124
ディルクが食していたアスパラガススープと同じものが、アベルの部屋に運ばれてくる。
ほかにも、小鹿の香草焼き、ローブルグから伝わる豚の血の腸詰、焼き立てのオリーブパンなどが寝室の卓上に並び、食欲をそそる香りを漂わせていた。
アベルの食事は諸侯らと変わらぬ豪勢なものである。それに加えてアベルには毎日、特別な果物がついた。
苦難が重なり、以前より痩せたアベルの身体を心配して、リオネルが用意させているのだ。
いつも食事を運んでくるのは、アベルの身の周りの世話を任されているエヴァである。
彼女を抜擢したのはリオネルだ。首飾りの一件以来、リオネルは彼女に信頼を寄せていた。
働くエヴァの姿を眺めていると、ふと先程の無残な光景が思いだされ、アベルの胸を言い知れぬ寒風が吹きぬける。
「エヴァ?」
「はい」
つい先程、医者が手当てした耳の怪我に、アベルは無意識に片手で触れていた。
「もし、少しでも危険を感じるようなことがあれば、すぐに逃げてくださいね」
突拍子もない忠告を受けて束の間きょとんとしたエヴァだが、リオネルの寝室で騒ぎが起こったらしいことを思い出し、そして笑顔でうなずく。
自分のことを心配してくれたことに気がつき、そのことが、女中のエヴァには嬉しく感じられた。
次々と料理が運ばれてくる。
それらはすべて文句なくおいしいのだが、アベルはいつも食べきることができない。
「もうよろしいのですか?」
エヴァに問われて、アベルは申し訳なさそうな面持ちになった。
スープはすべて食したが、香草焼きは三分の一ほど、腸詰は半分ほど残っている。
「すみません」
「いいえ、とんでもございません。無理して召しあがられては、かえって身体に毒ですから」
そう言って、さっと皿を下げる。
以前、エヴァの仕事を手伝おうとしたら、ひどく困った顔をされた。それからアベルは手を出さないことにしている。
てきぱきと働くエヴァに片づけられる残り物を見ながら、
「死んだ動物たちに申しわけないと思います」
とアベルは真剣な口調で言った。
本当は、こんな待遇を受けている自分に対しても嫌悪を感じている。
主人に「赦してほしい」などと言わせている自分も、嫌だった。
食べ物を残したことで、心にひっかかっているものたちが次々と再び顔をだしはじめて、やりきれない気分になる。
暖炉の薪がはじけて、火の粉が舞う。幾度聞いても懐かしく感じるその音は、どこか遠くから聞えた気がした。
最後に目にしたリオネルの瞳が忘れられず、幾度もアベルの気持ちを落ちこませる。
思いつめたアベルの表情を目にして、エヴァが大きな目をまたたかせ、そして明るい声を投げかけた。
「今日のデザートは特別なのですよ、アベル様」
「…………」
特別なデザート。
なぜだかアベルは泣きたいような気持になった。主人を哀しませる自分に、特別なデザートではなく、罰を与えてやりたい気分だ。
己の信念に基づくことをしたのに、こんな気分にならなければならないなんて。自分はどうすればよいのだろう。
両手で額を覆ったそのとき、エヴァが、卓のうえに盆を置く音がした。
遠慮がちな声が、アベルを気遣う。
「大丈夫ですか?」
「――ええ」
エヴァを心配させまいと顔を上げたアベルの目に、鮮やかな色が飛びこんできた。
春の庭がこの部屋に再現されたような、小ぶりだが、色とりどりの花束がひとつ、甘そうな苺の砂糖漬けの脇に添えられている。
花を束ねているのは、透きとおるように淡い水色のリボンだった。
そっとリボンに手を触れ、尋ねる。
「これは?」
「アベル様のご主人様からです」
「リオネル様から……?」
驚くアベルに、エヴァは頬を染めて、いらずらっぽく笑った。
「お庭で、ご自身で花を摘んでいらしたのですよ」
「…………」
「とても真剣に選んでいらっしゃいました」
信じられない思いで、花束を手にとり眺める。
愛らしい花々。この花の一本一本を、リオネルが選び、摘み取ってくれた。
……アベルのために。
ふとリボンの片隅に、なにか文字のようなものが書かれていることに気がつく。
美しい筆記体――リオネルの字だ。
文字を追うアベルの瞳が見開く。
『命を救ってくれたアベルに、たくさんの感謝の気持ちを込めて リオネル』
唇を強く引き結ぶ。
しだいにアベルの顔はくしゃくしゃになり、そして、みるみる水をたたえた瞳から、小さな涙の粒がこぼれ落ちる。
自分はなんて子供なのだろう。
命を救おうとしてくれたからこそ自らに刃を向けたリオネルに対し、アベルは礼を言うこともなく、指示に従わず危険を犯したことについて、ふてくされたように謝罪することしかできなかった。
そんな自分に対して、リオネルは。
リオネルは――。
彼の優しさに胸を打たれる。
――心が震える。
ぽろぽろと涙を流すアベルを、エヴァは静かに見守っている。青年の愛情が、この少女の心を優しく満たしていることを知ったからだ。
「とても大切に思っていらっしゃるのですね」
彼女の意味するところがすぐにはわからず、アベルは涙をぬぐいならようやく言った。
「とても大切な主人です」
「いいえそうではなく……あ、あの、申しわけございません。もちろんそのとおりなのですが」
エヴァはためらいつつも、紅潮した頬で嬉しそうに言葉を続けた。
「その、リオネル様にとって、アベル様がとても大切な方なのだと思いまして」
「……リオネル様は、皆に優しい方です。わたしだけが特別なのではありません」
笑みをたたえたまま、エヴァは小首をかしげる。
「そう……なのですか」
「ええ」
花束を強く握りしめながら、アベルははっきりと言いきった。
リオネルは優しい。
出会ったころから、ずっと変わらぬ優しさで接してくれている。
その優しさが嬉しくて、くすぐったくて……けれど、ときに切なく、苦しくて。
水宝玉の首飾りも、花束も、けっして手の届かぬ遠い太陽から、ぽろりとアベルの手にこぼれおちた、光の破片のようだった。
「わたしには、もったいない贈り物です」
エヴァの顔から笑みが薄れ、そして残念そうに曇っていく。
「そんなことありませんわ。とてもよくお似合いですし……それになにより、そのようなことをおっしゃっては、リオネル様が肩を落とされるのではないでしょうか。アベル様に喜んでもらいたい、その一心で花を摘んだのだと、わたくしは思います」
肘掛椅子に浅く腰かけたまま、アベルは無言だった。
「わたくしのような立場の者が口にすることではないのかもしれませんが……」
眉間を寄せ、真剣そのものの面持ちでエヴァはうつむく。
「リオネル様がアベル様に抱いている感情は、特別なものだと思います。アベル様が男性だと信じていたときにはもちろん、それは家臣を大事にする気持ちだと感じていました。ですが、アベル様が女性と知ったとき、わたくしは――」
そこまで言ってエヴァは首を激しく左右に振った。
自分の立場で、ベルリオーズ家の嫡男であるリオネルの気持ちを推し量るなど、まったくの出すぎた真似である。
「いいえ、とにかく、あのような素晴らしい方の心を動かすことができるアベル様は、本当に素敵な方なのだと思います。わたしは、そのことを申しあげたかったのです」
やや強引にごまかしたが、ごまかしきったと確信したエヴァは、アベルを元気づけることに成功したと思って顔を上げた。
しかし。
先程まで話していた相手は、肘掛に乗せた腕に頬を寄せて、静かな寝息をたてていた。
しばらく前から眠っていたようだ。自分の話をアベルが聞いていなかったことに、エヴァは安堵しつつも、少しだけがっかりした。
「そんなふうにお休みになっては、お風邪を召されます」
近寄り、軽く揺すってみたが、目を覚まさない。
片手にしっかりと花束を握ったまま眠るアベルの顔を目にして、エヴァは思わず息を止めた。
白磁のなめらかな肌に、涙の跡がなだらかな曲線を描き、形の良い唇を湿らせている。涙にぬれた淡い金糸の睫毛が、燭台の炎に照らされ、細かな水晶のように輝いていた。
どんなに腕のよい画匠をしても、これほど繊細な光景を描ききることはできないだろう。
細い肢体を子供のように丸めて、アベルはどこか心細そうに眠っていた。
体重の少なそうな少女の身体だが、自分ひとりで動かして、万が一にでも怪我をさせては大変なことである。エヴァは、「なにかあれば、すぐに自分かベルトランを呼ぶように」とリオネルから言われていたことを思い出し、しばらく考えこんでいたが、諦めたように小さく吐息をはき出した。
何度話しても、リオネルとベルトランは苦手だった。
リオネルは、身分が高いうえに、あの美貌と物腰だ。ベルトランは、なんとなく怖い。
しかし、しかたがない。
エヴァは、二人を探しに出た。
彼女がリオネルを見つけて事情を説明し、ともに寝室に戻ってくるまでに、さほど時間はかからなかった。ベルリオーズ家の嫡男がいるだろう場所には、検討がついていたからだ。
食堂では、諸侯らが食事を終えて、胡桃やチーズをつまみながら、葡萄酒を片手に談笑しているところだった。直接の主人であるラロシュ侯爵に承諾を得てから、リオネルに小声で耳打ちすると、彼は周囲に断り即座に席を立った。そこに、当然のごとくベルトランがついてくる。
寝室に入ったリオネルは、アベルが横になれるようエヴァに布団を整えさせ、そのあいだ、肘掛椅子で眠ってしまったアベルを見つめていた。
力の抜けた頼りない指先から、そっと花束を外し、睫毛をぬらす雫を、人差し指の裏で軽く拭う。
そして、どこか不安げにも聞こえる声音でエヴァを呼んだ。
「は、はい」
「アベルの様子はどうだった?」
「どう……と申されますと――」
「食事はちゃんととっていたか」
「今夜のお食事は、半分以上召しあがられました」
少し安心したように、リオネルはうなずく。
「あと……っ」
勇気をふりしぼるように、エヴァは続けて声を発した。リオネルが顔を上げ、自分を見ていると思うと、エヴァは心臓が飛び出しそうになる。
それでも、言う。伝えてあげたい。
「あと、リオネル様からの花束を、とても喜んでいらっしゃる様子でした」
「本当に?」
青年の表情が和らぐ。
どれほど真摯な想いを込めて、リオネルがこの花束を贈ったのか、エヴァには痛いほどわかるような気がした。
自分にはもったいない贈り物だとアベルが口にしたことを、エヴァはリオネルに告げなかった。――告げられなかった。
「リボンに書かれた言葉に気がつかれたときには、大変驚いていらっしゃいました」
「そうか……」
再び愛おしそうにアベルを見つめ、そして無駄のない仕草で、背中と膝の後ろに手を添えて抱きかかえる。
……柔らかいアベルの香りがして、リオネルの胸を言葉にならない想いが埋めつくす。
その想いを、大きな幸福感と、わずかな切なさを覚えながらやりすごし、軽すぎる身体を丁寧に寝台に横たえた。
「眠っているときは、本当に、まるで危機感がないな」
深い呼吸を繰り返すアベルを、腕を組み、呆れたようにベルトランは眺めている。
「……ですが、よくうなされていらっしゃいます」
花束を小さな花瓶に生けながら、エヴァはつい心配事を口にした。すると二人の視線が自らに集中したので、エヴァは慌てる。
「え、あの、すみません。出すぎたことを申しました」
「いや、聞かせてほしい。それほどアベルはうなされているか?」
このことについて、リオネルはひどく気がかりに感じている様子である。
「あ、はい……ほとんど、毎晩のように」
リオネルとベルトランは顔を見合わせる。二人は、アベルがときに悪夢にうなされていることを知っていたが、以前は、毎晩というほどではなかったはずだ。
――なにがアベルを苦しめているのか。
思案に沈みかけたとき、扉を叩く音がして二人は剣の柄に手を添える。だがすぐに、「おれだけど」と言う声がして、力を抜く。
ベルトランが扉を開けると、立っていたのはディルクだった。
「どうかしたのか」
赤毛の用心棒の問いには、片眉を上げて答えただけで、彼は寝台の傍らに立つ親友のもとへと向かう。
「かわいい寝顔だな」
リオネルのもの問いたげな視線を感じながら、ディルクは眠りについたアベルの顔をのぞきこむ。そして、視線をアベルの寝顔に落としたまま、淡々と告げた。
「フェリシエが泣いていたよ」
「…………」
「おまえがあまりにもかまってくれない、ってさ」
瞼を伏せたリオネルの横顔と、寝台の脇に飾られた花に視線をやってから、ディルクは小さく溜息をつく。
「考え方を、少し変えることはできないのか」
無言で視線を上げた親友を、ディルクは見返した。
「親父殿を説得するつもりなんだろう?」
「――どういう意味だ?」
わずかにリオネルの表情が動いたが、それをディルクが気にした様子はない。
「フェリシエが到着してからの、おまえの態度を見ていればわかるよ。彼女と結婚したくないんだろう?」
リオネルはじっとディルクの瞳を見返し、それから、再びゆっくりと瞼を伏せた。
「フェリシエ殿には申しわけないが、そのとおりだ」
「……そうか」
ディルクの視線が遠くを見つめる。
「おれも、おまえも、そろって婚約破棄か」
「こちらはまだ婚約まで至っていない」
「だけど、フェリシエやおまえの周囲はそのつもりだ。リオネル、おれが婚約を破棄することが許されたのは、もともと父親が本意ではなかったからだよ」
わかっている、とリオネルは短く答えた。
「厳しいぞ、リオネル。おれたちにとって政略結婚は当然のことだ――親同士の定めた結婚に従えない者は、家から追放されてもおかしくない。それでも、立ち向かうのか?」
「そのつもりだ」
はっきりと返ってきた言葉に、
「この件で、下手すれば両家の関係がこじれるかもしれないんだぞ」
と念を押す。
ベルリオーズ家と、長きにわたり友好的な関係にあるエルヴィユ家。両家間にわだかまりが生じるような事態は、本来なら避けるべきことだ。
リオネルの返事がやや濁ると、ディルクは苦みをはらんだ声をこぼした。
「それなら、形だけでも結婚すればいいんじゃないのか? そのうえで、もしフェリシエを愛せず、彼女の他に本気で好きな相手ができたら愛人にすればいい」
政略結婚の多い貴族社会では、夫婦ともにそれぞれ愛人がいることなど、当たり前の話である。
無言になったリオネルに、ディルクは言葉を続けた。
「おまえの性格は理解しているつもりだよ。柔軟そうに見えて、実際はそんな器用なことがたやすくできるやつじゃない。だけど」
言葉を切ってから、ディルクは真剣にリオネルを見つめた。
「婚約を破棄した者として言わせてもらうよ。おれは、婚約を破棄し、その結果、相手を死なせた。そのことを、今、言葉にできないほど後悔している」
「ディルクのせいと決まったわけじゃない」
「でも、関係している可能性が高い」
「フェリシエ殿が同じ運命を辿ると?」
「それはわからない。けれど、死なせてからでは遅い。それだけはたしかだ」
再び無言になった親友がなにを考えているのか、もはやディルクにはわからなかった。……だが、伝えておきたい言葉があった。
「おまえには、おれと同じ轍を踏んでほしくないし、これ以上、負担になるものを背負いこんでほしくない。道はひとつではないのだと――そう考えてくれないか」
思いつめたようなリオネルの面持ちから、ディルクは眉を寄せて視線を逸らした。
リオネルに、こんな顔をさせたかったわけではない。苦しめたいわけではない。
けれどリオネルには、この先、後悔せぬ道を選んでもらいたかった。
――悲劇を繰り返させたくなかった。
周囲との関係を壊し、そのうえ罪の意識に日々苛まれるくらいなら、いっそ、自らの考えを曲げてでも守ったほうがよいものがある。三年前の一件から、ディルクはそのことを身をもって学んだ。
己の信念に基づき行動したこと、またそれが導いた結果を、今、ディルクはまったく肯定できていなかった。
ディルクが退出したあとの寝室には、静寂が降りおちた。
静かな表情であるが、胸のうちには激しい葛藤を秘めているだろう主人に、ベルトランは咄嗟にかける言葉が思いつかない。
気にするな、とひと言で片づけるには、あまりにも現実は酷だった。
ディルクが口にした言葉はすべて、真実だからだ。
それでもリオネルは、少女のあどけない寝顔をただ見つめ、柔らかい表情をたたえていた。
無言でベルトランはエヴァをうながし、部屋を出る。
主人の思いを、察したためである。
世間の常識や、貴族社会の掟、自らの立場の不自由さにからめとられて身動きができないリオネル。けれど今この瞬間だけは、ひとりの女性を愛する、なんの肩書きもないひとりの男でありたいはずだった。
領主である責任を常にリオネルに求めているのは、ときとして他でもないベルトラン自身でもある。
だからこそ、若い主人を、今はそっとしておいてあげたかった。
想いを秘めた小さな花束が、若い二人を、優しい香りで包む。
窓の外では、無数の星の雫が、漆黒の夜空を彩っていた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
長いお話、お付き合いくださっている読者様に感謝です。
……今回、ディルクの発言でご不快になった方もいらっしゃるかもしれません。申し訳ありませんm(_ _)m
第二部、あと少しです。
もう少しお付き合いいただければ幸いです。
最後に、いつも拍手やコメントを下さる読者様に、心からの感謝と、お返事できていないお詫びをこの場をお借りしてお伝えできればと思います。
とても励みになっています。ありがとうございます。m(_ _)m yuuHi