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美しい旋律が、室内を満たしている。
旋律を奏でるのは、レベックやシトルなどの弦楽器。
惜しげもなく灯された部屋中の燭台の炎に、飴色の楽器、よく磨かれた食器、天上のシャンデリア、貴婦人を飾る宝石、壮麗な壁画、そして騎士の携える長剣の鞘が、まばゆい光を放っていた。
ラロシュ邸の大広間。
祝勝会が催される夜。
床から天井までの高さがある窓硝子の向こうには、無数の星たちが輝いていたが、宴の煌びやかさにかすみ、その存在感は薄れている。
広間の中央では、楽曲にあわせて大勢の男女が踊っていたが、それには目を向けず、アベルはぼんやりと窓の外を見上げていた。
リオネルに救い出され、目を覚ましてから半月以上経つ。
周囲の心遣いや、手厚い看病のおかげで、足の怪我も、ブラーガに負わされた傷も、ほぼ完治していた。
今やアベルの勇敢な戦いぶりや、命さえ厭わず主人に尽くす忠誠心は、ここに集う皆の知るところである。それに加えてこの容姿である。今宵の宴では幾人もの若い貴婦人から踊りに誘われたが、アベルはすべて断っていた。
彼女らには申しわけないと思ったが、そんな気分にはなれない。
踊りは好きだし、得意でもある。だが、もはや公の場で披露することはないだろう。
人々の楽しげな声を聞きながら夜空を見上げ、討伐が終わったのだという実感をかみしめることが、アベルにとって最も幸せな過ごし方だった。
ただし、ひとりきりで過ごしていたわけではない。
傍らには、手持無沙汰な様子のヴィートと、普段と変わらぬ風情のマチアスがいた。
ヴィートはあいかわらず、医者をも驚かせる「驚異的な回復力」で体力を回復し、今は日常生活にまったく支障がないほどである。一方ブラーガは、痛みには強くとも、ヴィートほどの回復力はないようで、未だに医者からは安静を言い渡されていた。
むろん、彼のそばには常にクヴルールの娘ロジーヌがついている。
父親がリオネルに対してとった行動、そしてその結果彼に下された処分に対し、ロジーヌはうっすらと涙を浮かべて哀しんだが、取り乱すこともなく、思いのほか冷静であった。彼女の心は、すでに生家であるクヴルール家にはなく、ただ愛しい男のもとにあるのだろう。
事件の二日後、クヴルール男爵が獄中で命を絶ったという知らせが、ラロシュ邸内外に伝えられた。それは国王派にとっても、王弟派にとっても、望ましい結末だったに違いない。
ベロム家の嫡男ウスターシュは、結局リオネルに戦功を奪われたので、大きな顔をすることができなくなり、比較的おとなしく過ごしている。顔を合わせれば嫌味や小言などをぶつけてはきたが、真っ向から喧嘩を売ってきたりはしなかった。
さらに彼は、エルヴィユ家の令嬢フェリシエに熱を上げており、気を引こうとあの手この手で彼女に尽くしていたが、すげなくあしらわれていた。
率先してウスターシュの計画に賛同していたグヴィド子爵は、討伐がリオネルの手によって成功を収めると、てのひらを返したように態度を変えて、リオネルに媚びへつらうようになった。
フォール公爵家の次男セドリックは、ブラーガに負わされた怪我が順調に快復しているものの、まだ動ける状態ではないため今夜の宴には参加していない。
彼はアベルの意識が戻ったとき、ラロシュ侯爵やブリアン子爵と同様、心から喜び、
「私は再び彼に救われました。アベルが生きることを選んでくれたことで、私の誇りと信条は失われずにすんだのです」
とリオネルに語り、後日、本人にも同じことを告げたため、アベルはひどく恐縮した。
ちなみに、アベルが女性であることはすでにラロシュ侯爵、ブリアン子爵、そしてマチアスの知るところとなったが、そのことに当の本人は気づいていない。
知られたことを秘密にするわけではないが、あえて本人に告げなかったのは、周囲よりもアベル自身が落ち着かないだろうとリオネルが判断したからだ。
もともと自分が女性であることは知られたくないと言っていたと同時に、「男性として扱ってほしい」とアベルは言っていた。ならばこのまま本人にはなにも告げず、今までのように周囲から男性として扱われているほうが、アベル自身も心穏やかに過ごせるはずだった。
アベルが立つ窓辺からは離れた席では、ラロシュ侯爵、シャルルと妹のフェリシエ、そして怪我が治り動けるようになったブリアン子爵やその他王弟派諸侯らが、なごやかにリオネルと談笑している。
一方レオンは、国王派諸侯らに囲まれており、話すことが面倒なのか、しきりに酒を飲み、食事を口に運ぶことに専念している。
煌びやかで、楽しげな会場だった。
「今度、おれに踊りを教えてくれないか」
会場に背を向けていたアベルに、ヴィートが話しかける。
先程からこのような調子が続いている。絶えずアベルの気を引こうと、ヴィートはがんばっているのだ。
「いいですよ」
アベルは快諾した。ヴィートにしてみれば、思いもかけぬ嬉しい返事である。
普通にアベルを踊りに誘っても、今まで断わられてきた貴婦人と同じく相手にしてくれないだろうが、踊りを教えてもらうという名目ならばいっしょに踊ってくれるかもしれないと思ったのだ。
その手法は輝かしい成功を収めた。ヴィートに男性側の振り付けを教えるためには、彼女自身はおそらく女性の振り付けをしてくれるはずだ。
二人の会話に、眉をひそめたのはマチアスだった。
「アベル殿、踊りなら私がヴィートに教えましょう」
不思議そうにアベルはマチアスを見やる。
「なぜですか?」
「リオネル様とディルク様のご意志に沿うためです」
余計に不可解になり、アベルはマチアスとヴィートの二人を見比べた。
マチアスは涼しい顔だが、ヴィートは苦虫を噛みつぶしたような表情である。
「おまえはディルクってやつの従者だろう? おれに踊りなんか教える暇があるなら、主人の監督をしたほうがいいんじゃないか。さっきから何人の女と踊っているんだ、あいつは」
その台詞にマチアスは苦笑したが、アベルは笑うことができなかった。
ディルクは女性から人気がある。
むろんリオネルやレオンの人気も大変なものだが、なにせ二人は王族である。よほど己の身分と容姿に自身があり、かつ、勇気のあるものでなければ声をかけることはできない。王宮ならまだしも、このような辺境の館で催される宴では、かような女性はさほど多くない。
それに比べてディルクは、一侯爵家の嫡男である。色男ぶりにくわえて、彼特有の親しみやすさが、多くの女性にとって自分の手に届く存在だと思わせるのだ。
彼の周りには若い女性が集まり、ディルクは彼女らの求めに応じて踊りの相手になっている。
踊る姿は、普段に増して魅力的である。
かつて恋焦がれた相手であるディルクが、大勢の女性と踊るところを見るのは、アベルにとって幸福なことではなかった。
だが、そのように感じる資格さえ自分にはないことを、アベルはよくわかっている。
まだ婚約していたころ、望んだことではなかったにせよ彼以外の者と関係を持ち、それを隠したまま結婚しようとしたのだ。
その罰だろうか、婚約は破棄された。そして、領地を追放された。
当然の報いだったのかもしれない。
こうしてディルクが女性と踊る現場を見なければならないのも、神が下した罰だろうか。
うつむき眉をよせて、なにかに耐えるようなアベルを、マチアスとヴィートはそれぞれの思いで目にする。
「アベル、どうしたんだ?」
心配するヴィートの声に、はっとしてアベルは顔を上げる。
「え、あ……なんでもありません」
慌てていつもの表情に戻るアベルを、ヴィートは気にかかる様子で見つめている。
「ディルク様は」
不意に、マチアスが言った。
「見た目よりもずっと真面目な方です。ああして女性の誘いに応えるのは、人前で貴婦人に恥をかかせぬため。そして、とても皮肉な形ではありますが、ある意味では亡き婚約者様に対して罪滅ぼしをするためです」
アベルの手から銀杯がすべりおちる。
しかし、それが地面に着くことはなかった。瞬時に片手で銀杯を受け止めた者がいたからだ。
――マチアスである。
これで何度目だろう。シャンティであったころの自分の話を耳にして、みっともない粗相をするのは。
中身はすべてこぼれたが、せめて銀杯が床に落ちなくてよかったとアベルは心から思った。
ジュストやリオネルが気づけば、ベルリオーズ邸で開かれた宴のときのように、また大騒ぎになるだろうからだ。
「すみません」
慌ててアベルはハンカチを取りだし、マチアスの手を濡らす蜂蜜酒を拭う。
だが、その手をマチアスはそっと止めた。
「よいのです。私が余計なことを申したせいです。お許しください」
ハンカチをつかんだまま、アベルは黙した。
胸に湧き上がる想いは、切なく、苦しい。
しばらくしてようやく、恐る恐るだが、口を開くことができた。
「なぜ……女性と踊ることが、ディルク様の罪滅ぼしなのでしょう?」
尋ねる声が震えていることに気がつき、マチアスは探るように相手の瞳の奥を見つめた。
澄んだ水色の瞳は、なにかにひどく怯えているようだった。
確信を得たくて口にした言葉だった。アベルの質問に答えれば、その確信は濃さを増し、真実となるだろう。
だがマチアスはやんわりと首を横に振る。これ以上この話をすることは、相手を苦しませることだと悟ったからだ。
「……いらぬことを口にしたと思っています。主人の心情など、従者である私が語るものではありません。アベル殿には、つまらぬことを聞かせてしまいました。突然、『罪滅ぼし』などという言葉を耳にすれば、だれでも驚くのは当然のことです」
有無を言わせずヴィートに銀杯を渡しながら、マチアスはアベルに軽く頭を下げる。
これ以上相手に謝らせるわけにもいかず、アベルもまた銀杯を落としたことについて再び謝罪し、密かに溜息をつく。
それは、中途半端に謎を残されて歯がゆいような、だがそれ以上に、最後まで聞かずにすんでほっとしたような思いからだった。
これ以上聞くことは、こわかった。
捨ててきたすべてのものに触れることが、こわい。
「新しい蜂蜜酒を頼んでおいたぞ、アベル。さっきからあればかり飲んでいるけど、そんなにおいしいのか?」
ヴィートの明るい声に救われる。
「とてもおいしいですよ」
返事をしたときだった。今までの楽曲が止み、突如として会場内に静寂が訪れる。
それから、華やかなざわめきが広がった。
窓辺に立つ三人が目にしたのは、一対の男女が広間の中央に進み出る光景だった。
「あ……」
ぽつりとアベルの唇から声がもれる。
文句のつけようもないほどに美しい一対は、リオネルとフェリシエだった。
ベルリオーズ家の紋章色である濃紺の礼服をまとったリオネルは、しなやかでありながらも男らしく、彼のまとう雰囲気に広間中の女性が溜息をもらすほどである。
対するフェリシエもまた、淡い珊瑚色のドレスをまとい、それが真夏の太陽のように輝かしい金の髪色とあいまって、なんとも可憐だ。
周囲の感嘆を誘いつつ、新たな楽曲と共に二人の踊りがはじまった。
主人が踊る姿を見るのは、アベルにとってはじめてのことだった。
リオネルの動きは流麗で一切の無駄がなく、それでいて、相手を気遣うような優しい踊り方である。
会場にいるすべての者と同様、言葉を失って二人の姿に見入っているアベルの横に、ひとりの騎士が近づき、無言でたたずんだ。
それに気がついたアベルが視線を上げる。
赤毛の騎士、ベルトランだった。
彼の視線は踊る二人の姿を真剣に追っている。なにかあれば、まっさきにリオネルを守るために。
表情は淡々としていたが、口を開いたとき、ベルトランの声はわずかに陰っていた。
「フェリシエ嬢が、どうしてもリオネルと踊りたいと言いだしたんだ。あいつも騎士だ、高貴な婦人に恥をかかせられない。断るわけにはいかなかった。それに――」
近くにいるマチアスの存在にわずかに注意を向けながら、ベルトランは続けた。
「ディルクの言葉も少しはあるのかもしれない。親友の言葉だけに、悩んでいるのだろう」
マチアスはなにも答えずに、ただわずかに頭を下げた。
ディルクがリオネルになにを言ったのか、マチアスにはだいたいわかっていた。だからこそ、彼が抱く複雑な思いと、相手の主人を悩ませていることへの謝罪の気持ちとが入りまじっていた。
含みがあるようにも聞こえるベルトランの言葉に、アベルは首をかしげる。
「どういう意味ですか? お二人が踊ってはいけない理由などないのでは」
会場の中心で踊る二人を眺めながら、ヴィートもさりげなく会話に耳を傾けている。
あまりに無邪気な質問をされて、ベルトランは思わず顔をアベルへ向けた。
リオネルが他の女性と踊っていても微塵も気にならないのならば、己が主人の恋路はすでに道を絶たれているようにさえ思える。
「アベル。踊る二人を、どう思う?」
突然、真剣な声音で問われたので、アベルはやや面食らう。
そして、迷わずに答えた。
「とてもお似合いのお二人だと思います。お二人が踊られる姿は、まるで泡沫の夢を見ているかのように、美しい光景です」
ベルトランは双眸を閉じて、額に手をあてた。
こうまで恋心を抱かれていないとなると、リオネルが不憫にさえ思えてくる。
憎き恋敵にほぼ勝ち目がないことを知ったヴィートは、ほくそ笑んでいるかと思いきや、盛大に顔を引きつらせていた。
むろん、アベルがリオネルに恋をしていないことはヴィートにとってありがたい。
だが、自分よりはむしろリオネルのほうが、可能性がありそうだったのだ。それでこの反応なら、自分はいったいどうなるのか。
赤毛の騎士同様、ヴィートも額に手をあてて項垂れた。
そんな長身の男二人の様子を気にとめず、アベルは再び踊る二人へ視線を向けた。
綺麗だ。
――夢を見ているように。
目を細める。
遠い世界だった。
恋人たちの創りあげる、華やかな愛の世界。
かつてアベルを守り、抱きしめてくれたリオネルの力強い手が、今はフェリシエのためだけに捧げられている。
いつもはそばに感じられるリオネルが、今はとても遠く感じられた。
哀しいとか、悔しいとか、そういう気持ちはない。
ただ、漠然とした寂しさと孤独がこみあげてきたのは、たしかだった。
だが次の瞬間――。
信じられぬほどアベルの心臓は跳ねた。
リオネルと、目が合ったのだ。
かなり離れているはずなのに、たしかに彼と視線がからみあった気がした。ほんの一瞬のことだったが。
リオネルは例えようのないほどに複雑な表情をしていた。
憂えるような、困惑したような……だが、なにかを求めるような。
速まる心臓の鼓動が痛いほどに感じられて、アベルは胸を抑える。
――突然だったからだ。
アベルは自分にそう言い聞かせ、気持ちを落ち着かせようと、視線を会場から離して再び夜空を見上げた。
しばらくして楽曲が終わり、同時に二人の踊りが終わる。
「本当に美しいお二人でしたね」
讃えるマチアスの声も、アベルはどこか上の空で聞いていた。
喉がカラカラに乾いている気がする。
そこへ折良く運ばれてきたのは、ヴィートが頼んでくれていた蜂蜜酒。それに手を伸ばそうとしたとき、さっとヴィートの手がそれを奪っていった。
「一口飲んでみてもいいか? アベルが好きな酒の味を、おれも知りたい」
美しい踊りなど、彼にとってはどうでもよかったようである。
強く蜂蜜酒を欲していたはずだったが、アベルはうっかり承諾してしまう。会場の皆が、先程の踊りの余韻に酔いしれているなか、ヴィートの他愛のない言葉や態度が、妙にアベルの心を安らげてくれたからだ。
「へえ」
杯を揺らして、ヴィートが興味深げに匂いを嗅いだ。
そしてゆっくり唇を杯に近づけ酒を含むと、すぐさま顔をしかめて、「甘い!」と銀杯を遠のける。
それがおかしくて、思わずアベルは顔をほころばせた。
「甘いですよ」
「先に言ってくれよ」
「名前からして、甘そうじゃないですか」
「それをいうなら、葡萄は甘いが、葡萄酒は甘くないだろう」
「それは……」
アベルはしばし考えた。
「たしかにそうですね」
「だろう? おれはもういい。残りはアベルに返すよ」
そう言ってヴィートは銀杯をアベルに手渡す。
それを受けとろうとしたとき、再び、さっと杯を奪っていった者がいた。
―――濃紺の袖。
まさかと思って視線を向けたが、やはり、想像したとおりの人物だった。