も、それに加わった。
「シュザン殿にきたえあげられたお三方は、さぞ腕も立つのでしょうな」
ディルクは静かな口調で侯爵の質問に答える。
「……そのなかでも、リオネルはずば抜けていますよ。とくに延長した一年での上達はすさまじいものでした」
「リオネル様は、そんなにお強いのですか?」
フェリシエにうっとりと見つめられたが、リオネルは無言で苦笑しただけだった。
返事をしないリオネルの代わりにディルクが言う。
「フェリシエに比べれば、だれだって強いだろうね」
「わたしは女です。弱くてあたりまえですわ」
「そうだね、強くて優しいリオネルに守ってもらいな」
リオネルは、ディルクから視線をちらと受けたものの受け流す。
『女が弱くてあたりまえ』という言葉を、リオネルは心のなかで反芻していた。
剣を握るアベルの姿を思い出す。
アベルが、フェリシエのようにか弱い女性で、そのような考えを持ち、危険なことをしないでくれていたら、彼女の身をこれほど心配せずにすんだかもしれない。
しかし、と心中でかぶりを振る。
自分は、あのアベルだから、好きになったのだと思う。
触れると怪我をしそうなほど強く、頑なで、けれど実際に触れれば壊れてしまいそうな儚さを併せ持つ、あの娘だからこそ……。
「そういえば、さきほど雪遊びをしていたうちの一名がいないようですが?」
シャルルが、ふいに思い出したように言った。
リオネルがぎくりとして視線を上げると、代わりにディルクが答えた。
「アベルのことかな」
「アベル?」
その名を、シャルルとフェリシエが同時に復唱した。
「そういえば、アベルはどこへ行ったのだ?」
レオンに問われ、リオネルは声を低めて答える。
「ここにいる必要はない」
「ベルトランの従騎士で、今後おまえの身辺警護にあたるのに?」
「……今はいいんだ」
「ぜひともお会いしたいですわ」
明るい口調で言ったのはフェリシエである。
「リオネル様のご身辺を守る者なら、ぜひ一度わたしもご挨拶を」
「私も会ったことがありませんが、どのような少年なのでしょう」
アベラール侯爵も興味を示したようだった。
リオネルはすぐに返答をせず、ややうつむき皆から視線を外す。
「ずいぶん、見目麗しい少年でしたね」
シャルルは、庭で見かけた少年の姿を思い出しているようだ。
「まだかなり幼いように見えましたが」
「アベルは十五歳だったっけ、リオネル」
ディルクの言葉にもリオネルは沈黙している。
「十五歳……というと、フェリシエより二つも年下ですか」
「…………」
「……ベルトラン、アベルをここへ連れてまいれ」
なにも言わないリオネルを見かねて、ベルリオーズ公爵はベルトランに指示を出した。
ベルトランは一瞬の迷いを見せたが、公爵の命令に逆らうはどという選択肢があるはずがない。リオネルをちらと見やってから拳を胸にあて、礼をする。
「……かしこまりました」
部屋を辞すベルトランの後ろ姿を無言で見送ったリオネルは、目をつむり、静かに嘆息した。
ここで、アベルを呼びだすことに対して、頑なに反意を唱えることはできない。
そんなことをすれば、アベルの存在を目立たせてしまうことになる。
さりげなく、公の場から――そして自分がフェリシエと共にいる場から、遠ざけておきたかった。しかし、それは叶わぬようだった。