13
アベルは、背中や胸元の湿ったような不快感と、渇ききった喉の痛みで目を覚ました。
まだ眩暈に近いような眠気を感じるけれど、このまま再び眠れそうにない。
重たい瞼をかすかに開けると、自分が広く豪奢な寝台に横たわっていることを知る。
装飾の美しい天蓋を支える柱には、細やかな草木の彫り装飾。布団は、滑るようになめらかで柔らかい。
部屋の景色にまで視線を移さず、アベルは目を閉じた。
喉が渇いて、唾も飲み込めない。自分がどこにいるかということは、秩序立たない思考と喉の渇きのせいで、どうでもいいように感じられた。
衣類が汗で濡れている。これだけ汗をかけば、喉が渇くのも当然だろう。
なんとか半身を起して、アベルは寝台の横の小卓に視線を向けた。銀杯が置いてある。
少しでも早く喉を潤したくて、上半身だけを動かし銀杯を手にするが、口元で傾けた杯からはなにも出てこなかった――空である。
空っぽの杯があるのに、水差しはない。
なにかの嫌がらせだろうか。
一気に疲労感を覚えて再び寝台に横たわったアベルは、その途中で絨毯にできた染みが一瞬、視界に映ったような気がして、再び半身を起した。
床を覗き込んでみると、水差しが転がっている。その口の部分からは水がこぼれて、絨毯の色を濃くしている。
自分が寝ぼけて水差しを倒したのだろうかと、アベルは内心で首を傾げる。
理由はどうであれ、水差しは床に落ちているのだ。
高級そうな絨毯にこぼれたのが水でよかったと、アベルは貴族出身のわりには貧乏くさいことを考え、次いで、水差しのなかにはまだ少しでも水が残っているかもしれないと考えた。
全身が気だるく、起き上がることができなかったので、アベルは這うように身体を寝台の縁まで移動させ、水差しに手を伸ばす。
指の先が、銀製の水差しの表面をかする。
硬い感触が伝わり、さらに手を伸ばすけれど、指の先で押された水差しは逆にアベルから遠のく。
アベルは深いため息をついて、力を抜いた。
たったひと口――たったひと口の水が飲みたいだけなのに。
カラカラに乾いた口内と喉に、冷たい水が染みわたる感覚を想像し、アベルはもう一度力を振り絞って、水差しに手を伸ばす。
アベルの身体は半分以上すでに寝台の外に出ていて、ひどく危うい均衡を保っている。
もう少しで水差しの取手に届く。そう思ったとき。
部屋の扉が開いた。
「アベル……?」
「――――っ!」
聞きなれた青年の声がした瞬間――アベルは均衡を失い、声にならない悲鳴を上げて、顔面から床に転落していた。
「アベル!」
リオネルはアベルのもとに駆け寄り、倒れた身体を起こす。そのすぐうしろでベルトランが、怪訝な顔つきのまま言った。
「大丈夫か?」
「怪我はない?」
二人に問われて、アベルは頬に手をやりながら、首を横に振った。
顔から落ちたので、頬骨をしたたか打った。実にまぬけだ。しびれるような痛みと、熱による頭痛で、アベルは顔をしかめる。
「……いくら絨毯があったといっても、顔から落ちたら痛い」
赤くなった左頬に触れようとしたのか、リオネルは手を伸ばしたが、なぜだかその指を宙で止めた。
「いったい身を乗り出してなにをしようとしていたんだ?」
ベルトランに問われて、アベルは水差しを指差す。
「水差し……? 倒したのか?」
違う、倒れていたのだと反論したかったが、喉が渇き切って声も出ない。
「そのままにしておけばよかっただろう。水の染みならすぐに消える」
そうではない、水が飲みたいのだと、アベルは心のなかで懸命に訴えた。
ベルトランと噛み合わない会話をしているアベルの身体を、抱きあげて寝台に戻そうとしたリオネルが、アベルの服の冷たさに気づく。
「アベル、すごい汗だ。着替えたほうがいい。ベルトラン、着替えを持ってきてくれないか」
「わかった」
ベルトランが部屋を出ていくと、リオネルはアベルの身体を寝台に横たえる。その間、アベルはリオネルの両目を見つめ、声を出そうと口を動かした。
「どうしたの?」
「み……ず……」
かすれた声が、アベルの喉から絞り出された。
「水? 水が飲みたいのか?」
アベルは必死に頷く。
銀杯に手を伸ばしたリオネルは、そのなかに水が入ってないどころか、杯自体がまったく濡れていないことに気がついたようだ。
「もしかして、一滴も飲んでいないの?」
アベルは頷いた。
「こんなに汗をかいて、それは喉が渇く」
リオネルははっとしてアベルを見てから、倒れた水差しを拾い上げ、ほんの少し残った水を銀杯にそそぎ、アベルの口にそっと持っていく。
自分で飲めると主張する余裕もなく、アベルはリオネルに飲ませてもらう水を、いっきに飲み干した。
身体中の細胞がよみがえるような心地がする。
「ごめん、気がつかなくて。もっと持ってくるよ」
「……リオネル様」
喉が潤ってようやく発することができた声でアベルは、水を取りに行こうと立ち上がったリオネルを呼びとめた。
「……場所を教えていただければ、自分で行きます。リオネル様はどうぞお休みなっていてください」
その言葉にリオネルはかすかに眉を寄せる。
「そんな身体で動いたらだめだ。アベルこそ休んでいて」
「リオネル様に、このようなことをしていただくわけにはいきません。主人に看病される家臣なんて、きっといないほうがましです」
「アベルは口を開くと、聞き分けがないことばかり言うね」
「率直な思いを申し上げたまでです。……声が出ないままのほうがよろしかったでしょうか」
「そんなことは言ってない」
「そんなふうに聞こえました」
一瞬の沈黙のあと、発せられたリオネルの声は低かった。
「……アベルの声が出ないほうがいいなんて、おれが思うわけがないだろう」
その声には、押さえられた怒りと、かすかな悲しみがにじんでいる。
「それに、主人に看病される家臣は、いないほうがましだなんて、言わないでくれ」
「…………」
アベルは思った。
家臣が倒れたら、リオネルは自らその全員の看病をしにいくのではないか。
リオネルは、周囲の者に優しすぎる。彼の行動や発言の全て受け入れていたら、だれもリオネルのことを守れなくなってしまう。彼を守るためには、ときには彼の命令に背くことも必要なのだ。
けれどアベルはまだ気づいていない。いくら優しいといえども、彼がこれほど心を砕き、思いやる相手はこの世にただ一人、アベルだけであることを。
「着替え、持ってきたぞ」
ベルトランが戻ってくると、リオネルは礼を言ってから、再び指示を出す。
「すまないけれど、新しい水も持ってきてくれないか」
「ああ、わかった」
そして、リオネルはアベルに向かって、すこし寂しげに言った。
「ベルトランなら、おれが行くよりはいいのだろう?」
ベルトランは不思議そうな顔で、リオネルとアベルの顔を見比べる。
アベルは返事をしなかった。
実際のところ、どちらに取りに行ってもらうのも同じだ。自分自身のことは、すべて自分でやりたい。
けれど本音を伝えたところで、リオネルがそれを許すようにはとても思えなかった。
リオネルが、女中や使用人にアベルの世話を任せない理由はわかっている。それは女であることを明かせないアベルの都合を考えてくれている、彼の配慮によるものだ。そのことには感謝している。
それでもこれほど身分の高い二人に、身の回りの世話をしてもらうなどということに甘んじる家臣はいないだろう。
アベルは身体を起こし、寝台から出ようとした。そのとき。
「アベル!」
リオネルに左手首を掴まれ、寝台に押し戻される。
「寝ていろ。これは命令だ!」
リオネルの声は、いつになく厳しい。
その声と行動に驚いたのは、アベルだけではなく、ベルトランも同様だった。
「リオネル」
「…………」
手首を掴まれ、寝台に戻されたアベルと、リオネルの視線が間近でからみあう。
アベルの水色の瞳は、驚きとも、恐怖ともつかない色をたたえて、大きく見開かれていた。それを目の前にして、リオネルの深い紫色の瞳が、苦しげに細められた。
アベルの手首は解放され、リオネルの身体が離れていく。
「すまない……」
アベルは解放された身体を徐々に自然な形に戻しながら、けれどまばたきひとつできないでいた。
手首を掴まれたときの、リオネルの力の強さ。命令だと言ったときの語調。それらが思いのほかアベルの胸に深く突き刺さっている。
なにも言えず呆然とするアベルに、ベルトランが遠慮がちに声をかける。
「大丈夫か。……どこか痛むのか?」
「いいえ、平気です」
アベルは、我に返ったように目を閉じ、そして布団にもぐりこんだ。
寝ていることは、リオネルからの〝命令〟だ。
顔まで隠すようにして布団をかぶったアベルの姿を見届けてから、リオネルはなにかを振りきるように踵を返し、扉へ向かう。
「ベルトランはそこにいてくれ。水はおれが持ってくる」
「リオネル?」
ベルトランに返事をせず、リオネルは部屋を出ていく。
室内には静寂が降りた。
「アベル」
寝台にゆっくり近いたベルトランは、静かな声音でアベルを呼んだ。が、布団のなかから返事はない。
「アベル」
ベルトランにもう一度呼ばれ、アベルは返事の代わりにかすかに身じろぐ。
「……リオネルは、おまえのことが心配で、あんなふうに言ったんだ。悪く思わないでやってくれ」
アベルには、なにが正しいのか――あるいは正しくないのか、もうわからなかった。
自分が正しいと信じてやっていることが、リオネルを怒らせる。
リオネルの命も、立場も、財産も、名誉も、全てを守りたい。
そのためには、自分の、従騎士で配下たる身分にけじめをつけたい。
それだけのことなのに。
自分は、わがままなのだろうか……。
リオネルは、怒っていた。
アベルに対してリオネルが力を行使したのは、初めてのことだ。布団のなかで、アベルは両手を強く握りしめる。
「おれは部屋の外に出るから、服を着替えろ」
ベルトランの声、そして、彼が立ちあがり部屋を出ていく音が、布団を通して聞こえる。
ふと、水差しさえ……とアベルは思った。
水差しさえ床に落ちていなかったら、こんな状況にはならなかった。
水差しのせいにするのは、心身ともに疲れ、やや腹立ちまぎれというところもあったかもしれない。
けれどたとえ八つ当たりだとしても、たしかに不思議だった。リオネルたちは、水差しをアベルが落としたと思っていたが、広い寝台の中央で横になっていたアベルが、どれほどひどい寝相で寝ていていも身体の一部が当たるとは思えなかった。
アベルは釈然としない思いで、ようやく服を着替えるために半身を起こす。
一方、部屋を出たベルトランは、水差しを手に戻ってくるリオネルの姿をみとめた。
「リオネル」
「……アベルは?」
「着替えてる」
「そうか……これを寝台の横に置いておいてくれ」
リオネルは目を伏せ、水差しをベルトランに差し出す。
「自分で持っていかないのか」
リオネルは、視線を落としたまま首を横に振り、そして最後にちらとベルトランに目配せして踵を返す。
「すまないが、アベルを頼む」
リオネルは静かに告げた。
その夜、ベルリオーズ邸が寝静まったころ――雪のちらつく正門では、警備にあたる兵士が槍を片手に空を見上げていたころ。
室内の燭台は全て消されているが、暖炉の火はまだ燃えている。夜のあいだ、部屋を冷やさないためだ。
少女が眠る寝台のかたわらで、青年が椅子に腰かけていた。
青年の艶やかな茶色の髪が、暖炉の炎をかすかに反射している。深い紫色の瞳は、優しくも、寂しげな色をたたえ、少女の寝顔を見つめている。
青年の手がゆっくりと持ち上がり、躊躇いがちに少女の髪に触れた。
そのしなやかな指先は髪をすべり、そっと頬に触れる。
柔らかい頬を、人差し指でなぞり、
「おやすみ……アベル」
と、小さく呟くと、青年の指先は名残惜しそうに頬から離れていった。
青年は立ち上がり、扉へ向かう。
けれど扉の取手を掴んだものの、青年はすぐにその手を離し、少女を振り返った。
かすかに声が聞こえた気がしたのだ。
少女の寝顔は、その位置からは見えない。
青年が寝台に再び歩み寄り、少女の顔をのぞきこむと、その唇がなにか言おうと動いている。
リオネルは身体中の神経を集中させて、その声を拾おうとする。けれどか細い声で苦しげに発せられる声を拾うことはできなかった。
わかるのは、辛い夢を見ているに違いないということだけだ。
リオネルは眉を寄せる。なにが彼女をこれほど苦しめているのか。
あらためて思う。しっかりしているけれど、この子は自分より三歳も年下の少女なのだと。
アベルの頬を、リオネルは手のひらで包みこんだ。
「アベル、大丈夫だよ。なにも心配いらないから――悲しい夢は、もう見なくていい。早くそんなところから出ておいで」
アベルの閉ざされた瞳の端から、一筋の涙が流れて金色の髪に吸い込まれていく。
「大丈夫だよ、アベル」
リオネルがもう一度呟くと、アベルは呼吸を深くして、かすかな寝息をたてはじめた。
「今度こそ、幸せな夢のなかで、おやすみ」
扉が閉まる静かな音だけが、少女の部屋に残された。