14
少女が、青年の訪問に気づかぬほど、深い眠りにおちていたころ。
平穏な眠りから手荒に起こされた者たちがいた。
月や星は厚い雪雲でおおわれ、明かり一つないはずの夜更けに、目もくらむような火炎が舞い上がる。
踊るように燃え盛る火の粉にまぎれて、女子供の悲鳴と、男の怒号が響く。
「山賊だ! 山賊が出たッ!」
ラ・セルネ山脈沿いに位置するラロシュ侯爵領の小さな村。
炎が上がった民家から飛び出してきた幼い子供を、数人のたくましい男たちが追いかけまわしている。
「逃がすなよ! 子供は高く売れるからな」
男たちに捕まえられ、担ぎあげられた十歳にも満たないだろう少年は、泣きじゃくりながら暴れている。
「父ちゃんっ! 母ちゃん!」
「心配するな、坊主。もっと優しいご主人様に買われて、幸せに暮らすんだからな!」
少年は、大声で泣き始めた。
火の粉が舞い落ちる民家の合間を、村人たちが逃げ惑う。
「やめてくれ! その食糧を持っていかれては、この冬が越せない!」
秋に収穫した小麦や保存用の野菜を、今まさに山賊が持っていこうとするのを、若い男が相手の背中にしがみついて阻止しようとしている。
「邪魔だ、離れろ!」
振り払われて地面に転げた男は、なおも山賊の足にしがみつく。
「頼む! 年老いた両親も、もらったばかりの妻もいるんだ!」
「家族の心配をするより、自分の心配した方がいいぜ」
山賊が言うや否や、男は蹴り飛ばされて泥水の上に転がった。それを見ていた、男の妻らしき娘が悲鳴をあげる。
「おまえが、こいつの嫁か」
あわてて逃げだす女にすぐに追いつき、山賊の男は女の顔をまじまじと見て手を止めた。
「なんだ、醜女か」
まだ雪は薄らとしか積もっていなかったので、人々に踏み荒らされた地面は泥濘と化していた。炎が闇夜を緋色に染め上げる。
しかし、その砂埃のなか、地獄のごとき惨状は繰り広げられていた。冬を越すための食糧は奪われ、子供たちは連れて行かれ、反抗する男たちは斬り殺される。
悲鳴が炎と砂埃の大気に響きわたった。
「お願いだ、その子は病気なんだ! どうか連れていかないでくれ!」
石造りの民家の戸口で、老人が連れていかれそうになっている少女の手を掴んで、地べたに這いつくばった。
「うるせえ爺さんだな。年寄りは引っこんでろ!」
山賊に蹴られた老人は腹を押さえ、呻きつつ再び手を伸ばす。
「おまえらが連れて行ったところで、アンナは長くは生きられない! 助けてやってくれ!」
「そんな嘘が通じるかよっ」
老人が絶望に満ちた叫び声をあげたとき、にわかに病気の少女を抱えた山賊の眼前に現れ、少女の身体をまたたくまに奪った男がいた。
「なにしやがる!」
「病人なんか連れ帰ってみろ、疫病がおれたちのあいだに蔓延したらどうする」
少女を奪った男の顔を認識して、山賊は唸った。
「ヴィート……!」
「病人を連れ帰ってはならないというのは、長の命令だったはずだが」
「ちくしょう! 覚えていやがれ、ヴィート!」
少女を連れていこうとした山賊は、唾を吐きながら、次の獲物を求めて走り去る。一方ヴィートと呼ばれた山賊は、少女を担いだまま老人のもとへ近づく。
「ああ、アンナ……」
ヴィートがそっと老人の腕のなかに降ろした少女を、老人は涙を流しながら抱きしめた。
そして、老人が顔を上げた次の瞬間には、少女を助けた山賊の姿はすでに消えており、火の粉ばかりが舞い落ちていた。
直後、どこからか声が上がる。先程の山賊の声のようだった。
「食料は全て奪うな! 村人を殺すな! 子供を攫うな! 農民やその跡を継ぐやつが死んだら、我々が次に奪う獲物もなくなるぞ!」
その声を聞いて、山賊たちは顔を顰める。
「ヴィートの野郎、余計なことを言いやがって」
「あいつといっしょだと、つまらねえ仕事になるぜ、ちくしょう」
けれどヴィートが主張することは、間違ってはいない。農民が元気に働き、作物を育て、財産を成してこそ、山賊たちはそれを奪うことができる。
それに、ヴィートに逆らうことを山賊たちは恐れていた。それは、単にヴィートが自分たちの長であるブラーガと親しいからというだけではない。
「しかたねえ、今日は従うしかない」
山賊の男は舌打ちした。
「本気かよ」
「このあいだ、ヴィートに刃向かったやつ、どうなったか知ってるか?」
「知らないが、だいたい予想はつく」
「今のあいつの腕に敵うのは、ブラーガくらいだ」
男が足元に転がった小さな木の桶を蹴り飛ばすと、桶は火煙のなかへ消えていく。
「あいつがガキのころに殺しておけばよかったぜ」
「しょうがねえだろ、泣き虫だったヴィートがまさかこんなに腕を上げるとは、あのころだれが想像したっていうんだ」
山賊たちは、その名に似合わぬ紳士的な略奪をはじめたのだった。
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静かな時間が流れていた。
幼いころから住みなれているはずの館は、なにかがもの足りない。
片膝を立て、くつろいだ姿勢で座る長椅子。その前に据えられた、彫り物の施された八角形の卓。
生まれてから、あらゆる夢をその上で見てきた寝台。大きな窓と、カーテン。その外に広がる庭の景色。そこへ舞い落ちる粉雪……。
なにも変わっていない。
なにも変わっていないはずだった。
青年は読んでいた本を閉じて膝の上に置き、小さく吐息を吐いた。
腰に下げた短剣にはアベラール家の紋章が刻まれている。
柔らかい薄茶色の髪と瞳のその青年は、ディルクである。
ディルクは、なにか足りないような、どこか空虚にも感じる気持ちの在処を探した。
四年間の従騎士生活が長かったのだろうか。
四年間、寝食をともにしたリオネルやレオン、ベルトランと別れたことが、寂しいのだろうか。
ディルクは本の裏表紙を見つめ、そして、そうではないような気がした。
仲間と別れたことは寂しいが、二度と会えないわけではない。
リオネルとベルトランには、その気になれば馬を駆って一日で会いに行ける。
レオンに会えないことがそんなに寂しいかと問われれば、そうでもない。不思議と、またすぐに会えるような気さえした。
ディルクが王宮に移り住んだのは十四歳のとき。
十四歳の自分は、この場所で、なにを思っていただろう。
ディルクは本を卓に置き、長椅子から立ち上がった。ゆっくり歩んだ先は書き物机のまえである。
そして、そっと一番上の引き出しを開けた。
埋めこまれた白蝶貝が草の文様を織りなす木箱を、奥のほうから取り出すと、ゆっくりとした仕草でその蓋を開ける。
なかには一枚の紙切れと、淡い水色のハンカチがあった。
その紙切れとハンカチを持ったままディルクは立ちすくんでいたが、しばし躊躇ってから、おもむろに手紙を開く。
美しい筆記体が、三行だけ並んでいた。
ディルクはその文字の上を、目だけではなく、指先でもそっとなぞる。
手紙には、次のように書かれていた。
〝まだお会いしたことのない、わたしの婚約者様へ
はじめて貴方に贈り物をします。気に入っていただければ嬉しいです。
あなたのシャンティ〟
これをもらったのは、ディルクが十三歳のときだったから、シャンティは十歳くらいだっただろう。
幼い少女の、無邪気な――けれどまっすぐな愛情が、たった三行の文字に込められていた。
デュノア伯爵に会ったディルクの父が、この手紙とハンカチを預かり持ち帰ったのだ。
淡い水色のハンカチ。
一度も使っていない。
ディルクはシャンティに返事を書こうと思ったが、なんと書けばよいのか分からず、結局なにも返さないうちに王宮に発った。
そして、最初で最後に書いた手紙――直接的には父に宛てたものだったが――に連ねたのは別れの言葉だった。
――――そして、シャンティは死んだ。
この美しい文字を連ねた少女は、この淡い水色のハンカチをくれた少女は、もうこの世にいない。
何色の目をした子だったのだろう。
どんな顔で笑ったのだろう。
どのようなことを話し、どのようなことを考えていたのだろう。
なにに喜び、なにを哀しんだのだろう。
死ぬ瞬間、彼女はなにを思ったのだろう。
どのような表情も浮かべることができず、ディルクはただ手紙に書かれた三行の文字を見つめていた。
それからハンカチへ視線を移す。
かすかに震える手でそれを開いた。
秋の澄んだ青空が広がったようだった。
そして、ひらり、ひらり――。
なにかがハンカチからこぼれ、ゆるやかにディルクの足元に落ちる。
ディルクは長身をかがめ、落ちたそれをそっと拾い上げた。
「――――」
落ちたのはハンカチと同じ色の、スミレの押し花だった。
五年ものあいだ、このハンカチに隠れていたにもかかわらず、スミレの花弁は色褪せた様子のない美しい水色である。
五年ものあいだ、ディルクは気がつかなかったのだ。
空色のハンカチに、空色のスミレの押し花が隠されていたことを。
「――シャンティ……」
かがんだままのディルクの肩が震えた。
項垂れた薄茶の髪も小刻みに震え、そして一粒の雫が花の上に落ちる。
「シャンティ……シャンティ……!」
どうして返事を書いてあげなかったのだろう。
どうして、十歳の少女の想いに応えてあげなかったのだろう。
どうしてこの幼い少女に、たった一つの優しい言葉を贈ってあげられなかったのだろう。
ディルクの涙が、乾いたスミレの花を濡らしていく。それは、一度命を失った花が甦っていくように、瑞々しい光を取り戻していく。
「シャンティ……ごめん、ごめん…………っ」
まだ会ったことのない幼い婚約者の存在と、心は共にあった。その十年近くの歳月が、この館には染みついていたのだ。
恋とか、愛とか、そういうのではないけれど、ディルクはおそらくずっとシャンティという存在を大切に思っていた。五歳のときから、ずっと。
だからこその婚約破棄だったのに――。運命の歯車は、残酷な結末を二人に用意していた。
ディルクが、手紙とハンカチをもとの木箱に戻すことができたのは、重たい雪雲が暗さを増してきたころだった。
スミレの押し花は、濡らしてしまったために、そっと机の上に置く。
時間がたてば乾くだろう。
その花の色をじっと眺めていたときだった。扉を叩く音がして、ディルクは我に返る。
「なんだ?」
「ディルク様、私です」
その声にディルクは少し安堵した。
「入れ」
扉を開け、丁寧に一礼したのは従者のマチアスだった。
「『私です』はないだろう。たしかに声でだれだかわかるけど……」
「すいません、大変慌てていたもので」
「とてもそうとは見えないけど?」
いつもどおりの口調と態度の従者を、ディルクは胡散臭そうに見やる。
「いえ、それが、本当に一大事なのです」
「わかったよ。それで、なに?」
「衛兵が血相を変えて先程報告に参りまして」
「うん」
「衛兵が言うには、自分はレオン王子であると名乗る怪しげな男が、門のまえで喚いていると」
「…………」
ディルクは、眉間にしわを寄せ、不可解だという顔になった。