25
アベルは、突き刺さったままの短剣を引き抜き、リオネルに返しながら頭を下げた。
「面倒事を起こしてすいません」
「いや、きみのせいじゃない」
リオネルは少し疲れた顔をしていたが、それでも口調は優しかった。
「アベルの容姿は、やはり目立つ……もっと地味な格好をしたほうがよかったかな」
「リオネル様のほうがよっぽど目立ちますよ」
そんなアベルの発言をあっさり聞き流して、リオネルは真剣に話しかけてくる。
「今度ああいう男が来たら、憲兵を呼んでいいから」
「憲兵を呼ぶほど悪い人には見えませんでしたが……あの人はなにをしに来たのでしょう」
「わからないのか?」
アベルは首を横に振った。リオネルにはわかるのだろうか。
「……あれだけいろいろ言われていたのに?」
アベルはジークベルトの言葉を思い返してみたが、用事らしき用事は「食事をしよう」と言っていたことくらいだった。綺麗なものが好きだから、どうのこうのとつぶやいていたが、意味がわからなかった。
首を傾げるアベルを前に、リオネルは複雑な表情になる。
あれほど明白に口説かれていたのに、そのことに気がつかないとは……。
自分がどれほど婉曲に好意を示しても、永遠に伝わりそうにないとリオネルは内心で溜息をつく。と同時に、アベルの幼さと、鈍感さが心配にもなった。
「これからアベルをひとりにはできないな」
リオネルのつぶやきは、強く吹いた冬の風にかき消され、街の喧騒のなかに霧散した。
風の冷たさに身震いしたアベルに、リオネルはスープの椀を差し出す。
「冷めるまえに食べよう。パンも買ってきたから」
白い湯気とともに立ちのぼるエシャロットの香りに、アベルは思わず顔をほころばせる。
「おいしそう」
「本当? おれのぶんも食べていいよ」
「仕える主人のぶんまでいただくほど、飢えてはいません」
「アベルは細すぎるから、もっと食べたほうがいい」
なにか反論しようと開いたアベルの口に、リオネルはちぎったパンを放りこんだ。
一瞬面食らったが、それを噛みしめたアベルは、ぱちぱちと二度まばたきする。
「……おいしいです」
「おれがシャサーヌで一番おいしいと思っているパン屋だ」
二人はエシャロットのスープとパンをほおばりながら、冷えた身体が温まっていくのを感じた。
「そうだ、アベルはお金をもっていないんだろう? 預けておくよ。万が一のときにあったほうがいい」
リオネルはそう言って、小さな袋を差しだす。
「これ、持っていて」
「え……」
アベルはなんとなくその袋を開き、そして驚いた。
「リオネル様、こんな大金お預かりできません」
「大金と言うほどの額じゃないし、それくらいは持っていたほうがいい」
「あなたにとっては大金ではなくても、わたしには大それた金額です。お返しします」
「お金を所持していないと、なにかあったときに心配だ」
「リオネル様、あなたはお金の価値をご存知ですか?」
突然、説教っぽくなったアベルの口調がおかしくて、だが、ここはけっして笑ってはいけないところだと思い、リオネルは笑いを噛み殺す。
「それなりにはわかっているつもりだが」
「瑠璃の首飾りを売っても金貨一枚と銀貨数枚、長かったわたしの髪を売っても銀貨一枚にもなりません。それなのにあなたがくださったのは、金貨一枚、二枚、三枚、四枚……ええと、これは何枚あるのですか?」
かつてアベルが売った数々の品がそれくらいの値段にしかならなかったのは、世間知らずだったために安く買いたたかれたせいでもあったのだが……。
「髪? 髪を売ったのか?」
リオネルが急に真剣な眼差しでこちらを見たので、アベルはなにか変なことを言っただろうかと内心でややひるんだ。
「え、あ、はい」
「アベルの、その髪を?」
「ええ……生活するお金がなかったので。この髪も、いつか役に立つのではないかと思って伸ばしています」
月光のようなアベルの金糸の髪は背中まで伸びていて、軽くひとつに束ねてある。ときおり白い頬に落ちかかるおくれ毛が、アベルを儚く、そして艶っぽくみせていることに、彼女自身では気がついていない。
一方で、いつのまにかひどく貧乏性になってしまった自分に、アベルは少しがっかりしていた。これでも、かつては貴族の端くれだったのに。デュノア邸を追い出されてからの過酷な生活は、アベルの価値観を変えたようだった。
返しても受け取ってもらえそうにない金貨の袋を、しかたなく二人の真ん中に置き、アベルは食事を再開した。
そのとき、不意にリオネルの手が伸びてきて髪に触れたので、アベルはパンをちぎる手を止め、リオネルの紫色の瞳を見返した。
「リオネル様?」
「もう絶対にそんなことをしないでくれ」
「そんなこと?」
「だれかに、この髪を売るなんて、しないでほしい」
リオネルの瞳は哀しげな色をたたえ、細められている。
「…………」
「アベルの髪が銀貨一枚だなんて――」
「そんなものでしょう」
リオネルの沈んだ様子とは対照的に、アベルはあっさりと答える。二人のいる場所には大きな温度差があるようだった。
「お金ならいくらでもあげるから」
「ですから、今のわたしにはそんなに必要ありません」
「とにかく、わかったか?」
「……はあ」
アベルは曖昧に返事をした。
なぜリオネルから、自分の髪についてまで制約を受けなければならないのか、いまいち腑に落ちなかったが、とりあえずうなずいておかなければ、リオネルはいつまでもそれにこだわるような気がした。
リオネルを納得させるために、袋から金貨を二枚だけ取り出し、残りはリオネルに押しつけるように返す。リオネルはどこか不満げだったが、なにも言わずに袋を受けとった。
「このパン、本当においしいですね。どのパンも同じように麦からできているのに、どうしてこんなに違うのでしょう」
アベルはつとめて話題を変える。
「さあ……パンを作ったことがないからわからないけど、生地のこね具合とか、焼き加減とかかな。あるいは、もしかすると麦の質からこだわって作っているのかもしれない」
「麦の種類が違うんですね、なるほど……」
「いや、適当に言っただけだから、本当のことかどうかは知らないよ?」
「はい。ですが、妙に納得してしまって」
二人は顔を見合わせて、小さく笑う。
「立派ですよね、こうやってなにかを作って、それを売り、自分の力で生活するということは。わたしはひとりになって、自分にはなんの力もないこと、ひとりではなにもできないことを痛いほど知りました」
「おれもそうだよ。彼らが働いていてくれているおかげで、こうやって生かされている」
「いいえ、リオネル様はわたしとは違います!」
大きく首を横に振ってアベルが否定するので、リオネルはぽかんとした表情になる。
「リオネル様は領主になり、彼らの生活を守る立場にいらっしゃいます。けっしてだれにでもできることではなく、公爵様やリオネル様のように誠実で思慮深い領主さまが治めてこそ、領民は安心して働き、暮らせるのだと思います」
リオネルは驚いたような顔でアベルを見つめていたが、
「そう言ってくれて、ありがとう」
と、穏やかな声と表情をアベルに投げかけた。
「そのおれを守ってくれているんだから、アベルも充分に立派だよ」
そんなふうに言われると、アベルはくすぐったいような心持ちがして、頬を染めてうつむき、スープの椀に口をつける。
「……もったいないお言葉です」
そんな少女の様子に、リオネルは愛おしそうに目を細める。
「アベルがいなければ、おれはもう、今までの自分ではいられない」
リオネルの言葉の意味がわからず、アベルは顔を上げて紫色の瞳を見つめた。
「どういう意味でしょう?」
「――ずっとそばにいてほしいという意味だ」
アベルは水色の瞳をまたたき、少し思案してから、かすかに笑った。
「リオネル様は心配性でいらっしゃいますね。いつも、わたしはあなたのおそばにいるとお伝えしているはずです」
「ああ、わかっている。けれど、何度も言いたいし、何度もきみの言葉を確認したいんだ」
アベルは、ふふっと笑う。
「リオネル様は、たまに子供みたいです」
「……そうかもしれない」
リオネルもかすかに笑ってうつむいてから、スープの椀を持つアベルの両手を包み込むように、手を重ねた。
アベルは驚いて椀を持つ手を離しかけたが、リオネルの手がそれを押しとどめる。
「サン・オーヴァンの別邸に比べて、シャサーヌの本邸ではたくさん嫌な思いをさせるかもしれない。父上も……一部の家臣も、この先、アベルに対していい顔をしないかもしれない」
数々のリオネルの言動に、アベルは戸惑いを隠しきれなかったが、自分を見つめる彼の眼差しは、真剣で、真摯であり、その紫色の双眸から視線を外すことも、手を振りほどくこともできない。
「それでもおれは、一週間に一度しか会えなかった今までとは違って、これからずっとアベルがそばにいて、アベルに会えることが嬉しい。……持てるかぎりの力でアベルを守るから、おれの都合できみをこの地に留め、辛い思いをさせてしまうことを――どうか許してほしい」
アベルは黙ってリオネルの言葉を聞いていた。
戸惑いは、いつのまにかに、あたたかい気持ちに変わっている。
本邸に来てからの、この十日間のアベルの困惑や疲れに、リオネルは気づいていたのだろうか。包み込むように重ねられた、アベルの手よりひとまわり大きく、しなやかなリオネルの両手は、力強くて温かい。
どうして、この人はこんなに優しいのだろう――。
アベルは、こみあげてくる思いを笑顔に変えた。
「リオネル様の手は温かいです、とても」
「……?」
「この手がいつまでも温かくあること……それが、わたしの願いです」
「それは……」
アベルはうなずいた。
「リオネル様がお元気で過ごしてくださっていれば、他のことなんて些細なことです。そんな小さなことで、わたしが傷つくことはありません」
リオネルが嬉しそうな、困ったような複雑な表情になる。
「残りのスープを飲んでもいいでしょうか?」
アベルは、自分の手に重ねられたリオネルの手を見て言った。リオネルは我に返ったように、アベルからスープに視線を移し、ゆっくりと手を離した。
「……覚めてしまったかな?」
「そんなことありませんが……なんだかまだお腹が空いているような気がするので、もう一杯食べてもいいですか?」
「ああ、もちろん。おれもまだ食べられそうだから、いっしょにお代わりしようか」
二人は、視線を交わしてほほえむ。
そのとき、
「仲良くスープなんか食べている場合か」
聞きなれた声が、二人の頭上から降ってきた。
二人が同時に振り返ると、仏頂面のベルトランが両手を組んで立っている。
「ああ、ベルトラン。……いっしょに食べる?」
アベルが動揺して顔色を変えた一方で、リオネルはまったく驚いた様子もなく、平然と言ってのけた。
「だから、スープなんか食べている場合か、リオネル。なぜ黙って二人で館を出たんだ」
「よくここがわかったね」
悪びれた様子のないリオネルに、ベルトランの表情がわずかに硬くなった。
かつて衝突したところなど見たことのない二人のあいだに流れはじめた、緊迫した空気に、アベルはどうすればよいのかと焦りはじめる。
それを感じとったのか、リオネルがアベルに向きなおり、小銭をその手に乗せた。
「アベル、スープを三人分買ってきてくれないか」
「は……? 今、ですか?」
「ああ、今すぐに」
リオネルの語調はいつもどおりだったが、有無を言わせぬ響きがある。機嫌の悪そうなベルトランをちらりと見てから、アベルは戸惑いながらもその場を離れた。
去っていくアベルの後ろ姿を見つめながら、リオネルは不本意そうにつぶやいた。
「本当は、一人で買いに行かせたくなかったのだけど」
「それで? アベルを一人にしてまで席を外させて、どんな言い訳をするつもりだ」
リオネルはアベルが去っていった方を見つめたまま、感情を表に出さずに言った。
「アベルと二人になりたかったんだ」
「…………」
「ベルトランがいたら都合が悪いという意味ではなくて――」
「もういい、わかった」
外出の理由を聞いてきたのはベルトランなのに、早々に話を打ち切られて、リオネルは相手の真意を推し測るような顔つきになる。
その表情をまえにして、ベルトランは頭をかいた。
「おまえがそんなに率直に言ってくるとは思わなかった」
リオネルはあいかわらず、紫色の瞳をベルトランにひたと向けている。
「おれが気づいていないとでも思ったのか」
「なにを――」
「今は言葉にしないほうがいいだろう。それは、おまえ自身が一番よくわかっているはずだ」
しばらく押し黙ってから、リオネルは机に声を落とすように、ぽつりとつぶやいた。
「…………そうか、気づいていたのか」
「ああ」
「いつから?」
「さあ、いつからかな。これだけ近くでおまえたちを見てきたからな、いつのまにかだ」
「そうか」
「アベルはいろんな意味で手強いぞ」
「……反対しないのか」
「人の気持ちに反対などできるわけがない」
ベルトランのその言葉に、リオネルは安堵のなかにわずかな疲労感を織り交ぜた吐息をもらす。
「父上や周囲の者も、ベルトランと同じように考えてくれればいいのだけど」
「そうではないことを、おまえは承知しているのだろう。それを知ったうえでの想いなのだろう?」
「ベルトランが言ったように、頭ではわかっていても、気持ちの問題だからどうすることもできない。それに、そもそもアベルの心が動かないことには、なにもはじまらないからね」
「前途多難だな」
リオネルは自嘲気味に小さく笑った。
身分の違いや、周囲から認められないだろうことは、たしかに大きな問題だ。
けれどもし、アベルと気持ちが通じ合うことができたなら、乗り越えられないことはないような気がする。それよりも、アベルの気持ちが自分に向きそうにないことのほうが、今はさしあたって悩ましい。
「……公爵様には、おまえが外出している旨、なんとか言い繕っておいた。おまえの状況はわかったが、寿命が縮まるから、今後はひとこと声をかけてくれ」
「すまない、ベルトラン。勝手なことをした」
素直に謝ったリオネルに、今度はベルトランが大きく溜息をついた。
ちょうどそこに、アベルがスープを両手いっぱいに抱えて戻ってくる。
「あの……スープ買ってきましたが……」
「あ……ああ」
リオネルに謝られている現場をアベルに見られ、ベルトランはなんとなく気まずい気分で返事をする。そのとき、
「わたしのせいなんです」
アベルは訴えるような眼差しでベルトランを見上げた。
リオネルは多少強引だったかもしれないが、アベルを案内するために街へ出かけたのだ。そのことで彼がベルトランから責められることになるのは、アベルにとっては辛い。
だから――。
「わたしがリオネル様を街へお誘いしたのです。ですから、ベルトランや公爵様に無断で外出したのは、わたしのせいです。本当に、ご迷惑をおかけしました」
「いや、べつにおまえが謝る必要は……」
「どうかリオネル様を咎めないでください」
「わかった。おまえがリオネルをかばう気持ちは、充分にわかった」
「いえ、わたしは決してかばっているわけではなく――」
懸命に言い募ろうとするアベルの腕に、リオネルの手が軽く触れた。
「アベル、ありがとう。ベルトランは全部わかっているから、もういいよ」
どこか意味ありげに聞こえたので、アベルが言葉を止めて二人を見上げると、リオネルは優しくほほえみ、そして、ベルトランはひどく困ったような顔をしていた。
「さあ、アベルが買ってきてくれたスープを食べよう。そのあと、八百屋で果物、そして砂糖菓子屋で甘いもの選びだ」
「おまえら、いったいどれだけ食べるつもりだ? このスープは二杯目だろう」
「十日間、アベルは味のない食事をしていただろうから、今日は好きなものを食べてほしい」
リオネルの言葉にまぶたの奥が熱くなり、アベルは顔を上げていられなくなって両手に抱えたスープに視線を落とした。
リオネルは、ずっと気にしてくれていたのだ。
ジュストや他の騎士らに囲まれて、うつむき、寡黙に食卓に向かうアベルのことを。
顔を上げられないままのアベルをまえに、リオネルは心から申しわけなさそうな顔をした。
「すまない、アベル」
アベルは大きく首を横に振る。
「砂糖菓子か……久しぶりに食べてみたい気もするな」
ベルトランが甘いものを食べたいなどと言うのは珍しい。
「では、冷めないうちにスープをいただくとしよう」
三人は粗末な木の椅子に腰かけ、スープに口をつけた。
リオネルの優しさとスープの温かさに、アベルの十日間の疲れが癒えていく。
素朴なエシャロットのスープは、やけに美味しく感じた。
――今ここにいるのは、サン・オーヴァンの街で出会ってから、ずっと共にいる三人。
気兼ねをしない、安らげる空間が、そこにある。
贅沢な料理でなくてもいい。
大好きな人たちと食べてこそ、食事はおいしいのだとアベルは思った。