21
そのころ、ベルリオーズ領の南西では、若者らを乗せた三頭の馬がデュノア伯爵家の正門をくぐった。
雪は小降りである。
うっすらと前庭に積もった雪を踏みしだき、玄関前の階段を上る。
若者のうちの一人が玄関を守る衛兵に名を告げると、玄関扉はすぐに開き、使用人が顔を出した。
「ディルク・アベラール様」
驚いた顔で出迎えたのは、幾度かデュノア邸を訪れているディルクを見知った使用人だった。
「すまない、急に訪問して」
ディルクはさわやかな笑顔を使用人に向けたが、彼は慌てて頭をさげた。
「すぐに執事を呼んでまいります、お待ちくださいませ」
そそくさと下がった使用人の後ろ姿を見送りながら、若者のうちの一人がディルクを責めるような目つきで見やった。
「あんなに慌てて。やはり、前触れもなく訪問するのは失礼だろう」
「いや、前もって知らせておくほど大仰なことじゃないから。父上ならまだしも、おれのような青二才のために毎度、事前に手紙を送るのもおかしな話だ」
「向こうも同じように考えていればいいがな」
「レオン、おまえがおれの屋敷に現れたときのように、不審な登場のしかたじゃなければ問題ない」
ディルクがにやにやしながら言うと、レオンは顔を引きつらせた。
「しかたないだろう、事前に知らせるような余裕はなかったのだ。一刻も早く辿りつくために、夜も休まずに馬を駆けてきたのだから」
「そうか、殿下はそんなにおれに会いたかったのか」
「そのうち王宮の地下牢に閉じ込めてやるぞ、ディルク」
「ジェルヴェーズのようなことを言わないでくれ」
そう言いながら、ディルクは肩をすくめる。
左手奥の扉が開き、デュノア家の老執事が姿を現した。
「ディルク様、ようこそおいでくださいました」
「ああ、久しぶりだね」
しかし、執事の表情はさえない。
「せっかくお越しいただいて恐縮なのですが、本日は主人が不在にしておりまして……」
「そう、デュノア伯爵はいらっしゃらないのか」
「申しわけございません」
レオンから再び非難めいた視線を受けて、ディルクは苦笑した。
「いいや、おれが突然に訪問したんだ。こちらこそすまなかった」
「とんでもございません。しかし、主人の留守中にお客人を館にお招きするわけにいかず……まことに失礼とは存じますが……」
「シャンティ嬢の眠る池に、花だけ手向けさせてもらえませんか」
「ええ……それは、あの……」
「だめか?」
「その……花だけお預かりすることはできますが……」
「そうか……」
レオンだけではなくマチアスにまで睨まれて、ディルクが残念そうな顔をしたとき、大階段の下の奥の扉が開き、女性の落ちつきはらった声が聞こえてくる。
「かまいません、お客様をお通しなさい」
驚いた皆の視線の先に現れたのは、山吹色のドレスを身にまとった、四十代ほどと思われる気品のある夫人だった。
「奥さま」
執事が慌てて一歩後ろに下がり、歩んでくる夫人のために道を空けた。
「アベラール侯爵家のご嫡男、ディルク様ですね。はじめてお目にかかります。デュノア伯爵の妻ベアトリスです」
夫人は丁寧に挨拶し、腰を落とす。
「デュノア伯爵夫人、ずっとお会いしたいと思っていました。お目にかかれて幸いです」
ディルクはかがんで伯爵夫人の手を取り、その甲に口づけを落とした。夫人はかすかな笑顔をディルクに向け、そしてレオンへ視線を向けた。
「ご一緒におられるのはレオン王子殿下でいらっしゃいますね。ようこそ、このような辺境の館までお越しくださいました」
レオンもディルクと同様、夫人の手に口づけを落とす。
「私のことを知って?」
「ええ、兄から聞き及んでおります。今は、アベラール領にご滞在されている旨も、存じ上げておりました」
「兄……?」
レオンが首をかしげると、ディルクが説明した。
「夫人は、ブレーズ家のご出身だ。ご尊兄は、現ブレーズ公爵でいらっしゃる」
レオンは驚いてまじまじと夫人を見た。
そういえばそうだったとレオンは思い出す。かつて、ディルクは、自分の婚約者は国王派の最有力者、ブレーズ公爵の姪であると言っていた。婚約を破棄した理由もそこにあったはずだった。
「ブレーズ公爵の妹君とは……。兄上殿とは王宮で度々話す機会があり、世話になっている」
レオンにとってブレーズ公爵は、国王派の要人のなかでも、もっとも苦手な部類の人物だった。
兄のジェルヴェーズやルスティーユ公爵のほうが、行動や発言は過激かつ卑劣だが、思った通りに行動するぶん接しやすい。ブレーズ公爵は、落ちつきはらった態度と、崩さぬ笑顔の裏で、なにを考えているのかわからない。
その彼に、世話になった覚えはないが、よく顔をあわせていることは確かだった。
「しかし、私がアベラール領にいることが、すでに貴女の耳に入っているとは……」
「たまたま先日、兄のところに参りまして」
夫人がブレーズ領へ行ったのだとしても、ブレーズ公爵がレオンの動向を知っていたこと自体が、信じられない早さだった。国王派どうしの繋がりはそれだけ強く、情報の伝わるのも速いということか。
「お身体の具合はもうよろしいのですか?」
問いかけたのはディルクだ。今までディルクがデュノア邸を訪れた際には、伯爵夫人はいつも病気がちだということで、顔を見せたことはなかった。
「はい、近頃だいぶよくなりまして……これまで幾度もいらしてくださっていたのに、ご挨拶もせず大変失礼いたしました」
「いいえ、こちらこそ――シャンティ嬢との婚約のこと、ずっと貴女に謝罪いたしたいと思っておりました」
夫人は黙してディルクを見た。
「婚約を破棄し、本当に申しわけありませんでした」
ディルクは深々と頭を下げる。いま少し落ちついてから謝罪しなかったのは、この機会を逃せば、この夫人にいつ再び会えるかわからなかったからだ。
「ディルク様、どうぞお顔をお上げください」
夫人は静かな声音で言った。
ゆっくりと上げられたディルクの表情は、憂いを帯びている。
「シャンティが亡くなったのは、だれのせいでもありません。あなたの判断はむしろ正しかったのですよ……国王派の我が家と、王弟派の貴方の家との婚姻には、はじめから無理があったのです」
「伯爵夫人――」
ディルクは意外な思いで夫人の言葉を聞いた。
父であるアベラール侯爵に、ディルクとシャンティの婚約を熱心に願い出ていたのは、デュノア伯爵である。そのため、伯爵夫人も同様の考えを持っていたのだと信じていたが、実はそうではなかったようだ。
けれど、国王派貴族と王弟派貴族とのあいだの婚姻に無理があったとしても、それを破棄したことは、おそらくシャンティの死とつながっているはずである。
にもかかわらず、夫人の態度も台詞もいたって穏やかであり、あからさまな憎しみのようなものは感じられない。その青灰色の瞳の向こうにある本心を、垣間見ることができない。
心の奥底では、ディルクを殺したいほどに憎んでいるのかもしれないし、もしくは、まったく別のことを考えているのかもしれないが、ディルクにはわからなかった。
「体調がよくなったとはいえ、わたしはまだ長くはお話しできませんので、かわりにカミーユを呼んでまいりましょう。お部屋にご案内させていただきますので、皆さまにはそちらでお待ちいただきたく存じます」
「いいえ、我々はここでけっこうです。伯爵がご不在のなか、長らく滞在するわけにはまいりませんので。どうか、弔花のみ、ご令嬢に手向けさせてください」
夫人はちらとマチアスの持つ花に視線をやって、
「わかりました」
と、抑揚のない声で言った。
「しばらくお待ちくださいませ」
夫人は軽くドレスをつまんで挨拶すると、執事とともに現れた扉へと姿を消した。
部屋には、片隅に幾人かの使用人と女中が立っているだけである。
マチアスは数歩下がったところで、花を手にひかえている。
レオンが小声でディルクに言った。
「あれがブレーズ公爵の妹か……美人だが、兄に似て独特の雰囲気だな」
「おれは公爵をよく知らないけど、似ているのか」
「なんというか、どことなく……まとう空気みたいなものがね。亡くなったおまえの婚約者もあんな感じだったのかな?」
「さあ、会ったことないからな」
会ったことはないが、ディルクは違うような気がした。
それはカミーユを知っているからかもしれない。
屈託がなく、人懐こいカミーユと仲のよかったシャンティ。
空色のハンカチに、空色の押し花を隠したシャンティ。
きっと、素直で、無垢な少女だったに違いない。――そんな気がした。
「ディルク!」
喜びをにじませた声が、玄関に響いた。
夫人が出ていった扉から、金髪の少年が飛び出すように現れる。そのうしろには、ディルクらより少し年長と思われる若者が従っていた。
「久しぶり、カミーユ」
ディルクが笑うと、カミーユは抱きつきそうな勢いで走り寄ってきた。雰囲気は以前よりだいぶ大人びたが、表情や行動はまだ幼さを残している。
「一年ぶりだよ、ディルク! すごい、またかっこよくなったね!」
「カミーユもずいぶん背が伸びたな。いくつになったんだ?」
「十三だよ。ようやくこの歳になった」
「ようやく?」
「姉さんが去った歳だ」
かすかな翳りが青灰色の瞳に浮かんだが、カミーユに落ち込んだような様子はなかった。
「ディルク、そんな顔をしないでよ。悲しい意味で言ったんじゃない。姉さんと同じ年齢になって、おれもがんばろうって気持ちで言ったんだよ。おれはまだまだ子供だけど、姉さんはこんな歳で辛い目にあったんだ。おれも、姉さんに負けないように、乗り越えなくちゃいけないと思ってる」
「そうか……」
ディルクは眩しいものを見るように双眸を細めた。
「えらいな、おまえは」
「ディルクもえらいよ! 騎士になったんだろう、かっこいいなあ」
カミーユは羨望の眼差しでディルクを見た。
それから、ふと視界に入った見慣れぬ若者に気がついたようだ。
「あれ? マチアス以外にもう一人?」
「ああ、王宮でいっしょに従騎士をしていた、レオン王子だ」
「レオン……王子?」
「ああ」
カミーユは訝しげにレオンを眺めた。
少年の遠慮のない視線を浴びて、レオンは仏頂面でカミーユを見返す。
「本物?」
カミーユの台詞に、ディルクは吹きだした。
「やっぱり偽物っぽいよね」
「ディルクおまえ、おれが偽物っぽいとはなんだ。それに、『やっぱり』は余計だろう」
カミーユはおそるおそるレオンに近づく。
「本当に王子さまなんだ」
「…………」
レオンは見せ物にされている気分だったが、カミーユのほうはなにかを納得したらしく、うやうやしく頭を下げた。
「申しわけございません、王子殿下。私は、デュノア家のカミーユと申します。お目にかかれて光栄です」
急に態度を変えた少年に、レオンは苦笑した。
「そんなに硬くなる必要はない。友人がいろいろと迷惑をかけているみたいで、すまないな」
「王子さまって、もっと偉ぶっているものかと思ったけど、いい人なんだね」
カミーユは、だれにともなく無邪気に言った。
「そう、弟のほうは気さくだよ」
皮肉っぽく言ったディルクだったが、レオンに睨まれ、いったん口をつぐむ。
「姉さんに花を持ってきてくれたの?」
「ああ、すまない……」
声の調子を落としたディルクを、カミーユは不思議そうに見やった。
「なんで謝るの?」
「今更、こんなことをしてもしかたがないことはわかっているんだが……これくらいしか、できることがなくて」
カミーユは首を左右に振ってから、ディルクの手を引いて歩きだした。そして、ディルクを振り返らずに言う。
「姉さんは、ディルクのことが大好きだったんだ。好きな相手から花をもらって喜ばない女の子はいないよ」
こういうときのカミーユは妙に大人びて見える。
「ありがとう、ディルク。姉さんのことを忘れないでいてくれて」
その言葉に、ディルクは不覚にも目頭が熱くなるのを感じて、大きく瞳を開いて上を見上げた。
空色のスミレの押し花を見つけた日以来、シャンティのこととなると、どうも涙腺がゆるい。けれど、レオンの前だけでは、けっして涙など見せたくなかった。
忘れるはずがない。
忘れられるはずがない。
十一年間ものあいだ、婚約者だった少女の存在を。