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白い絵具で、真横に幾筋も線を引いたような雲が、水色の空にたなびいている。
数か月前までは、突き抜けるような深い青さだった空が、今はアベルの瞳の色に薄まっていた。シャルムの短い夏は束の間に過ぎ去り、秋もすでに冬支度に入り始めていた。
長閑な田園風景に、作物や、農夫たちの姿はない。麦や野菜は刈り取られ、収穫はすでに終わり、農民は小屋で冬を越すための準備に追われている。
遥か彼方に、ところどころ低い雲に覆われたラ・セルネ山脈の山影がうっすらと見える。
昼下がりだが、けっして気温は高くなかった。
一台の馬車が、田園地帯を抜け、牧草地へとさしかかる。
豪華ではないが、重厚な造りの馬車を引いているのは二頭の馬である。馬車を守るように、その左右に二騎の姿があった。
高貴な者が乗っているのかもしれないが、馬車に紋章はない。
馬車の右側で馬を進めていた少年が、風の冷たさに身震いした。厚手の外套を羽織っているが、長いこと馬上で風を受けていると、じわじわと身体は冷えていく。
少年がかぶる外套のフードの合間から、触れれば溶けて消えてしまいそうな淡い金糸の髪がのぞいている。その金糸に縁取られた顔立ちは、精巧な彫刻のように整っていて、男女問わずこの少年とすれ違う者は、しばしその美しさに目を奪われた。
これほど秀麗な顔立ちであるにもかかわらず、きちんと男性用の衣服を着こんでいるためか、この少年が実は少女であることに、だれ一人として気づかない。
少年の恰好をした少女は、思いのほか身体が冷えるので、試しに上を向いて大きく息を吐いてみた。
白い息が霞んで、霧散する。
まだ十二月にもなっていないのに、もうこんなに寒いのかと驚かされる。
そんな子供っぽい仕種に、馬車のなかにいた青年がくすりと笑った。
「アベルは、おもしろい子だね」
楽しそうに言った青年へ、向かいに座っていた紫色の瞳を持つ青年が、ぼそりと答える。
「……おもしろくない」
おもしろいと言ったのはディルク、おもしろくないと言ったのはリオネルである。
二人は十八歳になり、この月の初め、シャルムの第二王子であるレオンと共に騎士叙勲されたばかりだった。
ベルトランほどではないが、この二年間で二人は身長が伸び、シャルムの男性の平均身長をゆうに越している。均整のとれた長身、細身だが引き締まった体つき、そして端正な顔立ちの二人や、レオンが並んで歩くと、王宮内でも街なかでも女性たちの視線を奪った。
そのなかでも積極的な女性は、声をかけてきたり、花を差しだしてきたりもする。
三人の元従騎士たちは、皆それらにまったく関心がないようだったが、ディルクは話しかけやすい気さくな雰囲気ゆえに、特に女性たちから言い寄られて、ときには華やかな噂まで立つこともあった。
周囲はその姿を、半ば同情的に――半ば仕方なしと見守っていたが、アベルだけはひどく複雑な気持ちで、洩れ聞こえてくる噂を受け止めていた。
そんなディルクが「おもしろい」と評したのは、単にアベルが、吐いた息が白くなるかどうか試していたからだけではない。アベルはもう四日間も、ずっと馬車のなかに入らず馬に乗ったままだった。
現在、馬車の左側を守っているのはディルクの従者マチアスだが、彼はベルトランと交代で馬上にいる。一方アベルは全員で休憩するとき以外は、絶え間なく馬上にいた。
一日目にも、二日目にも、三日目にも、そんなアベルを馬上から降ろそうと説得を試みたのは、アベルの主人であるリオネルだ。
「アベル、そろそろベルトランと交代してほしい」
「おれが代わろう」
「外は寒いから、中に入ったら?」
このように様々な言葉をかけたが、アベルは頑なに断った。
「ベルトランと交代するなら、先にマチアスさんとお願いします」
「リオネル様が馬車の外になど、とんでもありません」
「寒いのには、慣れました。お気づかいは無用です」
つけいる隙のない返答にやむなく引きさがっていたが、この四日間、リオネルは馬車のなかでずっと不機嫌だった。
そんな二人のやりとりや、リオネルの珍しく苛立った雰囲気を間近で見ていたディルクは、興味深くてしかたがないという様子だ。
リオネルに対して物怖じしない態度のアベルと、自分より身分も年齢も下のアベルを手懐けられないリオネル。長い馬車の旅だが、どちらを見ていても飽きなかった。
「リオネルにも、手に負えないものがあるんだね」
親友の台詞に、リオネルは表情を変えなかったが、ベルトランはかすかに口角を上げた。彼も同じことを思っていたからだ。
いつも冷静で、だれとでもそつなく接するリオネルだが、この少女とはどうも勝手が違うようで、ときに喜怒哀楽の感情を露わにし、振りまわされつつも最終的には、アベルに甘く、弱いところがあった。
「サン・オーヴァンの街で出会ったとき、アベルはなにをしていたの?」
ディルクがリオネルに尋ねる。リオネルは少し思案する顔になってから口を開いた。話してよいものか迷ったが、特に隠しておく必要もないと判断したのだ。
「アベルは病気と怪我で瀕死の状態だったんだ」
ディルクは黙ってリオネルの顔を見やる。
「フェリペ殿を知ってるか? 正騎士隊副隊長殿の親族の」
「シメオン殿の? ああ、聞いたことあるかな。あまりいい噂ではなかったような気がするけど」
「そう。その人が、病気で弱っていたアベルに手を上げていたところを助けた」
「……ひどいな。どうしてフェリペはそんなことを?」
「フェリペ殿は、アベルに斬りつけられたからだと言っていたけど、アベルが自分から手を出すはずないから、フェリペ殿がなにかちょっかいをかけてきたんだろうね」
「本人から事情を聞いてないの?」
「……うん、まあ」
「どうして聞かないんだ?」
「話したがらないだろうから」
身分のこともそうだが、主人という立場なのに、リオネルは何事においてもアベルの意向を汲もうとする。それだけリオネルは、アベルに気を使っているのだ。
「話したくないかどうか、聞いてみなければわからないじゃないか」
「おれが聞いたら、答えざるをえないだろう。無理強いしたくない」
「それで、どうしてその死にかけの少年を助けたの?」
「……どうしてアベルのことがそんなに気になるんだ?」
リオネルは苦笑して、幼馴染みを見やった。あれこれ聞くその態度は、アベルになにも問わないリオネルのそれとは正反対だ。
「だって、リオネルがこんなに夢中になるものをはじめて見たから」
「夢中?」
リオネルはディルクの言葉に首を傾げた。
「おれにはそう見えるよ。本当はいろいろ聞きたいのに、聞けない。本当は休憩させたいのに、強制できない。いろいろ心配なのにどうにもできなくて、その結果、ずっと上の空で、そのことばかり気にしてる。それを夢中というんだよ」
リオネルはどこか自嘲気味に笑い、否定も肯定もせず、ちらと窓の外を見た。
手綱を掴む、アベルの細い指先が目に入る。それは、寒さのせいで赤くかじかんでいる。リオネルは胸がざわつくのを感じた。
ディルクの指摘したとおりだ。
かじかんだあの手を温めることができたら、と思うのに、いざ話をして断られるとどう切り返していいかわからない。アベルと接すると、なにが正しくて、なにが最善の方法なのか、いままでは雲ひとつない空のように明快であったことが、とたんに全て厚い霧におおわれたように判断できなくなる。
それをディルクは「夢中」と呼んだが、リオネルにとっては「霧中」という言葉のほうが近かった。
馬車の窓からディルクが、馬に跨るアベルの横顔を見やった。
「過酷な経験をしてるんだ……」
馬車のなかには現在、リオネル、ディルク、そしてベルトランがいる。
ベルトランは今朝から馬車のなかにいるので、そろそろ外で護衛に当たるどちらかと交代してもよい頃合いである。
「そういう経験があったから、アベルの目はどこか憂いを含んだ水色なのかな」
「…………」
「アベルが、ベルリオーズ家の本邸に行くのは、はじめてのことだろう?」
「ああ」
「いろいろ大変だろうから助けてあげたいけど、おれはアベラール邸に戻らないわけにはいかないし……ベルトラン、頼むよ」
「どうして、おれなんだ?」
ベルトランは、突然話を振られて顔を上げた。
「本邸に戻ればリオネルは忙しくなるだろう? リオネルはアベルにかまっていられなくなるから、ベルトランのほうが細かい動きができると思って」
「おれは、リオネルを守ることしか考えてない」
あっさりと言い切ったベルトランに、ディルクは目を丸くしてみせる。
「冷たいなあ」
「大丈夫だよ。そう言いつつ、ベルトランにとってアベルは大切な生徒だから」
リオネルに穏やかな笑顔を向けられて、ベルトランは頭をかいた。笑顔に包まれた言葉が、純粋に思ったことを口にしただけのものなのか、自分をからかったものなのか、それともやんわりとくだされた指示なのか、ベルトランにもわからないのだろう。
「その大切な生徒と、そろそろ交代してあげてくれないか」
リオネルが言うと、ベルトランはうなずく。
「アベルが承諾するなら、おれはいつでも代わるが」
リオネルは前方の覗き窓から御者に声をかけ、馬車を止めさせた。
左右の馬も、それに伴って歩みを止める。
馬車が止まったので、アベルは不思議に思ってそちらへ視線を向けた。
道の途中で急に馬車を止めた理由がわからなかったからだ。
扉が開き、リオネルが馬車から出てくる。次いで、左のマチアスがいる側の扉が開いて、ベルトランが降りてきた。
「アベル、お疲れ様。交代だよ」
そう言ったリオネルの語調は、いつになくきっぱりしていた。
今までのように、交代しないか、とか、交代しよう、などと提案するような調子ではなく、すでに決定事項のようである。
「ありがとうございます。でも交代ならマチアス様とどうぞ」
そう言ったアベルの顔は、普段より白い。寒さのせいだ。
「いいや、ベルトランときみが交代するんだ」
「わたしはここにいます」
「アベルはもう四日間も外にいる。そろそろ交代だ」
「旅のあいだじゅう、外でけっこうです」
「外は寒い」
「わたしは、寒くても平気です」
「きみは平気でも、おれは……そうじゃない」
「……どういう意味でしょうか?」
「きみを寒いところに放っておいて、おれが暖かいところにいるのは嫌だ」
「嫌だとおっしゃいましても、それが主従という関係です」
「主従という関係なら、これは命令だ。交代してくれ」
命令だと言いつつ、「交代しろ」とは言えないところが、リオネルのアベルに対してどうしても強硬になりきれないところだった。しかし、リオネルにしては、がんばったほうだ。
命令だと言われれば、アベルは従うしかない。
視線を伏せて、どこか不服そうに馬から降りたものの、心からは納得できないでいた。
旅をする五人のなかで、最も身分の低いアベルが、常に外で馬車を守っていというのはおかしなことではない。むしろ当然のことだ。
稽古をつけてくれている師を外に追い出し、自分は馬車のなかで過ごすというのは抵抗がある。
そしてその結果、馬車のなかで、ディルクとリオネルの三人という空間になることも、ひどく憂鬱だった。
今しがたアベルが乗っていた馬に、ベルトランが颯爽と跨る。
「ゆっくりしていろ」
ベルトランが一言、アベルに声を放った。その言葉にかすかにほほえみを返し、リオネルに続いて、アベルは馬車に乗りこむ。
すると馬車のなかでは、ディルクが笑いをこらえる表情だった。
「どうかした?」
リオネルが不機嫌な声で問うと、ディルクはぼそぼそと答える。
「なんでもないよ……いや、二人の会話がかわいくて……つい、いや、ごめん」
リオネルとアベルは複雑な顔で視線を交わしたが、アベルがすぐに瞼を伏せた。
「わたしは、どちらに座ればよろしいでしょうか?」
「あ、こっちにおいでよ。リオネルの隣だと気を使うだろう」
ディルクは、自分の隣をぽんぽんと二回叩いた。
アベルはリオネルの顔を見る。リオネルは苦笑してうなずいた。
「どこでも好きなところに座ればいいよ」
アベルはどぎまぎしながらディルクの横に座る。それは、アベルにとって都合がよかった。
向かい合わせだと、元婚約者の顔と対面することになるが、隣にいれば視線を合わせずにすむ。
これまでも、幾度かベルリオーズ家別邸に訪れたディルクと話してはいたが、アベルはどうしても彼の存在を意識せずにはいられなかった。
アベルにとってディルクは、かつて想い焦がれていた相手。
好きかどうかとか、恋をしているかとか――、そういった話ではなく、ともかく意識してしまうのだ。
五人は、王都サン・オーヴァンから、ベルリオーズ領に向かう途中である。
青年らが叙勲された今、従騎士としての王宮での生活は終わり、それぞれは自らの所領に戻ることになった。
ベルリオ―ズ領とアベラール領は隣接しているので、ディルクはリオネルの馬車に同乗し、共に西に向かって旅をしている。
ディルクと一緒に過ごすのは、ベルリオーズ領に入るまでだ。そこからは、ディルクとマチアスは南西に下り、アベラール領を目指すこととなる。
旅もすでに中盤にさしかかっていた。
四日前、アベルは王都のベルリオーズ家別邸にいる女中のエレン、医師のドニ、執事のジェルマン、そしてイシャスとしばしの別れを惜しんだ。イシャスは一歳半になる。
イシャスはアベルとエレンの世話で元気に育ち、言葉もいくつか話すようになってきたが、はじめて「ママ」と呼んだのは、エレンに対してだった。
そのこともあって、皆で話し合った結果、イシャスはエレンから引き離さないことにした。
リオネルの計らいで、寒い冬の旅は避け、春になったらイシャスをベルリオーズ領の本邸に連れてくる手はずになっている。エレンもそれにともなって、住まいを移すことが決まった。
アベルは、自分のためにベルリオーズ家の使用人を移動させるなどということに恐縮したが、リオネルは引き下がらなかった。イシャスをアベルのそばで育てるためには、エレンの存在は欠かせない。エレンを本邸へ連れていくことは、迷う余地のないことだと。
そしてエレンも、これから先も引き続きイシャスやアベルと共に過ごせることに、涙を流して喜んだ。
ディルクの隣で、アベルはうつむきながら座っている。リオネルはその姿を、そっと見やった。
身長が伸びた二人に比べて、アベルはさほど伸びていないので、彼らの身長差は広がっていた。ディルクの隣に座るアベルは、普段より小柄に見える。
十五歳になったアベルは、出会ったころよりもいっそう美しくなった。
なめらかな白い肌、淡い水色の瞳、そして絹のような金糸の髪。
白と、水色と、金――、淡い色調のみがその秀麗な顔立ちを彩っているので、それは、触れた瞬間に消えてしまいそうな幻のように、儚く透明感のある美しさだった。
日に日に美しさを増すアベルに、リオネルは根拠のない焦りを覚えた。
それは、彼女が自分の手の届かないところへいってしまうような気持ちだった。
サン・オーヴァンの街外れを流れる川で、自ら命を絶とうとしていたアベルを連れ戻した日から一年半が経つ。
その間、リオネルは王宮に生活の拠点を置きながら、週に一度はベルリオーズ家別邸に戻った。
それは、アベルにベルトランの稽古をつけるためだったけれど、リオネルは彼女に会えるその日を心待ちにするようになっていた。
……アベルは、なにをしているだろう。
あの子の声が聞きたい。
楽しそうに笑う顔が見たい。
そして、いつか触れてみたい。
この一年半のあいだに、リオネルは、自分のアベルに対する気持ちがどういうものなのか、はっきり気がついていた。
気持ちの問題なので、あれこれ考えても仕方のないことだったが、それにしても、アベルを好きになってしまったことは、あらゆる意味でリオネルを悩ませていた。
リオネルが王宮にいるあいだに、再びどこかへ行ってしまうのではないか、フェリペや国王派の刺客によって傷つけられはしないだろうかなど、心配が後を絶たない。
様々な感情のせいで、眠れない夜もしばしばである。
アベルはいったい何者なのだろうか。
出会うまでのアベルの身には、なにが起こっていたのだろう。
十三歳のアベルを抱いたのは、どんな男なのか。アベルはその男に惚れていたのだろうか。そして今も彼女の心には、その男がいるのだろうか。
アベルの気持ちが自分に向く日は来るのだろうか。
ときに胸の奥が熱くなるような恋しさを覚え、ときに嫉妬や不安のような暗い気持ちに囚われる。自分のなかにそのような感情があることに、驚きもしたし、疲れもした。
王宮では、全ての思考を振り切るように、稽古に打ち込んだ。
そして今、リオネルの目の前では、ディルクがアベルに話しかけていた。
「アベルは、サン・オーヴァンの街から外には出たことあるの?」
アベルは、しばらくの間をおいてから、小さくうなずいた。
「そうなんだ。どのへん?」
「…………」
どう答えても裏目に出そうだったので、アベルは答えることができない。
リオネルに軽く睨まれたディルクは、あえて明るい笑顔を作る。
「ごめんね、答えにくいことだったかな」
「申しわけありません」
ディルクはアベルのことが気になってしかたがないようだった。
「弟の、イシャスって名前はだれがつけたの?」
「それは……」
アベルは口ごもる。名付け親はリオネルだが、それを言っていいものかどうか迷って本人へ視線を向ける。
リオネルは軽く苦笑してディルクを見た。
「おれだよ」
「――は……?」
その返答に、さすがのディルクも、呆気にとられて口を開ける。
「なんかの冗談?」
「いや、おれがつけた」
「本当に?」
リオネルは、少し視線を落としてうなずく。
「……それはまた、どうして?」
「まだ名前がついてなかったからだ」
「なんだか話がうまく呑み込めないんだけど……生まれたばかりだったのか? それにしても、なんでおまえが?」
「まあ細かいことはいいだろう」
「おまえは、どれだけ――」
なにか言いかけたものの、ディルクは口を閉ざした。
「助けてくださったとき、弟は産まれて間もなく、名前もなかったのです」
アベルは助け船を出すつもりで、リオネルの話を補足した。
「なので、リオネル様が名前を考えてくださいました」
「それは……そうか、そういうことなんだ」
いったんはうなずいたものの、やはりディルクは首を傾げる。
「でもイシャスを産んだの母親はいったい……、いてっ」
リオネルに脛を蹴られ、ディルクは顔をしかめて足をさすった。
「悪かったよ。蹴ることないじゃないか」
「悪い、つい」
リオネルも謝罪したが、その顔はけっして悪いことをしたなどと思ってはいない。一方ディルクは不意に表情を変えてアベルのほうを向いた。
「アベル、いろいろ大変だったんだね」
ディルクが心から気遣わしげな顔で覗き込んできたので、アベルは慌てて視線を逸らす。
「いえ、その……」
「でもこれからはリオネルがいっしょだから、大船に乗ったと思っていいよ」
「わたしはリオネル様をお守りする立場です」
まるでリオネルが守ってくれるというような口ぶりに、アベルは反論したくなった。
たしかに、出会ったころは守られてばかりだった。けれどこれからは、自分がリオネルを守るのだ。
「わかってるよ。でも、リオネルはきみを守ると思うよ。ねえ、リオネル」
ディルクは、どこか意地の悪い笑顔をリオネルへ向ける。
「なにを言わせたいんだ?」
「そう、不機嫌になるなよ」
リオネルは、なにか考えこむように黙り込む。そしてアベルは、これ以上ディルクにあれこれ聞かれたくなかったので、窓の外に顔を向けた。
沈黙が馬車を支配した。規則的な馬の蹄の音と、車輪が回る音だけが響いている。
馬車のなかは暖かく、その振動は心地いい。
窓の外を見ながら、冷えた身体が温まっていくにつれて、アベルは徐々に眠気を覚えた。
遠くで、牧草を食べている羊の群れがいる。その白い群れが、揺らいで、消えかける。
いけない、目を覚まさなければ、と思いつつも、時折、意識が途切れる。
そして、ついに、アベルの意識は馬車から離れ、遥か彼方へ飛び立っていった。
西へ向かうということ――、それは、アベルの故郷である、デュノア領に近づくことだ。
だからかもしれない。
アベルは、夢を見た。
幸せな、夢だった。
父と、母と、カミーユ、そしてトゥーサンが笑っている。
――ああ、みんなが集まっているから、これは新年の祝いの日だ。
暖炉の薪が、パチパチと鋭い音をたててはじけている。橙色の炎があたたかい。
『お母様、今日はたくさん召し上がってくださいね』
『そうね、シャンティ』
体調が悪く、曖昧にほほえむ母ベアトリスに、シャンティは笑ってみせてから、声をあげた。
『あ、カミーユ。いま、鴨のつけあわせの干し李、つまみ食いしたでしょ!』
『食べてないよ!』
カミーユが、片方の頬を膨らませて、もごもごと言った。
『じゃあ、リスみたいに、そのほっぺたに入っているものはなに?』
『もとからこういう顔なんだよ』
『それなら、こっちの頬にも入れて、ちゃんと左右対称にしなさい』
シャンティは、カミーユの口に、もうひとつ干し李を入れた。
『やったあ、二個目だ!』
好物の干し李を口いっぱいに入れたカミーユが喜ぶと、周囲に笑い声が広がった。
『わたしのぶん、少しあげるわよ』
シャンティが言うと、ベアトリスもうなずく。
『カミーユ、わたくしのも食べなさい』
するとカミーユは首を横にふる。
『母上は、ちゃんと召し上がってください。かわりに姉さんのぶんは全部もらいます』
『だれが、全部あげるって言ったのよ!』
再び笑い声が部屋を満たす。
暖かい。
幸せだったはずの場所。
うとうとしかけたアベルの様子に、最初に気がついたのはリオネルだった。
「ディルク」
リオネルが小声で呼ぶと、ディルクがその視線を追ってアベルを向いた。
同時に、アベルの小さな頭が、ことんとディルクの肩にもたれかかる。そのままアベルは小さな寝息をたてて、深い眠りに落ちてしまった。
「……こうしていると、本当に子供だね」
そのあどけない寝顔と、もたれかかるかすかな重みに、ディルクは呟く。
ディルクは、四人姉弟の末っ子である。上三人は全員、女だ。年下の少年にもたれかかられた経験など一度もない。
「頑なに外にいたけど、きっと疲れていたんだね」
ディルクの言葉に、リオネルも寝顔を見つめながらうなずく。
「寒かったしね」
寝ているはずのアベルの口元が、ほんの少しだけ笑ったようだった。
そして、なにかをつぶやく。
「カミ……ーユ……」
「ん?」
ディルクは首を傾げて、リオネルを見た。
「おれも聞こえなかった」
「カユ……? 粥?」
「どんな夢をみているんだろう」
アベルをみつめるリオネルの表情は、穏やかだ。
たとえ自分ではない男の肩にもたれかかっていたとしても、アベルが幸せな夢のなかにいるだろうことが、リオネルには嬉しかった。