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夕方、夏であればまだまだ明るい時間帯だが、この季節では、もう日暮れ時のような暗さである。
完全に陽が落ちるまえに、五人はラテュイ領内の中心部よりやや西に位置する小さな宿場街に辿りついた。
暗くなってからの移動は避け、ゆったりとした日程を組むことにしたため、普段より一泊長くかかる旅程である。
とりあえず宿場街のはずれに馬車を停め、マチアスとベルトランがその夜の宿を探しにいった。馬車のなか、アベルはまだ夢のなかにいる。すでに寝入ってからかなりの時間が経っていた。
「よく寝てるね」
ディルクは長いこと左側の肩を動かすことができなかったので、さすがに少し疲れた顔をしていた。
「毎晩、ちゃんと眠れているのかな?」
馬車が停まっても起きる気配のないアベルに、ディルクは不思議そうに言う。
リオネルはアベルの寝顔を見つめた。ディルクの言うとおり、この旅がはじまってからアベルが熟睡できていないことに、リオネルは薄々気付いている。
ベルリオーズ家別邸を出てからは毎晩、宿に泊まっている。宿は安全性を考慮して広い部屋があるところを探し、五人が一室で休んだ。
共同生活に慣れている他の四人に比べて、アベルはだれかと同じ部屋で休むことに慣れていないはずだ。しかも、少年の恰好をしていても、アベルは女性である。おそらく若者四人と同じ部屋で夜を過ごすのというは、落ち着かないのだろう。
「……どうかな」
リオネルは、ディルクへ曖昧に返事をした。
「ああ、なんだかおれも眠くなってきた」
ディルクが大きなあくびをする。そのとき肩が少し揺れ、浅くなりつつあった眠りから、アベルは現実の世界へ引き戻された。
水色の瞳がうっすらと開く。
新年の祝いの景色は去り、暖炉の明かりは消え……、そのあと夢を見ていたかどうかさえ覚えていないのに、雲のなかのような世界から抜け出ることができない。
暗い。カミーユやトゥーサンの面影も見当たらない。
――ここはどこ……。
心細さが、胸を締めつけた。
すると、すぐ隣から声が聞こえる。
「あ、アベル起きたの?」
若い男の声だった。
右に傾けていた顔をあげ、声の主を見る。目を凝らして暗闇を見つめていると、意識と視界が徐々に明瞭になってくる。
温かい薄茶の瞳が、信じられないほどの至近距離から、ほほえんでこちらを見ていた。
「おはよう」
アベルは相手の顔を認識した瞬間に、右手で口元を押さえた。頭をどこかへもたれかけさせていた感覚が、たしかに残っている。
「ディ、ディルク様……!」
「よく眠れた?」
「……わたし、ずっとディルク様の……」
「うん。ずっとおれの肩にもたれかかっていたよ」
「――――」
アベルは言葉を失うかわりに、恥ずかしさから、湯気が出るのではないかと思うほど顔が熱くなる。けれど馬車のなかは暗かったので、アベルの顔の赤さに気づく者はなかっただろう。
「起こすと悪いと思って、そのままにしていたんだ。いい夢は見れた?」
アベルは激しく首を縦に振った。その意味は、自分でもよくわからない。
眠ってしまうまえ、最後に窓からの景色はまだ明るかったが、今はかなり暗い。
どれほどのあいだディルクの肩にもたれかかって眠っていたのだろうかと思えば、アベルは眩暈を覚えた。
「……とんでもないご無礼を――申しわけございません」
「大丈夫だよ」
慌てる様子のアベルに、ディルクは少しおかしそうに笑う。
「そんなに恐縮しないでよ。リオネルの肩よりはよかっただろう?」
「それはどういう意味だ?」
アベルがなにか反応するまえに、リオネルが苦笑しつつ口を挟んだ。
「リオネルの肩よりは、おれのほうが気後れしないだろうと思って」
どういう理屈かわからないが、アベルにとってはどちらの肩にもたれかかるのも同じくらい、とんでもないことだった。
「いえ、あの……お疲れではありませんか? 長いこと重くありませんでしたか? 本当にごめんなさい」
「いいから、いいから」
ディルクは本心から気にしていない様子だった。
うつむいてから、アベルは小声で問う。
「……ここは、どこでしょうか」
アベルは眠っていて、自分たちがどのあたりにいるのか見当がつかない。家臣としては実に不甲斐ないことだった。
「もう今日の目的地だよ、アベル」
リオネルが詳しい説明を省いて告げる。
「では、宿探しは……」
「マチアスとベルトランが行っている」
その言葉を聞いて、アベルはますます落ち込んだ。宿探しなど、本来なら自分がやるべき仕事だ。師匠であるベルトランを外で警備にあたらせ、あげく宿探しまでさせているとは。
うつむいて小さくため息をついたアベルに、リオネルは微笑を向ける。
「アベルは三日間よくがんばってくれていたから、今日は休む日だ」
アベルはリオネルの顔を見ることができないまま、かすかにうなずく。リオネルの優しい言葉が、ほんの少しアベルの心をらくにした。
そこへ馬車の扉を叩く音がする。
ベルトランとマチアスが戻ってきたのだ。
「おかえり」
扉を開けてディルクが二人に言う。
「首尾はどう?」
「小さな宿場町なので、五人が一部屋で泊まれる宿はありませんが、二部屋に分かれてなら大丈夫そうです」
マチアスが一礼してから、主人に答えた。
「それでもいいかな、リオネル」
「ああ、かまわないよ」
「そうだね。おれとマチアス、リオネルとベルトランでわかれて……アベルは、おれたちの部屋においでよ」
屈託のない笑顔を向けられ、アベルがどう断ろうかと悩んでいると、リオネルがディルクを睨んだ。
「アベルはおれたちと同室だ。さあ、行こう」
その有無を言わせぬ雰囲気に、ディルクは肩をすくめる。
マチアスとベルトランも馬に乗り、その夜の宿まで再び馬車を走らせた。
宿で荷物を下ろすと、五人は夕餉をとるために街に出た。そのかん、四頭の馬は宿の厩で休ませ、御者がその世話をする。
小さな宿場町である。大通りには、宿や食堂、居酒屋、露店などが並んでいるが、賑やかなのはそこだけで、一本道を外れれば貧しい民家が並び、その先には農村地帯が広がる。
サン・オーヴァンや、他の大都市とは違い、この街の建物は木組みではなく、全て石造りだった。農村や田舎町では、ほとんどの家屋は石で造られる。白くて堅い石は、木組みの建物より寒々しい印象を与えた。
「さて、選択肢は少なそうだけど、どこで食べようか」
ディルクが、通りの露店や店先を冷やかしながら言う。
すらりとした長身のベルトラン、貴公子然とした青年ら、そしてアベルが並んで歩いていると、一行はとても目立った。とくに、若い女性たちは足を止め、頬を染める。
リオネルは人々の目からアベルを隠すように、さりげなく彼女のすぐまえを歩く。アベルの視界はリオネルの長身に遮られ、すこぶる周囲を見渡しにくかった。これでは、前方から刺客などが現れてもすぐに気づけず、リオネルを守ることができない。アベルは、軽く眉を寄せて目の前の背中を見た。
五人は、適当な食堂を見つけて入る。
表の看板には、『ラトゥイ領内で十七番目においしい食堂』と書かれている。おいしいのかおいしくないのか判じかねる文句だが、他に良さそうな店も見あたらなかった。
店内に足を踏み入れると、居酒屋ではないはずなのに酒の匂いが鼻につく。旅人が疲れを癒す地である。こういった街の飲食店で、酒を振る舞わないところはなかった。
石造りの建物のなかは、天井が低く、広めの店内にも関わらず、所狭しと木製の卓と椅子が並んでいる。左手には暖炉、最奥には二階に続く朽ちかけた木の階段、その下にある扉からは調理する音と煙が流れてくるので、厨房になっているのだろう。食事の時間にしては早めだったが、田舎の食堂は、酒を飲む客で混雑していた。
マチアスが先頭を切って奥へ進み、適当な場所を見つける。
残りの四人も椅子のあいだをすり抜け、暖炉からは遠い、店の右手奥にある円卓についた。
給仕の少女が注文を取りに来ると、マチアスが適当に料理を頼む。アベルと同じくらいの歳と思われる少女は、そばかすと大きな青い目が愛らしく、心もち緊張した様子で口を開いた。
「いらっしゃいませ、お飲物はどうされますか?」
「温かい葡萄酒を五人前……で、いいですか?」
と、ディルクの従者マチアスが視線を向けた相手はアベルだ。アベルはうなずいたが、リオネルがすかさずメイドに告げる。
「いや、ひとつは蜂蜜酒で」
メイドの少女はリオネルの顔を見ると、ぱっと頬を染めた。
「かしこまりました」
少女が去ると、アベルはリオネルを向く。
「……わたしは葡萄酒でもかまいませんが」
「好きだろう、蜂蜜酒」
マチアスがアベルに対して葡萄酒でいいかどうか聞いたのは、旅のあいだ、アベルがよく蜂蜜酒を頼んでいたからだった。
「マチアスは気が利かないなあ、はじめからひとつ蜂蜜酒にしておけばいいじゃないか。そんなんじゃ、女の子にもてないよ」
仕える主人であるディルクに茶化されて、マチアスは苦笑した。
「すいません、いずれの機会にご指導願います」
「嫌味かい、マチアス?」
王宮において華やかな噂を一部で流されていたディルクが、呆れたような口調で言うと、リオネルが笑う。
「マチアスもなかなか言うね」
「なかなかなんてもんじゃないよ。従順そうでいて、けっこう辛辣なんだよ。ベルトランとは逆の質だね」
ディルクの言葉に、ベルトランは首を傾げた。
「おれは逆なのか」
「そうだなあ、ベルトランは一見、威圧的で怖そうだけど、実はけっこう優しいよね」
アベルはその言葉に深くうなずく。ベルトランは厳しそうに見えて、なんだかんだいって優しい。それは、リオネルに対してだけではなく、アベルや他の親しい者に対してもそうだ。
「私は、貴方に対して優しくないでしょうか」
マチアスが、何かのついでのような口調でディルクに問う。
「おまえに優しくされたら鬱陶しいから、いいよそのままで」
「そう思ったので、そうさせていただいております」
「助かるよ」
ディルクが心のこもらない声で言うと、リオネルが口を挟んだ。
「主人の思いを汲んでいるマチアスは、気が利く従者殿だと思うけど」
「……消極的な気の利かせかただけど、そういう意味ではそうかもね」
「マチアスは立派だよ、ディルクの扱いに慣れていて」
「なんだそりゃ。おれは犬か猫か」
その台詞に皆が笑ったが、アベルはつきあい程度に微笑を浮かべただけだった。
話している間に、料理が運ばれてくる。羊肉の煮込み、インゲンの炒めもの、蒸かした蕪、そして野菜のスープが並んだ。しかし、肝心の飲み物が来ない。
皆が話している隙に、アベルはそっと席を立って厨房の扉へ向かった。リオネルに止める隙を与えれば、「飲み物なんてあとでいいよ」などと言いかねない。
その後ろ姿を見ながら、ディルクはリオネルに言う。
「アベルは、本当はすごく気が利くのに、いつもおまえがあれこれ言って、仕事させないようにしてるよね」
「アベルは無理をするからだよ」
「それもそうだけど、それだけかな」
「……他になにかあるか」
「過保護だよね、なんか」
「明日はノートル領に入るな」
「……すごい、強引な話題の変え方だね」
ディルクは唖然としてから、軽く笑った。
アベルがメイドを探して厨房へ向かうと、扉が開き、少女が料理の載った皿を両手に持って出てくる。その忙しそうな様子になんとなく声をかけづらくなり、少女が料理を配膳し終わるのを待つことにした。
メイドは暖炉の前の席に向かう。そして、四人の男たちが座る席に料理を運んだ。
アベルはぼんやりそれを見ていたが、男の一人がメイドの腰に手をまわした瞬間、はっとする。見間違いではない。男は彼女にちょっかいをかけている。メイドは身じろぎして逃れようとしていた。
もしここでアベルが少女を助ければ騒ぎになり、リオネルたちにも迷惑がかかるだろう。けれど見て見ぬふりはできない。アベルには〝痛み〟が分かるから。
戻ってこないアベルの様子が気になったリオネルは、厨房の戸口に佇むアベルを視界の隅で探しあてた。そして、その強張った表情を不審に思い、アベルの視線の先を振り向く。
リオネルもまた、アベルの見ていた光景を目にした。はっとした瞬間、アベルはすでにその場に向かっている。
立ち上がろうとするリオネルの腕を、ベルトランが掴む。
リオネルはベルトランへ鋭い視線を向けた。
「面倒事に巻き込まれるな」
ベルトランの一言に、リオネルは無言で両目を細める。
「――といっても、無理だろうな」
「放せ」
リオネルの声音はいつになく低く、冷ややかだ。けれどベルトランはひるまなかった。
「アベルならなんとかできる。危なくなったら行けばいい。アベルもおまえを巻き込むことを望んでない」
「…………」
「いいか、アベルはおれの従騎士で、おまえの家臣だ。信じろ」
ベルトランの声が重く響いた。