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「リオネル様?」
さきほどまで中央で踊っていた宴の華が、すぐそばに来ていた。
戸惑うアベルにはなにも告げずに、リオネルはそのまま銀杯をマチアスに渡す。
「すまないが、新しいものを」
丁寧に一礼して、マチアスは蜂蜜酒の杯を持って下がった。
少し口をつけただけである。
別にヴィートの口に毒がついているわけでもあるまいし、下げてしまうのはもったいない。そう思ったが、アベルは反論しなかった。言葉では。
アベルの顔には、やや抗議の色が浮かんでいた。
彼女以上に抗議の色を浮かべていたのは、言うまでもなくヴィートである。
それを軽く無視して、リオネルはアベルのまえに立った。
フェリシエは、貴族らの円卓に戻っている。踊りを終えたばかりの婚約者から離れて、リオネルほどの者がこんなところになど来ていてよいのだろうかと、アベルは困惑もする。
そのような思いを察したのか、リオネルは近くにあった葡萄酒を手に取り軽く持ち上げて、かすかに苦笑した。
「少し疲れた。アベルといっしょにいたい」
驚くほど率直な言葉に、アベルは瞳を見開く。
ベルトランはうつむいて、小さく笑んだ。
本当は、フェリシエと踊らざるをえなくなったことについて多くの言い訳をしたいだろうに、それを控えてただ正直に今の自分の気持ちを恋しい相手に伝えたリオネルが、いっそ潔かったからだ。
ぽかんとしていたアベルの顔に、徐々に笑みが広がっていく。
リオネルを見上げる彼女の瞳には、まっすぐな感情が宿っていた。
ふとベルトランは気がつく。
たしかにアベルはリオネルに恋をしていない。彼がフェリシエと踊ろうが、婚約しようが、気にならないだろう。
けれど彼女がリオネルに向ける感情、その信頼、その尊敬、その想い。
それはまぎれもなく、愛の形のひとつであると。
その形が、いずれ恋人に向けるようなものになればいいと、ベルトランは強く願わずにはおれなかった。
……そのとき。
「悪い、アベル」
ほほえましい二人の邪魔をしようとしたわけではないはずだが、ヴィートが突然アベルに向けて片手を上げた。
「なんだかおかしな気分だ。おれは、先に部屋に戻らせてもらうよ」
「ヴィート?」
アベルから声をかけられても、振り返りもせずヴィートは立ち去り、その彼とすれ違うように、マチアスが蜂蜜酒をたずさえて戻ってくる。
「ヴィートはどうかしたのですか?」
「いや……」
問われたリオネルも、答えようがなかった。
マチアスから新たな蜂蜜酒を手渡され、礼を述べつつも、アベルはだんだんと心配になってきて、ヴィートが去っていた方を見つめた。
ヴィートは、「驚異的な」体力の持ち主である。
その彼が部屋に戻らねばならぬほど具合が悪いのであれば、それは尋常な事態ではない。
「心配なら、だれかを彼の部屋に行かせよう」
大切な相手が浮かぬ顔でいたので、リオネルは優しく提案した。だが、アベルはそれを謝絶する。
「ありがとうございます、リオネル様。ですが、わたしもそろそろ休もうと思っていたところなので、ヴィートの様子を見がてら、本日は失礼させていただいてよろしいでしょうか」
ほとんどアベルと話すことができなかったので、リオネルは残念そうな面持ちになりながらも退席を許した。想い人が休みたいと言っているのに、無理に引きとめるなどできはしない。
「そうか、ゆっくりお休み」
主人のあたたかい眼差しに向けて一礼し、ベルトランやマチアスにも挨拶して、アベルは宴の会場を辞した。
会場を満たす華やかな装いをあとにして、アベルは女中や使用時らが忙しそうに行き交う回廊に出る。
ラザールやダミアンと同室であるヴィートの部屋は、宴の会場と同じ階に位置しているが、ここから距離がある。
宴の余韻がアベルを不思議な気持ちにさせた。
煌びやかな光、弦楽器の旋律、酒や馳走の匂い、貴婦人の笑い声、美しい二人の踊り、リオネルのまっすぐな瞳――。
一歩扉を出ただけなのに、その華やかな場所から自分は、ずいぶん離れたところにいるような気がした。
ひとりでいることは落ち着くのに、なぜだかとても心細く感じた。
幾度も回廊を曲がり、ヴィートの部屋を目指す。
そして、辿りついた扉の前でアベルは声をかけた。
「ヴィート、わたしです。入っていいですか?」
当然、許可を得られるものと思っていた。
だが返事は、意外なものだった。
「悪いが、入らないでくれ」
強張ったような声音だった。
「ヴィート?」
アベルは驚き、相手の名を呼ぶが、今度は返事さえない。
「大丈夫ですか。気分が悪いなら薬を持ってきます。それとも、医者を呼んできましょうか」
「きみはここから最も遠いところへ行ってくれ」
心配して訪れたというのに、ずいぶんな言いようである。
けれど気に障ったのも一瞬のことで、すぐに、それは自分を心配してのことだとアベルは思い至る。ヴィートの身に、おそらくなにかが起こっているのだ。
「ヴィート、入りますよ」
「だめだ!」
強い語調に、扉を開けようとしていたアベルの手は止まる。
「なぜですか?」
「ここは危ない。とにかく、早くどこかへ行ってくれ」
アベルは腹をくくって取手に手をかける。入ってはならないと言われても、ヴィートが危機に瀕しているのなら、放ってはおけない。
開けようとした瞬間だった。
「おれが行く」
白いアベルの手のうえに重ねられたのは、しなやかなで力強い手だった。
深い紫色の瞳。
――リオネルである。彼の背後にはベルトランもいる。
驚くアベルに、リオネルはもう一度、「おれたちが行くから、きみはここで待っていてくれ」と告げた。
「ヴィートのことが心配で、ここへいらしたのですか?」
無邪気に尋ねてくるアベルに、リオネルはふっとほほえむ。
「そんなところだ」
このように答えたのは真実を告げられなかったからで、本当はアベルに危険が及んでいないかひどく不安になり、宴を一時抜け出してきたのである。ヴィートに対する心配など、アベルを心配する思いに比べるとほんのわずかな程度だった。
あの元山賊の男なら、己の身くらい自力で守りきることができるはずだと、リオネルは確信していたからである。
「坊ちゃん、あんたなら入ってもいい」
扉の向こうから聞こえてきた台詞に、リオネルとアベル、そしてベルトランの三人は顔を見合わせる。
いったいどういうことなのだろうか。
ゆっくりとリオネルが扉を開く。扉の隙間から見える室内は、暗かった。
眉をひそめてリオネルは一歩中へ踏み出す。
「ヴィート、そんなところでなにをしているんだ」
部屋にいたのは、ヴィートただひとりである。
だが彼は、己の寝台で、頭から布団をかぶってうずくまっていたのだ。
「扉を閉めてくれ」
リオネルはちらとアベルを振り返り、視線を交わして無言の同意を得ると、ヴィートの要望を叶えてやった。
手際良くベルトランが部屋の明かりをいくつか灯すと、リオネルは寝台に近づく。
「扉は閉めた。アベルはいない――いったいどうしたというんだ」
「助かったよ」
ヴィートは布団を跳ねのけ、寝台のうえで胡坐をかいた。
その姿は普段と寸分も変わらない。
隠れる必要など、どこにもないように思われたが。
「なにが助かったんだ」
「アベルが一歩でもこの部屋に入れば、間違いなくおれは自分を抑えることができなかった」
しばし沈黙したリオネルが、怒りを露わにするまえに、念のためその言葉の意味を問い正す。
紫色の目は、すでに完全に据わっていた。
「それは、どういう意味だ」
「あんたが想像したとおりだよ」
「……彼女に手を出していたということか」
「そうだ」
「おまえを信用し、心配してここを訪れたアベルを?」
「そうだ」
返答をし終えたときにはすでに、リオネルの短剣は抜き放たれていた。
「苦しまずに死ねることを、幸せに思え」
「待て! だから、アベルを部屋に入れるなといっただろう! おれだって、あの子に嫌われたら生きていけない!」
突きつけた短剣を、リオネルはヴィートの胸のまえで止めた。
「事情くらい聞いてやってもいいんじゃないか?」
けっして相手を信用しているふうではないが、リオネルよりは幾分落ち着いているベルトランの助言により、ヴィートは死を免れた。
「いや、事情というほどの事情もないんだが」
ヴィートは頭をかきむしる。
なにやら彼自身にとっても制御しがたい衝動が、ヴィートを悩ませているようだった。
「聞いてやるだけなら聞いてやる。だが、それ以上くだらないことを言えば、必ずおれの手で殺してやる」
「そうしてくれ」
いやに素直にヴィートはリオネルの言葉を受け入れる。
「このままおれがどうしようもない感情を抱き続けていたら、おれを殺してくれてかまわない。アベルを傷つけるくらいなら、死んだほうがましだ」
「…………」
彼の言葉は、リオネルの気持ちをいくらか冷静にさせた。少なくとも、彼自身が望んでこのような事態になったのではないということが、リオネルにもわかったからだ。
「急に、だ。宴会の途中で急におかしな気分になった。それまでは、なんともなかったのに」
「それまでとは、いつごろのことだ」
「おまえと婚約者の踊りが終わったあとくらいか」
苦い記憶を思い出しながら、リオネルは質問を続ける。
「おかしな気分とは、具体的にどんなものだ」
「言ったとおりだ。身体が妙に火照ってきて、女性を抱きたくてしかたがなくなった。むろん、おれが抱きたい相手はアベルしかいない」
答えたあとでヴィートが顔を上げると、拳を握って殴りかかろうとするリオネルを、ベルトランがどうにか背後から抑えていた。
「怒りはもっともだが、よく聞いてくれ。そういう気持ちになったというだけで、けっして実行に移す気はなかった。だからこそ、おれは部屋に戻ったんだ。自制心を働かせたことくらい、評価してほしいもんだ」
「なるほど」
拳は解いたものの、完全なる冷たさを帯びたリオネルの声音だった。
「ひとつ聞くが、おかしな気分になった原因はなんだ。唐突に、というのも妙だろう」
「原因ねえ……」
「だれかになにかを言われたとか、なにかを目にしたとか、もしくは――」
言葉を切ってから、リオネルはなにかを思い出したように目を細め、声を低めた。
「蜂蜜酒、そういえば、おまえは蜂蜜酒を飲んでいた」
「飲んでいたが、べつにやましい気持ちがあったわけじゃない」
リオネルが振り返ると、ベルトランはすでに扉口へ向かっていた。
「ベルトラン、マチアスに預けた残りの蜂蜜酒を調べろ」
「わかっている」
「それから、アベルに部屋に戻るように伝えてくれ」
「むろんだ」
赤毛の騎士が部屋を出ると、リオネルはようやく同情めいた感情をヴィートに対して抱いた。だが、けっして赦せるわけではない。
「蜂蜜酒がなんだっていうんだ?」
怪訝な表情でヴィートは尋ねる。
いったいなにが起こっているのか、彼はわけがわからずにいた。
「多量なら即死、少量なら媚薬として作用する毒がある」
「なんだそれは」
「斑猫の粉だ。カンタリスという。貴族のあいだでは暗殺にはよく用いられる」
「それが、蜂蜜酒に入っていたというのか?」
「可能性はある。調べればわかるだろう」
納得いかぬ様子でヴィートは腕を組んだ。
「もしそれが本当だったら、なぜそんな危険なものが蜂蜜酒に入っていたんだ」
リオネルは即答しなかった。
それは、彼にとっても不可解なことだったからだ。
はっきりしたことがわかるまでは、それ以上のことをいくら考えても、想像や憶測の域をでない。アベルの蜂蜜酒に、故意に毒が入れられたなど、理解しがたい状況であるのだから。
ただリオネルの脳裏によぎったのは、「毒殺」という恐ろしい二文字である。
背筋をすっと冷たいものが走る。
まさか――まさか、アベルが狙われるなど。
調査の結果が出るまでに、さほど時間はかからなかった。
ヴィートが口にした蜂蜜酒は、調理場にそのままの状態で残されていた。薬学に通じている医者がこれを調べたところ、多量の斑猫の粉が混入していたことが判明した。
第二の被害が――おそらく死に至っていた違いない被害が、生じなかったことは幸運なことだった。
こうして急遽、医者が呼ばれ、ヴィートは手厚く看病されることとなった。
+
「毒、か……」
ラロシュ邸の最上階、リオネルの寝室。
宴が終り、淡い余韻と静寂が館を包みはじめるころ、高貴な若者らがこの一室に集まっていた。
事件のあと、ヴィートを医者に預けてから、リオネルはいったん大広間に戻ったが、その場を楽しむ気持ちには到底なれなかった。宴の終了を待ち、信頼のおける友人らを自らの部屋に呼ぶと、その夜起こったことを説明したのである。
春になったといっても、朝晩はまだ冷えこむ。
つけてしばらく経った暖炉の火が、ようやく勢いよく燃えだした。
深く肘掛椅子に腰かけ、ディルクは考えこんでいた。
「カンタリスは手軽に入手できるようなものじゃない。かなり計画性を感じるね」
「だが爵位を持つ者が本気で手に入れようとすれば、方法はいくらでもある。入手方法から犯人を導きだすのは、困難だろうな」
苦い面持ちで腕組みしているのは、扉の前に立つベルトランだ。
「かといって、あの状況ではだれが毒を入れたのかも、まったくわからない。真の狙いがなんだったか、さえもね」
顎に手をあてて、ディルクはちらとリオネルを一瞥した。
真の狙い――。
ヴィートが口にした蜂蜜酒は、なにも特別に用意されたものではなく、しばらく会場の隅に置かれた飾り机のうえに並んでいたもののひとつだった。毒を入れることは、使用人から貴族らまで、だれにでも可能な状況であった。
しかもその杯を選び、アベルのもとへ運んできたのは、ラロシュ邸に長年仕える真面目で信用のおける使用人だった。むろん彼の行動や持ち物などを、ラロシュ侯爵に頼んで調べさせてはいるが、今のところ不審な点はない。
いつどの時点で、何者によって蜂蜜酒に毒が混入されたのか、また標的がだれだったのか、非常に不可解だった。
「ヴィートの容体は?」
ディルクの問いに答えたのは、先程彼の様子を見にいったリオネルである。
「彼の体力だ。今はもう、ほとんど毒の影響はないらしい」
室内には重たい空気が漂っている。
さすがのディルクも、呑気に笑ってはいられなかった。
「飲んだのがヴィートだったから、これだけ軽い症状ですんだのだろうね。アベルが口にしていれば、少量でも命の危険があったかもしれない」
ディルクの言葉を聞きながら、レオンは自分が手にしている銀杯の中身を、訝しげに覗きこむ。次のひと口を、どうしても飲む気になれなかった。
「大丈夫だよ、レオン。おまえを殺しても、だれも得しない」
軽くからかわれたのだが、レオンはいたって真面目だった。
「アベルとて同様ではないか。あの子を殺して、なんの意味がある」
それにはディルクも答えようがない。
レオンの言うとおりだった。
王族や名家の嫡男ならともかく、アベルは身寄りのない、しかもまだ従騎士の身である。
そのうえ、「騎士の間」を守った勇気ある少年として、騎士たちからの評判はよい。
あえてそのために嫉妬をかってしまったのだとしても、それだけの感情から、殺そうとまで思うだろうか。それも、毒殺などという手のこんだ方法で。
このように考えていくと、本当の狙いはアベルではなかったと推測したほうが自然である。それは、ここにいる皆が同様に感じていることだった。
「アベルが死んでも意味がない。とすれば……」
ディルクのつぶやきを、ベルトランの声が締めくくる。
「狙いはリオネルだったか」
「国王派のだれかが、リオネルを殺めようとして酒に毒を入れたものの、それがあやまってアベルのところに運ばれてしまった?」
質問調になってしまったのは、言っているディルク自身も釈然としなかったからだ。
「おれは、蜂蜜酒は飲まない」
次に発せられたリオネルの短いひと言こそが、ディルクの釈然としない最大の理由である。
基本的にリオネルは葡萄酒を好んで飲む。リオネルの趣向をまったく知らぬゆえに、適当な酒に入れただけだとも説明できるが、もしそうであれば、なんともお粗末な計画である。
それに、机に並べられていた杯のひとつに毒を混ぜたところで、リオネルが飲む可能性のほうが低いのだ。
あるいは、無差別にだれかを殺したかったのか。
それであれば、なぜったった一個だけ、しかも蜂蜜酒に入れる必要があったのだろうか。
あえて蜂蜜酒の杯ただひとつに入っていたというところが、この事件における特異な点なのだ。
アベルが蜂蜜酒ばかり飲んでいることは、少し気にして見ていれば、この館にいるだれでも気がつくことである。
「はじめからヴィートを狙っていたということも、考えられるのでは?」
葡萄酒を口に運ぼうとはせず、ただ手元で銀杯を揺らしながら、レオンが言った。
「それも考えられるな。山賊に対し、恨みを抱いている者は騎士のなかでも少なくない。足を洗ったとはいえ、ヴィートを憎しみの対象とみた可能性はある。……どうかな、リオネル」
難しい顔のディルクから意見を求められ、リオネルはうなずいた。
「ありうることだとは思う。あのとき蜂蜜酒を依頼したのは、ヴィートだったのだから」
「これが一番しっくりくる筋書きだろうか。だけどなにか気になるな」
「なんだ?」
レオンに問われて、ディルクは首をかしげる。
それがなにか、よくわからない。
様々な考えをめぐらせたが、はっきり見えてはこなかった。
「アベルはどうしているのだ?」
なかなか答えが返ってこないので、レオンはいっそディルクのことは忘れて、アベルの様子を従兄弟のリオネルに尋ねた。