28
槍の刃が、窓の外からの弱い光を受けて、鈍く光っている。
室内には、鼻につんとくるような、独特な油の匂いが満ちていた。
それは、長い年月をかけて、この部屋に染みこんだものだろう。たとえ、この場に何もなくとも、その匂いは存在するように思えた。
ベルリオーズ邸。
騎士館の、屋内鍛錬場に隣接した武器庫で、騎士やその従僕たちが武器の手入れをしていた。
武器庫は、屋内鍛錬場と同様の造りなので、広い空間だったが、床は冷たい石でできており、さして大きくない窓にはカーテンもなく、木製の扉が取りつけられているだけという殺風景な場所だった。
部屋の周囲には、武器を収納しておく棚が隙間なく置かれ、数え切れないほどの長剣、長槍、盾、弓などが居並ぶ姿は圧巻である。
冷たい床に、各自が毛布を敷いてそこに座わり、自らの、もしくは主人の武具を鍛錬に磨いている。
アベルも長槍の刃に油を塗りつけ、丁寧に磨きあげていた。
アベルが磨いているのは、だれのものでもなく、騎士館に備わっているものだ。
ベルトランは自分の武器は自ら手入れし、決して他人には触らせないので、アベルが出る幕はなかった。
広々とした室内には、数十人の男たちがいる。一部の者は会話を交わしながら手を動かし、一部のものは寡黙に作業に集中していたが、アベルは後者のうちの一人だった。
低いざわめきが高い天井に反響している。
けれど突然、彼らの視線が木製の戸口に集中した。ひとりの騎士が現れ、声を張り上げたからだった。
「ディルク・アベラール殿が、当館にご到着なされた」
現れたのは中年の騎士である。彼の声は室内に大きく響いた。
武器を磨いていた者はその手を止め、口々に話しはじめる。
「ずいぶん早いご到着だな、まだ新年になっていないのに」
「ディルク殿だけなのか? 侯爵様はごいっしょではないのか」
「アベラール家にご滞在されているレオン王子殿下もごいっしょなのだろうか」
騒然とした室内に、再び騎士の声が響く。
「ディルク殿は、レオン王子殿下とごいっしょだ。アベラール侯爵様は年が明けてからのご来館になる。レオン殿下はディルク殿とともにしばらくご滞在なさるので、決して御身に危険などがないよう、皆、いつも以上に心して過ごすように」
騎士たちが返事するのを聞き届けて、中年の騎士は屋内鍛錬場へと向かって歩いていく。おそらく彼は、客人の来訪について館内の者に報告してまわっているのだろう。
武器庫では、騎士らが作業を再開しつつも、どうにも落ちつかない様子だった。
「レオン殿下がいらっしゃるとは、思いもかけぬ事態だな」
レオン王子がアベラール邸に滞在しているという噂は、ここベルリオーズ邸の騎士たちの耳にも届いていた。しかし、ディルクと共にリオネルのもとに訪ねてくるということについては、皆、懐疑的だったのだ。
「まさか現王家の者がこのベルリオーズ邸へ足を運ぶとは……」
「はたして信用してよいものかな。公爵様やリオネル様に仇なさぬともかぎらぬ」
「しかしレオン殿下は、リオネル様やディルク殿とともにシュザン様の従騎士でいらした。仲がよろしいのであろう」
「さよう、公爵様もレオン殿下については、ずいぶん気にかけておられる」
耳に入ってくる騎士たちの会話を聞きながら、アベルは黙々と長槍を磨いていた。
ベルリオーズ邸に来て一ヶ月が経ったが、アベルはまだこの館の雰囲気に慣れずにいた。
優美で荘厳な城は夢のようだったが、そこで働く使用人や騎士たちの数は相当なもので、それはアベルを落ちつかなくさせた。いや、数の問題だけではない。常に忙しなく働いている彼らは、どこかアベルに対してよそよそしい。
そんな毎日のなか、気の置けぬ友人もおらず、リオネルやベルトランといっしょに過ごせる時間もあまりなく、さみしさを感じざるをえなかった。
それでもリオネルは、アベルをシャサーヌの街に連れだした日以降も、度々声をかけ、気にかけてくれている。
アベルはそれを嬉しくも思ったし、くすぐったくも感じた。
ここは、リオネルの家なのだ。
リオネルが生まれ育ち、これからも生活し続ける場所。
それは、アベルが生きる場所ということでもあった。
だからこの場所を、好きになりたい。
そう思った。……けれど。
心ない言葉が――室内の離れたところでひそひそとつむがれ、アベルの耳に、はっきりと届く。
「あの従騎士は、リオネル様のお気に入りだから、レオン殿下にもお会いしたことがあるのだろうな」
「そうやって、どんどん出世していくのだ。顔がいいと、得なものだ」
女であるアベルには理解しがたいことだったが、男の出世欲、権力欲というものは案外に大きいものらしかった。リオネルに取りたてられているように見えるアベルを、羨み、嫉妬する。男の嫉妬は、女の嫉妬とさして変わらぬ、陰湿でしつこいものだった。
アベルは、自分に向けられるそういった感情に敏感なほうではなかったが、それでも、彼らが向けてくる眼差しや空気が好意的ではないことくらいは、嫌でも感じとれる。
「どれほど強いのか知らないが、あのような華奢な子供に、将来の身辺警護を任せるなどとは」
「どのような手で、リオネル様を意のままにしているのやら」
アベルは唇を噛んで、彼らの言葉をやり過ごす。刃を研磨する手に、自然と力が入った。
しかし、
「その発言は聞き捨てならないな」
突然、騎士のだれかが意義を唱えたので、アベルの手は止まりかけた。
「リオネル様を意のままにしているとはどういうことだ。それは、リオネル様に対する侮辱でもあるぞ」
怒りを露わにした騎士が立ちあがり、剣の柄に手をかける素振りを見せたので、陰口をたたいていた男たちはたじろいだ。
「けっしてそんなつもりでは――」
「言葉を慎め」
騎士は再び座りなおす。彼はアベルをかばったわけではなかったが、これによって会話は中断され、聞きたくもない話を聞かずにすんだ。
聞こえてこないだけで、彼らの胸中に変わりはないはずだが、それでもアベルは少しほっとする。陰口をたたくのは勝手だが、どこか聞こえないところでやってほしい。
だれの顔も見たくないし、だれにも顔を見られたくなくて、アベルは深くうつむいた。
アベルの胸を不安がよぎる。このまま、こんな状態が続いたら、いずれ――。
気持ちをまぎらわせるように、がむしゃらに槍を磨く。そうしてなければ、気持ちの箍が外れそうだった。
「アベル……?」
突然、名を呼ばれて、アベルは驚き顔を上げる。
近すぎるほどの距離にあったのは、あたたかい茶色の瞳だ。
「ディ……ディルク様……!」
アベルは思わず長槍を持つ手を離してしまった。
カランカランと大きな音をたてて、長槍は石の床に落ちる。騎士たちがいっせいにアベルのほうを向いた。
「ごめん、驚かせてしまったね。大丈夫?」
ディルクが長槍を拾う。
室内の多くの騎士たちが、振り返ってはじめてディルクの存在に気づいたようだった。
「ディルク殿!」
騎士たちが立ち上がり、ディルクのそばに集まってくる。
「お元気でしたか? 立派になられましたね」
「いつのまにこの部屋に?」
「ご叙勲、おめでとうございます」
「王宮の生活はいかがでしたか?」
騎士たちはいっせいにディルクに話しかける。彼らは貴族の子弟である。ディルクは嫡男なので家を継ぐが、騎士らは家を継がないため他家に仕えているというだけで、ディルクと彼らのあいだにさほど大きな身分の開きがあるわけではない。
「おお、皆も元気そうでよかったよ。おれもようやく皆のように騎士になったけど、王宮の生活は、稽古漬けでなかなか厳しかった」
「稽古漬けとおっしゃいますが、華々しい噂は聞こえてきていますよ」
騎士の言葉に、ディルクは咳払いをした。
「いや、それは本当にただの噂だから」
冗談と受け止めたのか、騎士たちはいっせいに笑う。
「ところで、アベルはどうかしたのかな?」
「え?」
急にディルクはアベルに話を振った。騎士たちがいっせいに押し黙る。
居心地の悪さを覚えつつ、アベルはなんとか笑顔を作ろうとした。
「……どうも、しません。槍の手入れをしていただけです」
小さな声で答えるアベルに、ディルクは本人だけが聞こえるくらいの声で尋ねてくる。
「本当に?」
「…………」
うつむくアベルに、ディルクは目を細めた。
「……ちょっと休憩しない?」
「いいえ、まだ仕事が残っているので」
どこか張りつめたアベルの様子に気づき、ディルクはかがんで、水色の瞳をのぞきこむ。
アベルは声を出すことができなかった。
「……じゃあ」
ディルクの声は子供に諭すように優しい。
「仕事はあとでやることにして、とりあえず散歩にでも行こう。ね?」
アベルは必死で涙をこらえた。言葉を発すれば、声が震えそうだった。だから、うなずくしかなかった。
「よし、じゃあ、行こう」
ディルクはアベルの肩を押して、マチアスに目配せする。アベルはマチアスに促されて、武器庫を出た。
一方ディルクはアベルがいなくなったのを確認すると、騎士たちの気まずげな顔を見渡して低い声で言った。
「あまり苛めないでやってくれないか」
むろん、アベルに対して負の感情を抱いていたのは全員ではなかったが、そこにいただれもが、ばつの悪さを覚えずにはいられない。
ディルクは最後に、そんな面々にさわやかな笑顔を向けて、アベルとマチアスを追って武器庫を出ていった。
「アベル」
マチアスとともに表で待っていたアベルに、ディルクは追いつき声をかける。
「ディルク様……」
アベルの少しうるんだ瞳を、ディルクは眉を下げて見つめた。
「レオンも来ているから、みんなで温かい飲み物でも飲もうよ。――そうだ、蜂蜜酒」
「……え?」
「アベルの好きな蜂蜜酒を飲もう」
ディルクの思いやりに、もはや涙は止められそうになかった。泣いているところなんて見られたくなくて、アベルは深くうつむく。
「アベル……?」
そのとき聞こえてきたのは、ディルクの声ではなかった。
「お、リオネル」
リオネルが来たのだ。アベルの心臓が跳ねた。
泣いているところを、最も見られたくない人物だった。
リオネルを守るためなら、些細なことで傷ついたりしない、シャサーヌの街でスープを飲みながらそう言ったのに。
「久しぶり」
リオネルは友の挨拶に答えずにアベルの目前まで歩み、そして、優しくアベルの頬に手を添え、顔を上げさせた。
「――――」
リオネルは無言になり、彼についてきたらしいレオンは、ディルクに冷たい視線を向けた。その無言の非難に、ディルクは慌てる。
「いや、おれが泣かせたんじゃないよ。いや、おれが泣かせたのか……? マチアス、どっちだろう?」
「知りません」
言い訳するディルクに、従者は冷淡に返答した。
「マチアス、おまえ、覚えていろよ」
「……アベル、どうしたんだ?」
リオネルの心配そうな声に、アベルは無言で首を横に振る。
「ディルクになにかされたのか?」
「だから、おれはなにもしてないって! ……多分」
アベルは手の甲でがむしゃらに目の周りをぬぐって、再び首を横に振った。
「なんでもないんです。なんでもないので――わたしにかまわないでください」
「……アベル」
リオネルは傷ついたような顔をした。
アベルの心が痛みを覚える。
リオネルのせいではない。
この人は、こんなに優しい。なのに……。
騎士たちの声が耳から離れなかった。
――あの従騎士は、リオネル様のお気に入りだから――。
――どのような手で、リオネル様を意のままにしているのか――。
リオネルの優しさが、皮肉にもアベルを孤立させている。
騎士たちの言葉はアベルの心を苛んだが、それに真に傷ついたわけではない。
胸にあふれていたのは、あの騎士たちの言っていたような噂が広まることで、この状態が悪化し、いずれ館の者から反感を抱かれ、この場を去らざるをえなくなる日が来るのではないかという不安だった。
ここに留まるためには、リオネルと一定の距離を保つ必要があるのかもしれない。
アベルは深々と頭を下げてから、館のほうへ足早に歩きだした。
今は、ひとりでいたかった。
アベルを追いかけようとしたリオネルの腕を、ディルクが引きとめる。
振り向いたリオネルに無言で睨まれて、ディルクは肩をすくめた。
「そんな怖い顔しないでくれよ」
「アベルになにをしたんだ」
リオネルの声は低かった。
「なにもしてないよ。騎士館の武器庫で、泣きそうな顔で槍の手入れをしていたから、散歩にでも行こうって連れだしただけだよ」
「…………」
「おまえに言えないことも、いろいろ抱えているんじゃないか?」
リオネルは、両目を細めて苦い面持ちになる。
「あまりおまえが直接かまうよりは、そっとしておいてあげたほうが、あの子も過ごしやすいかもしれないよ。……特に、貴族のやつらは矜持が高いからね」
言葉を発せないでいるリオネルの代わりに、ベルトランが口を開く。
「おまえはリオネルに挨拶もせずに、アベルに会いにいったのか?」
「うん。リオネルやベルトランはどうせ変わりないだろうからね」
「なるほど」
ベルトランは妙に納得しつつ、気遣わしげにリオネルを見やった。
黙りこくってしまったリオネルをまえに、レオンが落ちつかない様子で言う。
「……取り込み中に悪いのだが、ここにただ突っ立っていると寒い。騎士館とやらか、邸宅の館のどちらかに向かわないか」
両腕をさするレオンに催促され、五人は館へ戻っていく。
その途中、マチアスがディルクにぼそりと言った。
「貴方が、蜂蜜酒を飲もうなんておっしゃるからですよ」
「なにが?」
「アベル殿が泣いた理由です」
「おれのせい? なんでそうなるんだ?」
「落ち込んでいるときに、最も好きな飲み物をいっしょに飲もうなどと言われれば、だれでも心が揺らぐでしょう」
「……おまえにそんなことを論じられるとは思わなかった」
ディルクは、負け惜しみのようにそう呟いたが、内心では、そっと溜息をつく。
気遣いや思いやりが、逆にアベルを追いこんでいるという意味では、リオネルも自分も大差ないと気づいたからだった。