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 自室の扉を開けて即座に、リオネルは歩みを止めた。

 瞳を見開いたのは一瞬のことで、すぐに眉をひそめて尋ねる。


「これは?」


 闇に染まっているはずの寝室は、すでにいくつかの燭台に灯された火によって、ぼんやりと明るい。その光に映しだされたのは、目に沁みるような血の色だった。


 だが、この凄惨な光景を前にしても、リオネルの声に動揺や狼狽の響きはない。

 一方、返答する声も冷静だった。


「娘のロジーヌです」


 ゆっくりとリオネルは視線をクヴルール男爵へ向ける。

 瞼の裏に焼きついた濃い赤色が、男爵の生気の欠けた青い顔にかぶさり、混ざりあう。


「なぜ」

「山賊などにやるくらいなら、私の手で葬ったほうがましでございます」


 凄惨な光景のなかに、無残な姿があった。

 壁や寝台には葡萄酒をまきちらしたように血が飛び散り、部屋中になまあたたかい血の匂いが満ちていた。どのような色の服を着ていたのか、いかなる表情でこの世を去ったのか、それさえもわからぬほどにななった身体が、寝台の横の椅子に座している。


 それだけではない。

 扉のすぐわきに、矢をつがえた男たちが十数人、立ち並んでいた。

 彼らが手にするものが弓ではなく、すべて長剣だったなら、リオネルにとってこの状況切りぬけることは難しいことではなかった。

 だが相手は皆、短弓を手にし、いっせいに矢の先をリオネルに向けている。

 これほどの至近距離で同時に矢を射放たれたら、助かる術はない。


 男たちを眺めやって、リオネルはあることに気づく。

 矢尻の形――。

 それは、ラロシュ邸の前庭及びスーラ山での戦いの折りに、リオネルを狙って放たれた矢に備わっていたものと同様のものだった。


「貴方だったのですか」


 絶体絶命の状況においても、落ち着きはらっているリオネルも驚くべきだが、獲物を追いつめても普段と変わらぬクヴルール男爵の生気のない声音は、むしろ奇妙であり、不気味だった。


「次期国王になられるのは、ジェルヴェーズ殿下ただおひとりにございます。殿下のお立場を揺るがすリオネル様には、ここで自害していただきます」

「私が自殺を図らなければならない理由は? このまま、私を何本もの矢で射殺せば済むはずです」

「そうするように命じられておりますゆえ」

「…………」


 だれから命じられているのか、おそらく尋ねても答えは返ってこないだろう。

 伯父か、従兄弟か、もしくは狂信的な国王派諸侯か、あるいは……。

 考えてもしかたのないことだった。


「それで、私にどうせよと?」


 静かなリオネルの問いに、クヴルール男爵は頭を下げた。


「貴方様の腰にある短剣をお手に取り、ご自身の喉をお突きください」

「申しわけありませんが、お断りします」


 勧められた酒を断るような気軽さで、リオネルは男爵の申し出をしりぞける。

 だが、


「従わなければ、隣の部屋にいる少年をここに連れてくるだけのことです」


 男爵のそのひと言は、はじめてリオネルは顔色を変えさせた。


「貴方様の求めと聞けば、忠実なご家臣は即座にここへ参じるでしょう。そして部屋を開けた瞬間、ここにある十一本の矢が、あの少年の身体に突き立つのです」


 リオネルがアベルを救うために、少数の精鋭のみを引き連れてカザドシュ山へ向かったことは、今回の討伐に参加した多くの諸侯らの知るところである。リオネルのアベルに対する思い入れを、クヴルール男爵は利用しようとしているのだ。


「たったひとりの家臣のために、私が己の命を差し出すとでも?」


 予想していなかったリオネルの言葉に、男爵は黙した。

 そしてしばらくなにかを考えてから、ゆっくり後方の扉へ足を向ける。


「では早速、呼んで参りましょう」


 クヴルール男爵が扉を開けて廊下に出たとき、リオネルは動いた。

 長剣を抜き放ち、矢をつがえる男たちのあいだに飛びこんでいく。

 燭台の炎が驚いたように揺らめき、室内の影を大きく揺らした。

 薄明かりのなかで、男たちの動揺と、リオネルの剣が放つ光がぶつかりあう。


「アベル! 聞こえるか!」


 長剣をひらめかせながらリオネルは声のかぎりに叫んだ。


「逃げろ! 逃げて、ベルトランを呼べ!」


 突如として定めていた標的の位置がずれたので、男たちは咄嗟に動くことができない。だが、それも一瞬のうちだった。

 数人の仲間がリオネルの剣によって斬り殺されたときには、あらためて標的に向けて弓を引いていた。

 リオネルは目の端で、射放つ寸前まで張られたいくつもの短弓を捕らえる。

 ――間にあわない。


 今ここでいっせいに矢を放たれたら、逃れることはできないだろう。

 せめて急所を外すことができれば――。

 瞬時に命だけは助かる術がないか考えると同時に、リオネルはアベルのことを思った。


 ――頼むから、逃げてくれ。


 これ以上引けぬところまで、弓弦が伸ばされている。

 矢が放たれる――、そう思った瞬間だった。


「弓を下ろしなさい」


 鈴の鳴るような、しかし鋭い一声が、そこにいる者たちの耳を打つ。

 顔を上げた皆の目に、クヴルール男爵の喉元に輝く短剣をあてる少年の姿が飛びこんできた。


「アベル――」


 つぶやくようにリオネルはその名を呼んだ。

 ――命を救われた。

 だが同時に、大切な相手を危険な状況下においてしまったのだ。


「あなたがたの主人を助けたければ、弓を下ろしなさい」


 矢をつがえた男たちは躊躇をにじませながらも、アベルの言葉に従い、弓を引く力を緩めようとする。そこへ、クヴルール男爵の声が投げかけられた。


「下ろす必要はない。なぜなら、アベル。そなたが私を傷つければ、そなたの主人が瞬時にして矢の餌食になるのだ。剣を手放すのは、そなたのほうではないのか」


 アベルは口をつぐんだ。

 たしかにそのとおりなのだ。

 男たちをごまかすことはできても、この老男爵を騙すことはできなかった。どちらかの主人を殺せば、もう片方も同じ運命を辿る。アベルは最初から、そのことに気がついていた。


 だれもが微動だにしない。

 重い沈黙のなかで、アベルが握る短剣の刃が、かすかに男爵の首の上を滑り、血の痕をつくる。敵を焦らせるためだった。

 リオネルの命を、助けなければ――。


 首の痛みにかすかに顔の青みが増したように見える男爵は、しかし、わずかに笑った。

 痛みをきっかけに、なにかを思いついたように。

 そして、配下に向かって命じた。


「おまえたち、弓をアベルに向けなさい」


 驚いたのはそこにいたすべての者である。


「私の身はかまわずともよい。この従騎士を殺しなさい」


 男たちは躊躇い、動けずにいる。すると男爵は、大きな声ではなかったものの、意外なほど鋭く一喝した。


「早くしろ!」


 リオネルに向けられていた矢が、ゆっくりとアベルのほうへ動くと、矢尻が蝋燭の光を反射し、きらりと輝く。


「クヴルール男爵、なにを――」


 顔色を変えたのはリオネルだ。

 今や、すべての矢先が、アベルへ向けられていた。

 それらが射放たれれば、少女の身体は一瞬にして血の塊になるだろう。


「リオネル様におかれましては、ずいぶん先程より余裕がないようで……この少年の死が目のまえにおいて現実のものとなってくると、平静ではおられませんか」

「…………」

「ご自害くだされば、アベルの命は助けましょう」


 リオネルは目を細める。

 思っていた以上に、クヴルール男爵のやり方は狡猾だった。


「さあ、お早く。さもなくば、彼の命はありませぬぞ」


 視線だけで男爵の指示を受けた男が、一本の矢を射放つ。

 それは、アベルの耳を掠めてわずかな鮮血を飛ばしながら、壁に突き刺さる。

 男爵に短剣を突きつけているアベルは、自分自身を守ることができないのだ。アベルの耳の端から血が流れ、首筋を伝う。

 それを目にして表情を厳しくしたリオネルに、アベルは必死に首を横に振った。


 ――だめだ。

 言うことを聞いてはいけない。


 だが、リオネルの手から、銀色の長剣は投げ捨てられた。


「いけませんっ」


 アベルは叫んだが、潔いほどの仕草でリオネルは腰の短剣を抜き、そして、己の喉元に向ける。


「やめて……!」


 ――止めなければ。

 突如アベルは、矢をつがえる男たちのまえに男爵の身体を引き倒し、言い放った。


「早く私を殺さなければ、貴方がたの主人が死ぬことになりますよ」


 クヴルール男爵をアベルが害し、男たちがアベルに向かっていっせいに矢を射放てば、彼らは強力な切り札を失う。敵が次の矢をつがえ終えるまでに、これしきの人数など、リオネルひとりで容易に片付けることができるだろう。


 自分のために、リオネルが自害するなど……!

 アベルは高く得物を振りあげる。

 矢が、放たれる。

 咄嗟にリオネルが投げつけた短剣が、放たれた数本の矢を落とす。それだけでも、信じられぬほどの技であるが、すべての矢を落とせるわけがなかった。

 最愛の者の名を叫ぶ声が、響いた。

 そこにいたすべての者がアベルの死を確信した、そのときだった。


 黒い影が動いて、アベルの身体は瞬時にして消えた。

 だれもいなくなった直後の床に、十本近い数の矢が突き立つ。

 神業に近い素早さでアベルの身体をさらい、転がるようにして壁際まで移動したのは、燃えるような赤毛の騎士。

 それとほぼ同時にクヴルール男爵を取り押さえていたのはディルクで、兵士を率いたマチアスが矢を射放った男たちを即座に取り囲んだ。


 リオネルは息をするのも忘れて二人の忠臣に駆け寄る。

 アベルを抱きとめるベルトランの左腕からは、血の色がにじんでいた。


「アベル、ベルトラン、無事か!」

「おれはかすっただけだ」


 そう言ってベルトランはそっと腕の力を抜き、アベルを開放する。


「大丈夫か、アベル」


 気遣うベルトランの声は、普段の稽古の厳しさからは想像できぬほど優しい。

 だが、師匠に返事をするよりまえに、リオネルが蒼白な顔でアベルの耳に手を添えた。


「怪我は、ここだけか――」


 アベルは、なにが起こったのか、まだ完全に把握しきれていなかった。うまく言葉が出てこず、首を縦に振って主人に答える。


 耳の端から滴る血を指先で拭い、怪我が軽いことを確認すると、リオネルは大きく息を吐きだした。


「念のため、二人に医者を」


 駆けつけた兵士に命じると、それから徐々に、リオネルの秀麗な顔が険しくなっていく。

 次の言葉がリオネルの口から発せられるまでの時間が、アベルにはひどく長く感じられた。彼が怒っていることが、手に取るようにわかったからだ。


「なんという無茶をするんだ!」


 予想していた言葉だった。

 その剣幕に、そこにいた皆が圧倒されたが、アベルはそれでも言い返した。


「……む、無茶をしたのは、あなたです! わたしなどのために、ご自身に剣を向けるなんて!」

「あれは演技だ」

「そんなこと、わかるはずありません! わたしは心臓が凍るかと思いました」

「それはおれの台詞だ!」


 目を丸くする周囲にかまわず、かなりの身分差がある主従は大声で言いあう。


「リオネル様はいつもそうです。わたしがあなたを守ろうとすると、そうやってひどく怒るのです」

「守ることそれ自体は問題ない。だが、どうしておれの指示に従わなかったんだ。逃げてベルトランを呼ぶようにと言ったはずだ」

「従っていたら、リオネル様のお命が助からないと判断したからです」

「ベルトランが助けなければ、きみの命こそ助からなかったんだ。周りのことも大切だが、もっと自分の命を大切にしてくれ。きみは自分のことを軽く考えすぎているのではないか」

「大事にしているつもりです。ですが、あなたを守るためなら、いつだって命を投げ打つことができます」

「そんなこと――」


 喧嘩にも近い会話の途中で、リオネルははじめて言葉を切った。

 そのようなことを、おれは望んでいない。

 そう言いそうになって、咄嗟に唇を噛みしめる。

 それは、けっして口にしてはならぬ言葉だったからだ。


 ――きみを愛している。

 そう伝えられないかぎり、今は、ただ彼女を傷つけるだけの言葉なのだ。


 それだけではない。

 こんなふうに相手を責める言葉を口にしたかったわけではない。

 助けてくれてありがとう。

 きみが無事でよかった。

 危機を乗り越え、今、本当に伝えるべき言葉はこういうものなのに、心配が先にたち、幾度も犯してきた失敗を再び繰り返しそうになる。

 こうして幾度アベルを傷つけてきただろう。

 これ以上、傷つけたくない。

 そう思うと、以前のように、どんな言葉も口にできなくなってしまう。


 言葉の続きを待ちながらリオネルを見つめていたアベルは、相手が無言のままだったために不意に目を背けた。そして。


「……ごめんなさい」


 聞き逃してしまいそうなほど小さな声を、アベルは唇に乗せた。

 目を背けたのは、紫色の瞳を見つめながら口にしたら、泣いてしまいそうだったからだ。


「スーラ山から戻ったとき、これからはリオネル様にご心配をおかけしないよう、できるかぎり慎重に行動すると誓ったのに、守らなかったこと、お詫びいたします」


 ふてくされたような謝罪だった。

 本当は言いたいことはもっとあった。

 命をかけてリオネルを守ることで、なぜ責められなければならないのか。己の身の安全を優先させ、主人の命を守りきれないような中途半端な用心棒など、いないほうがましだ。

 用心棒としてそばにいることを許してくれたのは、アベルの実力や気概を買ってくれたからではなく、本当は、ただ気の毒な境遇にあったアベルに同情を感じたからなのか。

 自分は主人に心配ばかりをかけて、なにもできぬ存在なのか。

 悔しさと哀しさから、奥歯をかみしめる。

 泣いてはいけない――泣いてはだめだ、アベル。

 自分に言い聞かせる。


 謝罪したのは、リオネルの指示に従わず、ついこのあいだ誓ったことを破ってしまったことに関しては事実だったからだ。


 不満をにじませながらも、泣きそうな顔で謝罪するアベルをまえにして、リオネルは言葉が出てこない。

 なぜだろう。

 ほかの女性になら、きっとなだめる言葉も思いつくのに、恋する相手を前にして、今、どのような言葉も浮かんでこない。

 様々な思いがありすぎて、あふれそうになり、かえってなにも言葉にできないのだ。

 そんなリオネルの肩に、ディルクが背後から手を置いた。


「取り込み中にすまないのだけど」


 気持ちを切り替えられぬまま、リオネルは親友を振り返る。

 その表情をディルクは束の間、探るように見つめてから、


「この食えない男爵はどうしようか」


 とリオネルに尋ねた。









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