22
五人の若者は、中庭を池に向かって歩んだ。
土と芝生の色をうっすらと残して、薄い雪が積もっている。
空からは、時折思い出したように雪の欠片が舞い落ち、若者らの服の上に辿りつくと時間をかけて溶けて消えた。
王宮から出る機会が少ないレオンは、やはり珍しそうにきょろきょろと周りを眺めながら歩き、トゥーサンとマチアスは無言で、三人のあとに従う。
五人の吐く息が、幾度も濃い白に染まっては、惜しげもなく散った。
「ここが……?」
池に辿りついてつぶやいたのはレオンだった。
マチアスは一年前に、ディルクとともに花を手向けたので、この場所を初めて訪れたのは、五人のなかではレオン一人だけである。
木立のなかにある池の周辺は、中庭よりも雪が深く、白い雪化粧をほどこされた黒い木々の幹、池の水面に張った厚い氷が寒々しかった。
ディルクは、マチアスから弔花を受けとり、池の畔にかがんで雪の上に両膝をつく。
シャンティの遺体は見つからないままだと聞いている。シャンティがここで死んだということは偽りであるため、遺体が見つからないのは当然のことだったが、それを知る由もないディルクは胸を痛めた。
「池のなかは暗くて冷たいだろう……」
ディルクはそっと池の表面に張った氷に触れる。
「シャンティ、スミレの押し花を見つけたよ。ずっと気がつかなくてごめん。……お礼が遅くなってしまったけど、ありがとう」
そして、氷の上に花束を置いた。
それをかたわらで見ていたカミーユは、複雑な表情でうつむく。
十三歳の少年は、真実を告げたい気持ちを押さえられなくなりそうだった。
シャンティは、こんなところで死んでなどない。父親に館を出されたが、きっとどこかで生きている。いっしょに、姉さんを探そう――。
そう告げられれば、どれほど心がらくになることか。
けれどそれはできなかった。父母との約束のためではない。シャンティの心を、守るためだった。
カミーユは、やり場のない気持ちを、拳を握ってやり過ごす。それからカミーユは自らの腰に下げていた長剣を鞘ごと外し、池の氷の上に突きたてた。
その行動に驚いたのは、その場にいた全員だった。
氷が割れて、池の水が氷の上にあふれ出る。
「カミーユ、なにを……?」
「姉さんはこんなところにいない」
「……え?」
カミーユの言葉の意味を、ディルクは判じかねた。
「カミーユ様」
即座にカミーユの言葉の続きを遮ったのは、トゥーサンだ。
「シャンティ様はこの池に落ちてお亡くなりになりました。あなたは直接ご覧になっていらっしゃらないので信じられないかもしれませんが、それに違いありませんね」
カミーユは長剣を握ったまま、首を小さく横に振る。
「カミーユ様……!」
「姉さんの魂はこんなところにはいないって意味だよ、トゥーサン」
安堵するトゥーサンの様子にかまわず、カミーユは視線をディルクへ向けた。
「ディルク、もうそんな顔でこの池を眺めないで。姉さんはいつまでもこんなところにいないよ。そうだ、姉さんの部屋に案内するよ。花はそこに飾ろう!」
良いことを思いついたというふうに、カミーユはディルクを見た。
「シャンティの部屋へ?」
「ちょうど父上もいないし、大丈夫だよ」
「いや、カミーユ。伯爵のお許しなく、入るわけにはいかない」
「……姉さんは、いつまでも皆が哀しんでいることなんて望んでない。姉さんの部屋で、みんなで温かいものでも飲もうよ。そのほうが、ずっと喜ぶと思う」
カミーユに押し切られる形で、ディルクとレオンはシャンティの部屋に足を踏み入れることになった。
ディルクはやや気まずさを感じつつも、その部屋を見てみたいとも思った。シャンティがどのような少女だったのか、少しでも垣間見えるような気がしたからだ。
室内は広くはなかったが、マチアスとトゥーサンも同席することになった。若者五人で元婚約者の少女の部屋に踏み込みたくないというディルクの思いもあったが、カミーユは大勢いたほうが賑やかだからと全員を部屋に入れた。
「水色……」
部屋に入った瞬間、ディルクがつぶやいたのはその一言だった。
ディルクの部屋の半分ほどの広さの部屋は、白や薄紫など少女らしい淡い色調で統一されていたが、もっとも目を引くのは飾り机の上に活けてあった花の色である。
白い花もまざっていたが、ほとんどは淡い水色だ。
「水色? ああ、花ね。そう、これは乳母のエマが活けているんだ」
ディルクは、近づいて花を注意深く眺める。
「スミレはないのか?」
「スミレは季節じゃないよ」
「そうなのか……」
「エマは、どこで探してくるのか、いつもこの部屋に絶やさず水色の花を活けているんだ」
エマというのは、トゥーサンの実母であり、シャンティとカミーユの乳母でもあった。シャンティがいなくなってから、エマはしばしば体調を崩すようになり、いっきに老けこんだ。
「どうして水色なんだ?」
尋ねたのはレオンだった。ディルクの部屋で見つけたスミレの押し花も水色だったことを、レオンは思いだす。
「きっと姉さんの色だからだよ」
「シャンティの?」
ディルクは花からカミーユへと視線を移す。
「うん。姉さんを色にたとえるなら、水色だと思う。優しい空の色……」
扉を叩く音がして、トゥーサンが返事をすると、女中が飲み物を運んでくる。
香辛料と砂糖の入った葡萄酒のあたたかい匂いが、室内を満たす。それに混ざって、わずかに蜂蜜の甘い香りがした。カミーユの飲み物だけは、蜂蜜酒のようだった。
マチアスが、五つ並んだ銀杯を見つめる。
五人分の飲み物のうち、四杯は葡萄酒、一杯だけ蜂蜜酒……。
別のメイドが、ディルクの持ってきた弔花を花瓶に活け、それから暖炉に火をくべた。
「シャンティはカミーユに優しかった?」
部屋の装飾などを気にしながら、ディルクは尋ねた。
全体的に優しい色調だが、壁や天井には花や天使などの絵が描かれておらず、甘い印象を与えない。かろうじて寝台や椅子に彫られた唐草模様だけが、やわらかい曲線を描いているが、あとは飾り気のない簡素な様相だった。
仕事を終えたメイドらが一礼して、部屋を出ていく。
「優し……かったかな?」
カミーユが天を見上げて考えこむ。すると、珍しくトゥーサンが口を挟んだ。
「シャンティ様は、貴方にお優しかったではありませんか」
「けっこう厳しかったような気もするけど……」
トゥーサンは懐かしむように目を細めた。
「シャンティ様は、本当はもっとだれかに甘えたかったのでしょう」
「どういうこと?」
「貴方は産まれてからずっとシャンティ様がいらっしゃいましたから、甘える相手がいましたが、シャンティ様にはきっとだれもいらっしゃらなかったのです。ご自分が甘えられなかったぶん、ご自身にも、貴方に厳しいところがあったのではないでしょうか」
「ひどいやつあたりだ」
カミーユは少しふくれた。
「ですが、だれよりも貴方には優しくていらっしゃいました。本当の優しさには、なかなか気がつかないものですよ、カミーユ様」
考えこんだカミーユの代わりに、ディルクが問う。
「伯爵夫妻にわがままを言ったりはしなかったのか?」
「伯爵様は厳格な方ですし、奥さまはご病気がちでしたので。だからこそ、シャンティ様とカミーユ様は大変仲がよくていらっしゃいました」
もしシャンティが、心から信頼し、甘えることができる大人がいたなら、あの嵐の日に彼女の身に起こったことを、事前に打ち明けることができたのかもしれない。
そうすれば、今とは違った結末になったかもしれない。
トゥーサンはそう思わずにはおれなかった。
一方、ディルクはシャンティの寝台に目を向ける。
この寝台で、幼い少女は何を思って眠りについたのだろう。
甘える相手のいなかったシャンティを、結局婚約者であった自分も、甘えさせてあげることができなかった。
「ディルク、従騎士っていうのは大変なの?」
暗い思いに沈みかけていたディルクへ、カミーユは、シャンティとまったく関係のない問いを投げかけてきた。はっとしたディルクは、しばし返答に迷ってから、
「……従騎士っていうのは、大変なのか? レオン」
そのまま質問を従騎士仲間に丸投げした。
「従騎士っていうのは……」
レオンは真面目に考えそうになってから、我に返ってディルクを睨む。
「……って、なぜおれに振るのだ」
「おれたち従騎士のなかで、一番大変そうだったから」
レオンは渋い表情になったものの、言い返せないようだった。片眉を上げてからカミーユに向きなおる。
「それは……騎士になるための練習は厳しいが、だれに師事して従騎士になるかというところも大きいのではないか?」
「私は、来年から王宮の近衛隊のノエル・ブレーズ副隊長につくことになっています」
レオンとディルクはぎょっとした。
「そうか、おまえはノエルの甥にもあたるのか」
レオンは父王や母の周りでよく見かける男の顔を思い出そうとした。
ノエル・ブレーズは、ブレーズ公爵や先程会ったデュノア伯爵夫人の弟であるが、たしか彼だけは、前ブレーズ公爵が愛人に産ませた腹違いの兄弟である。
四十代で真面目そうな男であったという記憶はあるが、それ以外の印象はなく、顔自体もはっきり思い出せない。
あまり特徴がないように感じるのは、レオンの周囲の顔触れが濃すぎるからだろうか。
「近衛隊副隊長殿は、従騎士をつけていたか?」
ディルクはレオンに問う。
「いや、忙しい役職だからな。どうだっただろう」
「でも、おれの従兄弟のフィデール殿は、ノエル殿の従騎士だったと聞いたよ」
カミーユは、不思議そうな顔をした。
「フィデール……?」
ディルクとレオンは顔を見合わせる。
そして、レオンは思い出したように、大きくうなずいた。
「ああ、ブレーズ公爵家の嫡男か」
「レオン王子は、ブレーズ公爵やフィデール殿を知っているんですか?」
「――公爵とは頻繁に顔を合わせるが、その息子に会ったのはずいぶんまえのことだ」
フィデール・ブレーズ。
将来ブレーズ家を継ぐことになる若者に対する周囲の関心は高く、貴族のあいだで彼は文武共に優れた秀才と噂されている。
五年ほど前、彼の姿をレオンは王宮でよく見かけていた。
たしかに、フィデールはノエルの近くにいた。けれど、彼が兄ジェルヴェーズのそばにいるところも、たびたび見かけている。
評判は本当なのかもしれないが、レオンの目には、掴みどころがなく、冷ややかな人物でさえあるように感じられた。
「今度会いにいくんです」
「ブレーズ公爵親子に?」
レオンは、わずかに気の毒そうな視線をカミーユに向けた。
「実は、伯父上や従兄弟殿に会うのは、初めてで」
「伯爵夫人は先日、会ったと言っていたけど?」
ディルクが問うと、カミーユは「うん」とうなずく。
「母上は、よくブレーズ家に戻っているよ。腕のいい医者がいるみたいで、療養のために昔から頻繁に通ってるんだ」
「いっしょに行かないのか?」
「おれと姉さんはいつも残って、ここで遊んでた。そのほうが母上も気が休まるだろうから」
「なるほど」
レオンは葡萄酒に手を伸ばして、口に運ぶ。
カミーユもそれを真似て、銀杯を手に取ってから、話を続けた。
「でも、今回、これからノエル殿に世話になるから、王宮に発つ前に、ノエル殿の兄であるブレーズ公爵と、同じ従騎士だったフィデール殿に挨拶に行くんだ」
「そうか、ノエルの従騎士になるということは、来年から王宮に住まうということか」
「はい。そうしたら、レオン王子と近くなりますね。でも、ディルクと入れ違いっていうのは残念だな」
声の調子を落とすカミーユに、ディルクは明るい声を向ける。
「夏になれば社交の季節になるから、嫌でも王宮に顔を出すよ」
「本当?」
目を輝かせたカミーユに、ディルクはほほえんだ。
「それにしても、カミーユが近衛隊副隊長殿の従騎士になるとはね」
「ディルクやレオン王子は、正騎士隊隊長の従騎士だったんだろう?」
「うん、まあ」
カミーユの言うとおり、二人は正騎士隊隊長であるシュザンの従騎士だったが、それはリオネルと共に、皆、貴族のなかでも相当に身分が高かったからである。
そもそも、近衛兵という役職は、常に王族につき従い、その身を守らなければならないので、従騎士をつけることは稀である。それなのに一伯爵家の嫡男が、王宮の近衛隊副隊長の従騎士になるというのは驚くべきことである。
親戚関係にあるということ以外に、ブレーズ公爵の政治力が働いたのだろうことが容易に想像できる。
五人はひとしきり王宮の話に花を咲かせていたが、伯爵が不在であるため、ディルクらは長居することを避けデュノア邸を辞すことにした。
玄関に向かう主人ら三人に従い、やや後方にトゥーサンとマチアスが並んで歩んでいるときのこと。
それまでほとんど口を開かなかったマチアスが、不意にトゥーサンに質問をした。
「カミーユ様は、蜂蜜酒がお好きでいらっしゃるのでしょうか」
「え?」
唐突に、しかも思いもよらぬ質問をされたトゥーサンは、足を止めてマチアスを見た。
「いえ、すいません。一人分だけ蜂蜜酒だったので」
「……ああ、そうですね」
トゥーサンが再び歩みだしたので、マチアスも足を進める。
「カミーユ様が蜂蜜酒を好まれるのは、シャンティ様がお好きだったからです。姉弟においては、幼い者は、年長者の真似をしたがるものですから。真似しているうちに、ご自身も好きになったのでしょう」
「そうですか、どこかで見たことのある組みあわせだったので……」
「組み合わせ?」
「いいえ、なんでもありません」
意味のわからないことを呟いたマチアスの様子を気にとめず、トゥーサンは歩きながら、寂しげに視線を床に落とした。
「……蜂蜜酒の香りがすると、空の色を思い出します」
「空、ですか?」
「シャンティ様の双眸は、それは美しい水色でした。カミーユ様が、シャンティ様を水色に例えられたのは、瞳の色の印象からでしょう」
「…………」
蜂蜜酒の好きな、美しい水色の瞳の持ち主を、マチアスは一人知っていた。その顔を想い浮かべたが、けっして二人が同一人物だなどと思い至ったわけではない。
ただ単に、思いだしたのだ。
だから、次の質問をしたのも、なんとなくであった。
「シャンティ様とカミーユ様は似ていらしたのですか?」
「お顔立ちは……どちらかといえばカミーユ様はお母上、シャンティ様はお父上に似ていらっしゃるかも……しれません」
デュノア伯爵は美男だが、彼に似た少女というのは想像ができなかった。
トゥーサンも自信がないのか、その口ぶりは、はっきりしない。
「カミーユ様も良いお顔立ちをしておられますが、シャンティ様は、類なき美貌の持ち主でいらっしゃいました。――ディルク様は惜しいことをなさいましたね」
最後の一言は、トゥーサンが心の奥底に沈めていた、ディルクに対する非難の気持ちの現れのようだった。
さらりと言われた痛烈な皮肉に、マチアスはそれ以上なにも言えずに押し黙った。