26
天は漆黒の闇だったが、王宮の敷地内の各所に灯された篝火によって、舞う雪は光の粒のように輝いている。
玄関から次々と夜の雪のもとへ出てくるのは、分厚い外套を羽織り、宝飾品で着飾った貴族たち。
彼らは、それぞれの家の紋章に飾られた豪奢な馬車に乗り込んでいく。
宴のあと。
夏場の社交の季節には、毎日のように王宮や貴族の館で舞踏会や夜会が催されるが、晩夏の乾いた風に秋冬の匂いが混ざりはじめるころになると、地方から来ている貴族たちの多くは自領へ戻っていく。
その時期を過ぎると、王都に残っている貴族が、親密な者どうしで食事会を開いたり、王宮において月に数えるほどの晩餐会や音楽会が催されたりといったふうになる。
この日、王宮では、その年最後の比較的大きな晩餐会が開かれていた。
宴は終わり、あとは若達が親交を深める時間帯。
夜会に出席していたというよりは、晩餐会で問題が起きぬよう警備のために巡回していたシュザンは、王宮の脇の砂利道を通って、玄関から庭園のほうへ向かって歩いていた。
夜半なので、外套を羽織っていても身震いする寒さである。シュザンの吐く息が、玄関前の篝火に映しだされるが、玄関から離れるにつれて辺りは深い闇に包まれ、吐く息も色を失っていった。
ふと闇のなかに人の気配を感じ、シュザンは長剣に手をかけた。
だが、殺気はない。
「だれかいるのか?」
シュザンの声に、暗闇から動揺した気配が伝わる。
「シュザン様……? トゥールヴィル隊長でいらっしゃいますか?」
「その声は……」
「私です。シュザン様、助けてください……どうか……!」
ようやく顔が見える距離まで近づくと、そこにいたのは、かつてシュザンについて従騎士をしていたエドガールだった。五年前に叙勲し、近々、実家の侯爵家を継ぐという話を聞いていた。
そのエドガールが、ひどく焦慮にかられた様子で、シュザンにすがりついてきたのだ。
「シュザン様、私はどうしたらいいのでしょうっ」
「エドガール、落ちつけ。いったいどうしたんだ」
「レアが……」
「レア?」
「婚約者です、私の」
「その方がどうしたのだ」
「……連れていかれたのです」
その言葉にシュザンは眉をひそめる。
「だれに」
シュザンに問われると、一瞬の迷いを見せてから、エドガールは小声でささやいた。
「ジェルヴェーズ殿下です」
悔しげにうつむきながら発せられた名に、シュザンは言葉を失う。
「年明けに私たちは結婚します。それなのに……今宵の夜会でレアは殿下の目にとまり――」
シュザンは左手指でこめかみを押さえた。
まさか、家臣の婚約者にまで手を出すとは。
ジェルヴェーズの手がつけば、その後は運がよくて愛人に、運が悪ければそのまま捨てられるだろう。はたして愛人にさせられるのを〝運がよい〟と判断するかどうかは本人のとらえ方次第だが。
どちらにせよ、シュザンの生徒だったこの若者は、婚約者を奪われ、名誉も矜持も傷つけられることになる。
「レアは……レアはどうなるのでしょう。私はどうすればよいのでしょう。レアが殿下のお相手をさせられたら、私は……」
エドガールに成す術がないことは、しかたのないことだった。
相手は、この国の王位継承者であり、あの残忍で非情なジェルヴェーズである。下手に逆らえば、エドガールともども婚約者の娘も一刀のもとに斬り捨てられかねない。
「シュザン様……私は殿下に斬られても、レアを助けに行きたい……!」
「エドガール」
恋人を奪われてなお生きていくよりは、この若者にとっては死んだ方がましであるようだった。
シュザンは深く眉を寄せ、息をつめて思案する。それからなにか決心したように、小さく吐息をはきだした。
「エドガール、おれが行くから、おまえはここに残っていろ」
「シュザン様が行かれるとは、いったいどういう……」
大きく息を吸い込み、シュザンはかすかにこみあげてくる緊張をやり過ごす。
「できるかぎりのことはやってみるつもりだ」
「私も行きます。行かせてください」
「いや、おまえがいると、かえってややこしいことになる。落ちつかないかもしれないが、ここで待っていてくれ」
「しかしシュザン様の御身が――」
「助けてほしいと言ったのはおまえだろう?」
シュザンに苦笑を向けられて、エドガールははっとした。
「たしかにそうですが……、ですが……」
「いいから、少しはおれを信用しろ。ただし、レア殿を取りもどせるかどうかは、神のご意志次第ということは忘れないでくれ」
「そのときは、私にも覚悟があります」
シュザンは再び苦笑した。エドガールに覚悟を決めさせないためにも、なんとかしなければならなかった。
しかし婚約者や妻をもつと、このように苦労するとは……。
ただでさえ頭痛の種が尽きないシュザンは、もうしばらく独り身でありたいと思った。
王宮の一室から、玄関に面した前庭で貴族たちが家路につくのを見下ろしていた大神官ガイヤールは、だれにともなくつぶやいた。
「おや、ブレーズ公爵が到着なされたようだ」
次々に馬車が王宮を去っていくなか、一台だけ王宮の二重の門をくぐり、宮殿に向かってくる馬車がある。
「そうですか。では、あとジェルヴェーズ様がいらっしゃれば、そろいますな」
ガイヤールのつぶやきを拾ったのは、国王の義兄であり、ジェルヴェーズの伯父にあたるルスティーユ公爵だった。
ガイヤールはルスティーユ公爵を振り返る。
「レオン殿下はまだお戻りにならないのでしょうか」
「いえ、私は存じ上げぬ。陛下はご存知なのでは?」
「余も知らぬ。ジェルヴェーズが知っているようだが」
三人が集まっているのは、宴の催されていた大広間とは別の階にある一室だった。国王派の主要人物らが密かに集まっているところを見られるのは甚だまずいのである。
しばらくすると、控えの間からブレーズ公爵の声が聞こえる。公爵の弟で、王を守る近衛隊隊長でもあるノエル・ブレーズと、なにやら会話を交わしているようだった。
それからほどなくしてノエルが扉を叩き、ブレーズ公爵の来訪を告げる。ブレーズ公爵が入室すると、ノエルは一礼して自らは再び控えの間に引き下がった。
「遅くなり申しわけございません、陛下。雪が思いのほか深く、馬車の車輪が幾度もとられまして」
「急に呼び出してすまなかった、公爵。ノエルと話があったのなら、ジェルヴェーズが来るまで続けてかまわぬ」
「いいえ、もう済みましたので」
「そうか」
「今度、甥がノエルの従騎士になる予定でして」
ブレーズ公爵はそれだけ説明してから、ルスティーユ公爵やガイヤールに軽く挨拶した。
そこで終わったはずの話に興味を示したのは、ルスティーユ公爵である。
「ブレーズ公爵の甥御というと、かの麗しきベアトリス殿のお子ということですか」
「あれも、今や四十も半ばです。麗しいという歳ではありませんよ、ルスティーユ公爵」
「いや、貴殿の妹御は私にとってはいつまでたっても麗しいまま。ベアトリス殿がどこぞの伯爵家に嫁がねば、私がもらいうけたかったのだが」
「デュノア伯爵家です」
ブレーズ公爵は笑顔を張りつかせて答えたが、ルスティーユ公爵が妹のベアトリスを娶りたかったという発言に対してはなにも言及しなかった。
かつて妹が辺境の伯爵家に腰入れすると決まったときも本意ではなかったが、ベアトリスが彼女自身より十歳以上年長のルスティーユ公爵に嫁いでいたとしても考えものだったとブレーズ公爵は密かに思ったのだ。なにより、ルスティーユ公爵はそのとき既に結婚していたはずだ。
「ベアトリス殿に娘御はおられないのかな? もしいれば、息子らの一人にでもいただければ光栄だが」
「ひとりおりましたが、二年前に亡くなりました」
「ほう、それは気の毒なこと。病ですかな」
「さあ、詳しくは」
ブレーズ公爵はこれ以上この話題を続けたくない様子で、言葉を濁す。しかしルスティーユ公爵は、彼の意図をくみ取ろうとはしない。
「ベアトリス殿の娘御であれば、さぞや美しい令嬢であったのでしょうな」
「私は会ったことがないもので」
そのとき、再び扉を叩く音がして、皆がいっせいに視線を向けると、その先にジェルヴェーズが現れた。シャルム王国の第一王子は、片手に若い貴族の娘を抱いている。
「ジェルヴェーズ、その者は?」
眉をひそめたのは父王エルネストだった。
「お待たせして申しわけございません、父上。この娘は、今宵の夜会で気に入ったので、連れてまいりました」
肩を抱かれた金髪の娘は、いかにもジェルヴェーズの好みの美女である。けれど、その白い顔は青ざめ、細い身体は細かく震えている。断る道も絶たれて、ここまで連れてこられたといったところだろう。
「そなた、今宵の話し合いにその者を同席させるのか」
「どうせ、さしたる知識もない女が聞いたところで、理解できる話でもありません」
国王エルネストは小さな溜息をついた。
「女に興味を示さぬレオンにも困りものだが、そなたもほどほどにせよ。女と寝台を共にするのはかまわぬが、相手を選ばぬと寝首をかかれることになりかねない。もしその娘がクレティアン側に通じておれば、我らの話は筒抜けになる。この場には他の者を呼ぶゆえ、その娘はあとで相手にすればばよい」
「…………」
エルネストの言う〝他の者〟とは高級娼婦のことである。ジェルヴェーズがなんと反論しようか考えているとき、再び扉を叩く音がした。
そこにいた皆が怪訝な顔をする。今夜の顔触れは全員そろっている――いったいだれがこの部屋を訪れるというのか。
扉の向こうから聞こえてきたノエルの声は、来訪者の名を告げた。
「陛下、シュザン正騎士隊隊長が目通りを願い出ています。いかがいたしましょう」
「シュザン……?」
エルネスト以外のだれかがつぶやく。あからさまに眉をひそめたのは、ジェルヴェーズだった。しかし、国王は表情を変えずにうなずく。
「通せ」
それに反意を示したのは、ジェルヴェーズである。
「父上!」
「余の指示に異論を唱えるか、ジェルヴェーズ」
「…………滅相もありません」
ジェルヴェーズが渋々引きさがると、扉が開き、均整のとれた長身の若者が恭しくひざまずき、深く頭を下げた。
「このような時分にご拝顔いたしますことを、何卒お許しください」
「何の用だ、シュザン」
エルネストが口を開くまえに、冷たい声音を放ったのはジェルヴェーズである。
リオネルの叔父であり、王弟派の主要貴族でもあるのに、父王に気にいられて正騎士隊隊長の座にいるシュザンのことが、ジェルヴェーズはとかく気に入らなかった。
視線を上げることなく、シュザンは耳だけで声の主を判別する。そして、部屋に漂う香水の匂いを確認した。
「ジェルヴェーズ殿下、ご機嫌麗しく」
「挨拶はいい。何か用かと聞いているのだ、さっさと答えろ」
エルネストがジェルヴェーズをたしなめようと口を開くまえに、シュザンは用件を述べる。
「率直に申しあげれば、殿下のおそばにいる娘を引きとりに参りました」
「引きとる――だと?」
「はい」
「……誰に向かって何を言っているのか、わかっているのか」
「充分承知しております。その者、王弟派の貴族の娘にて、今宵、殿下および皆々様のおそばにふさわしくないため、私がお引きとりいたします」
「なんだと?」
ジェルヴェーズが円卓の上にあった食器を払い飛ばす。
盛大な金属音が部屋中に反響し、娘が小さな悲鳴を上げた。
「もう一度言ってみろ。すべてわかって言っているのか。あくまでおれに楯突くつもりなら、この女もおまえもこの場で斬り捨てるぞ」
「私は善意で申し上げているのです、殿下。今夜、殿下のおそばから離れぬこの王弟派の娘を、私が今すぐこの場から連れだしましょう」
「ふざけるな、シュザン!」
ジェルヴェーズが長剣を抜きはなった瞬間、レアが気を失う。
レアの身体を放したジェルヴェーズはすさまじい剣幕で、跪いたままのシュザンに向かっていき、その頭上に長剣を振りおろした。
けれどシュザンは微動だにしない。
「やめよ、ジェルヴェーズ!」
長剣の刃がシュザンの首に触れる寸前で、国王エルネストがジェルヴェーズを一喝した。
「父上……!」
振りおろす手を制止され、ジェルヴェーズは歯ぎしりする。
「そなた、余の承諾もなしに、我が国の正騎士隊隊長を殺めるつもりか。たかが、戯れ相手の女ひとりのために」
「しかし、こいつは……っ」
「シュザンの申すことは正しい。この場にそのような娘がおっては、おちおち話もできぬ。シュザン、その邪魔な娘を連れていけ。以降この王宮に出入りさせるな」
「は、かしこまりました」
シュザンは跪いたまま、さらに深く頭を下げた。
部屋の中にいた者のだれの顔も見ずに、シュザンは気を失ったレアの身体を抱きかかえ、再び扉の前で一礼すると部屋を出て行く。シュザンは、入室してから一度も顔を上げなかった。
この部屋に、王とジェルヴェーズ以外にだれがいるのか――知ってはならぬことを、知らないままで退室したのだ。